目 次
1. 朱先生との交遊
2. (戦争) 戦時中の想い出
3. 私と三人の孫むすめ
4. (戦争) 軍国主義の残滓にまつわる断片随想3葉
5. 過ぎた博覧会
6. インコの野性化
7. 老後を生きる道
8. 七十年を生かされて
9. (戦争) 邂逅
10. であい(出会い)
11. 笑顔が美しい紀子さま
12. 一枚の署中見舞いに寄せて
13. 先輩の話
14. 韓国を尋ねて
15. 卒業記念の贈り物
16. お弁当
17. 生活と習慎
18. 夜空
19. (戦争) 戦争に思う
20. 徐福伝説考
21. 庭の四季
22. (戦争) 汗の思い出
2.戦時中の想い出
此の6月、4年ぷりに上京して長女に案内を頼み靖国神社へ参拝した。広い境内はしんとして緑に包まれ白鳩が飛んでいた。主人の弟が20才の時学徒動員で招集され其のまま帰って来ません。その弟に逢う為の参詣です。
戦死された方々を思い拝殿にぬかずいて手を合わせた時、私の横に年老いたお婆さんが地べたにきちんと座って頬に涙を流しながら両手を合わせておりました。
あのお婆さんもきっと子供さんを没くされたのでしょう。貰い泣きしてしまった。
参拝をすませて資料館に見学に行った。館内に入ると「海ゆかば」の曲が静かに流れていた。
戦時中戦死された方々の遺品、写真、遺書が展示されており、一つ一つ見たり読んだりしているとふと特攻隊の隊員の方々を想い出した。
戦時中長女を抱いて夕方の買い物に出かけましたがその途中、必ず通る旅館がありました。その旅館の前に、まだ幼な顔の残った若い隊員さん達がセパードと遊んでいた。犬好きな長女はセパードのそばに行き、セパードの口に手を入れ平気で犬の背中を撫でまわしていた。すると隊員の一人が長女を抱き上げました。
人見しりをしない子なので次から次へ抱かれてにこにこしていた。顔見しりの女中さんが小さな声で、あの特攻隊の方は今夜南方へ発って行かれるのですよ、もう二度と帰って来られないと教えてくれた。長女に手を振りて別れた隊員さんは翌日には誰もいませんでした。女中さんに尋ねると、昨夜全員発って行かれましたと目を赤くしていました。
その旅館には次々と隊員さんが見え、又次々と南方へ発って行かれました。二度と帰ることのない隊員さん、どんな思いで敵地へ飛んで行かれたでしょう。
その旅館の前を通る度に胸の痛む思いをしました。そしてこんな日々が終戦迄続きました。戦時中南の空へ散華して行かれた特攻隊員の方々もこのお社に祭られていることでしょう。
参拝の帰り境内を歩きながら長女にこの思い出話を聞かせたら、長女は涙ぐんでいました。いま長女の長男(孫)が20才になろうとしている。戦時中の特攻隊員さんのことは、私が生きている限り忘れることはないでしょう。そして今の平和に感謝しています。
一、最も厳正的確であるべき赤紙召集令状の交付が一武官の恣意に基づく匙加減によって自由に変更されることがあるとすれば、潔く名誉の戦死をとげた英霊の一部には犬死となって浮かばれないものがあるかも知れないと考えるとまことに遺憾至極に思う。
大東亜戦の末期-昭和18年暮れ頃のある日、福岡聯隊区司令部の赤紙交付責任者M曹長が県で徴用主任をしていた私のところに途方もない難題を持ち込んできた。「司令官W少将(当時福岡では少将が司令官だった)に昼食弁当を納入しているN料亭の主人の徽用を取り消して欲しい、司令官が干乾しになっても困るから」と言う。私は一応拒否することにしたがMは諦めきれず、中州の料亭水晶鍋で夕食を共にしながら、重ねて懇願した。
