別府のあゆみ(創立40周年記念誌)

福岡市別府公民館



第1部 別府の歴史

第1節 戦前編
  「別府」の由来         (「別府郷土史研究」に同じ)
  鳥飼・早良という地名      (「別府郷土史研究」に同じ)
  幕末・明治期の別府村の戸数と人口 (「別府郷土史研究」に同じ)
  福岡市と鳥飼村の合併      (「別府郷土史研究」に同じ)
  筑肥線と城南電車の開通     (「別府郷土史研究」に同じ)
  別府村の伊勢講         (「別府郷土史研究」に同じ)
  将軍地蔵尊           (「別府郷土史研究」に同じ)
  塚地蔵尊            (「別府郷土史研究」に同じ)
  別府の天満宮及び五穀神     (「別府郷土史研究」に同じ)
  別府薬師如来          (「30周年記念誌」に同じ)


第2節 昭和・平成編

  福豊炭坑            (「別府郷土史研究」に同じ)
  別府地区の瓦斯施設       (「別府郷土史研究」に同じ)
  福岡大空襲
  昭和38年大水害
  昭和53年大渇水
  城南区誕生
  アジア太平洋博覧会―福岡’89の開催
  ’95ユニバーシアード福岡大会

第2部
  公民館のルーツは会議所、公会堂
  公民館の歩み


第3部 別府は交通の要衡
  四通八達の碑          (「別府郷土史研究」に同じ)


   別府橋通り物語         (「別府郷土史研究」に同じ)

  地下鉄七隈線・別府駅・茶山駅 編集後記


別府公民館創立40周年によせて
福岡市城南区長 恒吉 香保子

 このたび別府公民館が創立40周年を迎えられましたことを、心からお祝い申し上げます。
 別府公民館は、昭和39年7月に発足して以来、地域住民の身近な学習活動の施設として、各種サークル活動を活発に行い、高齢者教室、女性講座など地域に根ざした生涯学習事業に取り組むとともに、差別のない明るい地域づくりを推進する人権啓発事業を展開され、成果を納めてこられました。
 別府校区は交通の要衝として来春には地下鉄七隈線(3号線)開業を迎え、校区内には大学もあり文教地区としてますます発展しております。
 さて、本格的な生涯学習社会を迎え、地域住民の多様な学習要求に応える質の高い充実した学習機会の提供が必要となっております。さらに、この学習活動が、一人ひとりの人権が尊重される、明るい地域づくりのための活動の原動力となるように求められています。
 城南区役所といたしましても、校区の皆様が、ゆたかで潤いのある住みよい地域づくりを進めるために、公民館と区役所の連携を一層強化し、地域コミュニテイ活動への支援に積極的に務めてまいります。
 別府公民館が創立40周年を契機として、これからも更なる発展を遂げられ、校区の皆様から親しまれる公民館となりますよう念願いたしますとともに、別府校区が皆様の信頼と連携によって地域への愛情を持てる、明るく住みよい町になりますよう祈念いたしましてお祝いのことばといたします。


別府公民館創立40年を迎えて
福岡市別府公民館 館長 河野安雄

 平成16年、別府公民館は創立40周年を迎えました。
 城南区では長尾、鳥飼についで3番目に設置された歴史ある公民館です。
 別府公民館はこの40年、歴代館長さんのご尽力をはじめ、関係者のご支援のもと、地域の社会教育実践の尖兵として全国に冠たる福岡市の公民館活動の一翼を担ってまいりました。
 平成16年に市より公民館の見直し案が提示され
  (1)生涯学習事業とコミュニテイ支援事業の一体的推進
  (2)地域の課題や住民ニーズに対応した公民館事業の充実
  (3)区役所機能の強化と公民館支援体制の充実
を骨子として取り組んでいくことになりました。
 この公民館の改革と時を同じくして戦後から50年続いた町世話人制度が廃止され、新しい自治組織へと生まれ変わりました。地域コミュニテイでは公民館と自治組織の連携は不可欠です。これを機に新生の公民館と自治組織が車の両輪となり、安らぎと活力に満ちた別府校区の実現にまい進したいと思います。

