別府の星座(2) (1983年)

2015/03/29 登録       
2015/05/23 ジャンル分けを追加



 福岡市民のことば
 福岡市は九州の首都、あすへむかって、いきいきと発展しています。筑紫野の緑と玄海の白波にかこまれ、ここは輝かしい歴史と伝統が築かれてきました。
 わたしたち福岡市民は、誇りと責任をもって、次のことをさだめます。
 1.自然を生かし、あたたかい心にみちたまちをつくりましょう。
 1.教育をおもんじ、平和を愛し、清新な文化のまちをつくりましょう。
 1.生産をたかめ、くらしを豊かにし、明るいまちをつくりましょう。
 1.力をあわせて、清潔で公害のないまちをつくりましょう。
 1.広い視野をもち、若さにあふれる市民のまちをつくりましょう。

 ※ わたくしたちふくおか市民は、「差別のない明るい福岡市」をきずくために心と力をあわせましょう。

1. (雑感)  消費行動における人間
2. (近況)  気分だけは十年若く
3. (戦争)  追憶
4. (戦争)  過去を顧みて
5. (友人)  友達
6. (郷土)  早良古城跡めぐり
7. (災害)  水の安定供給に思う
8. (家族)  
9. (自分史) おもいで
10. (旅行)  海外生活体験記
11. (家族)  喜しかった孫達との出合い
12. (自分史) 私の思い出
13. (近況)  老後のあゆみ
14. (戦争)  天然痘に想う
15. (趣味)  博多ドンタク
16. (雑感)  思い出によせて
17. (近況)  納涼のひとこま
18. (近況)  高令者と健康
19. (家族)  私のいきがい
20. (家族)  わが七人の孫達
21. (趣味)  私の生き甲斐
23. (友人)  或る人生
24. (雑感)  爽やかな朝
25. (近況)  八十路の歩み
26. (近況)  折り鶴の奇跡
27. (戦争)  戦災を体験して
28. (近況)  私の家の庭
29. (雑感)  暮しえの指向
30. (自分史) 三省堂書店で
31. (自分史) 就職と思い出
32. (雑感)  テレビ学
33. (雑感)  微笑ましき譲り合い
34. (近況)  昭和五十八年私の夏
35. (旅行)  広島を尋ねて
36. (趣味)  菊と私
37. (故郷)  故郷のおもいで
38. (郷土)  城南区が出来て


 おわりに
 本年度の文集はテーマを決めずに、学級の方々の自由なテーマをもとに記述していただきましたので、教訓あり、教養や文化遺産ありで、高令者教室として、大変有効な文集になったことを非常に喜んでいます。
 尚、文集の発行回数が重ねられると共に、文体も美しく内容もまとまりのある立派な文集となりました。これも一重に日頃の学習に深い関心と研究努力をなされた皆様方に敬意を表しますと共に、向上のよいのに感心いたしました。
 おわりに、文章を作り書くということは、医学的にも老化防止の為に大変よいと言われています。今後も、日誌、記録などを綴られることを切望いたしましてあと書きとします。

  昭和59年3月
福岡市城南区別府公民館  
館長  古 賀 一 男



 消費とば本来生活に必要な物を購入して所有する事であったはずなのに、最近は一種の娯楽として、人々はショッピング」と称して街に出る様になった。
 新しく物を購入した時誰しも自己の有能性を感じるであろうが 往々にしてそれは錯覚による自己満足であるのに気付かないでいる事の方が多い様である。
 所有物が地位や権威を現わすものとして考えられている様になり、車の置き場所もないアパート暮しの若者が、これ見よがしに大きな外車を乗り廻わし、結局車の月賦が払いきれずに銀行強盗を思い立ったり、政府のマイホーム政策にまどわされてAさんが家を新築されたのに何日までもアパートに住んでいては肩身が狭いからと、やっとの思いで家を新築したが、これから先、住宅ローンに追われる事で悩んでいる中にとうとうノイローゼになり自分達が住む為に新築した家に思いを残しなから精神病院に住む様になった等、自己の有能性をを誇示しようとする余り、自らの手で車や家におしつぶされてしまった例はもう珍らしい出来事ではない世の中になってしまった。
 「消費は美徳」などと誰が太鼓をたたきはじめたのか、消費者の心理を煽る商品のコマーシャルがラジオやテレビで朝から晩まで繰り返えされ、売手側のデモンストレーション効果をねらった宣伝文句にのせられて「他者が持っているから私も」と必要度や使用頻度などそれが自分の生活にどれ丈役に立づかなど充分検討もしないで買いこんだものが、余り活用されないまま押入れや台所の棚の片隅にほこりをかぶっているなど、何処の家庭でも経験ずみの事と思われるが、これなど要は消費者の自主性のなさが招いた結果に外ならない。
 或る著名な作家が女性の楽しみの一つに「特売場で物を買う楽しみ」をあげていられたが、人は精神状態が不安定な時ほど衝動的に物を買い込んだり、外に出て食事をしたがるのだそうで、生活感情が沈んでいる時に選んだ物は、やはり沈んだ色合の物が多いなど、所有する者によっても自我は拡大されてゆくらしい。
 私自身最近は身瑕に余りガラクタが増えなくなった様に思われるが、この現象は以上述べて来たような事が意識の底流にひそんでいて、それが多少はブレーキになっているのかも知れない。



 人生50年といわれていたが、生活の向上と、医療の進歩により、現在人生は80年の時代となったが、人は生を得てから、25年は、人や社会のお世話になって成長し、次の35年は各自職業につき、その職業を通じて、住みよい快適な生活の出来る、社会造成のため尽力して、定年退職して、残る20年は、悠悠自適の生活をして、生涯を終りたいのが、各自が希望するところであるが、人生行路には、浮き沈みがある。
 けれども、希望どおりに行けば、これに以上の幸福はないが、種々な事がおこり、これを乗り越えて行かねばならぬが、歳をとると共に気力もおとろえて来るが、しかし物事に対する経験もあるので、常に気分を10年若く持って、これらを乗り越え、余生を送ることが、肝心である、しかし余生を送るには、何より健康が第一である。
 私も80才になりましたが、常に気分を10年若くもって、物事にくよくよせずに、無理のない運動をすることに努め、毎日午前4時半に起床し、田島八幡神社に駆け足で、毎日参拝を続行しており、朝食後直ちに2時間位、ゲートボールに参加して、皆さんと楽しく過します。
 人生80年に達したので、健康にも自信がつき、周囲にも気がねが少なく、やりたいこと、言いたいことも出来て、気分も爽快に余生を送ることの出来るのは、皆様方社会のおかげであることは、よく分っておるので、これに報恩の出来ることは、老いても気分だけは10年若く持って、人のため社会のために尽すことであるが、反面老いて行くが人や社会にお世話をかけずに、余生を終りたいものです。


 3.追憶

 私は新聞のこだま欄をよむことをたのしみに毎日よんでいます。8月15日は38回目の終戦記念日のことが書いてありました。思い出すのも痛ましいことです、その当時のことを体験しだ人でなければ解らぬことと思います。戦前から戦後にかけて苦労したことが思い出されて、すぎ去って見れば夢のようでもありますげれど私は一生忘れられぬことと思います。
 その当時は住吉宮前町の池のある角にいました。その頃は電車も神社の前を通って道巾もせまかったです。そのため消防自動車が通るのにせまいとのことで強制疎開で家をとかねばなりませんでした。
 同じ町内の親しい人が召集を受けられて家と、家族をたのむとのことで家を貸して下さったから、そこに入居し相住いすることになりました。
 その当時は贅沢など言ってはいられません。奥さん家族は親戚に疎開されて、そこで、ご主人の召集中に亡くなられました。ほんとうにお気の毒なかわいそうなことでした。
 戦争はだんだんひどくなるし、サイレンは鳴るし、近かくの新柳町は空襲で焼けるし、主人の友達は須崎町に開業していられましたが空襲で死体さへ見つからず、奥さん親子は那珂川に避難して助かり、今は子供さんも成長され、家庭を持って居られます。奥さんも達者でいられます。
 夏がくれば思い出されることと思います。私も仏様にお参りします。
アルバムを見れば出征兵士に送った留守家族の写真をはっていますが懐かしいやら、当時のことを思い出して寂しい思いがします。その頃は愛国婦人会、国防婦人会がありました。私は愛国婦人会でした、その頃の人も今は亡くなっていられます。
 今はお嫁さんの時代になって、お寺でお逢いするから町の様子をきくことが出来ます。その当時の人も亡くなられ、町内の様子も変ったようです。
 夫婦の年輪とは20代は愛かも知れないが30代は愛はお互いの努力である。40代は忍耐である。50代はあきらめであるそして二人が老いたとき愛は感謝となると書いてありました。ほんとうに私はそう思います。
 今私が何不自由なく暮らして居られるのも福祉のおかげ、若き日の努力の賜のと思い主人に感謝して日々をすごしています。老人も福祉の時代となり、公民館で学び、たのしく長が生き出来るのも戦争のおかげかも知れません。
 甘えてはなりません。世のすべてに感謝して生きている限り健康で世のため人のためにつくそうと心がけています。
 すぎ去った若き日のことを追憶しております。



 高令者教室二回目の夏休みを迎え頭の体操としてペンをとりました。
 38年前8月6日広島市に9日長崎市と、あの恐ろしい原爆の被害で被災者やその家族の方々の悲惨な状況に傍の見る目も気の毒なことを後日ききまして平和への願いを一層強くします。
 8月15日終戦。陛下の悲憤なお言葉を耳にしました時は一同涙して気も動転する程でした。なくなられた方々には心より御冥福をお祈り致します。時事放談であの陛下のお言葉がなかったなら日本人の半数以上は命を失ったであろうとか。
 満州の新京にいた私共は、10日に突然ソ連からの空襲をうけ、私は産後11日目一家8人、急に疎開することになり、着のみ着のままの状態で汽車にのり「まさか戦争に敗けるとは思わず」安東につきました時、終戦をむかえました。
 安東での生活が始まり、主人は新京の状況を知りたいため1ヶ月後新京へ帰ってしまい、残された私子供達は筆で言えぬ地獄のどん底でした。鴨縁江で母子心中も考えたことでした。
 半年後やっと牛馬の貨物列車にのり新京に帰えり元居た家に辿りついた時には何一自分達の物はなく、又苦難の道が始まり、治安は悪く市街戦があちこちで起こり人がバタバタと殺され、男は使役にひっぱられ、暴民にはおそわれる心配とこわさにおののき、枕を高くして眠る事も出来ぬ夜が続き、喰べる道をもあれこれやってきました。
 それから半年後日本へ帰れる報に喜びを感じた反面、福岡も大分空襲にやられているらしいとのこと。とまどい、たじろぎやっと先代の伊東家に辿りつきました時の喜びは今でも忘れえぬことです。お蔭様で土地や家があり、それにあのおそろしさ、こわさからのがれることが出来、家族一同無事帰還出来、不幸中の幸でした。
 しかし、一家族8人が喰べてゆくため、常識では考えられぬ先代の土地を手離し、人様に笑われそしられて申し訳けないと思いながらその時の状況ではどうにも仕方ないことでした。
 乳呑子は間もなく死んでしまい悲しい思いが続きましたが、あらゆる苦難に堪え偲び、心の強さ大きさを体得させて頂きました事は、有り難く存じています。僅か1年の年月が10年も経った様に思われました。
 年中行事の一端として、お盆が近づく、私共のいたらぬため子供をなくし、又土地までなくし、申し訳けない「覆水盆にかえらず」と思いましてせめて御先祖様への供養をさせて頂こう。御先祖や親あっての自分達であることを知り、ささやかなりとも態度に表わしたいと思います。植物に例れば根は親であり、幹は自分で枝葉は子孫であると、しっかり根に肥をしてこそ枝葉は栄えるときかされ、親への苦労の涙はダイヤの光り、子どもへの苦労の涙は泥の水、平和な家庭を築くことは国家の平和にも繋がえることと思う。
 伊東家には子供がないため主人は養子として入籍され、嫁として私が参りました。主人の母からは土台であって、柱である主人を支えて助けあって伊東家をもり建てる様にと頼まれても届かぬ事許りで、今になっても、いたらぬ事が多くおそらく死ぬまで失敗のくり返しでしょう。
 残された自分の子供達にも親らしいこともしてやれず、あの当時の艱難辛苦を振りかえる時よくぞ素直についてきてくれたと感概無量です。
 公民館での諸先生方の御援助により、あらゆる方向へ視野を広め、皆様方との心のつながりを持つことが出来嬉しく存じております。