「さて、貴殿の兵役関係はどうか?」「昭和4年徴集、第一乙種合格、第二補充兵役に編入されている」「それはおかしい。第一乙が今頃のこのこしているはずはない。赤紙が間違っている。調べてみるが、今後貴殿には赤紙は交付しない。また、貴殿の親戚知人で召集されては困る人があったら、赤紙到達直後に小官の所にとんで来て欲しい。赤紙を回収してやる。現地部隊長との連絡がつくまでは、召集解除もできることになっている。召集令状でさえも、それだけの余裕がある。だからNの徴用解除もできるだろう。頼む」と言う。上司の知事、部長と相談して、Nの徴用を取消して貰うことにしたが、軍の首脳は勝手気儘なものだと憤慨を禁じ得なかった。
二、私の親友H君は、海兵卒で少佐となり佐世保鎮守府で名パイロットとして重きをなしていた。昭和18年夏、県下教職員一同の寄贈による海軍機の命名式を名島の国際空港で実施することになり、箱崎宮、香椎宮の社格を問い合わせて来た。私は、双方とも官幣大社であるが「宮」であり「神宮」ではない旨、回答したところ、Hは喜色満面。両宮の上空を縦横に飛翔して命名式を飾ったが、その高等飛行の神技には、蝟集していた数千の知名士もしばし感激して称賛の拍手を贈った。社格の高い神宮の上空は飛行禁止だったという。
三、昭和30年頃には、かのエネルギー革命により、炭鉱は次々に閉山―飯塚職安には一万五千を超す失保受給者が殺到した。その受給者の中に、二・二六事件の戒厳司令官香椎浩平中将も居た。「閣下は所長室で休養されたらどうか。
順番が来たらお知らせする」と伝えても中将は「これ程多数の受給者が並んで持っているのに、小生だけ特別優遇されては恐縮である。並んで順番を待つよ」
と言って、甘んじて並んで待機していた。
さすがに反乱軍の将校連を見事に鎮圧した勇将だけに民間では一失業者として安住していたことに驚異の眼を禁じ得なかった。
以上
9.邂逅
下村さんと言う方が、冨吉という戦友から頼まれたとおっしゃって、突然我が家を訪ねて来られたのは、5月のことだった。私は、冨吉さんと言われても咄嗟には思い出せなかったし、下村さんもその時初めてお目にかかった方なのであった。
背振山の方からB29爆音が聞こえてきたのは、昭和20年6月19日夜10時頃のことであった。2人の子供を、妹と一人づつ背負って九大横の我が家を飛び出し、陸軍墓地の方に向かって走り出した。丁度その時、7、8メートル先で爆弾が炸裂した。
「兵隊さん、助けて下さい。」、通過部隊として九大に駐屯しておられた通信兵の方々が走り出て来られたのを見て、思わずそう叫んだのだった。一人の若い兵隊さんが駆け寄って、「大丈夫ですか。一緒に来てください。」と言って陸軍墓地の裏山を目掛けて走ってくださった。暗闇の中で妹が溝に落ち込んだ。その兵隊さんは子供をすぐ自分が背負い、妹を引き上げて、山の大きな木の下まで連れて行ってくださった。
B29は上空を何度も旋回しては爆弾を落とし、真っ赤な火の手があちこちで上がった。この間は生きた心地はせず、兵隊さんが貸してくださった毛布をかぷり、子供たちを抱きしめたまま、何度「南無阿弥陀仏」を唱えたことか。
その後、私達を助けてくださった少年兵の方の名前も聞かず、お顔もよく見ないまま、お礼もろくろく言わずに別れてしまった。
あれから45年の歳月が流れ、その時の事は忘れてはならないのに、すっかり忘れてしまっていた。あの少年兵の方との巡りあいがなかったら、今の私達はなかったかもしれない。
下村さんは、戦友の慰霊祭に参列された。その時、隣合わせになられたのがあの少年兵冨吉さんであったことも、くしき巡りあわせであった。臨席での語り合いの中で下村さんが福岡出身と分かった時、45年前の福岡大空襲の話が出た。
