別府の星座(5) (1986年)

2015/05/24 登録



 福岡市民のことば
 福岡市は九州の首都、あすへむかって、いきいきと発展しています。筑紫野の緑と玄海の白波にかこまれ、ここは輝かしい歴史と伝統が築かれてきました。
 わたしたち福岡市民は、誇りと責任をもって、次のことをさだめます。
 1.自然を生かし、あたたかい心にみちたまちをつくりましょう。
 1.教育をおもんじ、平和を愛し、清新な文化のまちをつくりましょう。
 1.生産をたかめ、くらしを豊かにし、明るいまちをつくりましょう。
 1.力をあわせて、清潔で公害のないまちをつくりましょう。
 1.広い視野をもち、若さにあふれる市民のまちをつくりましょう。

 ※ わたくしたちふくおか市民は、「差別のない明るい福岡市」をきずくために心と力をあわせましょう。


  目 次

1. (趣味)  
2. (故郷)  懐かしいハッタイ粉
3. (雑感)  老齢期の健康と趣味について
4. (近況)  母校の甲子園野球を観戦して
5. (郷土)  
6. (思い出) 不朽の名曲をたずねて
7. (雑感)  天皇陛下御在位六十年
8. (家族)  お盆まいり
9. (趣味)  歌は大すき
10. (雑感)  精霊流し
11. (友人)  友思う幸多かれと
12. (戦争)  戦友S君に憶う
13. (雑感)  話上手きき上手
14. (近況)  大濠公園の朝
15. (近況)  桜花見物の想出
16. (縁)   人生の一齣
17. (趣味)  合歓の木
18. (近況)  連合会長就任挨拶と感想
19. (雑感)  生きる姿勢
20. (雑感)  ぐち
21. (旅行)  ブラジルを尋ねて
22. (近況)  初秋
23. (趣味)  学ぶ悦び
24. (家族)  長男の嫁
25. (近況)  水のながれ


 おわりに

 昭和61年度も高齢者教室の会員の方々の御協力と御理解によりまして、立派な文集を編集することができました。心から感謝申し上げます。
 文筆家でない限り、書くと言うことは大変気骨が折れるものです。
 高齢者教室には参加したいが、作文を書かないといけないから、参加を見合わせときましようとか、テーマを決めて、話し合ったことを座談会として収録してもらったらよいけどと言う意見も聞きます。大変よい考えと思います。次年度は計画してみたいものです。未来は会員の皆様でつくりましよう。
 皆様の御健康と御多幸を祈ります。

   昭和61年12月 吉日
城南区別府公民館   
館長   古賀一男


 1.

 私は“旅”が好きだ。暇さえあれば何処かに旅行しようかと考えている。
 旅という字を拾ってみると、いろいろある。旅路、旅さき、旅立ち、旅寝、旅人、旅枕、などと歳時記にも、春夏秋冬、新年等の旅に関するものが沢山ある。
 旅行の行先はどちらかと言うと派手でないひなびたところが好きである。
 鈍行の列車がよい、バスでくねくねした道をたどって行くようなのもよい。私はものぐさの性かスケジュールは立てずに行き当りばったりの気に入ったところで旅寝する。そして間がよければ、そこの主人などと囲炉裏を囲んで四方山話をするとても素適だ。
 また秘境と呼ばれる場所に魅力を感ずる、宮崎県の椎葉郷、奈良県の十津川、熊本県の泉村、徳島の東祖谷山、早春か晩秋に四国の大ぼけ小ぼけをノロノロ列車で通った何年か前のことが深く印象に残っている。
 日本地図を開いて、北は北海道から、みちのく、北陸、裏日本、北関東何れの地方にも秘境と呼ばれるところがあり、そのいづれにも、もの悲しい伝説があるようだ、平家の落人や、藤原三代の末期義経の末路を詠んだ中尊寺の碑に「夏草や、つわものどもの夢のあと」など松尾芭蕉の名句にも出逢う、又、若山牧水の「旅心」がとても好きだ、自然を愛し、放浪の旅をつづける渓谷の静けさに心をひかれ北関東の伊香保に行き湯原の温泉に病を癒やしながら禁じられながらも酒を好み逐に、おしくも四十路にして世を去った牧水の詩はどこかしら心を打つものがある。
 民謡に唄われている各地の風物人情なども捨て難い思い出になる。
 各地を旅してそれぞれの地方の人情の違いも味わえてたのしいものである。
 私も余生のある限り、足腰の丈夫な間これからも暇を見付けては旅をしたいと思っている。私は何よりも旅をすることが大好きである。
終り



 私は朝の目覚めに、毎朝、お早うラジオセンターの放送番組で、或る人が、ハッタイ粉という言葉を聞いて、なっかしく思い出して居りました。便りしてくださった人も農村の人であったろうと想像しておりました。
 私も子供の頃は農村に育ちましたから、農村で成長したものでなければハッタイ粉は知らないと思います。今は村はなくなり町となりました。ハッタイ粉は大麦をいって石うすで粉にしかものです。その粉を熱湯で練って、たべたものです。
香ばしいにおいがして、子供の頃はお美味かったものです。今はお美味しいとは思はぬでしょう。昔はお菓子屋もなかった頃ですから腹はへって学校も遠かったから、何でも美味かったのでしょうネ。
 老いて見れば田舎はなつかしいですネ。小川で魚も取って遊びました。今は、両親も亡くし、行っても墓詣り位なもの。墓石をなでても何のぬくもりもなし、淋しいばかりです。思い出ばかりつのり、都会の人には、想像もできないでしょう。道路もせまいし荷馬車が通ればよけて通り、道ばたには草がはえて、舗装されてアスファルトになって荷馬車もありません。思い出は沢山ありますけれど、これでおわりにします。