 5.友達

 私がまだ10代の頃唐津高女を巣立ちして楽しい夢と希望に満ちた暮しから段々と不自由になり大東亜戦争の終結を迎へた。
 私の家族は一まず浜崎の実家へ落着いていた。主人は元軍人で俘虜関の仕事をしてたので12月12日巣鴨収容所に入った、東京や横浜の裁判が初まり終連から経過や色々な事が通知される。主人からは片かな簡単な手紙が時々来るだけ。
 主人が帰るまではと身を粉にして働き続けた、そんな時学生時代からの友Sさんが尋ねて来た、久しく会っていない、どうしている貴方の事は妹さんから良く聞いている。体をこわしては駄目よ、御主人が帰られるまでは大事にねと……私は口がきけぬ程嬉しかった。我が身の不がいなさが身にしみていたから。
 時々来ては世間話や友人の噂話等をして帰って行く、Sさんの御主人は開業医で妹の近くに住む幸せな人で、私の沈み勝らな気持ちを引立てる様に大丈夫よ心の錦だけは大事にしてねと力をこめて励まして帰って行く、3年過ち、ようやく主人が無罪で帰って来た。
 公職追放なので安定した仕事をと考へた末、土地家屋調査土の国家試験を受け一回でパス、主人は既に51才であった。
 浜崎へ永住の積りで実家の助けも有って小さな家を建ててほっとする間も無く主人は田舎では駄目だ、福岡へ出たい第二の人生を思い切り働いて見たいと言い出す。
 私は何も言えなかった、東奔西走して土地探しも済み大工にも頼んだ。
これで一生懸命に働ける、今の家よりずうとましなものだよ第一君の援助が必要だから頼むよ、と夫婦で悪戦苦闘の末、念願叶って34年春に今の家へ移って来た。主人は57才、私は50才。終戦以来夢の様な年月だった。これで引越は終りにし様と家族揃って喜び合った。本当にねばり強い人だと感心した、支部長の職を持ち多忙であった。
 唐高女の同窓会に福岡で初めて出席した、6人のクラスメートと会ってKさんが居られる事が分り、御主人は元県庁の役人で今は未亡人、御長男と同居されて昔からの仲良しで度々合いたいわと別れた。
 優しく頼もしかった主人も結腸癌にかかり懸命の看護も空しく、47年6月家族に見守られ静かに他界した。覚悟はしていても今少し楽しい老後を送らせてやりたかった。
 其の年の12月にSさんの御主人も白血病で亡くなられ、其の少し前に御長男も医者であり乍ら胃癌で御他界の由。私の家へ来られ貴女が福岡へおられるから私思い切って次男の所に来だの、未亡人同志助け合って行こうと福銀にお努めで福浜にお住いだから福岡の事は仲々良く御存じ。
 Sさんの誘いで筑紫古代文化研究会に入会、月一回見学場所に集合顔見知りも多く、史跡巡りを楽しみ永く続いた。其の後Sさんは俳句に熱中、良い作品を発表され、私はゲートボールを楽しむ、Kさんも加えて3人で花見や植物園見学もし、又旅行も一緒に、お正月は特に楽しい。Kさんか私の家で祝いをする。発起人にいつもSさん、電話ですぐ一決する。今日まで信じ合える友のいる私は、他の誰より幸福者であると思う。



 若き日愛宕山から菜花と麦のおりなす田園がはるかに拡がり春霞に油山背振の連山がつらなる早良の風景は一幅の絵であった。しかし中世末期は群雄割拠して争乱の血煙が立のぼる山野であった。今、郷土史講座で早良のことを学んでいるが、私も郷土に繰り展げられた歴史興亡のあとを偲び紙数の範囲内で、古戦場をたづねてみたい。
 百道原=文永11年蒙古軍来襲の古戦場で紅葉原ともいった野原で松原は黒田長政時代に植林したものである。
 鳥飼古城=この城の始めはわからず。正慶2年菊池寂阿公は鳥飼城の探題比条英時を攻め鳥飼潮干潟でまさに打果するところ大宰少貳が後方より攻めたので寂阿公は一族郎党とも戦死した。六本松馬場頭に、首塚があり里人は地蔵とあがめ香花たえず七隈の墓は、体を埋めた所という。鳥飼城は九州軍記等にその名がみえ、鳥飼本村の東に四方を高土手で囲みし御茶屋内という所があったと城跡といわれている。又天正年間四王寺の岩屋城、
高橋紹運の兵が夜討をかけ鳥飼宮内少輔父子は戦死したが子孫の鳥飼氏は今も続いている。
 荒平古城=荒平山は西入部重留にあり。東に油山、南に背振山あり標高396米で山頂に城あって、大友宗麟の旗下小田部紹叱(小田部村と関係深い)が天文22年城主となり早良一円に威を張り筑前西部の要害であった。天正7年肥前龍造寺隆信は執行越前守に筑前浸攻を命じ曲渕河内守と高祖城原田信種はその輩下となり荒平城を攻めた。小田部紹叱は東の鷲ヶ岳城大鶴宗室の救援をうけ奮戦したが天平7年在城27年にして、戦死し
果て西筑前の大友の拠点は潰え去った。
 千人塚古戦場=筑後国史は荒平城小田部紹叱は曲渕城を攻めんとして途中曲渕勢の伏兵に会い殲滅された地に干人塚古戦場として石釜に残っている。
 曲渕古城=曲渕小学校の裏の山にありたといわれ曲渕河内守の居城で一時は曲渕、金武、田村、七隈等11ヶ村を領し天正7年龍造寺の旗下となり荒平城攻めに加わった。今表門大門跡の石垣が残っているという。
 背振山=南朝天援元年探題今川了俊がこの山に陣して菊池肥前守松浦党がこれを攻めし古城戦場である。この山は肥筑に跨る名山で神宮皇后が新羅征伐の時祈願された。上宮は宗像三姫大神を祀ている。中世以降は仏地となり天台宗東門寺あり東西南北の各谷には僧坊千坊あり隆盛を極めたが、小早川秀秋に寺社領は没収全山の僧坊は退転し礎石が残るのみ。
 飯盛山古城=飯盛山はその形高円孤峯聳え飯を盛りたるが如し山名これより出ず宮は山の麓、丘の上にあり。伊井冊尊、宝満神社、八幡太神を祭る。文徳天皇、清和天皇の勅使で神事祭礼があり由緒ある神社である。文和2年探題一色直氏がここに城郭を構えて官方を防ぐ。康安元年征西将軍宮新田一族と菊池武光は博多で大友少貳の大軍と戦う。この時菊池方越前守は飯盛山城を攻め松浦党の大軍を謀略にて打破る。城跡に千貫矢倉とい
う址がある。
 生の松原(鉢窪、長島古戦場)=生の松原一帯は早良恰土の要衝で正平17年探題尾張左京と菊池武光が又、明応5年少貳、大内両軍の戦場となり特に天文から天正には大友原田両軍が度々戦斗を交えた地である。永禄11年高祖原田了栄は毛利軍5千余騎と立花城を攻めたが戦に敗れ高祖城に逃れた。生の松原まで追跡した大友戸次勢と高祖城の援軍3千余と激烈なる戦斗があり無数の死者を出した。天正7年は大友宗麟が日向耳川の戦
斗で島津軍に大敗し大友は哀退する。大友の西筑前の唯一の拠点志摩郡柑子岳城督を立花城より救援の中途この辺で原田軍と遭遇地の利をえた原田軍は立花勢を打破った。大友の政所として勢を振った柑子岳城は原田了栄の制圧下になった。
 当時海外貿易で繁栄した博多を手中にすれば大なる富が約束された。このため多々良川の要衝立花山城の争奪は博多の死命を制するもので同川をめぐり延元元年足利菊池の戦以来九州山口の諸豪の攻防戦は熾烈を極めた。
この間筑前の弱小城主ばその時々の諸豪のもとに興亡をくりかえしたが豊臣秀吉の島津征伐によりさしもの戦乱は終息し九州に平和の夜明がきたのである。
 最後に哀れをとどめしは高祖城早田信種と秋月城秋月種実で忠臣の諌言をきかず秀吉に抗したので遂に滅亡した。(参考資料 筑前続風土記等々)



 水資源の開発及びその安定供給をコンスタントに確保することこそ、110万福岡市民にとっても、市の水道行政当局にとっても、一日もゆるがせにできない重要課題であるといっても過言ではあるまい。
 水の問題を考える場合、私は、かの悪夢にも似た53年の異常渇水時における苦難に満ちた対応策のことを避けて通ることはできない。それは、その後57年にも相当期間、時間給水を余儀なくされたし、市のおかれている地理的劣勢条件による宿命論的諦観を払拭するためにも必要だからである。
 自然現象のことだから、一時的な少雨渇水傾向は、多かれ少なかれ、他の類似の都市にも現出するはずであるが、福岡市にだけ、あのような大渇水現象の重圧が加わるのは如何なる理由によるのか?
 よく、福岡市は地理的に水資源に恵まれない都市であるといわれる。一部の学者や専門家による有権的解説は暫くおくとして、私たち素人の眼からも窺知できる概観は、市内を貫流する那珂川中心の5の河川は、平常、水量に乏しい、せいぜい、30キロどまりの2級河川であり。また、水源地を形成する、背振、三郡山系は、数100mないし、1000m程度の小規模山地であり、いわば「ヒンターランド」の厚みに乏しいぜい弱な地勢下におかれていることが判明する。
平均雨量の半分にも達しない早天が続けば、江川をトップとする6のダムの有効貯水量は激減し、やがて、危機的症状に陥没することが容易に察知される。この地理的悪条件を克服して、水資源の開発確保をいかにするかが、市の行政ならびに私たちの取組むべき課題である。
 私は、53年の大渇水当時、別府団地自治会の副会長、兼同渇水対策本部長として市、公団、消防当局との緊密な協力のもとに、水の確保の衝に当ったが、一般民家に比し、団地は受水設備が極度に劣悪であることを痛感させられた。市の第二次給水制限にふみきった6月2日以降は、極度の水圧低下と大口企業の特別保有タンクの貯水に禍いされ、4階以上は全く水が出ない状態となった。この非常事態に備えるため、団地は、各階段ごとに僅か10分間を給水、その他の時間は固々、バルブを締めて給水をとめることとした。もっとも、この給水時間に間にあわぬ人のため、とっておきの僅かな保有水の利用、市の給水タンク車の応援を求めることもあったが、この極度の不便、不如意にも拘らず、全居住者は本部長の指示に、忠実に服従して、全給水制限期間を、無事故で消化し得たことは感
激の至りであった。
 現在、渇水対策本部は非常時対策本部に切替えられ、目下のところ開店休業の状態であるが、市のおかれている諸事情を勘案すれば、矢帳り、渇水対策に重点を指向しないではおれないと思う。市の水対策の強力な推進に期待すること大である。  以上


 8.

 満88才になる姉は元気な毎日です。町とは思えぬ程、静かな所で水田や畑も近ぐにありますから、よく畑に行って花を沢山植えて、花が咲くとお友達を連れて行き好きな花を沢山あげます。
 又、人が困っていれば相談になって手助けして力添えを致します。近所に良い娘さんがいると仲人をして、もう30組以上、幸福な結婚を済ませています。
円満に暮しているだろうかと心配して見に行く時もあって大変多忙でございます。
 最近少し目が悪いので眼科に通院していますが、「3日に一度位い行けば良いので軽いのでしょうね。」と姉は思っているようです。
 残り少なくなった友達と近くの温泉に行きますが、そこで歌を覚えて家に帰ってすぐ聞かせて、家中の者を笑わせるのです。何度も私も聞きましたが、一番上手に聞けたのは、千昌夫の北国の春でございました。今年の盆には話が多くて歌は聞かないで別れました。
 こんな陽気な姉にも悲しい心が残っています。愛する長男の戦死に主人との死別、叉孫が中学校で野球をして、暑さに負けて急死した事です。毎日涙に呉れていた事もありました。
 人の悲しみでもすぐに涙を出して同情する様な姉の事ですから逢ってもそんな寂しい話はしないで面白い話だけします。
 現在は二男の家族と何不自由なく幸福に過しています。皆が優しくて、特に嫁が良く尽して呉れるので毎日を楽しく送っています。
 長女は東京、次女は福岡市、三女が飯塚市ですから何時でも逢えます。東京に行く時は、私と連れ立ち、1ヶ月位泊って帰ります。又、福岡や飯塚の時は10日間ですが近いので誰かが送り迎えを致します。
 今は若い者が車の免許証を持っているので便利な事でございます。少し腰が曲ったのですが姉は老人だから上品に見えて良かったと言っています。姉妹でも年が13才も私と違っているのに、妹の私の面倒を見て呉れます。
 若い頃より姉には色々お世話をかけましたので、これからは話し相手になって力付けて長生きして貰いたいと思います。100才でもそれ以北長命である様にと願っています。
 筑川温泉は歩いて十分間で着き事す。原鶴温泉もバスで二十分位の所ですから、ゆっくり遊んで楽しく一生を過します事を私は思い続けています。


 9.おもいで

 昭和20年外地より帰還して間もなく『応召回顧録』を原稿用紙25枚に書いた。又昭和28年今迄の私の過去人生を『思卜出の記』として原稿用紙30枚書いた。
 昭和30年停年退職後間もなく、福岡県漁業公社創立と共に同社に入社し、同社解散迄17年間勤務通算51年間を勤めてきたが、その間、応召出征、我が家の戦災等あの苦境を乗り越え、よくもここ迄来たものと、独り感概深いものを感ずる。
 漁業公社時代福岡丸が、静岡県三崎港に漁獲水揚入港を機に、福岡より三崎へ出張、公用済後は、初めての東京見物、板橋区在住の三男息子宅訪問、日光東照宮参御等のいい事もあった。
 東照宮前庭に生えていた燐寸(マッチ)軸よりも細杉の木を捨い、持ち帰り我が家の前庭に植えていたものが今では、高さ丈余の立派な庭樹として、大きく成長、今後もこれを大事に育てて行き度いと思っている。