 また、別府公民館ではこの機会に公民館40周年記念誌を発刊することにいたしました。
 記念誌の内容は別府の歴史から現在そして未来に亘るものです。
 別府の歴史では校区の先覚が歩んで来られた足跡をたどりました。
 別府の現況では公民館のサークル活動、自治団体、各種団体の活動を中心に。また、町の現状もできるだけ記録するよう配慮しました。
 未来としては別府の将来を担う若人の教育にあたる別府小学校、城南中学校、中村学園大学の取り組みを中心にまとめました。
 最後になりましたが、本誌発刊にあたってご寄稿や資料提供等にご協力を頂きました諸団体をはじめ多くの方々に心から感謝を申し上げます。

平成16年10月吉日


第1部 別府の歴史
第1節 戦前編
太閤道

 別府あたりを東西に通る道を古くから「太閤道」と呼んでいた。
 「生の松原より山門村を過ぎ姪浜の南を経、七隈、田島の北を通る道あり。
  秀吉公、肥前名護屋へ往来したまう時この道をお通りありという。
  この故に今に至り太閤道という」(筑前国続風土記)。

 豊臣秀吉が朝鮮役の時、博多から本陣が置かれている肥前の名護屋へ往来した道で、六本松から樋井川を渡って中村大學の裏手を通る旧道がそれだといわれている。
 現在、六本松の九大教養部前を通って樋井川を渡り中村大學前を西に向かう国道202号線バイパスが貫通している。
 昭和54年(1979年)に「別府橋通り」という愛称がつけられたのだが、「太閤通り」という案もあったそうだ。



第2節 昭和・平成編

 1945年3月の東京大空襲を皮切りに、米軍による日本本土への無差別爆撃が本格化するなかで、死傷者2千人という惨事をもたらした6月19日の福岡大空襲。
 福岡への米軍の攻撃は「あの日」が初めてだった。「八幡や大牟田のような大規模工場がない福岡を爆撃するはずがない。」警戒心の薄い市民を、雨のように降り注ぐ焼夷弾が襲った。
 B29爆撃機の編隊が西の空から次々と福岡上空に姿を現したのは午後11時過ぎ、全部で60機(福岡市史)「シュルシュル、シュルシュル、と不気味な音をたてて、炎が降ってきたんです。何本もの赤い尾をひきながら、まるで花火のようだった」
 焼夷弾は空中で割れ、中から長さ1メートルほどの鉄製筒片がパラパラと落下した。
 地面に着弾すると中からパーツと油脂ガソリンが散り、家屋を炎に包んだ。コールタールを塗った道路も燃え、一面は火の海と化した。

(2004年8月8日付西日本新聞「博多が焼け野原になった日」より)


 別府地区では県道(現在の202国道)沿いで数件が被災したほか天神森近くの藤村源路氏宅が全焼した。藤村文彬氏に当時の思い出を記して頂いた。

 我が家に古ぼけた屏風がある。
 その屏風の裏に、毛筆で次の文章が書かれている。
「此の屏風は昭和二十年六月十九日夜米機福岡市大空襲の時、我家炎上火中より小生の妻家中より抱出し其の難をのがれし屏風なり。外二点の屏風と共に残りし故記念の家宝とするもの也」
 ここで書かれている小生とは、私の祖父藤村源路のことである。
 59年前の出来事なので記憶が段々風化してきている。この日の福岡大空襲で市街地の大半を焼失、死者・行方不明者千百余人の大被害を出している。
 当時、小学1年生でしたので、自分の家に爆弾が落ちて燃え上がった光景は覚えていますが、近所で被害にあわれた家があったかどうかは覚えていません。
 市街地にくらべて別府界わいは被害は少なかったのではないでしょうか。
 防空壕の中から家が炎上するのをなすすべもなく見ていました。その時祖母が火の中をくぐって屏風を3点も持ち出したなんて信じられないことです。子供たちの知らないところで大人たちは、必死に働いていたことを思い知らされます。
 焼け出され、通っていた学校(福岡県女子師範学校付属小学校)も焼失したことを知り、子供心なりに不安で一杯になったことをぼんやり覚えています。
 一夜明けて、周辺(当時はほとんど田んぼでした)を見ますと、あちこちに焼夷弾や不発の爆弾が転がっていました。
 8月15日の終戦で平和な空か戻ってきました。それまでは、敵機来襲の度に空襲警報のサイレンが鳴り、急いで防空壕に駆け込む毎日だったことを思うと嘘のようでした。
 あれから59年、別府も福岡市もすっかり変わり、戦災のあとは見出すことは困難です。ただ残された屏風が何よりの生き証人に思えます。戦争の愚かさを示す証拠品です。
藤 村 文 彬