 老齢期になると、健康で趣味を持って、老後を過すことが大切ですが、先づ、健康が第一である事から、種々考えました。
 趣味が伴う事では、腹の底から声を出す事は、健康の秘訣であり、歌や詩吟を吟ずることである。歌や詩吟を、吟じられる方々の、楽しそうな表情を見ると、羨しいのです。私は、生来の音痴で出来ないのです。旅行や宴会などで、マイクが廻って来る度に、冷汗が出るのです。腹式呼吸は一日に2、3回は、実行しております。
 老齢期になると、自然と家に引き寵もり勝ちになるので、趣味と健康と兼ねた事をやるのがよいのですが、体に無理のない事が大切です。幸に友人に勧誘されて、ゲートボールを始めましたが、もう10年近くになります。
 天気の日には、午前中2・3時間位チームの皆さんと楽しく、競技を、融和と健康の保持に、留意し乍ら、実行致しております。ゲートボールは、益々盛んになり、地区別の対抗試合も、月に、3、4回ありますので、他地区の同趣味の、人々共も顔馴染となって、愉快に語り合う事が出来るので、ゲートボールに参加した事がよかっと、感謝しております。
 また、老齢期に趣味を持つ事が、如何に大切であるかを、痛感しました。
 皆さんも老齢期は、家に引き龍もり勝ちで、健康を害しますので、趣味を持って、健康で楽しく余生を過しませう。



 私の母校県立唐津高女が幾歳月を経て唐津西高校と名が変った。終戦後男女共学となり校舎も不足の為町田に新校舎が出来た。落成式には福岡在住の卒業生はバス借切で出席した。校舎は広大で近代的で堂々たるものであった。生徒達は元気溌刺として皆孫の様に見えた。
 61年8月始め、母校から此の度県の高校野球に勝ち進み、初めて代表選手となりました。つきましては、甲子園で勝利を得る為に卒業生一人に付3千円以上の御寄付を願い度いという便りが来た。テレビニュースでも出ていたので応援せねばとすぐ送金した。いよいよ8月8日開幕、9日第1回戦に享栄高と唐津西との対戦と決定、毎日新聞に享栄は春夏何回も出場の勝武者で、投攻守共にAクラス級の力待ちで、唐津西は初出場であり劣勢は否めないと書かれていた。何だか出鼻をくじかれた様でいやな気がした。初めから対等とは思わ無くても、どうぞ上らずに1点でも取ってと切に祈るばかりである。
 いよいよ対戦となった。初めから落ち付いて見る間もなくあれよあれよという内に3回戦で7点を取られた。手も足も出ぬとは此の事かと見る者が哀れであった。安打で一塁に出た者は1人、フォアポールで1人、デッドポールで1人出て二塁に行った者無しという無惨さ。こんなまずい野球なんて見た事は無と力んで見ても、8-0で一方的な勝負で終った。大人が赤子の手をひねる様な有様である。腹立たしくて不愉快で仕方がなかった。
 戦終って気持ちが落ち付いて来たら、今まで自分の後輩で孫の試合を見ている積りで腹も立ったが、何の関係も無い者だったら唯笑って見過していたであろう。
8点以上やらなかったのは守備が良かったからだねー、矢張り頑張ったんだね、本人達はもとより先生や親達の事を思うとさぞ残念であったろうと思うと、今までの胸の中の暗くもやもやしたものがスーッと消えた。どうぞ無事に元気で帰って来ておくれ、来年も又しっかりと力を貯へて出場出来る様に励んでおくれ、と祈るばかり。


 5.

 1986年の晩秋の一日、公民館の文化講座を終え家路につけば、わが愛する「浜の道通り」の数本の柿木は散り惜む葉をとどめ柿実が茜色に輝いている。家に帰りて炬燵に落ち付けばトロトロと、うたた寝の夢心地=そこは数年後のわが郷土が展開する。愛する「浜の道通り」を行けば柿、樫、孟宗竹、椿等が繁り四季それぞれの風勢をそえて、人々は森林浴しなから朝夕の買物に胸をふくらませ楽しく通って行く。
 この道伝い城南区役所に行くと行政機能はコンピューター化し東西南北に整備された道路側には瀟洒なビルが立並んでいる。教育センター、急救診療所も設置されている。旧区役所跡地にはアジア大平洋博と前後してアジア国際大学の高層ビルが建築中で一段と国際化が進み城南区も文教地区の面目を誇示している。
区役所からは区民バスが拡張された道を定期的に巡回し、それに乗って城南市民センターに行げば区民参加の自由な討論の場となり演劇、音楽、区民の祭典も行われ機能的に体育館、市民プールも配置され文化スポーツの中心となっている。
近く福岡大学は開かれた大学として各専門分野の教官群の叡智は区民教養の啓発に寄与しており、学生の集団エネルギーは同地区を若者の町と化し城南区の情報発信地となっている。
 片江、油山地区には老人福祉センター、老人ホーム、福大医学部の協力の老人専用病院が整い高齢化社会における老人福祉のメッカとなっている。油山と周辺丘陵は、青年の家、キャンプ場になっているが更に油山周遊歩道が出来西油山、荒平城趾へも延びて、レクリエーション、リゾート、森林浴に最大限に活用されて区民の憩いの場となっている。
 家ではハイテクとコンピューターの限りなき進展に伴い電気器具は充実し端末器を押すと世界の情報がキャッチできビデオテックスで即座に日本各地の名産品名所旧跡がわかり食べたい物も自由に送ってもらえる=なんて取止もない夢醒むれば、ただ老朽のわか家あるのみ、