 昭和58年1月中旬極寒の福岡空港で、長男家族に見送られ機上の人となり、香港で乗りかえ「シソガポール」空港に当着したのは35度を上廻る常夏の国でした。三男夫妻の出迎えを受け車で家に着くまで外の景色を眺めながら、緑の多い何と美しいすばらしい国であろうかと思わず感嘆の声をもらした。
 三男が会社(日立金属KK)から「シンガポール」勤務を命ぜられたのは3年前のことでした。当時嫁は英語の先生をしていたので、外国に行っても余り不自由はしないだろうと思い、安心して私は家族を見送ったものでした。時は流れ帰国もあと一年位になったので是非遊びに来てはとのことで、思い切って行って来ました。
 息子の住んでいる家は都心からずっと離れた郊外で日本のように、近くに「スーパー」があるわけでなく少しの買物でも車を利用しなければならず、その点不便だなーと感じた。大きな一戸建ての家で右隣りは白人、左隣りは中国人その隣りは印度人家族が住んで居り、常夏の国のため屏は金網で仕切られ、庭はどこも芝生が植えてあり広くて、中がよく見える。
 朝の出勤時刻になリ、息子を見送るため庭に出た隣の白人夫妻も丁度出てこられ金網ごしに挨拶がかわされ、紹介され。私は思わず大きな声でおはようございますと云い頭を下げた。息子夫婦は英語で話している。ああやっぱり外国に来たなーと心に深くかんじた。
 次の日曜日現地人の朝市に同行し驚いた。所狭しと品物を並べ、わけの分らない言葉でわめいているように聞える。息子達はなれたもので『チャイユーズ』語でさっさと買物をし、山程の品物を車の「トランク」に詰込んだ。50糎位の丈のボーレン草「ジャンボキウリ」は余りおいしそうには見えない。玉葱ジャガイモ豆腐蝦烏賊鯵何でも売っている。名も知らぬ大きな魚が並びに肉類も大きなに切った固まりで見たとたん何だか気分がわるくなってしまった。
 買物の帰り道「スコール」に逢った。人々は雨宿りし都心から遠ざかるにつれ車の数が少なくなり、一台も見えなくなった。一方通行のため息子はかまわず運転する。私は心配になり休んだらと云ったが相変らずスピードを出して進む。
一寸先はほとんど見えない「スコール」の凄さに肝を遣す。10分もしたら雨足が止り間もなくかんかん照りだ。恵みの雨でも生物は元気づき生き生きと生活が始まった。
 一日セントサ島に遊ぶ。こんなに美しい平和な島が かって激戦地だったとは想像もつかぬ、運悪く海上ケーブルが故障のため船で渡る。「モノレール」に乗り島を1周す、頭上では太陽がぎらぎら輝き「ブーゲンペリア」の花が咲きみだれ風にそよぐ熱帯樹その緑は色槌せることを知らない。実を鈴なりにつけたヤシの「ジャングル」を抜けると青い海が広がった。正に「エメラルド色」皆が海水浴か楽しんでいる一幅の絵を見るが如し私達もここで下車し、泳いだり、ボートに乗ったりした浜では「リンタク」が村田英雄の「無法松の一生」のテープを流して通り過ぎる、私は思わず耳をかたむけながらなつかしさがこみあげてきた。
戦争資料館、要塞地帯、サソゴ館も見て廻った。どこもかしこも言葉では表せない感動を覚えた。
 中国料理を食べに家族で行く。息子は料理を次次に注文した。私は中国語を理解する能力はないが「ボーイ」とのなめらかな喋り方である、飲み物、前菜、スープ肉エビ野菜などの皿が運ばれて来た。隣のテーブルは白人、こちらはマレーシヤ人の家族らしい。はじめ私達は韓国大恚間違われ大笑いしたが実になごやかでした。
 或る日デパートへ買物に行く。いろいろな国の人が思い思いの服装をし、お国言葉で話合いながら通り過ぎる。すきとおるような布地に強烈な色彩をした「口ングスカート」をはき、肩には「ストール」をひらひらなびかせてゆっくりと歩く大柄な印度の婦人に、私の視線はゆく。肌は黒いがどの顔も皆調っている若い男女は体が細そりとして目鼻立ちが特に美しい。デパートの中は冷房がよく効いていて本当に国際色豊かな別天地である。
 月日は。夢のように過ぎ去り、3月上旬となった。日本ではまだまだ寒い頃でしょう。あと半年位遊んで行ったらと夫妻孫がしきりと奨める、折角遠い外国に来たのだし、もう2度と来ることは出来ないからと云う。雨戸を締めたままの別府の我が家がちらり脳裡を掠めた、高令者教室の終業式も終ったし、友達はどうしているかな、老人会のことも気になりだした、結局予定通り彼岸も終った3月下旬名残りを惜みつつ暖かい家族に見送られ「シンガポール」に別れを告げた。
 今年は一番充実した幸せの絶頂であったと感謝している。これからの人生は今まで暮した年より余程少なくなっている。後ほんのわずかを今までより、なお健康に有意義に暮したい。



 夏休みになりまして柳川にいます長女からの知らせに「東京と京都にいます長女の娘たちが夏休みに帰って来ます。」とのたよりがありました。来ましたら、知らせます御ゆっくりのつもりでお出下さいと申して来ましたので、心待ちして居りましたところ、来たとの知らせを受け、柳川にいます長女の家に孫たちをつれて車で、送ってもらい玄かんに入りましたら、びっくりしました。小さい子供達が5、6人すわっていて大きなこえで「おばあちゃんいらっしゃいませ。」と迎えて呉れましたので「あー。」と言って言葉も出ませんでした。子供の親達はかげから大笑い、 さあ其の日から大にぎわいです。私には孫が9人、ヒ孫が7人で、はじめて孫達が1ヶ所にあつまりました。大にぎ合いのうちに日がくれまして夜は花火大会のまね事ですが、それは大したものでした。
 お庭の片すみに大きなローソクを3本立て、中央に大きな空バケツを置き台の上には大人用、子供用、小児用の花火を分けて置き小さい子供達には、親たちの付そいで、大きな子供のヨーイドンのかけ声にて花火に火を付け大喜びの子供たち、私も小供に返った様にうれしい喊声を上げて次々に花火に火を付げ、ひさしぶりに何もかもわすれて可愛い孫達とはしゃいだ一夜が忘れられない思い出となりました。其の夜は一同つかれてぐっすり眠った様です。
 それから2、3日は瞬く間にすぎて、東京の子供達も帰える事になりまして、私共6人で飛行場迄見送りました。午前10時発で福岡の空から飛立って帰えりました。無事を祈り乍ら私共は天神にて中食をとり、孫達は柳川に私は茶山にみんなの無事を願い乍ら別れました。



 今思えば大分昔の事になるが、昭和2年11月、博多駅を出発し36時間かかりで、東京は品川駅に着いた、其の間のことが色々思い出されるが、門司、下関の連絡船の事、大阪、京都の様子、東京に近づくにしたがい、家が皆トタン家根ばかりで、福岡の方が余程良いように思われたものである。其れはその筈、東京大震災後、4年しか立っていない時である。
 朝の7時に着いたが、11月とはいえ、本当に寒むかった、家根と云う家根は真白だった、2晩汽車の中で過し疲れてもいたがやれやれと思った。姉が品川駅のすぐ近くにいたのでそこに着いたのである。
 12月になって、銀座の天賞堂時計の工業所、今の太田区荘原中延の時計組立工業所に入社して、船来時計の部品を輸入しそれを組立全国に販売していたのである。
 それから4年後、天野時計宝飾品株式会社に変り、同じような仕事をしていたが、4年聞一生懸命やって、一人前に成ったつもりでいたが、本当に技術的に、一人前に成るには10年はかかると思いまた、一生懸命頑張った、時計の技術者として、本当に自信が付いたが、やはり10年はかかっていたのである。
 其の間に日本の情勢が世界的に変って来たので、輸入も少なくなり、仕事が軍需産業にかわり始めた。会社の方では先づ、飛行機の速度計、高度計などを造り始めた。後から聞いた話しではあるが、高度計、速度計は特攻隊の飛行機用で、特攻隊員が計器とともに戦死したと言うことである。今だから言えるが1週間に、300ぐらい造っていたのである。其の仕事は昭和10年から14年頃迄であるが、中国と戦争中で召集令状が来て、出征兵士をよく見るようになった、私は軍需品の製造技術者として召集免除になっていた、会社が滝の川にあったので、住いは上野の車坂にいた上野駅のすぐそばのアパート住いであった。1週間の内2、3回は上野公園又浅草観音さまに散歩によく行ったものである。独身時代の一番面白い時期であった、14年の春結婚して住いを北区の十条に移転し、店の出来るような家だったので、なんとかして此の時期に会社を止め、自分で時計店を開
業しようと思い続け1年後会社を止め、時計店を開業しだわけである。
 今時は考えられない程働いた、朝早くから多忙の時は夜中1時2時迄で仕事をしていた。よく頑張ったものである。内の店ばかりでなく出店を3ヶ所持っていた、貯金局と保険局又蔵前の振替貯金局である。それからが私の不明のいたすところ、16年12月の大東亜戦争が始まろうとは不運の至りであった。
 18年4月5日に召集令状が私にも来てしまった、入隊は4月10日になっていた、それまで5日間しかない、3日間は夜明しして御客さんの時計の修理をし色々な片付もので大変だった、2日前に出征兵士として見送られやっとの思いで久留米の五十四部隊に入隊する事が出来た。
 春から夏迄でいやと云う程きたわれた。それも会社を止めた為である、併し8月に除隊になり月末に東京に行った、東京の事が心配でならなからだ、それもそのはず店もそのまま商品も其のまま、もし戦死でもしたらと姉夫婦に後しまつは頼んでいたのである。
 それから又店を盛立ようと一生懸命頑張った、併し空襲はあるし、出店の方にも行かれなくなって来たのでそろそろ出店を整理するつもりでいた時、20年の3月10日の大空襲で焼けてしまった、それも前日の9日に局に努めている人が来て、早く整理に来た方がよいとの伝言があって、明日必ず片付に行くと約束した夜からである、11時50分頃から空襲が始まり、3日も4日も焼続いたのである。
 5日ぐらい後に店のあった所に行ったわけであるが、見渡すかぎり焼野が原、国電の御徒町から、ぶらぶら歩いて行った、其の間だ学校も消防署も丸焼、もちろん民家も商店街も丸焼、あちこっち見ながら歩いていた時、B29が飛んで来て爆弾を落したそれが私の店、そばのように思われたので今度は大いそぎで行って見たら安のじょう、私の金庫のそばに直径二間ぐらいの穴があいていた、私が5分前に行っていたら爆死していたと思う。時計やメガネの残がいだけ拾ってきた、店はめちゃめちゃになったが、五分前に行っていて爆死するより良かったと思い諦めて帰ってきた。
 それから終戦迄で5ヶ月あまり其の間の苦労は大変なものであった、其の後は37年間の戦後の事は又の機会にゆずる事にする。



 雷をともなった集中豪雨があり桶の水が逆流して畳をぬらしてしまったので、翌日晴れ間をぬって外の天日に干す事にした。
 テレビ、ミシン、タンスを場所替えして夕方までに片附けないと思い早朝より仕事にかかり、夕方後片付けが済む頃になり激しく腰痛をおこし、夜になったら動けなくなってしまった。
 翌朝早速病院に行きレントゲンをとってもらった結果、骨に異状のないことがわかったので湿布薬と呑薬で3日間位動けなくなった時、不断健康で病院に御世話になることもなかったので健康が何よりと身を以って感じました。
 病院の先生によると一寸日数も全快までにかかる様な話でしたが、骨に異状がなければ自分自身に甘える気持ちを取り除き奮記する事にした。3日位安静にして早速トレーユングに立ち上る様気をつけて先づは、ぱじめに朝の犬の散歩から始め、朝2万歩夕方1万歩に体調を整えて行くことにした。
 一週間位で普段健康だったので良くなりました。テレビで高令者の集録した映像を見ながら一大決心して、後何年生きられるか分らないけど、今日の一日を充実させて勇気を出して、悔いが残らないよう努めると共に、少しでも社会の役に立つ老人にならねばと心掛ける気持ちになった時、腰痛の事も忘れてほのぼのした心境になり、すがすがしい朝を迎えました。
 早速、秋蒔きの野菜作りに出掛けました。畑は知人の紹介で休耕田を昨年より借りて、体力作りを兼ねて農薬なしの野菜作りに取りくみました。昨年はプロの方から見たら笑われるかもしれないけど、自己採点98点とつけて自己満足でした。大自然と取りくみ忠実に努力と愛情を注ぎ、収穫の喜びを昨年同様にと思って耕して種子まきして、すがすがしい気持ちで家路に着きました。
 夜は労働のせいでぐっすり休んで肉体労働の有難さをかみしめました。家は自営業で長男夫婦と店員さんで普段の日は余り店に出る事もありませんが、時折留守番をすると普段不勉強では役立ちませんので老化を防ぐ上で文字、数字に仕事がつながっておりますので有難く思ってます。
 休日になると同好会の皆様と出掛けます。年に3回の展示会もございますので暇をもて余して困ることは先づありません。先日は硯を仕上げて習字塾をしている友達にプレゼントして喜ばれました。
 家業を手伝い乍ら健康に気をつけて、趣味の世界で益々ハッスルして今日の一日を大切に老後の生活に生き甲斐ある毎日をすごして行くつもりです。