 状況

 本市では6月30日未明から河川や溜池がしだいに増水していたが、柏原川・室見川・駄ヶ原川・片江川・樋井川・七隈川・那珂川・金屑川などの堤防が決壊しだのをはじめ、宇美川・御笠川・野間大池などがはん濫した。
 なかでも、決壊などの被害を受けた市営河川は柏原川など21河川にのぼり、被害の総延長は約11キロメートルにも達している。このほか、低地においても滞水現象が生じた。

 このため、市内は濁流に洗われ、各地で家屋の浸水または損壊、道路の損壊、耕地の冠水または流没、橋梁の流失などの被害が続出した。
 特に警固、薬院、平尾、草ケ江、鳥飼、高宮、野間、永田町、梅光園、竹下、室見、名島などでは家屋が床上まで水浸しとなって甚大な被害を受けている。
 橋梁については草ヶ江橋など七橋が損壊したほか、河原橋、福重橋、柳橋など17橋が流失した。

 上水道施設関係では曲淵水源地―平尾浄水場間の導水管が、道路の決壊および橋梁の沈下によって3本のうち2本が折指し、1本は一部破損した。
 また多々良水源地では、ポンプ室が浸水したため、揚水ポンプなどが水没し、全面的に運転不能になった。
 このほか、塩原・室見・番托の各浄水場も一時浸水の危機にひんしたばかりでなく、配水管も一部損壊した。このため、市内全域にわたって断水あるいは水圧低下を生じた。

 教育施設の被害状況をみると、土砂の流人あるいは浸水によって、校舎または運動場に被害を受けた小・中学校は25校に達している。
 農作物については水稲が田植期、そ菜が生育最盛期、果樹が果実の肥大期で収穫を左右する重要な時期にあたっていたが、耕地の冠水または流没によって、植直し、作付不能、収穫の減少など著しい被害を受けた。加えて高温多湿のため病虫害が多発し、被害額は185、000千円であった。

 農架上本施設の被害状況をみると、水路・井堰・農道などの損壊が419か所に達して甚大な被害を受けた。
 運輸関係についても線路や道路の冠水または損壊によって、鹿児島本線、筑肥線、西鉄大牟田線、市内電車の城南線、貝塚線のほか、バス路線も各所で運休し、市内の交通網は寸断されたが、30日が日曜日であったため、出勤時の混乱はみられなかった。

 この水害の特徴は、短時間の局地的な集中豪雨によって中小河川の決壊やはん濫が起こり、被害を大きくしたが、特に近年宅地開発の非常に進んでいる樋井川流域が甚大な被害を受けたことにあった。
 本水害の被害状況をみると、死者1人、負傷者4人という人的被害を出しだのをはじめ、家屋の全壊14戸、流失39戸、半壊47戸、床上浸水9、650戸、床下浸水18、100戸、耕地の冠水または埋没980ヘクタール、水路の損壊251か所、道路の損壊61か所、井堰の損壊61か所、崖崩れ35か所、橋梁の損壊または流失24か所、などの被害を受け、その被害総額は 1,112,800千円であった。
 なお、7月1日は各学校とも水害のため、臨時休校している。


別府団地浸水
   上 田 正 久

 昭和38年6月30日夜半から雷と共に豪雨に見舞れた。当時の樋井川は今のようにキレイな「顔」ではなく、川幅はせまく蛇行していた。
 並行して建つ別府団地はステンレス流し台、D・Kとモダン住宅。
 夜来の豪雨で一階は階段付近まで浸水。濁流の中に水没し、あたかも浮島の様でした。
 高級車のトヨペットクラウンは屋根を残して水没。黄色い屋根は三菱コルト500かな、通勤に使っていたダイハツミゼットは再起不能。福岡市のド真中で洪水、あまりのことに言葉も出なかった。
 翌日、水は引いたが悪臭と汚でい。惨たんたるものでした。