 暫時、少年時代に立ち返って、憧れの、例の、とろけるような美声に酔った感激を再び味わいたくなったが、私は、不世出の名プリマドンナ関屋敏子、名テナー藤原義江等の偉大な声楽上の功績を忠実に紹介するだけの資格も能力も、時間的余裕も持ち合わせないがその絶世の美貌と美声を思い出して、ひたすら、感銘を深くすることだけで痛快になる。
 今年度の敬老の日に、別府団地では、多少その趣向を変えて、あえて、子どもらしい、ロマンティストと笑われそうなことも承知の上で名コロラチュラ、ソプラノ歌手関屋敏子の「野いばら」「セレナーデ」「ローレライ」等に併せて、名テナー歌手藤原義江の「波浮の港」「出船の港」「帰れソレントへ」等を、敬老祝賀会行事終了とともに、余興に移行するまでの道行きにレコードによって紹介することとした。93才を最高に40名の男女高令者一同はもとより、壮年層の自治会役員女性の人まで、暫し黙然、その朗々、玉をころがすような美声の一節一節の動きに聞き入って、感嘆惜く能わざものがあった。
 私は、昭和4年初夏の1日、広島高師の講堂で催された関屋敏子一派のリサイタルを想起せずにはいられなかった。私たち学生は優先入場が許されたが、一般の音楽愛好家は整理のため入場料1円50銭が必要だった。当時の1円50銭は相当高額であり、一目見たい、一声じかに聴きたいと熱望する。女子学生々徒には、その負担に堪えられず、講堂の窓外に鈴なりに蝟集して、感嘆のあまり、ボロボロ、涙を流していたことが印象的に焼きついている。
 今日、関屋敏子、藤原義江の美貌と美声に接した人は、相当高齢者でもあり、数も限られていると思うが、不朽の名曲ー関屋ブシ、藤原ブシは今日も脉々として、音楽愛好家に受け継がれ生きている。芸術は不滅である。
以 上



 天皇陛下におかせられましては、本年御在位60年をお迎えになりました。
 日本では最も長い御在位です。この60年間は、世界的恐慌、悲しむべき戦争と戦後の窮乏と復興、そして今日の繁栄、正に激動の時でありました。
 お健やかに御在位60年を迎えられることは、私達国民の慶びに堪えない次第であります。
 御在位60年を記念して、各地で祝典が行われ、又記念の金貨と銀貨、そして白銅貨が発行されます。記念金貨の輝きを夢見つつ、十万円金貨と一万円銀貨の引き換え抽選券を求めて、金融機関、郵便局の前には長い列が続きました。私も並んで抽選券を手にすることが出来ました。抽選は10月30日で、2種類の番号が当選番号です。抽選券を貰った金融機関、郵便局で11月10日から21日まで交換されます。
 天皇陛下の御在位60年に当り、天皇陛下の御健康と御繁栄を心から祝福いたします。


 8.お盆まいり

 13日の午後2時に家を出て甘木市には4時過ぎに着きました。
 急行は早いけれども自動車が込んで遅れたのでしょう。甘木市では私の来るのを待っていたので皆が大変喜んで呉れました。
 8月になり気分が悪く食事はおいしく頂きますが、外出すると頭がフラフラして歩くのもまるで雲の上を行く様です。病院に行きまして良く調べて貰いましたけれども。別に変った事もないので涼しくなれば元気になると言われました。
 甘木市で仏様におまいりし乍ら静かに2・3日していたので、16日頃にはなおった様です。
 16日は長男の13年忌を行いました。親類の人が次々と来られて生前の長男を懐しく、人に親切であった事など色々話が出て嬉しく思いました。
 法事も、3時には終り皆様も次次に帰宅されたので私はお別れして買い物に行きました。
 甘木市より車で40分の所に筑後川温泉があります。そこに病院があり、その名も同じく筑後川温泉病院と言います。そこに姉が入院しているので、孫に車で送って貰いお見舞に行きました。
 盆にはきっと逢いに来てくれると13日頃から待っていたそうで、私が病室に入ったら涙を流して喜んでくれました。
 1時間ぐらい話して別れ、甘木市には7時に着いて、やっとお盆が済んだ気になりました。18日、福岡まで孫に車で送って貰いました。
 今年のお盆は多忙だったので自宅でやっと落ち付いて静かな日を過しています。


 9.歌は大すき

 私は歌がすき。歌はその時々の、人の心と一致したものがあるようです。嬉しい時には喜びの、悲しい時には悲しみのその時にあった歌やメロディーが口をついて出てくる。それによって自分の心が救われ、開かれて行った様に思います。
 小学校や、女学校時代に習った歌。昔の歌には懐しいものが沢山あります。
 日本にはその土地土地によって、歌い継がれている民謡がありますが、あのどことなく深みのある、哀調がなんともいえません。
 一人で家にいる時、私はいっもこの歌と一緒です。
 それからある時期、私は、自分勝手な詩を作り、すきな曲にあわせて歌を歌ったりしたことがありますが、それが又楽しいものでした。
 その一つを紹介させていただきます。

 「霧雨」

  一 小さな小さな 霧の雨
    あじさいの花に 近よって
    そおっと そおっと顔なでる

  二 小さな小さな 霧の雨
    いつの間に 来たのか私の
    着物がしっとり 濡れている

 これは歌詞が「八・五調」ですので、皆さんもご存知の「雨が降ります、雨が降る、遊びに行きだし、傘はなし、紅緒のかっこの、緒が切れた」の歌詞と同じですので、その曲に合わせて歌ってみました。
 皆さんも、ご自分の作った歌を、すきな曲に合わせて歌ってごらんになりませんか。


 10.精霊流し

 高齢者教室の夏休の中ば、8月13日より御盆の入り15日が精霊流し、場所は別府公民館、例年のことではあるが、年々盛大に成って釆た様に思う。
 私は12、13日頃から準備にかかる。花御供物など必要な物を揃えて当日を待つ、14日は、御墓参りで佐賀行き。今年は三瀬トンネルが出来て、あの山越も大分楽に成った、時間も短縮された。
 15日朝9時頃より各町世話人方々と共にテント張り、万霊の碑を中心、花御供物などの飾り付をすまし、午後6時頃からの皆様の御参りを待つ。仏様先祖を大切にする事は、日本人の誇りだと思う。御経を聞き線香ローソクを立て手を合せるだけででも仏の供養になると思う。8時頃から9時にかけて、何百人かの人が御参りに来られた。線香の煙りで息苦しくなった。これ程御参が多いことを心の中で嬉しく思ったのは11時、今後とも設備を充実しもっともっと盛大にしたいと思う。そうして国民の皆様が仏に対する信仰を深くして、心正しい人が一人でも多く成る様に祈ってやまない。