 私達の子供の頃は、天然痘を「ホーソー」と、言っておそれていました。そして其の予防の為、入学前になると母親につれられて、種痘に行ったものです。
私も母親と町の公会堂に行きました。私は会場に這入るなり、大声で泣き叫び拒んだ事を覚えています。でも最後は皆に押えつけられて、射たれた事を思い出します。ところが其の種痘の免疫に、20数年後の「ビルマ」戦線で私が救われようとは……。
 おもえば昭和19年11月頃のこと、敵と対峠しながら、戦線を縮少しつつ後退している時のこと、踏み止どまればすぐに陣地を構築していました。勿論私も隊員の乙木上等兵、鶴崎上等兵を連れて、掩体濠構築のため資材を部落まで取りに行きましたが、部落に着くと現地人は一人も見つからず、要所要所を捜索したが敵兵の姿も見えず森閑として、又うすきみ悪い部落でした。
 私は掩蓋陣地に必要な角材を探しに3名で部落の中に突入して行きましたが、今まで激戦に巻込まれていた部落では、家の中の道具はそのまま捨てて逃げていた所が多かったのに、何一つ道具も無い、静まり返った冷えびえとした感じの部落でした。私達は其の中の木造の家を取り壊し陣地まで運搬しました。そして又敵情偵察や色々の調査のためしばらく其の部落に居座わっておりました。
 陣地に帰り掩体濠や散兵濠の陣地造りなども終り、其の晩敵と対峠して頑張っているうち、資材取りに行った3人が3人とも40度を越す高熱を出し、又、寒気がしてがたがた震えだし、身体から顔一面に吹き出物が出来、陣地内で立っている事も出来ず、朝まで濠の中でうめいておりました。
 朝夜明と共に事後を申し送り、山を下りて中隊本部に引き上げて来ました。
早速く、軍医殿の診断を受けますと軍医殿は「こりゃおおごと第十種伝染病の天然痘じゃあないか、隔離せにゃあいかん。」、それから私等伝染病患者の3名は中隊より遠く離れたところに隔離されて、3度の食事も思うように持って来てもらえぬようになりましたが、それは後で知った事ですが、戦斗が激しくなって、兵員がいなかったとの事。それで自分等が熱を押し切って交代で食糧の徴発に、といってもそれも出来ず各隊のおこぼれを拾いにいっておりました。
 部隊よ、り移動すると連絡がありますと、よたよたと後に付いて行ったもので、中隊では私等を足手纒いだと思っていたと思いますが、私等は捨てて行かれまいと必死になって付いていきました事を覚えております。今にして思えば、過ぐるあの日陣地構築等で資材を徴発に行ったあの部落が、天然痘の部落だった事が解かりました。
 話は前にもどりますが、其のうち私等の哀れな姿を見られてか、部隊長の命令で野戦病院に入院させられる事となりましたが、部隊も伝染病の患者を連れてでは困まられていた事でしょう。私等としては、どうせ伝染病で先きの短かい命なら、部隊の人柱になって死ねば戦死になると覚悟しておりましたが、それもならず、すごすごと病院に下がる事にしました。野戦病院でも戦傷ではなく伝染病なので別患者として、3、400米離れた所に放りやられ、ほとんど自給自足の生活を致しました。そこで此度は食べる事のために交代で、あさましくも餓鬼となってあさり廻っておりました。
 其の後天の恵みか運よくも天然痘はなおりましたが、気の毒にも他の2人は顔にまぎれもなく痘創の跡が残っていましたが、私は子供の時の種痘のおかげか、顔には「あばた」のあと一つ残らず治癒いたしました。
 私は現在戦傷の身でございますが、只今全国傷痍軍人会の会長で、又船舶振興会の会長である笹川良一会長が、全世界の伝染病であった天然痘の菌を地球上より抹殺する事に成功されました事をテレビや週間誌などで拝見して、頭の下がる思いでおります。全世界の国々も其の偉業を認め、国連総局より、功労章を受賞なされた事も、ききおよんでおります。
 私共高齢者は、一面から見れば子供と同じように抵抗力が弱くなっております。
定期的検診を怠たることなく、自分の身体にあった食事を真面目に食べて、長生しようではありませんか。
 以上は私の貴重な体験でございました。



 博多の町を発展させるためドンタクを催し、ドンタク日は必ずと云って雨が降る。時たま天気になるので民衆が喜びさわぐ、昭和58年5月3日朝10時半ドンタク隊が繰り出す日であった。
 さあ出発前のいそがしさといったらありやしない。三味線の糸がけのところから胴のすき間に赤いひもを通してかついで姿がかかしみたいで、体がつっぱってどうしようもない、ええ、ままよと、ぼんち可愛やとひきながら、表に出た。友人が長い竿竹に白布を付け住所と、ドンタクの意味を書いてある、それをていねいに持って立っている姿が、源氏の白旗みたいで、自分の姿と合わせて、いっそうおかしくて、てれながらバイオリンについてあるいて行く。
 どうしてもバイオリンの音と合わなくてぎこちない気持ちで進んで行く、シャモジの音に助けられ、100メーター先に友人の家に行き、さざんかの宿を歌い、祝儀を戴き、少し心がはづみ、もう一軒の家に行く、だんだんと度胸がつき三味線とバイオリンの高低にもなれながら、次の家へ急ぐ、着いたところが議員さんのお宅、早足酒魚が出て、少々ほろよい気分になり、夫婦春秋とさざんかの宿、外2、3歌った。写真もとって頂き、次に行くのが○○議員宅、酒魚色々もてなしを受げ、大入り袋を頂く、ぱらぱら雨が降り出した。
 次が城南区役所、大分雨がはげしくなって、自分だけがぬれ雀のように思いながらやっと着いた。しょんぼりと歌の番のくるのを待つことしばし、ようやく番がきた、3人が舞台にかけ上り、そのかっこうたること七ツ道具を入れたづだ袋のひもが長く、かついでいる、気持ちがよく分って、おかしく、はずかしくて、一生懸命に歌った。
 ともかく祝儀を頂き、雨も小降りになり、しょてしょてとあるく、目あての所が天神町、大つぶの雨が降り出した、あっちにかけて行き、こっちに来たり、ようやく新天町の舞台に着く、雨は、ますますはげしく降る、舞台を見ると屋根がなくて、雨に降られながら歌う事になっている、自分達の出番になる、傘をかりるのに大へんだった。傘をさしながら、3人で歌った、わりかしほめられて祝儀が出る、さあ今度はどこえ行こうか、ぬれ雀がぴょんぴょんはしりながらの姿が、あわれであった。
 次が大丸の先と手前と2ケ所あって、手前の舞台の横にはしりこんだ、丁度そこは白粉の宣伝しているところだった、サービスで白粉を直してくれた、真白にぬり付けたので、狐の嫁入りみたいで目ばかりぱりぱりひきつってはずかしいやら何やらで、やっと歌えた、祝儀をもらって意気ようようと次は、RKBに行く、ここの舞台は立派で、審査役が5、6人ずらりとならんでいる、少々かたくなって歌ったが、楽に歌えた祝儀も出だし、大きなためいきが出る。
 今日の自分の役柄は、なんだったのかと空をながめて、ひょいと下を見ると、急におなかがすいてたまらなく、ひもじくなった。さあ帰りましょうかと云う、途中友人が1人ふえ、店ののれんが気になる、友人が知っている食堂があるからと云う。そこえ行く事にした、店は奇麗いだった。みんな品物を見入っている目が真剣そのもの、それぞれ席につく、注文の品物もくる、ひょいと見ると、まあびっくり、友人1人がおこりだした、こんな料理たべたことないと云う、飯わんと水物わんがとてつもない大きくて、くも助が食べるようなわん。中実は、いわしの丸ごと、どかんと入れた水物、煮物も、いわしで、いわしづくしで祝目度しと思えたが、友人はいわしがきらいらしい、ともかく御馳走さまでした。
 さあ引きあげましょうと、帰りながら1人、2人と別れて自分達2人は、朝の出発点に着いた。それぞれ別れをつげ、行きはよいよい帰りは、やれやれと帰宅、ただいまーー、あっちから、こっちからみんな出てきて大笑い、まあ今日のどんたくしっちゃか、めっちゃか、おかしな、おかしなドンタクでした。



 お宮とか地鎮祭などで、神主さんが奏上するお祓いの祝詞(のりと)を聞くうちに、いつとは無しに大祓詞(はらえ)の文言を思い出す事が多い。
 今は遥かな思い出となったが、私は會て仕事の関係で宮崎県の杉安に暫く居た事がある。杉安は古墳と伝説の街、西都市の近くにある。大祓詞と杉安の結び付きは、実は其の地に鎮座まします速川(はやかわ)神社の思い出につながる。
このお宮は一ツ瀬川中流部の右岸、川岸迄急傾斜で迫る山の中腹にあって、御祭神は瀬織津比畔(せおりつひめ)であるが、当時の村の人達の話では、御神体は龍神様との事であった。
 非常に霊験あらたかで、一心に祈願すれば必ず願い事を叶えて下さるとの事であり、願い事が成就するとその御礼には、思い思いに3個とか5個とか、奇数個の鶏卵を神社横の渕に捧げることとなっていた。
 この渕からは灌漑用水が下流の村村に引かれていた。御神体が龍神様だと言う事は、多分、農作物の豊饒を祈る事による水との関連が、いつしか強く意識されるようになり、祓いの神様に新たな神格が付与されたのでは無いかと私は思っている。一ッ瀬川は清流である。その清流が大きな瀬をなしている所の地に、瀬織津比畔が祭られている訳である。
 大祓詞によれば、祓戸(はらいど)の神は、人々の罪汚れ(けがれ)を、天の下四方(よも)には、今日より始めて罪と言う罪はあらじ、と祓い清め、その罪汚れは速川の瀬に坐します瀬織津比畔と言う神様が、全部これを引き受けて大海原へ持ち出される、大海原では潮の八百重(やおえ)にいます速開都比畔(はやあきつひめ)と言う神様が、それを残らず潮と共に海底へ巻き入れられ、更に気吹戸(いぶきど)にいます気吹戸主と言う神様が、それを根の国、底っ国へ吹き放ってしまわれる、そうすると、根の国、底っ国にいます速佐須良比畔(はやさすらいひめ)と言う神様がこれを引き取って、さすらい消滅すると述べられている。
 速川神社に参拝する度に、当時私は瀬織津比畔の神格が気にかかっていた。
そのせいか、その後もお祓いを受けると、この事が思い出される。
 古事記、日本書記が書かれる遥か以前から、恐らく「やまとの国」が成立する以前から、古代の人々の自然に対する畏敬の思いの中に、人の力の及ばない優れて偉大な力を認めるこのような神格が、自ら芽生えていたのではあるまいか。
大らかで清らかな自然、時には猛猛しく荒れ狂う自然、そしてあらゆる生物をはぐくみ育てている大自然、その中に居て、畏れ敬いと共に生活していたであろう古代の人々の、自然の偉大な働きに対する畏敬の念が、おのずから信仰に高められて行ったのではあるまいか。
 川の流れによる水の浄化作用、豊かな恵みと共に与えられるこの偉大な働きに対する驚きと畏れ、そして限り無い尊敬が、この働きを神格化し象徴化して、神様としての瀬織津比畔が祭られたのだろうと思う。
 さり乍ら、現在日本は著しい科学の進歩と共に、先端技術の研究開発も又急速に進みつつあり、それによる経済的な恩恵を受け乍ら、私達は毎日平和な生活を送らせて貰っている。併し苦し、自然に対する先祖のこのような畏敬の念が忘れ去られ、遂には無視されるに至ると、神様の神格はその意義を失い、遠い昔から日本人の心の中に生きて来た神様は消滅し、同時に自然は確実に破壊されて行く。
そして形ばかりの祭礼と共に、神々は唯物的な願望を叶えて貰う為の、単なる呪物と化してしまうのではあるまいか。何となく恐ろしいような気がする。
 


 「キャー、キャーウヮー」、宇部家の孫小学4年生と2年生、男女5人の入れ混じった甲高い声。1981年の夏、休暇中のこよいの庭先きでの異状な声。何しているのだろうあの声は、何か楽しんでいるように聞こえるが花火遊びではないらしい。テレビを見ながら思っている処に、「おばさん、お化け屋敷えづかよ、おもしろかー。」と誘いをうけました。さてはあの奇声はお化け屋敷での声だったのかと思い、戸外に出て見ますと姪夫婦が立っておりまして。私もそのお化け屋敷に足をふみ入れることになりました。
 おくゆき17メートル位の長さの通路、大少庭木の立ち並ぶ薄暗い細道を通りぬけるのです。足元は真暗、道しるべにはポリバケツを伏せて。下をすかし明りがはいり、点、点と置いてあります。いいアイデアだなあと思い、手造りの竹藪にはいりました。若竹の葉が露出の肌にふれ何か不気味。ムカデでも刺されぬかと思う矢先きにビシャリ、生温かな濡布が頬を肌を撫でたのです、不意のことにて体中がゾコーッと。不潔な物でも触れた思いがして。
 隣家の明りがほんのり洩れて上部の明るい処に出れば、一ツ目小僧の長い舌、ベロリに向い合い。次はスイカのお化け半分にした真赤な中にローソクの炎がゆらめくさまは、何と表現いたしましょう、ただ一言にグロテアスク。さて次は洗濯機の放水器に大きな目玉の光る大蛇がぶらりと。つづいて骸骨の胸を絵に書き両手をぶらーんと下げた趣向。また次ぎは庭箒を逆さに植木にプラン、プランと数本吊るしてある状態に思わず滑稽さを覚えました。
 またこの先きでも濡布にビシャリ再び全身悪寒、ゾコーツと。夜露を意識して濡れる心地は感覚的に詩情を感じますが、お化け屋敷での濡布には全く閉口いたしました。あれこれと考案おもしろく、これでお化け屋敷は通りぬけ終りましたが、2年後の夏も思い出す心にとまる納涼のひとこまでございました。
 この催しを宇部さんは早くから孫達の休暇中の日記、或いは作文の題にもと計画されておられたことだと思います。小学生達も此度それぞれの感想を書いたことでしょう。温行で正実な宇部さんにこのようなコミカルな面にも接して尚、親しみを増した日々を過しております。
 夏の夜の想いでより。
 