 その後河川の改修も進み洪水は昔話になり、平成2年からの建替え工事で人の良さそうな世話好きの長屋のオバサンからチョツト冷いスラリとした美人に建替中です。
    

 制限の経過
 異常気象によるダム貯水量の低下に伴い、昭和53年5月15日水道局に対策本部を設置し、5月20日から制限給水を実施した。
 しかし事態の長期化が予測されたため、5月22日、市長を本部長とする福岡市渇水対策本部を設置し、全市あげてこれに対処することとし、以降水源状況に応じて段階的に制限の強化、緩和が繰返された。

 制限給水の経過をまとめた。
 第二次制限給水(9時間給水)実施中は、市民からの問い合わせや苫情が相次いだため、水道局と各営業所に緊急電話を増設し、市民対応や運搬給水等の連絡に当たった。
 さらに各地域に断水も続出したので、市職員の動員とともに、県知事を介して春日市の陸上自衛隊にも出勤要請を行い給水活動を強化した。
 最も厳しい第三次制限給水に5時間給水)期間中は、おおよそ4万5千帯に及ぶ断水や、出水不良世帯が発生したので、さらに市職員の大動員を行い、万全な給水体制を執った。
 こうして5月20日から6月10日の第三次制限まで22日間の運搬実績は給水車延1万3232台、給水量1万8529立方メートル、運搬に要した人員は延2万2573人の大規模なものとなった。
 ちなみに車輪運搬給水は第四次以降も必要に応じて出勤し、最終解除まで出延201台、285立方メートルの給水を実施している。

 さて、断水地域が発生する一方で制限給水の困難な高所地区や受水槽を有する需要者にあっては断水時間中も水を使用するといった不均衡が発生したため、これらの状況を踏まえて、渇水対策緊急措置要綱を制定し、大口需要者の水使用量を前年同期の60%に制限する規制強化や、高所地区に臨時共用栓を設置し、各戸給水から共用栓による給水に切替える等給永の公平化を図った。
 この間、水源状況は悪化の一途であったが、特に江川ダムにおいては5月末に貯水率が16.8%に低下し、このままでは江川ダムに依存する乙金浄水場の給水能力は全く停止し、約7万世帯に断水発生が予想されるに至った。
 このため江川ダムに隣接する寺内ダムからの緊急放流について、国、県及び関係機関に強力な要請を繰返し、超法規的な措置により最悪事態を回避することができた。

 6月10日の集中降雨により水源事情が好転したため翌11日より16時間給水に大幅に制限を緩和した。
 しかし夏場に降雨をもたらす台風が、本市を避けたため、9月1日より6時間給水を実施した。
 また9月15日に本市を直撃した台風も、いわゆる風台風となったため9月以降も引き続き6時間給水を実施せざるを得なかった。

 各水源の中でも、江川ダムが特に厳しい状況にあったため、再三にわたり寺内ダムからの放流を受け、最終的な放流量は250万立方メートルにも達した。
 特に9月14日、江川ダムの貯水率は0.08%まで落ち込み、加えて寺内ダムの有効貯水量もゼロになったため、9月14日から1か月間、同ダムのデッドウォーター(底水)までも放流を要請し、この水がまさしく福岡市民の“命の水”となった。

 10月以降の降雨量は平年並みとなり、各ダムとも順次回復の兆しを見せはじめたので、11月1日から7時間給水に緩和し、さらに12月1日からは9時間給水に切り換えた。
 半年間にわたる市民の節水生活の苦労に対し、せめて水の出る新年を迎えていただくため、12月20日から54年1月10日まで制限を解除し前面給水を実施した。
 こうして、昭和54年3月24日、全ダム平均貯水量が49%と平年並みまで回復したので、翌25日より287日に及んだ制限給水を解除したのである。
 本市100万市民にとって精神的にも長い10か月の闘いであった。


大渇水で苦難の日々
     上 田 正 久

 昭和五十三年三月福岡管区気象台創設以来の以上少雨、雨が降らなくて非常に暑かったと記憶している。
 あまりの暑さにクーラーは売り切れ、店頭展示品まで売ってしまった電気店さんも続出、福岡市の水がめ江川ダムも期待通りに水が貯らず、同時期に変則トレードで巨人軍に入団した大投手江川も期待に反していた。
『今年の江川は働きが悪いな』と話題になった。