そして下村さんが福岡に帰られた折り、大空襲の時一緒に避難した六本松の高末さんを捜して是非逢ってきてほしいとのことで、我が家を尋ねられたのだった。
下村さんは六本松のあちこちを尋ね廻られたが、なかなか分からなかった。
しかし最後に尋ねられた靴屋さんが我が家まで連れてきてくださったのである。
私達を助けてくださった冨吉さんは現在63才で健在。45年前の私達のことを忘れないでいてくださったことに対する驚きと感激、そして感謝に身も心もいっぱいになったのである。
今では、お手紙を差し上げることもできるようになり冨吉さんと下村さん、そして私との邂逅の喜びをかみしめている。
19.戦争に思う
数年前「鎮魂、雲流れて40年、ある遺族の記」という本のタイトルに心ひかれた。私は書店へと足を運んだが店頭には見当たらず。幸い著者のお宅がすぐ近いのを知り、思いの余り訪れた。恐縮する私に、奥様はご親切に話かけられ本を頂いた。ただ一人のお兄様が戦死され、その生き様を追われ、意味不明の戦死公報の解読に執念を燃やし東奔西走され、また戦友を探し訪ねられ取材された切々たる手記であった。お兄様は迫り来る死期を予感され、自作のアルバムを自宅に残されて行かれたそうである。それによって長い年月にわたり戦友を探し訪ねて取材活動をされたとのこと。その動機はたった一枚の戦死公報で処理された怒り。
また子供を戦死させた親だけの知る悲しみと亡くなられた両親への手向、また歳月が悲惨な戦争を風化させて仕舞う恐れ。そして当時を知る者として、それらのことを後世に伝えたい為とのことだった。
私も家族二人をお国に捧げた。私は弟とただ二人の姉弟だった。昭和17年、小倉師範を卒業した弟は、筑豊炭坑町の国民学校へ希望に燃えて奉職した。音楽の好きな弟は休日の日直には、私を学校に伴い、よくピアノを聞かせてくれた。
秋の運動会には台に上がり校歌の指揮をとっていた姿が走馬灯の様に脳裏に浮かぶ。初めて職員家族席に座ったのもその頃の事。小高い丘に腰を下ろし灰田勝彦の「新雪の唄」を教えてくれた。紫煙る新雪の・・・・・・ハーモニカにあわせ、あたりが暗くなるのにも気付かず唄ったあの日、応召のタスキをかけ別れの駅頭で両親を頼むと手をとったその手の温もりが今でも忘れられない。南十字星とやらの輝く下、海底深く永遠の眠りについている。
私は先日、久し振りに城内経由のバスに乗り、車窓から今ではスポーツの広爆として皆に親しまれている舞鶴公麟・平和合競技場を見たが、私には平成期前の悲しい思い出が蘇ってきた。
結婚10ヶ月、新婚の夢もさめやらぬ日、夫に召集がきた。歩兵として入隊している時の事、当時の新聞は連戦連勝を報じていた。農業経営をしている実家に身を寄せていた私は夫の好きなおはぎを手に、筑豊の小駅から汽車を乗りつぎ、まどろっこしい思いで博多へと向かった。駅前で電車に乗り、下の橋で下車、面会時間まで兵舎のよく見える濠端に腰を下ろし、不可抗力な別離に涙が流れた。
後ろの電車通りには外出を許された兵とその家族とのざわめき、軍靴の音を耳にしながら時を過ごす。この前の面会の時には近々出発らしいとの話だったが、極秘に行われる軍の移動について一兵士として知るべくもなく、兵舎ではもう会えず、どんな気待ちでこの兵舎を後にしたのかと思いつつ、帰途についた。その後、ビルマでの戦死の公報を受け、白木の箱で私の胸に帰ってきた。享年28歳だった。
ふと我に帰り縁の蓮の葉を車窓に眺めながら、好きな歌『暁に祈る』を口ずさむ。
ああ堂々の輸送船