 「こんにちは」元気な姿の来訪でした。年2回の保険の集金。話に無中になっている内にお昼近くなって来た。昨日長男が海釣りに行って、小鯛を沢山釣れたので昨夜の内に薄塩にして冷蔵庫に入れて南蛮漬に仕様と思って用意している時だった。御主人を現職中に心不全で3人の子供を残して亡くなられた未亡人です。
 それまでの彼女は御主人の大樹の下で良き奥様であり優しい母親で人もうらやむ位の家庭でした。長男は大学在学中、二男長女は高校在学中の思はぬ出来事でした。現在はみな結婚もし幸にしています。それからの彼女は見違える程になり自分の家も建て、働き乍ら生きています。こんな底力がどこにあったのか不思議な気もします。「女は強し」私も学ばねば、お茶を呑んでいる時、長男も部屋の方で挨拶して、友達があの世にいったら御主人に積る話が山程あると話していたら、御主人はあの世で彼女が出来ているのかも判らないよ、と話したものだから涙が出る程笑ひました。数年立っているので暗い感じはなく明るい会話でした。
 帰りに魚と梅干、ラッキョウを手作りの私の心ばかりの御みやげに持たせて、明るい笑顔で帰って行きました。何だか私も友達の姿を見て、すがすがしい気分になりこれで良かったと考えました。頭も使い体も動かしていつまでもすこやかに友の幸を心から祈る一日になり、友に見ならって自分も今一度考へ直して残り少ない人生を一歩づつ踏みしめて悔いのない老後を送りたいと思います。



 或る日の午後、突然福岡県の援護課と恩給局の方2人の訪間を受けました。
それは戦友のS君の軍人恩給申請の件につき、2・3、尋ねたいとのことでした。
私は戦地で人事関係の仕事に携はっていましたので、戦地で苦労して作って手すきの紙に各人の現認証明を認めたものを、やっとの思いで帰国の時、持ち帰っていました。先日S君がやって来て「此の頃身体の調子が悪く老後が心配なので、もう40年たつけど、今からでも恩給申請をしたいと思うが」と言って来られました。私はS君の名薄の所を調べ、現認証明書を書いて上げました。
 恩給局の方は、その件についての調査でした。S君は負傷の他に結核に罹っていた様でした。想えばあの当時は敵と相対し、一触即発の中、兵隊は皆、血走しった眼をしていて、疲労と空腹の中、マラリヤに罹っている者も、負傷者も、急援部隊を有利に導くために、自から敵の矢表にたったものです。
 S君も結核の身を、戦友や上官に報告もせず、一生懸命奮斗していた事を覚えています。
 軍医の診断も受ける事も出来ず、本当に気の毒な事でした。私は其の症状から結核と記していたと思います。
 今日の恵ぐまれた時代に生きておられる方々には、とても想像も出来ないと思いますが、我れ我れも、もう67才以上で後、何年生きるかも知れません。
 私もつい最近から戦傷での恩給を頂くようになりましたが、それというのも玉砕した戦友にすまない一心からでした。
 でも寄る年波には逆らえません。今では年金として有難く頂いております。
 ですからS君の心細そさも良く解かります。私はS君の為に一生懸命説明し、又弁明もしてあげました。今はS君に、一日も早く軍人恩給の許可が出ますよう祈るばかりです。



 朝の家族の挨拶、夜のおやすみなさいとのあいさつが望ましいと思います。
お互い人間は挨拶から始まり、あいさつ、で終ると思います。その挨拶も、笑顔ですることを忘れてはならないと常々思っております。
 次に話し上手な人と、そうでない人がおられ話上手なお方は一面、聴き上手でもあると思います。人々は互に話を交し、これが、重なる内に、意志の疎通も出来、いっしか親しみを感じ、自然に親密度も増して気を許してお話も出来るようになります。そして知らず、知らずの間に連帯感も生れ、明るい生活と楽しい暮しが出来るようになることは間違いないと思います。
 人との対話の時、特に気をつげねばならないことがあります、それは、聞き上手ということではないでしょうか。人の話を聴く時には相手の眼を見て聴くことが大切なことと思います。申すまでもなく真剣にお話を聴いている証拠になるでしょう。また相手が力説される時はそれ相当に相手方の気持ちになって、きくことも大切でしょう。それが私なりの解釈ですが、きき上手と言う者ではないでしょうか。要するに挨拶という二字は、私達の日常生活上大切なことであり、きき上手にならないとと自分に云いきかせております。

    近詠
  秋の夜は一人しづかに湯に入りて
   虫の音を聞く幸を想う
  名も知らね 秋の野に咲く小さき花
   我身を思い 愛しさを増す
  夜も更けて 目寛めて おれば雨の音
   ゆめの如くも 耳にひびこう