 命の水を断たれた生活は悲惨そのもの、蛇口を捻っても十九時間は水が出ない。風呂、炊事、洗濯すべて駄目。給水車からバケツの水を五階まで運び上げ手伝ったことを覚えている。
 いまだに思い出すのは水洗便所。水圧がないので流れない。バケツの水で流そうとするとハネ返った水が鼻の頭に、たまには一寸(3mm)下に来ることもあった。
 それでも断水時間は徐々に短くなり、水の有難さが身にしみた。その後福岡市も節水を呼びかけダムの整備、取水の改善とりくみ今の生活がある。
 再び命の水を失うことのないよう、皆んなで節水に心掛けませう。
    


 「福岡市は昭和47年4月1日に指定都市になり、同時に5区割を実施して以来、57年(1982)は10周年になります。この記念すべき年に新しく7区制でスタートすることは真に意義深いものがあり、皆さんとともに喜びたいと思います。」 当時の進藤一馬福岡市長はこのように語っておられます。

 「城南区」の命名については市民から公募した名称を区名選定委員会で検討、決定されました。
 選定の理由として
  ①市民からの応募が多数である。
  ②城址の南側に位置する地域で地理的にわかりやすく歴史的かつ包括的な地名である。
  ③城南小・中・高校などの名称もあり住民になじみ深く、柔らかい響きがある。
  ④発音がやさしく、紛らわしくなく、親しまれているので新区名にふさわしい。

 初代城南区長の山田聡氏に発足当時の思い出をお寄せいただきました。

 別府公民館四十周年記念誌発刊によせて
 元 城南区長 山 田  聡

 別府公民館の創立四十周年おめでとうございます。
 城南区が発足したのが昭和五十七年で今年で二十二年になりますが、それより遥かに歴史を重ね地域住民の連帯や交流そして学習の場としてしっかり定着されていますことを心からお慶び申し上げます。

 旧西区から分区し新しく城南区が発足し私が最も心掛けたのは市民皆さんとの対話と交流でした。別府公民館で開催されていた新年の賀詞交換会には毎年出席させて頂き各種団体の皆さんとの懇談や別府校区の盆おどりにも参加させて頂いた事など懐かしく思い出します。
 そうした交流のなかで感じましたことは城南区を一日でも早く「明るく住みよい」町へ、との地域住民皆さんの熱い想いでした。
 あれから二十二年区として必要な公共施設(市民センターや体育館など)はほぼ整備され別府校区内には地下鉄三号線も間もなく開通します。
都心に近く便利で住みよい別府校区は益々発展する事でしょう。
 今年は永年続いた町世話人制度が廃止され、地域住民の安心、安全など地域の課題は新たな自治組織のなかで取り組んで行くことになりました。
 こうした趨勢のなか公民館の存在と果たされる役割は大変大きなものがあると思います。
 別府公民館が四十年を期に地域社会の核として益々発展されますことを心から祈念いたします。
    


 本市の市制百周年記念事業のメインイベントとして、早良区・中央区の埋立地、シーサイドももちの一画78ヘクタールにおいて、1989年(平成元年)3月17日から9月3日まで、171日間にわたって、繰り広げられた、「アジア太平洋博覧会一福岡’89」(愛称“よかトピア”)について、その概況を総括した。


出展状況
 アジア太平洋博覧会-福岡’89の名称にふさわしく、国内はもちろん、遥か太平洋をはじめ、友好、姉妹都市を含む世界各国からの出展が実現した。
 国内では、1056の企業、団体の出展による国内パビリオン33館と、37か国・地域、二国際機関による外国出展パビリオンは10館を数え、それぞれ充実した楽しい内容であった。(第28表)(第29表)
 とくに、太平洋諸島の景観を再現した野外展示・アジア太平洋ゾーンは、他の博覧会に見られない初めての試みで、本博覧会の目玉展示であった。
 ちなみに、国内、国外それぞれの出展状況をまとめて一覧表として示しておこう。




イベント
 171日間の長丁場を、楽しいまつり会場に盛り上げるため、リゾートシアターを中心舞台として、国際色豊かに、さまざまなイベントが連日繰り広げられた。
 国際的なナショナルデー等は、合計23回を数え、また、国内の各自治体による、自治体の日は、北は札幌市、南は沖縄県を含んで、102自治体に及んだ。
 とくに、肌寒い三月の開幕日から14日間連続上演した、ミュージカル・バラエティーショー“HIMIKO”を皮切りに、広州雑技団をはじめとする各国民族芸能、博多どんたく、日本のまつり、さらにジャッキー・チェン、武田鉄矢など、内外の豪華スターの競演、進境著しいシェイクハンズの連続上演など、大花火ショーまで会期中入場者を魅了した。