  肝冷ゆるお化け屋敷に集いして奇声をあげて子らのたわむる



 以前には良く人生50年とうたわれたのですが、近頃では大分変りました。
我々日本人の人生観も今日では、80年と成りまさに高令化社会をむかいて大きく変ろうとしています。さてそれにともなって人間生きて行く以上生活費を第一として経済力の必要な事は言うまでも有りません。先ず生活の安定として住居が考えられ収入の必要、これもまた言ふまでも有りません。今は大なり小なりの年金の恩恵に浴して有難いと感謝しているのは私だけではないと思います。
 それから出来るかぎり金もち、暇もち知恵もちに成って見たいものです。地域での何かのお役に立つべきだと思います。金もちと言ったのは先に話しました様に生活安定の事で有り、現在では子供と共に同居している人は、以外に少ない様ですので、老後の生活費は充分考えられるべきだと思います。次にひまもちですが、時間は案外出来るのではないでしょうか、知人や友人との親睦、又旅行等色々有り、時には温泉も良いでしょう。知恵もちですが、色々と知恵をしぼってやりくりを始として一日一日とすぎ行くこの人生をいかにたのしく暮すべきか大いに知恵のいる処です。
 中高年に成りますと予期しない病気が出て来ます。50才位までは元気でもその先はそうは行きません。朝夕の食事はもとより、充分注意すべきだと思います健康は人生のたからです。大いに健康に留意しましょう。皆さん高令者の幸福を左右するのは実に健康で有ります。健康なくして幸福は有りません。この点を特に留意しましょう。
 皆さん夏ばてはなさいませんでした。御存知の方も多いと思いますが、こんなのはいかがでしょう、ニンニクですが一株を七つか八つに小つぶに分けて良く皮を取り、五分間位ふかします。こんどは布きんで水分を取り適当な用器に入れて酢としょう油を半々にしたのに漬けます氷砂糖を少々入れると良いでしょう、くさくは有りません、三日四日たちますと食べられます。一日に一つぶづつでよいです。



 「もしもしカメよカメさんよ」と、今日も3才の孫と手をつなぎながら、童謡を歌って保育園に行く私である。
 明治大正の者が、幼かったころ歌った童謡は、今ごろほとんど聞かれないようである。私は昔の童謡も、なんとかして孫達に、口すさばせて残していきたい気持ちから、あれこれを思い出しては、今日は、何を歌って行こうか、そうだ桃太郎、明日は、金太郎の歌をと、私の心ははずむ。歌詩を思い出すだけでも、結構私の頭の体操になっている。孫も片言交じりで、私の歌を、いっしょに歌っては、つないだ手を振りながら、歩く足も軽やかに、私も孫の年令になりさがった気持ちで楽しく歌って、保育園を往復する毎日である「おばあちゃんだまってよ、ぼく1人で歌うから」と言って、なんとか片言交りで歌いこなすのを、聞く時は、私もいっしょに体でリズムをとっているのである。
 歌と共に、車に書いてあるナンバーの数字や、文字を読んでやったり、行き交う車の色別を教えたり、鳩や雀が電線に止っていたら数えたり、歌のあいまには、いっぱしの先生気どりで教えてきた為なのか、数字を読んだり、数えたり、平仮名文字も、だいぶ読めるようになった。こんな成果を見ることも、私のなによりの楽しみである。
 考えてみると、孫の存在は私のなによりものいきがいになっているのではなかろうか。



 炎暑つづきの今年の夏も、ようやく終りを告げ、吹く風にも夜の虫の声にも、秋の訪れが感じられる今日この頃です。
 夏が終ると同時に例年わが家に訪れる、“孫台風”もいろいろな余韻を残して去って行きました。そして、また元の静かな老夫婦だけの生活が戻ってまいりました。
 わが家には、毎年夏休みには入ると待ちかねたようにして孫達がやって来ます。
 先ず小田原市に住む娘一家の来訪をきっかけに3人の娘達の家族が、つぎつぎと合流して一ぺんにわが家はふくれあがります。下は幼稚園児から小学生3人、中学生1人、それに2人の大学生と全部で7人の孫達が揃います。毎年訪れるたびに大きく育って行く孫達に囲まれて、しみじみと幸せを感じるひとときです。
 しかし、日が経つにつれて子供達のいたずらは、エスカレートして行きます。
家の中もかまわず走り廻る、ボール投げはする、次はかくれんぼ、と押入れにもぐる子、2階にかげあがる子と、新築したばかりのわが家も何のその、傍若無人の孫達の行動に、ハラハラの仕通しです。親達の叱る声も一段と大きくなって行きます。
 食事時がまた一騒動、みんな競い合って食欲旺盛。炊事かたは一日中台所をうろうろの状態です。
 夜ともなれば、ずらりと枕を並べて寝ながら、ひょうきん者の中学生の男の子の、即席の“つくり話”がはじまります。その話が余程面白いとみえて、みんなでキャッキャ笑いながら聞いています。何度も何度も催促されながら出まかせの話が続いているようです。やがて種もつきたのか、ようやく静かになります。 それからが、私達大人の時間となって、娘達と私共夫婦の親子の語らいが夜の更けるのも忘れて続きます。
 そして海に、プールに、と心ゆくまで楽しみ夏の思い出をお土産に遠方の孫から、つぎつぎと帰って行きました。
 みなを見送ったあと、ようやく騒々しさから解放されホットしながらも、取り残されたような、いい知れぬ佗しさに、じっと孫達の上に思いを走せています。
 どうか健康で、それぞれ、幸せな人生を送ってくれますよう、祈りながら。
 また、来年の孫達の来訪を今から心待ちする心です。



 人の生き甲斐とは何かと聞かれたら、私は即座に何かの趣味を持つことと答えたい、これは言う迄もなく精神面に肉体面に極めて効果があり、健康的だからです。殊に老後の私達にはより一層要求されるのです。
 現在私達の別府校区老人会でも、運営会の骨折で書道と民謡の応募があり、別府の憩の家で開講されることになっており、又市と全地区老では早くから音楽、手芸、文化、スポーツ等多くの企画され各地区公民館で実現されていることは素晴らしいことで、私達は感謝と只々有難い限りです。
 そこで私の趣味ですが、青年時代国鉄勤務当時は書道とバイオリンに熱中したものです。書道は博多の井上龍田書道会に入会して、誌上の上位に掲載されるのが楽しみに、時には夜中の二時頃迄も書いたこともありました。特に今も忘れられないことは、東京での書道展覧会に楷書で般若心経と飲中八仙花を掛軸に仮表装して出品、その為東京迄見に行って入選はしなかったが、今その飲中八仙花だけが残っており、時々出して見て、昔が思い出されて懐しい。
 又バイオリンは、同時期頃当時無声映画時代の楽団ヴァイオリンの先生に2年位指導受けたのでした。そして同志の者10人位のバンドを結成、博多ドンタクには毎年出演練兵場(今の平和台)を皮切りに、県知事官舎を一番先に訪問するのが恒例であった、続いて久留米のドソタク迄も行ったことが今その頃が走馬灯のように思い出されるのです。
 ドンタクと言えば、満州から引き上げ後出ることはなく、只見物に行ってカメラに撮る位だったのに昨年西区が分割され、城南区誕生区役所横に舞台が出来、深堀自治会長さんより出る様に言われ、ではと引受け白水さんと伊東さんと3人でヒット演歌さざんかの宿、他10曲位2日間新天町から南部へ10ケ所位、特に嬉しかったのは、南天神での特別賞をもらったことでした。雨の中と言うのに皆元気で楽しかった。
 又老人会の旅行等には必ずバイオリン携帯で弾いて歌って伴奏するのです。
今年の6月27日秋月城見学の時も車の中で演歌や民謡を禅いて歌って、楽しい一日であった、続いて8月25日城南区演芸大会には、伊東さんと2人で出演、夫婦春秋他2曲張切ってやったが、あの素晴らしい芸と衣装の舞踊の前には及ばなかった。でも参加出来たことと、勉強になったことが満足だった。そして9月15日の敬老会では、白水さん、伊東さん、池田さんと4名でヒット曲矢切りの渡し2曲を歌って、まあ80点位の出来だったかな、この中で矢切の渡しの伴奏で高音部を弾いた方がリズムに乗るように感じ、今後の課題として選曲と奏法に一層の勉強せねばと今から早速取りかかっているのです。このためには、五線楽譜とレコードでの練習ですが、現在伴奏出来るのが100曲位ですが、150曲目標に、より上手に弾けるよう続けて行くことが、私の唯一の生き甲斐としてお
ります。
 又、この他にカラオケは昨年12月から始め、西新ベスト電機でワンダフル採点器で、花から花への演歌で77点で2位になり、美濃焼を受賞、今後は80点以上になり、1位を目指して頑張りたいと思っております。そしてカラオケ大会にも出演することが、生き甲斐の1つです。



 揺れる10代とでも云いましょうか、最近全国的に、校内暴力や、家庭内暴力など、少年少女達のすさんだ行動が、大きな社会問題となっている。中学生が、非行歴を悲観してガス自殺、ビル屋上からの、とび降り自殺、何の関係もない、行きづりの老人惨殺、又はひったくりや、押入強盗をしたり、デパートや、スーパーなどで万引をしたり、自転車を盗む、免許証も持たない子供が、自動車を盗んで逃走する。そして事故を起こし、死亡、重傷、何んと痛ましいことでしょう。
特に、心を痛めるのは、覚せい剤の使用、幼い身を以て性に走る、等々取上げると、枚挙に、いとまがない。
 このような現代っ子の実態を見て、呆然とさせられる。何故だろう!!非行に走る少年少女達の本当の気持ちは一体何辺にあるのか、端的に云えば、親と子の、触れ合いがなく、従って親子の対話が、なされていない点を、指摘されるだろう。
 家庭の経済的な理由で、両親の共働きも多く、子供は学校の先生まかせにして、一番大切な親子の対話に欠けていて、子供達が今、何を考え、何を求め、何を欲しているのか、それすら知らない親が多い。ここに問題(原因)がある、子供達が何か間違を起こすと、世の親達は異句同音に「内の子に限ってそんな。」よく聞く親の言葉である。思春期の子を持つ親達は、今一度自分の家庭を、そして子供達の、おかれている環境を振り返り、考えて貰いたい。
 我が福岡県では、残念ながら全国で、少年非行率2位の不名誉な記録もある。
子供の愛欠病、つまり慈愛を受げた経験がないと、感情が貧しく、喜びも、悲しみも、自責も、かしゃくの念もなく、人間的連帯感や、良心が育たなくなる。
慈愛(ここで云う慈愛とは、親子の対話を意味します)を受けた経験のない子供達の多くが、知的機能障害や、衝動的抑制障害にかかり、少年非行の背景となっている。このような子供達は、自分の喜びを知らないだけでなく、他人の喜びも分らない。母親と、肌と肌を触れ合い、じっと目と目を見つめ合ううちに、心と心が通い合うものだ。こんなコミュニケーションを持ったことのない子供達は、成長してからも、相手に対して自らの心を開いて語りかけようとはしなくなる。
我が子を、そんな子供にしないためにも、幼い頃から精一杯「可愛がられた経験」を、子供の心の中に持たせてあげるよう努めてほしい。子供達は自分なりに夫々夢を持っていることを知り、親子の対話を交す中で、その夢を育ててやり、そして対話の中で「社会のルール」とは、どんなことか、について詳しく解りやすく話をしてあげる。社会のルールを守ることによって、非行防止は出来るのだから。
 健全なる子供を育てるには、親自身が努力して育てるべきで、子育ての最終的責任は、親にあることを再認識して、一人でも多く、非行から少年少女達を守って行くことを願って止まない。