 ふと目が覚めた。5時50分、雨戸を開けると、すばらしい青空、さあ大濠一周だ。運動靴に運動帽をかぶり出かける。6時に鳴る護国神社の太鼓の音に、気もひきしまり、拍手打って神前に礼拝し、掃き清められた参道を通り大濠へと。
 すでに、ジョギングが終って帰路に着いている人もいる。今日は逢う人々に、にっこり笑って「おはようございます」と、挨拶をして歩いてみようと心にきめ濠端の歩道に入りこむ。
 シャツをじっくりぬらし、ジョキングしている実年熟年ぐらいの男性の人がなんと多いことだろう。また30年代の男性女性の人もジョギングしたり、早足で歩いたり、夫婦仲良くジョキングして通り行く姿を見ると、うらやましくさえ感じる。また学生が隊をなして勇ましいかけ声とともに、走って行くのを見ると、その若さに圧倒されそうだ。
 このように、朝が早ければ早いほど、大勢の人々のジョキング姿でにぎわっているが、考えてみれば、如何に多くの人々が自己の健康管理に関心を深めているかが伺われる。私もその一人ではある。時には中の島の方から流れ来る澄みきった詩吟の声も耳に入り、しばし立ち止まって聞きほれる。また大濠高校の生徒が濠端で練習しているトランペットの響も楽しい。加えて濠の水面にうつる濠の周辺の景色は、まるで絵葉書を見ているような眺めだ。また濠の水面をすいすいと泳いでいる水鳥を見ると、「ただ見ればなんの苦もなき水鳥の 足にひまなき我が思いかな」の句を思い出したりする。
 とにかく大濠公園は、健康のためのジョキングをしたり、歩いたりする場所としては、最高の公園だと思う。この公園の近くに住んでいる私は、ほんとうに幸でありかたいことだ。



 4月6日、田川に住む妹夫妻の招きをうけて田川の添田公園へ桜の花見に誘はれた。私にとっては初めて訪れた添田公園だった。私達は男女合せて総員10名、公園入口でタクシーをすてて明るい日差の中を渓谷に沿って春泥の山道の一歩一歩皆さんと語り合いながら登りつめて行く、右手の方から鶯の声が谷にこだまして早瀬の音が心を洗う、水はぬるみ清流は青々として岩にしぶく白波が土手のネコヤナギの芽をふくらませている。額ににじむ汗に春風が心地良い。
 公園入口から約30分上りっめた所に、私達一行の目指す立派な寺院にたどり着いた、一息つきながら自然の展望台から見下す眼下に、桜花爛慢とした一大パノラマが展開している。寺院の側に陣取りをして円形に座席を作った。
 早速宴会に移り、妹が持参した山海の珍味に一同が舌づつみをうちながら冷え切ったビールを酌み交し、いつしか宴もたけなはとなり誰からともなく次から次へと歌が出始めた。
 その時私の隣にいた女性が、見るともなしに見つけた一本の白い花が咲いた木を見つめていた。あの花は何という花でしょうと私に問いかけたので、その指さす花を見た所、こぶしの花だったので、あの花は「こぶしの花」ですよと教えてあげた所、彼女のあーあの花が千昌夫のヒット曲「北国の春」で有名なこぶしの花ですかと、うなづきそして思い出したように誰か「北国の春」を歌ってと云ったものの誰も歌う人がいないので、それでは私か歌いましょうと、マイクなしの肉声で皆さんの手拍子もよく声高らかに情緒をこめて三番まで歌った。幸いにもこの日は声の調子もよく歌い終った自分も最高の気分だった。
 それから30分間位かクライマックス、時間も相当経過したのでここらで引揚げようかと云ふことになり解散し、ひとまづ妹夫妻の家に帰り入浴と夕食を済まぜて今度は3人で再び同公園の夜桜見物にと出かけた。
 桜の盛りは短い、過ぎ行く春を惜むかのように大勢の人々が夜桜見物に繰り出していた。昼間に比べて夜の花見客は一段と多く、此処彼処から花に浮かれた歌声が楽しく聞えて来て何んだか夢の世界にいるような感じたった。
 中でもどこかの地域婦人会であろうグループの一団が全員和服姿で円陣を作り御当地自慢の「炭坑節」や「花笠音頭」などを踊り周りの人々から大拍手を浴びたのが印象的だった。点々とつけられた裸電球の薄あかりに映える夜桜には和服の女性が似合う、踊りの振りに袂が華麗に揺れて足袋の白さも目にしみて鮮かだった。この夜の桜は月と花と女性、若さと美しさで一杯だった。
 楽しい時間の経過は早く、いつしか11時近くなったので、ソロソロ帰えろうかと云ふことで、あと数日で散り逝くであろう桜の花と名も知らぬ見物客大勢の皆さんとの名残りを惜しみながら、夜の添田公園に別れを告げて妹夫婦の家路へと向った。



 一生を物語る貴重な人生記録を日項世事に追はれて、未整理のまま雑然と脳裡深く畳み込み、やがて人間の記憶の限界がきたとき、空しく「無」に帰してしまうことであろう、などと今日まで放置していた我が過去を懐想すると若き日の叙情も浮んで来る。
 私は幾春秋も経た昭和8年の夏、用務を帯びて海浜の野北に宿泊滞在した。当時は未だ交通不便で、大型バスも通っていなかった。私は早朝宿の中庭に立つと誰かバッチョ笠を被って三脚に座り、丹念に海浜の風景を描写している。朝のしじまを破る騒音一つない寒村の黎明と無心に描く画家、私は我を忘れてその静寂の中に立ち疎んでいた。翌朝も興味深く中庭に出た。自然の環境の中に変らぬ画家の無我の境に入った恍惚たる情景に心打たれるものがあった。感動の毎朝を過した私はこの地を去る日が来たので始めて宿の主人に画家のことを尋ねた。
 主人は誇らしく語って言うのには、この画家は松本冠山と言い日本代表画家福田平八郎の先輩で毎年この海浜を訪ねて帝展への画題を練っているとのことであった。「宣なるかな」通常の文人墨客とは異り、無心に画く後姿を拝しただけで敬虔の念を抱くとは一体どうしたことか、私はこの寄縁をたよりに一幅の絵を宿の主人を通じて頼み野北を立ち去った。
 それから一ヶ月程を経て我が家へ冠山先生から丁重な親書と共に筆致をこらした優雅な絵が郵送されて来た。思い出の糸島海域の月明の砂丘に松影をうつした光と影の見事な風景が半折に画かれていた。それに言葉を添えて、近く平尾の貝島別邸の襖絵を画くので是非そこで面談したいと書いてあった。私は画家の誠意に感謝する一面当惑を感じた。一体画家はこの白面のしかも絵画には造詣もない私との対談に幻滅の悲哀を感ずるのではないかと案じ且つ躊躇している間に時は過ぎ去って懇ろに謝状を書く羽目となった。
 遂に謦咳に接する機会もなく冠山先生は先年逝去されたが、先生の遣画は私と共に原爆の難を免れ、今も陋屋の床の一隅から世相変転の中に人間の情操を見守っているかのようである。