VIP
 本博覧会に訪問を受けたVIPは、国内548件、3675入、国外163件、41か国、1142人合計711件、4817入に達した。
 主要来訪者では、国内では皇太子殿下、常陸宮、同妃両殿下、三笠宮寛仁殿下、宇野外務大臣(当時)、斉藤経団連会長など、国外では、アズラン・シャー副国王(マレーシア)、ダト・オマール、イボー市長(マレーシア)、李鵬首相(中国)、楊資元広州市長(中国)、ジャック・ジャパン・デルマス、ボルドー市長(フランス)、キャサリン・ティザード、オークランド市長(ニュージーランド)、ライオネル・ウィルソン、オーク
ランド市長(アメリカ)などであった。

入場者
 総入場者822万9399人の、期間別入場者数は下表の通りである。
 一日平均では、さすがに夏休み期間が最も多く、8万人台、次いでゴールデンウィークが、7万人台を記録した。
 ちなみに、一日当り最多入場者は、最後の日曜、8月27日の、19万2538入で会場内は超過密状態であった。
 次に外国からの入場者は、79か国・地域から7万5848入を数えた。
一衣帯水の近距離にある韓国が約67%を占め、次いで台湾、東南アジアで約20%を占めた。(下表)
 総入場者に占める外国人入場者の割合は、ほぼ1%に当り、まさに世界の人々とのふれあいの場として、国際化に貴重な役割を十分果たしたと言ってよい。




 国境を超え、世界の若者たちがフクオカの地に集まった。’95ユニバーシアード福岡大会は1995年(平成7年)8月23日、福岡ドームで開会式が行われ、12日間にわたる熱戦の幕を開けた。
 紛争、貧困、戦禍・・・戦後50年の節目の年に、さまざまな壁を乗り越え、今大会には史上最多の146ヶ国・地域がエントリー、約6200人が参加する。
 巨大なドーム空間で繰り広げられた開会式のフィナーレでは、生命の貴さを訴えるメッセージソングを合唱し「平和の祭典」を世界に強くアピールした。
 西日本新聞は開会式の写真をのせ、このように述べています。桑原福岡市長は開会式にあたり次のようにメッセージを述べてあります。

  感動と友情の輪 全世界に
          桑原福岡市長メッセージ

  大会の準備を始めたのは六年前。市民と一緒に苦労してきた、その “花”がいま開いた、という心境だ。昨年から二百九十五日に及ぶ断水 を経験したが、今年の夏は水についての心配が解消し、選手村生活や大 会運営に支障はなくなった。天も味方してくれたと思う。
  参加選手たちには、来年のアトランタ五輪につなげる活躍を期待して いる。
  同時に、地域との多彩な交流を通じて福岡を十分楽しみ、日本文化に 触れてもらいたい。
  そして、この大会で培った感動と友情の輪を全世界に広げ、次の世代に引き継いでほしい。
  世界各地から若者が集う福岡ユニバは単にスポーツ大会ではなく、戦後五十年を迎え「平和」を考える絶好の大会。
  校区ごとに応援国を担当する校区ふれあい事業を進めてきたのも、平和教育の意味を込めたものでもある。
  国際都市を目指す中で特に大切なのは、ホスピタリティー(もてなしの心)。
  選手たちとの交流を通じて、市民一人ひとりがしっかりその心を身に着けてくれつつあると思う。まちづくりの大きな財産として、福岡の将来に必ず残るはずだ。