 23.或る人生

 対馬の沖に沈むナホトカの財宝引揚げの話題はいまだ私達の耳目に新たなところであるが、私か60年を経た今日でも、なお脳裏から去らぬ不運な人生を送った私の先輩もまた海底深く眠る財貨の引揚げを夢見て生涯をかけた社会奉仕への資金調達の構想も空しく事、志と異なり、遂に悲劇の人物に終ったが、私達と人生観を異にしたこの先輩は、世間の批判を他に信念に生きるものの真随を残して悠々今世を去って行った。
 生来豪放磊落で学生の頃はボートレースの選手として活躍し、しかも理論家として他に一歩も譲らなぬ程の論客であったあの快男子が、何時の間にか信じられない程温容な紳士に変って行ったのが彼が不惑の歳を過ぎる頃の姿であった。
余程心中期するものがあったのであろう、彼は熱心な仏教信者となり宗教機関紙などにも寄稿するなど強く信仰に帰依し、言動も自然と俗人とは異なるものがあって、この大きな転身に知友は驚くばかりであった。
 本来無慾恬淡で、日常住み慣れた福岡の広大な自宅での生活は安穏平和の日が続き、時折東公園の日蓮銅像の控所でよくその姿が見受けられた。
 この善良な先輩の人柄を好餌として1つの「たくらみ」が企てられていることには、本人は全く気が付かなかった。それは、旧幕時代薩摩の沖に沈んだままとなっている貿易船から、金の延棒を引揚げる事業への出資の勧誘であった。
 先輩は物慾にかられるような人ではないが信仰家の間に行われた計画であっただけに何の疑念も抱かずその計画に賛意追随して行った。先輩には生涯をかげた1つの悲願があった。それは貧困者の子弟の育英機関を設けることであって、その執念を燃して暗黒の海底作業に惜しみなく出資をつずけて行った。
 しかし天は無情にもこの善人に興せず、遂に事業は失敗に終り無一物に近い悲惨な結果となった。その直後、傷心の筈の先輩に出会った。慰めようとする私に返って言葉は実に意外なもので、鸚悴虚脱はおろか大悟徹底した淡々たる心境を語ってくれたのに驚くと共に、凡庸でないものを強く感じた。「金銭では買えない人間の心理を知ることが出来たと思えば、その代償として全財産を失ってもなお安いものだ、そして有り難いことだ」と。
 影も形もない人間の心を捉えることの出来たことを法悦として感謝するなど、到底我々凡人の悟り得るところではなく、また残念なことには当時私は若輩であって、このような法界無量の心境や衆生済度の法悦などに浸ることには縁遠く、ただ唖然として心の豊かき反しうらぶれ姿に変った先輩をながめるばかりであった。
 その翌年、私は偶々先輩の生家のある西海橋の近くに出張することになった。
先輩の先祖は代々藩医であり、実兄も医院を開いていた。私は頭に浮ぶままに生家を訪ねてみて驚いた。先輩は10日程前帰郷し、先祖に報告を終えて急逝されたとのことであった。ああ、故山に帰り命脈つきたかと思はず嘆息をもらした。
懇ろに弔い、菩提寺にも詣で高い石段を降って県道へ出て振り返ると、山門に院長と伴僧が遠去かる私を見送って、いつまでも手を振っていた。数奇な運命の先輩よ、温い故山に抱かれて静かにお寝み下さい、と祈って永遠の別れを告げて立ち去った。
 あれから遥かに半世紀は過ぎ、激動の時代を他に歳月は流れ、変転の世は物質文明を醸し出し、いつしかその渦中にあってあくせくとして喜寿を迎え「我未だ悟らず」とは顧みて誠に恥しいことである。



 「新緑の風薫る5月初めの晴れた朝。」10時過ぎ区役所に老令年金の現況届出手続きを済まし帰り道にて出合った一駒でした。
 今年3月、福岡市営地下鉄一号線の完成を期に区分廃止になった旧筑肥線に添って別府橋より、元西新駅の方に延びる道路(バス通り)、此の道も随分と車の通りが多くなったと感じながら歩き、中村高校前停留所を過ぎ信号の無い十字路近くに来て、目に写ったのは廃止になった踏切の方より右の方に道路を渡ろうと、使いに行くのか「こざっぱり」の服装した、仲良さそうな10歳位の姉と8つ程歳下の弟が手を握り合い、歩行者線の処で行き交う車聚眺め、切れ聞か出来るのを待つ二人の姿。私も車の流れを気にしながら歩きを緩めた。考えれば、200米程南に202号バイパスが有るけど、近年交通量も多くなり、尚信号等の関係かマイカーが此の道を利用する数が多くなり、道を横断するも大変気を使うなあと感じた。
 その時、連なって走ってた一台のクリーム色した「夕クシー」が停まり、40位の運転手が窓から手を出し、笑顔で早く渡りなさいと合図してた。それを見て姉弟は小走りに渡りながら、車を停めて呉れた親切が嬉しかったか微笑みながら「有り難うございました。」と明るい声で2人が頭を下げ、向こうに渡る。たびたび振り返えり歩き去った。
 一且止ってた車の列も又動き始めた。私も道を姉弟と反対方に曲り吾が家に向かいながら、先刻目撃した心温まる情景を想い浮かべ、嬉しかったのは生計の為め寸時も惜み車を走り廻るタクシー運転手もやぱり「人の親であり」普段吾子に対し表わす愛情を勤務中でも余所の子供まで与へて呉れた行い。
 他の都市より福岡に移住されてる人々の話しに依れば、福岡と言う土地は環境、物価、食べ物と色々と良い事聞くが、只ドライバーのマナーに就いては悪るい批判のみ、併し先刻見た様な心優しい人がタクシー運転して居る事を知り、心休まる思いがしました。反面現代子と云うか、親が甘いのか?今の子供(少年)は大人達が厚意を示し与えても当然の様に受取り、素直に相手に対して感謝の態度をとらない子が多い。
 昨今学校教育に於いても然りながら、日常家庭にあっても親達が勉強と共に、人間社会の生活上、事の善し悪し、他人に対して感謝、礼儀、労り又自分自身に忍耐など躾を論し育てる事が薄らぎ、只可愛いのみの親心を感じる。
 併し今日逢った姉弟は運転手の厚意に素直に心より礼を答えた行いなど、日常身近な人が如何に良く躾されて居るかが目に見える様だ、朝から良い心ろ温まる一駒に出会い、振り返えり私の心も五月晴れの様な爽やかな一日でした。



 昭和46年6月30日、45年間の永い公務員生活に別れを告げて、早くも12年の歳月が、夢のように流れ去り、既に80歳代の高令者仲間の一人となり、余りの早さに、実は驚きを感じながらも、その半面、現実の健在な自分の姿を、それとなく喜んでいるのです。
 さて今後此の儘の状態で、何時まで無事に歩けるかと思えば、やや不安を感じる点はあるものの、我が生命の続く限り、むつかしい事は一切考えず、面倒くさい事には関与する事なく、自分の手の届く範囲内で、自由に楽しく、老妻と手を取り合って、歩いて行く心組です。
 でも私は心臓病の経験があるので、毎週火曜日の午前中には必ず、町内のお医者さんを訪れて検診を受け、体重と血圧を計り、尿の検査をしていますが血圧は何時も、上位が140と下位が85程度で、尿も糖や蛋白は零で、別に異状はなく、安心してその日を過しています。若しも検査の結果異変があれば食生活や体の調整に就いて、注意がありますのでその点は必ず、医師の指示を守っています。
 その一例として、高令者は常時家に閉寵っていては、早く老化を招く恐れがあるから、少しでも其の作用を防ぐ意味に於いて、毎日30分は外を歩けと言われるので、成るべく車の少い校区内の小径を選んで、歩くのが私の日課となっています。然し何回も何回も、同じ道を歩いていては、興味が段々薄らぎますので、最近は中央区の樋井川東北区と、大濠公園方面へ足を向けていますが、盛夏の日中は陽射が強くて気温が高く、可成の疲れが出ます。そんな時には自宅で1、2時間寝転んでいると、自然に疲れは治って参ります。
 だが80歳代の高令ともなれば、年毎に体調が衰弱して行くのは事実で、これだけは如何する事も出来ません。平素私の昼食は甘味のパン類と、牛乳を執っていますが、夕食時等酒類は全然飲みませんけれ共、最近の情況に依れば、徐々に体力、気力、精力、視力、記憶力、耐久力、思考力等、あらゆる機能が減退しつつあり、其の結果次第に、植物人間に近い性格の、寝たきりやボケ老人へと、落込んで行く様な傾向が、かすかに伺われますので、そんな状態の老令者にはならないよう、常日頃充分な配慮を怠る事なく、今日まで無事に歩いて来た、社会や周囲の人々に対する、感謝の気持ちだけは、忘れることなく、更に頑張り、更に元気を出して、今後は家族の者や、身近な人達には、絶対に迷惑をかげないよう、益々健康を重んじ、これからの八十路は、何はともあれ、健康第一主義で、急がず焦らず、自分の足許をしかと確めながら、転ばぬように気を付けて、歩げるだけ、歩いて見たいと念願しています。



 昔は「人生僅か50年」と歌にまで唱われていたのですが、今日では人間の寿命は更に20数年の延長が現実を見る、有り難い時代となりました。しかし、誰でも古希の年頃になると、若い者に負けない程の体力や元気があると思っても、自然の摂理がそれを許さないのであります。そこで高令者は元気のある人も無理をせず、程々に趣味を楽しみ健康に留意することが何よりも大切なことであります。
 医者の治療を必要としない軽度の障害は、先輩の経験や体験談などを参考にして自分でやって見るのもよいことだと思います。不肖私は今年喜寿を迎えるものでありますが、自由奔放なだらしない生活を毎日繰り返しておりましたため、何時の間にか手の指が軽い痙攣を起こすようになったのです。私は最初胡桃の実を手に持って指の運動をすることに努めました。しかし、この方法はいやな摩擦音がして人前を憚らねばならない時もあるのです。そこで、他に何かよい方法はないものかと色々物色している内に、ふと新聞紙の折り込み広告に気付き手遊びに折り鶴を始めたのです。西洋紙大のものからは12羽が出来ます。これ等の紙で折った鶴は普通の色紙で折った単色の平凡な物ではなく、色様々で模様の奇麗なのが出来て一羽一羽折り上げる度に夫々の美しさが楽しめるのです。10羽20
羽と折って並べて見ると捨て難い優美なものが必ず幾つか目立つのです。
 これ等の製品は凡てが作者の指の運動を手助けして任務を果した物であります故、感謝しつつ処分すればよいのです。反古にしてもよし、奇麗な物は何かの飾り物にも利用が出来ます。この折り鶴は包装紙等を用いてもよいのです。最初は一羽を折るのにいくらかの手間暇がかりますが、造り方を会得すればテレビを見ながらでも人と話しをしながらでも出来るのです。
 人が或る欲望を満足させるために神仏に祈願したり、御願成就の御礼などに奉納したりする千羽鶴は、人の真心を表わす神聖なものとされています。今年は参議院議員を始め、各地方の首長や議員選挙の年でありました。或る田舎町の議員に立候補した親類の者に、この折り鶴の効果の意味を記して陣中見舞に贈りました処、後日、「予想以上の得票にて当選した。」と喜びの礼状が参りました。
 その後間もなくまた他町に住む親戚の者から「前者の話しを聞いたので自分にも是非。」との所望がありました。こちらにも早速送り届けましたが、投票の翌日「始めての試みで自信がなかったのに千羽鶴のお蔭で当選が出来ました。」と喜びの電話がありました。廃品利用の千羽鶴の効果は覿面(てきめん)。二人の者に奇跡が起こたっのは迷信かも知れませんが、折り鶴による指の運動を毎日継続することによって、私の健康快復が出来たのは単なる偶然の奇跡ではなく根気強い現実の体験に基づく、合理的なものであることを確信いたしました。



 昭和20年6月19日夜、我が家は運悪く空襲を浴び丸焼となりました。当時私は或る官庁に勤めておりましたが、この戦災により私の人生は一変し、始めからやり直しの憂き目に陥り、その上借金まで負いドン底生活の毎日でした。ときに35才の中年期、家族は4人で小供2人はまだ小さく一番大事な時期でした、取敢えず家内の郷里に危介になることに致し、それから半年間お世話になっておりましたが、どうせ家を建てなければならず、その資金づくりに今日まで18年間勤めていました役所を犠牲に辞めることに決心致し、希望退職の手続きをとりましたが、その退職金だけでは到底足らないので、あとの金は不動産担保に銀行から借りることにし、大工さんとも折合わせの上、早速準備にとりかかってもらいました。
 何様当時は物資が統制され建築資材は殆んど配給制度で、釘一本から屋根瓦一枚にいたるまで建築証明書がなければ手に入らず、それも充分ではなく瓦なんか必要枚数の半分は空襲で焼残りのものを使ったような始末で、ほんとに困りました。
 斯様な次第で建築も永引き、昭和22年5月漸し竣工致しました。出来上るまで近所の懇意のお家に間借りさせてもらっておりました。まあこれで住居が出来たので一安心ですが、次は食のほうで、先ず食器を揃えなければと箸から茶椀、炊飯器鍋類と必要なものだげを揃えました。食べるものは大根飯に雑炊が常食で他パン食ではコッペーパンかドングリパンくらいのもの、味気ないものでした。
然しこれでも食べられるのがよいほうでした。衣の揖うは親戚知人から分けてもらい我慢しました。これで衣食住整い、生活できるようになりましたが、さてこれから先が大変で生活費から借金の返済等負担が重く、早速働き収入の途を講ずべく、先ず大工さんのところで材木運びをしておりましたが何様力仕事で長つづきせず、半年くらいで辞め、次は豆炭製造工場に出稼ぎ働き、毎日朝8時から夕方5時までまっ黒く汚れて豆炭の製造運搬に精を出し、ここで2年余り辛抱し稼ぎました。ところで昭和23年8月新聞で或る銀行の臨時採用の募集広告が出ておりましたので早速申込み、幸い採用してくれましたのでほっと致し、それから20年間真面目に勤めさせて頂き、退職後は警備会社に勤め、70才まで働きました。今では子供もそれぞれ独立致し、家内と二人だけの暮しになり感謝してお
ります。
 ここで私が貴重な体験を致しましたことは、忍耐と努力の積重であります。
『人間萬事成らざるはなし』不可能なしと断言致したいのであります、有り難い体験でした。人間苦労は宝です、出世の因ですと言いたいくらいです。苦労を知らない今の親子さん達、よく聴いて下さい。、子供の非行は家庭からです。子供の教育を誤らない様、過保護にならないよう、ときには厳しく躾をするそのためには親自身がお手本を示し、子供を引張っていくことです。尚機会ある毎に忍耐と努力の体験をさせ、子供に自覚させることが何より肝心です。将来日本を担う子供達のために、私達先輩は一丸となって子供教育の革新に、責任を以って努めなげればならないことを痛感致し、私の体験談を終らせて頂きます。