さらば祖国よ栄あれ・・・・・
このお濠だけが、流れる歴史を知っているような気がする。
22.汗の思い出
戦争ということばには悲しみとか、痛みとか、噴きとかの感性的な意味が色濃くあった。それがいつ頃からか薄れてきた。しかし、とにもかくにも8月は国をあげて不戦の思いを新たにする月である。
今年の8月はとりわけ暑かった。この暑さが、もう50年にもなろうかという昔の初年兵の頃の事を思い出させたようである。戦争末期の根こそぎ動員で召集された。朝も昼も晩もしごかれていたが、地方人から兵への改造未了のまま南支に送られた。
中隊は小さな街と小さな砂漠の境にある廟に駐屯していた。何と言う街であったかは知らない。知りたいなどという知的な欲求は、入隊早々に剥ぎ取られてしまっているのが初年兵であり、何も知らされないのが初年兵であった。軍の行動は全てが機密事項であり、これは当然の措置であったのであろう。
日々の訓練の中に、本当の銃剣術訓練が組み入れられた。砂っ原の現場に下士官に引率されて行った。40才位の男と女の二人が手を前に括られて座っていた。
二人がどういう経緯(いきさつ)でこういう事になうたのかは知らない。
遠くに住民が群がっていた。今になって思うのであるが、あの中には、親兄弟や子供達や親しい友達もいたに違いない。どんな理由があれ何という理不尽、何という冷酷、何という傲岸無礼。これは命令によって万事がすすめられていく軍の所業であった。もしこういう災難が我が身にふりかかってくるとしたらと思うと空恐ろしくなる。
秒地に穴を掘っていた私達の側に座っていた男が、いきなり括られていた両手の拳で自分の陰部を激しく叩きはじめた。気付いた下士官が跳ぴかかって制止した。男はわめき声もたてず静かになった。女は側に居ながら、見向きもせず空を見つめていた。瞑想に耽る行者のような硬い姿勢であった。
男は人生の行き止まりの見えたほんの僅かの時間に、自分が営んできた性の事とか、仕事の事とか、家族とのふれ合いの事とか、友人との関わりとかの日常の暮らしの全てを無意識のうちに、あの仕種に集約していたのではないであろうか。
つまり生の執着が引き起こした錯乱行勤であったのではないであろうか。あるいは、人間の眼の耐用年数は五十年と言う事であるが、人間の寿命は自然の状態ではどれくらいであろうか。男はまだ若かった。生命のエネルギーがあふれ、それに相応して気力も満ちていて余命も沢山残している時に、突然、生存を脅かされた時に起こった生命体の痙攣であったのかも知れない。
女は深い絶望感から幻想幻視状態に陥っていたのではないであろうか。真っ暗闇の世界に閉じ込められて自分も闇そのものになっていたのが、徐々に脱皮して、世界にも自分にもあかりが灯り始めた。そんな生と死の境の空白状態を漂っていたのではないであろうか。生と死とは全く異質のものではなくて、生命物質エネルギーは非生命物質エネルギーに移行する。例えば死んで風になれば風の働きをする。その移行の時に起こる離我恍惚があの時の女の姿であったのかも知れない。
戦時を生きた人には、戦争にまつわる思い出が人それぞれにあると思う。私にも数々の思い出がある。その中でこの夏は、異国の、顔も見合わせぬ、五分間にも満たぬ、しかも50年程も昔の、お二人とのめぐり合いにこだわった。そして、その情景も鮮明に思い出した。
平成2年の8月は終わったが、今中東に火遊びしょうか、すまいかのざわめきが起こっている。
遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さへこそ動(ゆる)がるれ ―梁塵秘抄―