 別府校区から「ユニバーシアード福岡大会PR親善団」に参加された味園弘美さんに思い出を記して頂きました。

  ユニバーシアード福岡大会親善団に参加して
          味園弘美

 親善訪問団として総団長桑原敬一市長はじめ市民交流団として、フラ ンス(早良区)・ベルギー(城南区)の応援校区の人達と一般公募より参加したメンバー50名で平成七年五月末より十日間の日程でボルドーとパリー・ベルギー・ブリュツセルを訪問。
 最初はボルドー市で開催中の国際見本市ジャパンデーを見学、日本からの展示は福岡市内からの博多人形、博多織などの出品で占められ、展示区画も正面玄関の最前列に据えるなど姉妹都市に対する心遣いが感じられた。
 又展示区画にはユニバーのシンボルマークや大会マスコットのカパプーの看板が掲げられ当日は会場でユニバーの法被姿で鏡抜きがおこなわれユニバーをPR。
 ボルドー市役所の中庭で行われた「採火式」ではユニバー福岡大会に出場する選手の人達がリレーした「たいまつ」がボルドー市代表より「友好の火」として桑原市長に渡された。
 ブリュッセルではユニバーを主催する国際大学スポーツ連盟本部を表敬訪問、校区代表より事務総長に土産品を贈り、事務総長より「福岡大会に対する感謝」の言葉を受け、記念品として男性はネクタイ、女性はスカーフをいただいた。

 パリでは開催中の学生陸上選手権大会を観戦、会場内ではアナウンスでユニバー福岡大会と訪問国のことが紹介され、急きよ桑原市長が表彰式でメダルを授与する一幕もあった。

 親善訪問をしてユニバー福岡大会を成功させるには何よりも選手団と市民の心のふれあいが大切と痛感した。大会期間中はできる範囲でボランティア活動に参加、楽しい想い出を作ることが出来た。
  別府校区でも多くの方々がいろいろの方面で活動され大会を盛り上げられたことと思います。


 
第2部 公民館の生い立ち・歩み

公民館のルーツは会議所、公会堂

 わが別府には明治の昔から会議所という公共の設備があり、この地区内の人々の集会や諸行事の相談場所として使用され、夏の七夕の折には子供達の七夕揮毫の展示会場などにも利用されていました。
 この建物の玄関前には土俵も設けられ、何かの行事の折には子供や青年会員達の相役遊びも見られました。

 この会議所は東蓮寺(部所名)の入り口藤村嘉市さん宅の北隣(現別府1丁目1区の5番17号)にあったのです。
 また、その横の畑では明治の末期頃までの冬の寒い時期にはこの地域で収穫された砂糖きびによる砂糖絞めも行われ黒砂糖が造られていました。

 この会議所も大正10年頃には私鉄筑肥線の新設工事事務所に貸与されてしまいましたが工事完了後の同14年頃には建物も損傷が酷くなり土地と共に村内の希望者に売却され撤去されてしまったのです。

 その後数年間は会議所の必要は認められながらも再建は出来なかったのですが幸にしてこの地区の耕地整理が昭和7年度早々に完了することにな
ったので、これを機会にわが別府出身の市議会議員経験者であった藤村源路・橋本健太郎・三角松次郎の3氏を中心に町内の有志数名によって新公会堂設立の計画がまとめられ現公民館の場所に二階建ての別府公会堂が建設されたのです。

 この公会堂は別府本町と別府新町の人々が主として使用したのですが、階下の広間は冠婚葬祭や多数の人々の集会の場として活用され二階では町内の役員会婦人会などの小会合の外子供達の習字指導などにも利用されていました。

 昭和39年7月既設の旧別府公会堂に代り現公民館がこの地に開設されたのです。
 爾来歴代の館長を中心に職員や運営審議会委員方々のご熱心な運営努力の積み重ねが今日の優秀な公民館の実績を築き上げたのであります。


 昭和39年 公会堂に代わり別府公民館が現地に開設され、
     (館番59)初代館長に小川倫右氏が委嘱される。

 昭和51年 公民館施設改築(モルタル2階建て)工事竣工。

 昭和55年 別府郷土史(第1集)発行

 昭和56年 「我が家の明治大正展」実施

 昭和59年 県公民館長会より優良公民館として表彰
      創立20周年記念式典、記念誌(公民館・郷土の歴史)発行

 昭和63年 教育委員会より優良公民館として表彰

 平成6年 創立30周年記念式典
      ・祝賀会
      ・記念誌「別府の歴史見聞録」発行
      ・藤村佑子ピアノコンサート

 平成12年 現公民館落成
     (概要) 敷地面積 533.77m2
                    建物面積 513.75m2
                    建物構造 鉄筋コンクリート造2階建
          建物内容
          1階           2階
           玄関ホール・ロビー(55) 和室(31.42)
           事務室(24.88)      児童等集会室(49)
           講堂(102.92)      学習室(48.16)
           地域団体室(54)     男女トイレ
           男女トイレ        湯沸室
           車椅子トイレ          (単位 m2)