 庭といっても私の家の庭は至極粗末なもので、普通の畑の中に種々の木を植え、様々な鉢植を並べているようなものです。
 広さは130坪の敷地から、長男の家と私の家の約50坪を引いた残りが庭ということになっています。
 云うなれば私の家の庭は、金をかげて作った見る庭でなく、これはと思う果樹や花木や珍木等、買ったり貰ったり挿木したりして育てた庭です、毎日の水かけや時による施肥や殺虫殺菌の消毒、又は剪定や除草等、とにかく木の成長を楽しみにしての、毎日毎日の私の仕事場であり、又遊びの場なのです。
 さて、庭の内容を少し申し上げます、花を見て喜び実の成長を楽しむ果樹を中心にして種々の木が100本位と、つつじさつきを主とした鉢植類が100位あります。
 果樹は私が一番力を注いで育てているもので、少しくわしく申し上げていきます。先ず種類から申し上げます。暖地りんご1本、乙女りんご1本、デリシャス2本、桃2本、ねくたりん2本、柿4本、栗2本、いちじく3本、梅4本、びわ2本、ぐみ1本、みかん5本、ぶどう2本、かりん1本、いくり2本、あんず1本、きんかん1本です。
 この中で私が最も得意としているのを申し上げます。先ず暖地りんごです。西鉄久留米駅の売店で「暖地りんご」の名に引かれて、ひょっとなるんじゃなかろうかと思ったものです。丈は1米位でした。はじめて植える木なので、どうして育ててよいのか、わからない事ばかりでした。栽培の本も読みました、しかし実地の時は何の役にたたず、こうして10余年たった今日、店頭販売のと同大の実が200個なるようになりました。ねもとの幹の周りが約45糎、丈が5米位あります。花は花弁の縁がうすいピンクで、満開の時は実にきれいです、実は8月になると赤くなり花が咲いたようにきれいです。
 次に又ほこりに思っているのが桃です、ねもとの幹の周りが約35糎位、高さが5米位あります、今年は実が560個位なりました、あまり沢山ならせたので、実が大きくならないのではないかと心配していましたところ、見事な実になり、友人知人や近所に配布することができました。袋のかけ方、剪定のし方、実のはざ引き、殺虫殺菌剤のかけ方施肥の仕方等、毎年少しづつ研究してやっと覚えました。今年は袋かけが10日程かかり、殺虫殺菌剤を5回かげました。
 柿も200位なります、丈は5米位です、この柿は庭のすみに捨てられた種から自然に生えた木に接木したものです。
 栗は2本共、6米位あります。その中の1本は実生そのままのものです、今年は200位なりました。
 いちじくも丈が5米位あり、実も200位なりました。これも人々にさしあげています。



 働くことだけに生き甲斐を感じている人がいる。
 かって、私も若い頃、内容は少し違うかもしれないけれども、貧しさからの脱出、子供の教育のために、働くことだけに脇目をふることのできない一時期があった。
 思えば、私等を生み育ててくれた明治生れの古老の方々の中には、働くこと即人間に生れた意味だと、寧ろ執着に似た心で一徹して働き続けられた方が多かったように思える。
 だが、これでよかったのであろうか?この世に人間として生れたからには、もっと、宗教、芸術、文学に親しむということ、必要と思いつつも、周囲の環境からもそれにくみせなかった時代なのではなかろうか?。
 書を見、歌をきき仏に礼拝する。それに興ずる、皆と共にその道を楽しむ。
それは血液の中に香りのあるものを取り入れることで、恵まれて、私達のように老境に入って勉学を志ざし、努力のできる現代とは、大変違っていたようにも思える。
 殊に私の生れ育った島などにおいては、ただ働いて金をためる。子孫に少しでも遺産らしきものをと思い、食べること、衣住、或いは医療等の面にも只節制、節約を守り、営々勉強させ愛育した子女を惜しげもなく都会に送り出し、一旦罹病しても一人悶々の暮し、遠く離れて看護など受ける間もなく、ひっそりこの世を去っていく。
 働く丈けで五体を使い果し、真の憩い愉悦らしきものも感ずることの薄い、老いての暮らしには生きた意味がないと思う。
 深くをきわめることができないにしても、宗教、芸術、より高い文化に触れ、これに対して少しでも理解の眼と心を得るために興じ努力していくことこそ、私達人間に生れた意義があり、余生の暮しえの指向であるのに相違ないと思うのです。
 残る幾ばくかの暮らしの日々、周囲の人達の理解と保護を得つ、よりよく美しいものに向かい、確かな衿持をもって少しづつ、私も一層学びの境地にいたい。



 昭和10年東京神田の三省堂書店に入社す。2月の事で、各学校への発送する教科書と辞書類で、此の中には大正12年発行のコンサイス英語と和英の、2種類が有る。
 何と云っても1年分の教科書を送り込むので相当に気を使う仕事です。
 此の外語社以外に開成館、富山房等と色々な本が集って来る。幸い嶺先生の御声掛りで此の席に、御茶汲みをサービスさせられた。
 各先生方は自分の教科書で有る処から其れは誠に真剣です。然も内容に関しては一歩も譲らない、又妥協も自らは一歩も後に引かん。私は此えが真に教育者としての真精神と思う。
 外に修身とか歴史は案外問題も起きず進む、時折検定で一時、遅れる事も有るが今回は其の御話はなく終りました。
 後は常盤松高女の問題ですが女学校の方は、何時れ日を改めて当方より出張と定りました。次には午後会社で人員の会合が、開かれます此れが一番の問題です。
何と云っても午後の会議が重大で、第一に人選の会議が必要で、誰を自分の方に引き取るか、又役10名ほどのメンバーを編成する。而して1年から5年迄割り振ること、此の期間皆な自分の仕事は充分持っている。然かも特註返品等凡そ関係ない仕事も日々起きて居るのである。
 此の間は自分の身体とは、決して思われんほんとうに、自分が御客か得意さんか一向に解らん時期です。而して3月が終ります。
 而して4月が過ぎ5月を迎えます。此れを称して教科書時期と申します。本屋とはそうしたものです。
 此れは毎年繰り返えし、明年は又起きます。而して夏の時期我々は本年も豆子の海岸散歩です。この間が我々の一番待望の時で夏の一週間を真黒になって、太陽に焼けながら遊び廻るのです。
 一週間が終って店に、帰えると真黒な焼けた丸坊子がポツリポツリと見受けられます。併し12月近くになりますとあの黒坊が段々減って、元の人間に変ります。
 マアヨイ、勉強を三省堂書店で教えて頂きました。



 回顧すれば、昭和4年3月26日は、私か学窓を出て、初めて実社会に就職した、重要且意義ある日である。3月20日出頭の電報を受けた。就職先は、門司鉄道局鹿児島保線事務所であった。何せよ鹿児島行は、この時が最初で、胸中は抱負と希望で充満していた。前夜博多駅より夜行列車にて出発し、翌朝7時に鹿児島に到着した。当日は、あいにく雨天であった。駅頭の情景は、静かで周囲の樹木の葉緑りも、南国のせいか、色濃く感受された。駅の正面玄関の広場に出た瞬間、東方の頂上に雲がかかった、雄大なる山岳が見えた。これぞ正しく大正3年に大爆発を起こした桜島火山なる、ことに気づいた。全く予想に反し高さ1,117メートルの高嶺で、山の裾一帯は無量の巨大なる熔岩で覆われ、錦江湾の海上に浮ぶ景は、実にすばらしく、ただ驚嘆の外なく、同時に爆発の往時がしのばれた。
 勤務所は駅前広場の正面にあり、時代に応じた平凡なる、木造2階の建物であった。
 所属職員一同に面接し、自己紹介と挨拶を交した。職員数は総員40名で、事務と技術の両係に分かれ、私は技術係に席を置いた。異常に感じたことは、鹿児島県出身者が、約80%を占め、お互の会話が、鹿児島方言でなされていた。
理解出来ぬ点もあリ、方言修得の要を痛感させられた。
 業務の内容について、係員より説明があった。管轄区域は、鹿児島県内全部と、宮崎市を含む宮崎県内を合わせ、広い範囲に及んでいた。業務の目的は、列車運転の安全を図るため、線路の整備、強化、その他、技術に関する業務の遂行と現場機関の指導管理であった。
 無事に着任したが、困ったことは、下宿先の安定であった。当時は募集の広告表示の住宅も少く早急には望めなかった。やむなく、職員の所に同宿することを依頼した。約一週間後に、市内長田町に旧制第七高等学校の柔道部の合宿寮があって、下宿可能とのことを、聞き入り、早速家主と会談し、階下の一室の承諾を得て、やっと不安の念を、解消した。
 業務の指令について、今か今かと待望していたが、ようやく4月中旬となり、鹿児島本線阿久根駅より、終点側にある木造跨線道路橋が腐朽のため、改築架換する工事の設計を命ぜられた。就職第1号の業務として、橋りょう工事が指命されたとは、私自身大へん恵まれたことで、喜びに、たえなかった。4月下旬に現地に赳き、調査と測量を終った。現状は線路と橋上との空間が高く、地質が岩盤なること、加えて完成後の美観等の条件から、改築橋は、アーチ橋とすることに決定された。アーチ橋は管内に未だなく、初めての試みであった。改築の内容は、鉄骨造りで、主材は国鉄方針による廃品活用として30キログラーム、古レールが使用され、橋面には鉄筋コンクリート舗板を布設するものであった。連日設計に意欲を燃やし、取組の結果、5月末完了した。6月に予算確定し、8月に工事に着手、工期60日にて、9月末に、無事竣工した。総長20メートルに過ぎぬ、小橋りょうながら、就職して最初の業務であり、将来共よき思い出の記念となった。
 この後、鹿児島に10年4ヶ月勤務したが、その間に課題の方言も会得し、管内全域に亘り、線路付帯建設物の設計、施工、軌道の整備等多くの業務を経験した。家庭的にも楽しく充実した日々を過したことは、極めて印象的で、忘れられないものがある。
 鹿児島は到る所、風光明媚で、人情も厚く、真に住みよい絶好なる勤務地である。私にとっては、就職の第一歩を踏み出した所であり、思い出も多く、懐しき第二の故郷である。


 32.テレビ学

 縁先に朝顔が色とりどり咲き出し楽しんでいますが、朝顔には深い思い出があり、親父殿が以前久留米市で一番の朝顔咲かせの名人と自慢していたのを思い出す。
 朝早く裏庭から表通りの縁側に鉢を並べるのが私の役目で、学校から帰ったら裏庭への鉢もどし。朝通行の人達がやをら足を止め観賞の一言をつぶやいておられた。思いおこすと下駄履でのんびりした、およそ70年昔の風景です。
 別府高齢者教室の夏休の宿題に取りくんで久しく、何枚もの書き損んじで時日を費し、いよいよ提出の日が来ました、愚作の苦をしのんでいます。
 西日本新聞8月15日朝刊に、マスケンのくるま座が久方振りに掲載された。
今年の3月頃と思うが益田憲吉病気療養の為休筆します。簡単な文面広告で以後音沙汰がなくなる。かねて愛読し、世渡りの指針としていた私は、心が疲れたりもした。まづは全快目出度く論壇復帰、今後益々のご自愛専一にご発展をお祈り致しております。
 テレビ番組のせいか、アッと云う間もなく月火水日と又月火水日曜と繰返し木金土の時間がなくなった気がする。果てボケだしのか。これ以上ボケたら大変である。持ち時間の少ない我輩、なにはともあれ21世紀を見る迄は頑張ることに腹を決めた。無論頭の体操は、テレビ学できたえる。
 さて、昆虫学専門の大学の先生が、蚊の生態を研究し、蚊がいかにして朝夕の時刻を知りうるのか、蚊の脳を解剖され、時刻を悟る時計の場所を探している大写しの画面を見る、大変な作業である。それはともかく人間の頭脳よろしく考えるロボットが研究中で数年後には第一号(機械人間)で発表する見通しがたったとのこと。又太陽のエネルギー全質量を缶詰保存出来る研究がほぼ完成に近いとか、夢のような大発明益々嬉しくなる愉快な話ではありませんか。ところが、よいことづくめではないようで、この9月末には富士山の大爆発と共に大地震の発生を予言する者かおるかと思えば、世界大戦が刻々と近づきつつあり、恐らく北海道になんらかの大異変が起こる。まず3年後であろうがその時こそが一億総覚悟せねばならぬとの大予言者も現れる始末、冗談ではない、でも恐ろしい話であります。
 最後にご存じの通り、世の中がおかしくなって来ておりますがどうしようもなく望観するのみ。でも折角この世に生を得て、長年月の命運を織りなして来た別府高齢者教室の老学生、罰仏罰の降らぬよう、後に続く者えの誤らぬ道しるべを示し安堵の旅立ちをと願うものです。