 17.合歓の木

 私の屋敷の庭隅に茂っている大きな合歓の木は、昔七隈川の川土手から採取して来たものでありますが、その当時、この合歓の木の背丈が30糎にも満たない小さな木でした。この草に等しい幼木も50年(半世紀)を過ぎた今日、幹の根元はその周囲が75糎の大きさになり樹高は8米以上の大木に成長しています。
梅雨の頃になると、この木には可憐なピンク色の美しい花が咲くのです。今年は花の数が少いようですが、今は満開の時期を迎えています。
  O新川の土手に生えたるこの合歓は
     釣の帰りに持ち来てぞ植ゆ

 数年前の夏の或る日、庭先に出ていると一面識もない高齢のご婦人が2人、石段を上って来て、この合歓の花を指さしながら、「この寄麗な花は何という花ですか。」と尋ねられました。「これはねむですよ。」と教えてやると、「これがねむですか。」と領かれました。このお2人は短歌の勉強をしておられる人らしく、自然観察による歌作の宿題を持たされている人達のようでしたので「よい歌を作って下さい。」と言いながら別れました。不肖私も短歌や俳句等には多少趣味がありますので、その後、次のような短歌の愚作を書き並べて見ました。
  O可憐にてピンクの色も美しく
      梅雨の最中に合歓の花咲き
  O夕日浴び風に揺らるる合歓の花
      ピンクの色の優美なるかな
お2人のご婦人方はもっと佳い短歌をお作りになったであろうと想像致しております。
 初心者の短歌や俳句などは、何々流とか何々式にこだわることなく或る事象や事物に対するその時の直感をそのまま句や歌に表現すればよいのです。俳句や川柳は、五・七・五の十七文字、短歌は五・七・五・七・七の三十一文字の基本を守り、自分の思うままに何事でも句や歌にすればよいのです。気楽に我流で句や歌を作っている中に興味も湧き自己満足も出来るのです。
  O指折りて作る俳句(短歌)もまた楽し

 高齢者の私達は健康でぼけ老人にならないためにも、ジョキングや散歩など身体を動かすことの外に、遊びの一部面として短歌や俳句等を作り心境を若返らせることが大切なのであります。自作の句や歌は人に見せるものではないので、他人に気兼ねすることなく思いつくままに、その時の感情を文字に表現して自己満足をすればよいのです。幾つも幾つも作っている中にすばらしい傑作が出来るものです。われわれ初心高齢者の俳句や短歌の遊びはただこの程度でよいのです。
一日中何もすることがなくテレビばかり見ているような方々に、こんな面白い遊び方のあることをお進め致したいと思うのであります。誰でも或る程度の上達をすれば専門的な勉強をしたくなるものです。でも、高齢初心者の私達にはその必要はなく、我流の面白い俳句や川柳、短歌や狂歌などを自由に作って自己満足の喜びが出来るようになればそれでよいのです。
 しかし、この程度の楽しみで満足の出来ない好学心の旺盛な方は、専門書の勉強をしたり先生の門下生となってご指導をお受けになれば、更に高度の満足が得られることになります。
 散歩の折、紫蘭の花を見た時の狂歌を一首
  Oこの花の名まえを知らぬ人はない
     聞けば誰でもしらんとぞ言う
 日常生活の動作に見る一部面の川柳の一句
  Oかけ声で立ち上る身の儚さよ
以上、私のらくがき集より。



 私し本年4月より別府校区自治連合会会長をつとめることになり以来今日まで事故なくやってきましたが、これ一偏に校区各団体皆様のあたたかいご支援と、ご協力の賜ものと深謝致し厚く御礼申し上げます。
 さて会長になりましていろいろ反省するところが多く責任の重大さを痛感しております。以前までは一町内のみの世話で、年間の直接な行事も少く自分なりの判断で運営を進行させることも可能でしたが、連合会ともなれば責任上簡単にはいきません。何様21ヶ町の大世帯で、夫々町内の事情が違い予定の行事を実施するにしてもまとまるまでに相当の時間を要します。そこで8月に開催致しました盆踊り大会を一例として揚げて見ましょう。先ず2ヶ月前に執行部3役と行事部長とで大体の案をつくり上げ、これを自治連合会各部長及び名種団体の長を交へた実行委員会にかけ、夫々の意見を交換いたし内容を検討具体化して協力分担を明確に申し合わせ、大方の決定を見たところで更に日を改め最後に連合会常任委員会にはかり決定するもので、総会最終の決定はその責任に於て会長にあることは勿論で、その立場にある私は一挙動一言句が如何に大事であるかを身を以て感じました。常に平静で威張ることなく己を慎しみ、皆様から好かれるタイプになり今後一生懸命につとめる所存でありますので、何分よろしくご後援ご助力の程併せてお願い致します。



 民生委員をしている知人の話によると、この頃は、働ける身体なのに、働くより生活保護を受けているほうが割がよいといって働かず、パチンコ屋通いをしている怠け者や不正直者が増えている。と嘆いていた。
 最近のニュースによると、同様ケースの多いイギリスでは政府も遂にたまりかねて、生活保護制度の改革などを内容とする大巾な社会保障制度の改革案を議会に提示したそうだ。その内容は現行の生活保護制度を廃止し、低賃金で働いている子供を持つ家族や片親家族、病弱者などに対する生活補助を厚くするとともに、国民の勤労意欲を高めようというねらいだという。低賃金で働くより、生活保護を受けているほうが実質的に豊かだというのでは、正直に税金を納めている勤労者には何とも納得できない話である。
 人間の生き方や考え方はさまざまだが生きるということは、人間としての自立の誇りを持っていることで、このプライドを捨てては、人間失格というほかあるまい。福沢論吉先生は、人間の生きる姿勢について、次のように教えている。