第3部 別府は交通の要衡


西南部の交通渋滞を緩和します。
 福岡市の西南部地域は、昭和40年代以降、住宅地を中心として急速に開発が進んだ比較的新しい市街地。良好な住宅地としての特性を持っているほか、城南区役所、市民体育館、九州大学、中村学園大学、福岡大学、福岡歯科大学が立地するなど、都市化が進展している地域です。
 市の2割強の面積に、全市民の4割にあたるおよそ50万人の市民が住み、今後も人口の増加が予想されています。
 しかし、この地域には鉄道がありませんので、通勤・通学などはバスや自動車に頼らざるを得ない状況です。
 このため、道路が各所で混雑し、特に都心方向は交通渋滞が慢性化しています。
 こうした西南部地域の交通渋滞を緩和し、効率的で利便性の高い公共交通体系の樹立を図るとともに、均衡あるまちづくりを推進するため、地下鉄七隈線を建設することになりました。

都心がより近くなります。
 地下鉄七隈線の整備によって、西南部地域から都心への所要時間が今よりも短縮されます。別府~天神を9分で走ります。
 また、慢性化しているバス、自動車による交通渋滞も緩和されるとともに、環境の改善にも役立ちます。
 さらに、西南部地域のまちづくりにも大きく寄与することになります。
ニュータイプの地下鉄が走ります。
 地下鉄七隈線では、将来の輸送需要から、空港線・箱崎線に比べやや小型の車両を使用する新しい「鉄輪式リニアモーターシステム」の地下鉄を使用します。
 リニアといっても、超高速鉄道に使われる磁気浮上式ではなく、今までどおり鉄の車輪で車体を支え、リニアモーターで発生させた駆動力で走行するシステムです。
 リニアモーターを採用することで、急カーブや急勾配の走行が可能となります。また、客室の空間を確保しながら車両の小型化か図られますので、トンネルの断面を小さくできるなど、建設費の低減が期待できます。

◆リニアモーター◆
 リニアモーターは、回転型モーターを切り開いて直線状に広げたような構造で、鉄輪式では車上に1次側コイルを、地上に2次側導体(リアクションプレート)を設置します。車両と地上の間に発生する磁界の樹立作用に磁気力(吸引・反発)を、車両の推進と制動に利用します。

人にやさしく、分かりやすいデザインにより誰にでも利用しやすい駅となります。
 各駅共通のデザインと各駅の特性に応じたデザインにより、七隈線全体
としての個性と駅独自の個性を展開します。

◆出入口◆
 エレベーター及びエスカレーターを地上からホームまで設置します。
また、各駅共通のゲート(緑色)を設置し、お客様に七隈線の駅であることを分かりやすくします。

◆プラットホーム◆
 転落防止のためのホームドアを設置します。お客様、特に視覚障害者の方や小さなお子さまにも安心してご利用いただけます。また、ホームのエレペーターは、全駅ホーム中央付近のほぼ同じ位置にあり、ホームと車両乗降目の段差についても可能な限り小さくしています。

◆コンコース等◆
 ガラスなどの透過性の高い素材を使うことで、明るく開放的な空間が広がります。バリアフリーを考慮し、身体障害者用多機能トイレ、誘導、警告ブロック、手すり、傾斜型券売機、音声案内装置を設置しています。
また、券売機、改札機、トイレについては、形態、色彩、照明により誰にでも分かりやすく、利用しやすい施設としています。



 別府公民館創立40周年記念誌は公民館の関係者を中心として手作りのものにしようと申し合わせ、スタートしました。歴史の部では公民館創立20周年誌、30周年誌、それに公民言サークルの郷土史研究会誌第1集から大半を引用。
 昭和、平成編では出来事を身近に体験された方の思い出話などを併記しました。
 自治団体、公民館のサークルの紹介はそれぞれ代表の方の声を収録。写真も出来るだけ使ったつもりです。
 記念誌の編集を終えて改めて別府の歴史の重厚さを認識しました。また、地域と一体の学校教育を実感しました。さらに現在の自治活動、サークル活動の素晴らしさに触れさせて頂いたことを感謝いたします。
 最後になりましたが、原稿提出など、ご協力頂いた多くの方に重ねて御礼申し上げます。

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