 私は去る8月10日に、郷里甘木市上秋月小学校の同窓生(大正2年入学)故山本源次郎君の初盆会に、山門郡瀬高町のお宅にお詣りした。
 帰りの道中、西鉄大牟田線の久留米駅で福岡行の急行電車に乗り替えた。午後3時半ごろだったが、お盆前のことでホームもお客で混雑していた。久留米駅に福岡行電車が入って来た。ドアーが開くと、どっと押されるように電車に入った。
私は前の方に並んでいたので座席にすわれた。まだ、私の脇に一人位すわれる席があった。後から入って来た、見たところ65、6歳位のお年寄りが、私のあいている席を見て座ろうとしたとき、傍にいた女の人も同時に座ろうとした。
 私は最初老夫婦かと思ったが、そうではなかった。男の人が一寸早かったが、女の人が座わろうとした様子を見て、さっと身を引いて、「さあ、どうぞ」と言って座を勧めた。すると女の人は「お座わり下さい。私はすぐにおりますから」「私もすぐおりますので、どうぞ」と席を譲り合っていたが、そのうち「そうですか、では座わらせて頂きます」と女の人が素直に座わると、「私は男ですからこのくらいのことなんでもないんです。」ということで、そこからコミュニテーの場となった。
 「私も何時の間にか、歳をとってしまいましてね」「お互いに歳はとりたくないものですね、別に欲張ったわけでもないのに、おばあちゃんになってしまいました、お宅はどちらからお出でになりましたの、私は八女市ですけど」「私は星野村です、伜が福岡に住んでおるもんですから、久し振りに出て来たんです。」
そして会話はなお続いた。久留米駅から福岡駅までの急行で4ッほどの駅だったが、2人は下車した。「ではお気をつげて。」「お大事に。」とそれぞれ別れの言葉を交し合って、晴れやかな顔で別れて行った。
 私は2人の会話を聞きながら、私まで楽しくなった。席の譲り合いが、きっかけで楽しい話し合いの場になったことを考え「この世の中心、あの2人のような思いやりの精神で生活が出来れば、すべてがうまで納まるものを…………」と思った。
 若い人達が、われさきに席を奪い合ったり、あるいは大きく足を開いて、ゆうに2人分の席を占め、老人が目の前に立っていても、席をつくってやろうとしない、そんな中で今日のお2人の譲り合いの暖かい心の琴線にふれて、私の今日の旅は、ほのぼのとした楽しい快い旅となった。



 8月も終り9月の10日になってやっと作文を書く気になりました。それと言うのも4月15日に留守番をしていて、電話のベルに急ぎ電話機に駆け寄り近づいた時に、電線につまずきバタッと前の方にたをれ、右の手首を骨折してしまいました。胸がつまる様な痛さで、ただ事ではない様な気がして水道の水で手首を冷しながら思案している時に、軽自動車で何時も来られる電気屋の伯父さんがこられて、私を整形外科病院までつれて行って下さいました。
 日曜日でもないのになぜ休診の札がさかっているのでがっかりしました。いざとなればどの病院が良いのかも思い出せないまま、近くに有りました外科病院に駆け込みました。早速レントゲン写真を撮り、35日間のギブスに入れらました。
幸な事に家事一切は嫁がしてくれますので何も気に掛ける事もなく、周囲の人々も今までよく働らきつづげていたので休暇でももらったつもりでゆっくり治したらと言われ、私自身も其の気になり、ギブスが取れても私の手首、指の骨はいたみが取れずつかいものになりまぜん。
 私か通院している病院では、リハビリーの設備もない様で唯電気で患部に熱をあてる事丈の毎日でした。思い余って整形外科の病院に見てもらったけれど、最初からとちがって途中からの診料だったので、通院もゆるされず最初の病院の選び方が間違っていた事がくやまれてなりません。こうなった以上自分でどこまでやれるかやって見様と思い、それからマッサージと温泉治療とつづけました。
お陰様で3ケ所程の温泉場も知る事が出来ました。
 今では箸も取る様になり自転車のハンドルもにぎれる様になりました。だげどまだまだ手の関節が思う様に動かず、タオルがしぼれず、字も思う様に書けず、一寸永くペンを持てば痛みます。昔の人は良く言ったものです薄紙をはぐ様にとの形容詞其のままに、少しずつ忘れた頃に動き易くなっていきます。
 朝のテレビ番組おしんを見ながら、同じ右手をわずらっている私にはおしんのつらさが身にしみます。急いでもだめ、日数を重ねなければ痛みは取れないだろうと今はあきらめムードです。家事一切は嫁がやってくれるし一軒の家に年寄、子、孫三代暮らしている私は、本当に幸な事です。1年もすればもう少しは、ましな手になる事でしょうから、これから気を付けて自分を大事に、まわりの人に迷惑をかけない様な老後をすごしたいと思います。



 6月下旬の太陽の照りつける暑い日に、初めて広島を訪ねる事が出来ました。
 新らしい近代的なビルが建ち、街路樹は枝を空高く延ばし明るい落ち着いた町並が続いていました。
 38年前、一発の原子爆弾で一瞬にして廃虚と化し、何万と言う犠牲者を出し草も生えないと言われた処とは想像もつきません。当時の悲しく恐ろしかった事を次の世の人々に何時までも伝え、2度とこのような事のないようにとの願いをこめて、無残に焼け爛れた姿の旧産業奨励館が原爆ドームとして残され、私達に戦争の悲惨さを訴えていました。
 ここでどれだけ多くの方々が亡くなられたり傷つき、助けを求め力つきた方や癒えぬ傷に苦しまれた事でしょう。
 又救援に逸早く駆付け、放射能に侵かされ命を落されれたり、後遺症に悩まされた方々も沢山いらした事でしょう。
 ドームの横を流れる元安川は何事もなかったように緩やかに流れ、新しく植えられた木々は30有余年で立派に育ち青々と茂っております。平和公園には素晴らしい原爆慰霊の碑が建ち、犠牲者の過去帳が納められ、安らかに眠られる事を念じて祭られています。33年には原爆の子の像が出来全国の子供達の願いをこめた千羽鶴が沢山お供えしてあり、39年には平和の聖火が灯り、永遠の平和を世界へ呼びかげています。
 49年に新たに動員学徒の慰霊塔が原爆ドームの傍に出来ました。当時の学徒達は飢えを堪え忍び、痩せ細った体で勝まではとお国の為に頑張っていましたのに、一瞬にしてあの惨事に会われました。どうか安らかにお眠り下さいと心から手を合わせ御冥福をお祈り致しました。
 原爆資料館で見た痛々しい写真や遺品の数々、目をおおいたくなる思いでございました。ガイドさんの上手な説明を聞きながら奇麗に整備された平和公園を一周致し、改めて戦争の恐ろしさ空しさをつくづく感じ、平和である事を喜びました。
 あれから38年の月日が流れ日本はすっかり復興し、産業大国と言われるようになりました。若い人々は戦争を知りません。今の若者達は軍服がカッコい、と憧れ静かなブームを呼んでいるとテレビで放映していました。恐ろしい事です。
日本は資源が何もありません、戦中戦後を過した者にはあの当時の苦しさが身に染みております、広島を尋ね改めて戦争の恐ろしさを再認識し、平和を声を大にして願わずにはおられませんでした。合掌


 36.菊と私

 私が菊の栽培を初めてから23年になる。昭和35年秋入院していた時、院長夫妻が入院患者を座敷に招いて菊見の集まりをして下さったのがきっかけである。
翌年春病院に苗を貰いに行った。夫人は一つ一つ花の特徴を説明して名札を添えて下さった。土や肥料の事など予備知識は全然持っていなかった。ただ子供の頃、お隣のお爺さんが何時も菊の手入れをしておられる姿だけは記憶にあった。苗の素性が良いものだったので、自分勝手な栽培をしたのに結構見られる花が開いた、丁度その頃、動物園で菊花展覧会があり、見学者の中に栽培法を知りたいという声が多いので、講習会が開かれた。私は参加して用土や肥料、挿芽、整枝、芽摘み、輪台掛け等教えて貰った。あとはその時のテキスト頼りにやってきた。初めは10種類位だったのに、私の所に無い種類をわざわざ持って来て下さる親切な方や、私方の苗を貰いに来られて交換に自分の苗を置いて行かれる方等で、段々と数がふえて今では58種類にもなった。
 56年度別府公民館老人大学で一緒になった豊澤富貴氏(83才)は偶然私の菊作りを知られて、老人大学の帰途私方に立寄られ、その都度適切な指導を頂き、私は願ってもない先生に巡り合ったと喜んでいたところ突然8月初め、東京に引越しされた。その際東京に行ったら今より住宅事情が悪くなり、菊作りなど出来ないだろうと、作りかけの菊を鉢ごと私に譲って行かれた。使いかけの肥料や薬や器具類まで一切合財を付けてである。その上東京から手紙を下さって、橋本に菊作りの大先生柴田六輔氏がおられるから、そこを訪ねて行くようにと、バスの乗り方まで書いて地図を送って下さった。去年菊の頃お訪ねしていろいろお話してみると、私が子供の頃のお隣のお爺さんを知っている、別府公民館の近くに菊を作る女がいると聞いていたのは貴女のことらしい等、いろいろと話の合致することが出て来て、楽しい半日を過ごさせて頂いた。
 去年は腰が痛くなったし、10年前手の骨折乍した跡が痛くなる等で、軽い土を用いる皐月に替えようかと思うこともあるけれど、主人の友達が菊見と称して、私方で一日歓談されるのが例年の慣らいになってしまった。数年前天候不順の為、出来が良くないので案内をしなかったら、後で皆に心待ちにしていたのにと言われたので、どうでも菊作りを続けなければいけないようだ。数が多いから少し減らせば、体が楽になるだろうと思うけれど、皆それぞれに持味かあって、どれも切捨てるに忍びない。
 素人で家事の合間の菊作りだから、本格的な方から見れば笑止千万であろう。
毎年、今年こそ来年こそと思って、体の自由が利く限り続けて行くであろう。思えば菊作りを通して随分いろんな方との出合いがあった。そしてどなた様も皆よい方ばかりであった。



 日田別府方面へたびたび旅行しますのでその都度、故郷の甘木の山や川等の風物がなつかしく感ぜられます。少女時代は何とも感じませんでしたが、今思いますと故郷って何と素晴らしい、風光明媚である事がつくづく思い出されます。
 秋月のことについては皆様一日バスハイクにて、歩かれ十分堪能なさいました事と思います。昔の面影を偲ばれましたでしょう。又秋月は水がきれいですので秋月美人でも、美人の多い所で夏はとても素晴らしいです。水が冷めたく手が切れそうです。古処山お麓には有名な「潭空庵」又は「だんごあん」とも言うそうでキャンプ場があり、福岡が近いので若い方がキャンプで賑やいます。
 秋月を下ると朝倉の中心の甘木が商業交通の中心として栄え、正月が過ぎると安長寺の有名な「バタバタ市」で賑やい、6月7月になると竜泉池というきれいなわき水でいこいの場所です。山笠や盆踊り等色々な行事が催され、甘木川では流観頂といって仏の供養が行われ、花火大会出店等で賑やいます。
 子供の頃の思い出が次々と浮んで来ます。東の方には杷木に木の丸殿があり、バスの通る道筋ですが、その由緒を知る人は少なく、通称木の丸殿といわれる恵蘇宿八幡宮があり、山の上には斉明天皇の仮葬の御陵の跡があり、山の下には森の関守の墓、川端(筑後川)には天智天皇の月見された月見石、百人一首の秋の田の歌碑、橘の広庭宮跡、猿沢の池謡曲「綾の鼓」伝説の桂の池等、宮廷の香の強い所が次々と思い出され、故郷にいた時はそう感じませんでしたが、故郷って何と素晴らしい所だと今更ながら感じ入りましだ。
 校歌の一節を口ずさみながら、ひとしを朝倉の風光明媚な面影をしのび、筆にかきとめたくなりました。



 昨年5月に旧西区がわかれて城南区が出来て一年以上たちました。我々の日常生活にはさしたる変化はないが、去る4月の選挙はいくらか簡素になり、又区役所保健所が距離的に近くなったことは確かです。
 そこで私は去る7月初めに城南区の山田区長宛挨拶状を認め、併せて左記の件につきお尋ね、要望、お願いをしました。その大要は、◎道路について
(イ)中村学園と七隈四角間は区内唯一の主要道路、これの拡幅計画は如何なっているか。
(ロ)筑肥線廃止で今迄寸断されていた道路の南北連絡工事が各所で完成しているが旧鳥飼駅附近は未済、速かに処理されたい。。
◎緑地の公園化について
 別府7丁目9番地一帯は雑木林と墓地が混在している。之を整理して別府西公園の如く墓を残したままでよいから整備して公園にしていただきたい。
◎城南区の今後の計画について
 東七隈に区の市民センターが出来るとのこと、尚この他に区のマスタープランが既に出来ているのではないかと思うが如何。是非将来に楽しい夢が持てるような計画を作ってその実現に邁進していただきたくお願いする。

 之れに対して去る8月末区の市民生活課の課長方2人がわざわざ拙宅まで返事をもってやって来られた。口頭であったがあらましは、
◎道路について
(イ)中村学園からの道路拡幅は七隈四角まで25米の計画で中村学園の曲り角は着工している。但し其れ以外は未だ予算計上もなし。
(ロ)旧筑肥線を跨ぐ道路は駅の附近一部国有地もあり、又プラットホームの構築物がある等厄介な所でしばらく日時を要する。
◎緑地の公園化について
 別府7丁目9地域は管理代表者も不明確で且墓地改修は関係者多数の同意を必要とする等面倒なこと多く公園化要望のあることは承知しているので更に検討する。
◎城南区の計画
 市民センターは59年度、次は区役所が鳥飼駅跡に61年完成予定である。
 其他は未だ具体化した計画はない。之について「市民の皆さんから建設的な意見を寄せていただくことは大変結構である。 以上

 さてきく処によれば、之までの福岡市の例では一件をのぞき工事の為の立退き交渉は総て、双方の合意を得て実施された由である。
 七隈四角までの道路拡幅工事一つを考えても余程関係市民の理解と協力、市側の適正な予算措置、更にねばり強い担当者の説得交渉等が一体となってはじめて「順調に工事が進められるであろうが、それでも完成までには尚相当の年月を要するものと断ぜざるをえない。
 そこで我々はせいぜい健康に留意してあと10年、或いは20年以上も長生きして立派になるであろう城南区の街造りを見守ることに致しましょう。

トップに戻る