一、世の中で一番楽しく立派なことは、一生涯貫く仕事を持つということである。
一、世の中で一番悲しいことは、嘘をつくことである。
一、世の中で。一番みじめなことは、人間としての教養のないことである。
一、世の中で一番美しいことは、すべてのものに愛情を持つことである。
一、世の中で一番醜いことは、他人の生活を羨むことである。
一、世の中で一番淋しいことは、する仕事のないことである。
一、世の中で一番尊いことは、人のために奉仕し、決して恩をきせないことである。

 近年は、福祉についても建前論だけが先行していないだろうか。心すべきことだと自戒しているものである。
おわり


 20.ぐち

 8月になると終戦記念行事が盛んに行はれ平和への願い道しるべと、それぞれの方々が後世へ申し送りされておられる。さて中曾根首相の靖国神社公式参拝に外国から厳しい批判に合う、本年度は中止となるが、復員兵卒が詫びるべきことでないにしても、A級戦犯特に東条大将の合祀は、靖国さん、百年早かった。
 又この8月12日、日航524名の大事件の一周忌、補償金交渉中とか、特に最後の30分間の恐怖料加算せよ、芸が細かい(したがい生存の4方にも恐怖料加算は当然であろう)あまり慾張るなかれと申しておく、戦争犠牲者から見てほどほどの寛容を望む、軍事大国に邁進しておると云はれる方がおられるが、ご安堵あれ、軍事大国になりたくとも補償暗雲時代、出来る道理でないでしょう。
ただ他国からの侵攻は覚悟しておくべきであるろう。『またからしまつせん。こらえてやんなさい』そうですかと相手がなつとくするでしょうか。
 別府公民館にて有名な方々の講演で私しも世の中がわかるようになり、有難く生きがいを感じております。ただ、財産わけのお話し、又教育勅語のお話し、老人の冷水なのか、受取りがたく思っておる次第です。
 この宿題綴方は、恐らく別府公民館だけの大文化事業である胸を張って天に吠えることの出来る一老であります。
 編集の方のご苦労、莫大な費用十分承知しております。
 秒読みの私し愚痴っておる場合でない幸ひ日曜絵かきで後世につたなき絵なれど筆をとっておる今日です。
以 上



 4月10日、成田を後に一路サンパウロへ向け出発しました。気ままな一人旅ですが言葉のわからない外国への旅、やはり心細い、隣の50近い御婦人は3才位いの男の子と中国語で話てます。通路を挾んで横の男性は日本人のようにお見うけして話しかけて見ましたが通じない、これではブラジルまでの長い空の旅を話相手もなく行くのかとがっかりしていました。するとお隣の御婦人が流暢な日本語で「どこまで行かれますか」、と話しかけて下さいました。うれしくなりました。
 その方のおっしゃいますには、戦時中台湾で教育を受けた者は日本語での授業でしたので私位の年輩の者は皆日本語でお話出来ますよ、と申されました。戦後40年余りたつのによく覚えていられるのに感心しました。日本に住んでいるわけでなくブラジルに住んで台湾に故郷帰りしての帰えりとの事です。この方は台湾語、日本語、ブラジル語(ポルトガル語)を自由に話されました。言葉が通じるといふ事はこんなにもいいものかと日本を離れつくづく感じました。
 25時間の長い長い旅でしたがその方のお蔭で何の心配もなく無事サンパウロ空港に降り立つ事が出来ました。
 出迎えてくれた弟や甥夫妻の顔を見て、ああ遥々地球の裏側まで一人でよく来たものだと時差呆の顔でボーと感じました。時差12時間、ここサンパウロは秋です。福岡と今は気温の差も少く体に無理がなく何よりでした。
 サンパウロは人口4万の大都市です。人種は雑多ですが日本人は経済大国のお蔭で一目おかれているのではないかと僅かの滞在でしたが感じました。貧富の差は大きく治安は悪いとの事ですが皆陽気に暮しているようです。広いブラジルの国、飛行機を乗次ぎ北伯や南伯の一端を弟夫妻や甥夫妻と楽しく観光し、命の洗濯をました。


 22.初秋

 うす紫の木槿(ムクゲ)の花が、空に向って優しく咲き乱れ、遅ればせながら赤い可愛い朝顔の花が7・8輪づつ、毎朝開いて、眠むたい目がはっきりして今日の仕事に、楽しみと元気が出て来ます。
 横に茂っているショロ竹の葉からは、サラサラと音を立てて涼しい秋風を、次き込んでくれます。大きな槙の木の梢えからは今まで、ジージー、ワシワシと蝉の合唱が、やかましく暑さをかき立てる様に聞えていましたが、いつの間にか、つくつくぼうしが、ひっそりと独唱みたいに静かに、おとなしく鳴いているのです。
 町はづれに出ますと稲の穂も出揃い、白い花をつけて豊作でせうかそよそよと大波小波と、うねりを立ててなびいているのです。
 畦道の草むらからは、太陽の光で金色銀色に輝き薄の穂が負けない様にあちら、こちらと頭を振り廻しているのです。
 少しはづれの空地には小さいガラガラ柿か、黄色く熟して、今にも食べられそうで、子供の頃よく遊んでは、丸のまま皮も取らずに美味しく口にした事を、なつかしく思い出されます。
 山の木々も秋日に照らされて少しづつ紅葉して変りつつ美くしく映えて見えます。
 読書にふけり目を休める為に外に出てみますと澄み切った空に月が浮かび庭の隅々まで、やさしく光を投げかけている自然の美には、うつとりとして暫くぼんやり眺めていました。


 23.学ぶ悦び

 今、公民館で月に一度文学講座が開かれ、お伽草子を取り上げておられます。
講師が優れた方であるからでしょうか、私は楽しくて楽しくて喜んで出席しています。
 文学は古代から現代まで範囲が広いので、人により興味の対象がいろいろに分れるでしょうが、私は万葉、古事記の頃が好きです。若い頃に読んだもの、保元、平治、落窪、堤中納言、伊勢、平家、源氏、大鏡、増鏡、蜻蛉、十六夜、祝詞宣命、古事記、万葉、古今、新古今、枕草子、徒然草、永代蔵、胸草用、近松など、思出すままに並べて見ましたが、お伽草子には接していませんでした。今回これを取り上げられたのは、私にとって幸いでした。
 先づ一寸法師を読みました、この話の背景に下剋上の思想があると聞きました。
下剋上という言葉は知っていても、それは社会現象としての知識で、文学に結びつけて聞いたのは初めてでした。
 次ぎに浦島太郎の話を聞いています。話の起源として海幸山幸の話を挙げられ、古事記や万葉を読みました。話のついでに真間の手乎名や蘆屋の宇奈比処女のことに触れられますと、50年以上昔読んだ話がなつかしく、帰宅して万葉を開いて見ました。浦島太郎の話に内蔵されている神仙思想や放生思想をいろいろの文献で読んで行きますと、勉強をしているという感じはありません。面白いお伽噺を聞いているようです。
 何であれ、学ぶということは楽しいものです。今まで知つていた事も、亦別の方からの話を聞くと、更に内容が深くなり、興味が加はります。いくらでも、何時までも、貪欲に学んで視野を広くしたいものです。もう年を取り、日暮れて道遠しの感無きにしも非ずですが、知りたい、学びたいという欲望がある間は、若い気持ちが少しでもまだ残っているのだと、思い込みたいのです。


 24.長男の嫁

 私の母は、9人兄弟姉妹の末弟で、家督を相続する人の妻としてく小作人百姓に嫁いできたのです。勿論大正15年に他界しています。
 おそらく明治時代の結婚とは、夫の容姿もよく知らず、ましてやその家族構成も、ろくに知らず嫁いで来たのでしょう。
 義兄2人、義姉6人の9人だったわげです。兄2人は、貧農に見切りをつけて、家を未弟に託して去る。小姑6人は、それぞれ他家に嫁にゆく、あれやこれやの物入りで、その後の貧農ぶりは、目にあまるものでした。お正月、盆、春秋彼岸、早苗饗、おくんち等々、四季行事には子連れで(いとこ)ぞろぞろやって来る。
暮しの足にと折角貯へてある卵も大切な保存食も手当り次弟食べる。剰へ私共も日常口にしない米食を望むに到っては、もう許せない!と、何度思った事か。
長逗留の末、土産物はそれぞれ持って帰る。この繰返しで一年中、母は心身の休まる暇もなかったことでしょう。でも愚痴1つ言はず本家の嫁としての存在を明らかにしてきた。
 半世紀以上も経った今、当時を耐へぬいた母の面影を偲んで懐しくさえ感ずる。
 正月に3日、盆はただの1日足を洗って昼間畳にいる母の姿を見ると、とても嬉しかった。最近のある新聞の記事に、次のような事があった。夏休など兄弟が子連れでぞろぞろ帰省して、長期帯在してゆくが、昨今の物価高の折だから、生活費を日割計算で、支払って貰ったら云々…とありました。何か新人類めいた発想であって、私には賛成出来ない。日本古来よりの、良い習慣を傷つけたくない。
里帰りは矢張り家庭的に見て年中行事の最大イベントと、思はれるから。
 2男3男等のアパート暮しの妻の安易さに比べたら明治や大正と同居している長男の妻としては、前述の大正時代と同じような苦労が多いことでしょう。帰省を心待ちする人、そうでない人。核家族化の進む現在、昔からの家族構成が急に、大幅に変ることもないでしょう。大同少異の差はあっても嫁としての位置づけや、自覚だけはシャンと保持して貰いたい。
 遅寝早起き、食事は最後、仕舞風呂、これがわが少年時代の貧農の母(妻)の定義だったと思ふ。
 私にもある商家の長男に嫁がせた娘がいる。早く土地のならわしや、しきたりに染って皆に愛される嫁になってほしい。もう秋立ち初めた昨日も今日も、里帰りがないが、矢張りここにも何かの事情があるのか?がんばれ!! 実家帰りの楽しさが待ち遠しいだろう。皆待っている。

    母がりの気儘に開ける冷蔵庫 (他人作)
    実家に来て娘いきなり昼寝かな(他人作)
      母がりのは (お母さんのところ) 。



 昨年樋井川の水と題して大濠池の浄化の件で一筆しましたが、それ以来この一年間樋井川の流量測定を続け、池の浄化策に就いて種々検討を致しました。福大の先生はじめ関係当局の方々、商社の人達、更に隣に住む某社技術部長にも面倒をかける等して、ともかくこの提案は九分通りまとまりました。
 我々老骨は何か打ち込めることを持つことは幸いと思います。庭いじり、花造り、碁・将棋、ゲートポール、旅行等何でも結構です。しかしやっていることがいくらかでも社会性があり、皆さんのお役に立つことであれば更に宣しい。種々のボランティア活動、町や老人会の仕事等も大いに意義あることです。
 今回、私が川の流量調査をしていることについて、そんな事は必要なら市や県の担当者がすることで、随分お前も物好きな奴だと友人に笑われました。しかし我々も一つの問題意識を持って、入に頼まれもしないことをこつこつやる事は、自分の為に楽しいこと即一つの生甲斐なのです。結果的に或は之が徒労に終るかもしれないがそれでもいいのです。一年以上もこつこつやっている事自体の中に喜びがある。そして万一の場合、之れが皆さんのお役に立つかもしれないというばら色の夢もあります。
 さてその夢の作文はながいので割愛します。別冊一部古賀館長のお手もとまでお届げしておきますので、おひまと興味のお有りの方は御一覧願えれば幸いと存じます。

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