福岡市別府公民館
別府あれこれ -別府郷土史より-
1.四通八達の碑 (「別府郷土史研究」に同じ)
2.別府橋通り物語 (「別府郷土史研究」に同じ)
3.弓の馬場の将軍地蔵尊 (「別府郷土史研究」に同じ)
4.塚地蔵尊 (「別府郷土史研究」に同じ)
5.五穀神社 (「別府郷土史研究」に同じ)
6.福豊炭坑 (「別府郷土史研究」に同じ)
7.六本松のこと (「別府郷土史研究」に同じ)
創立20周年によせて
社会福祉法人、福岡県母子福祉協会・理事 藤村勝丸
別府公民館の創立20周年を迎え、別府校区の皆様方と共に心からお祝い申し上げます。
市の西南部耕地整理の終了後間もない昭和七年頃に設立されて30年間もわれわれ別府の町民が親しみを持ちながら使用した別府の公会堂も市立の公民館が建設されることになって解体されてしまうのを当時は心淋しく思っていたのでしたが、昭和39年6月には現在の新しい公民館が新築され、7月より新発足することになって解体されてしまうのを当時は心淋しく思っていたのでしたが、昭和39年6月には現在の新しい公民館が新築さ
れ、7月より新発足することになったので町民の人達もこの新公民館に対する喜びと将来への発展に期待をかけていたのでありました。
しかし、公民館の発足当時は公民館に対する地域住民の認識不足や公民館使用上の色々な制約などがあるため、公民館に対する親しみが薄かったので館長を始め職員の方々の公民館活動に関するご苦心も多々あったことと思っておりますが、年を重ねるにつれ公民館に関心を持つ人達も逐次増加し、公民館と地域住民との間に密接な関連性が根強く培われるようになって今日の公民館に成長発展したのであります。
わが別府公民館の誇りとする所は、多岐多彩な公民館活動が順調に推進されていることで、サークル活動の種類も30種目を越えている盛況さであります。
しかも、各サークルには夫々専門家の立派な講師の先生方がその指導を担当しておられるので、受講生の人達はただその道の知識技能を修得するだけでなく、お互いが楽しく学び合う中に相互間の温かい友情も芽生えて地域住民の和やかな集いの場にもなっているのです。 この外に高齢者教室や郷土史研究等の定例行事を含め臨時的な社会教育、地域内の衛生福祉活動などの推進の場としても多種多様広範に亘る事業に対するご協力も嘸かし大変なことと推察致し館長・主事を始め公民館関係者方々のご苦労に対してはただただ、頭の下る思いで常に感謝している次第であります。
わが別府の公民館はこのように経営内容の充実した校区内の社会教育中枢機関であり、その活動実績の優秀さは既に市当局にも認められているところであります。
昔から別府というのは早良郡鳥飼村の枝郷(字:あざ)であって、明治15年頃の鳥飼村の小字調べによると、別府には竹ノ下・別府・10畝町・中手早良(中津原)・原ばる(別府原ばる)、などの小字があってこれらの小字を総合したものを大字の別府と呼んでいたのであります。
大正8年11月鳥飼村が福岡市に合併し同12年の半ば頃より始められた市の西南部耕地整理は旧鳥飼村に属していた第三区・第四区が最後となり昭和7年頃に完成し別府の全地域内にも東西南北に巾広い新道が幾筋も新設されて、その頃まで殆んど人家のなかった竹ノ下・十畝町・中手早良にも民家が建ち並ぶようになって来たのです。
この時の耕地整理によって改められた別府各地域の名称には凡て町名が付けられ別府北町一・二丁目(現202号線の北部で鳥飼5丁目の一部、竹ノ下を含む)、別府町1・2丁目(別府本町)、別府新町1・2・3丁目(中手早良・十畝町の一部)、草ケ江本町1・2・3丁目(十畝町・別府原)、西田町1・2・3・4丁目(現別府4丁目のー一帯)、等の新しい町が出来たのです。
弓の馬場も西田町・別府原の一部を含めて1 ・2・3丁目に改められました。
交通の便がよくその上に環境もよいのでこの別府地区には年々民家が激増し今日の発展を見るに至ったのです。
鳥飼村が福岡市に合併前の大正中期の頃までは小字の別府(現1丁目1・2区)の戸数は36・76・7戸で別府原には草ケ江高等小学校や教護施設の福岡学園(感化院)などはあったが民家は十数軒を数える程しかなかったのです。
このように少ない戸数だったのですがわが別府には明治の昔から会議所という公共の設備があり、この地区内の人々の集会や諸行事の相談場所として使用され、夏の七夕の折には子供達の七夕揮毫の展示会場などにも利用されていました。
この建物の玄関前には土俵も設けられ、何かの行事の折には子供や青年会員達の相撲遊びも見られました。
この会議所は東蓮寺(部所名)の入り口藤村嘉市さん宅の北隣(現別府1丁目1区の5番17号)にあったのです。
また、その横の畑では明治の末期頃まで冬の寒い時期にはこの地域で収穫された砂糖きびによる砂糖絞めも行われ黒砂糖が造られていました。
この会議所も大正10年頃には私鉄筑肥線の新設工事事務所に貸与されていましたが工事完了後の同14年頃には建物も損傷が酷くなり土地と共に村内の希望者に売却され撤去されてしまったのです。
その後数年間は会議所の必要は認められながらも再建は出来なかったのですが幸にしてこの地区の耕地整理が昭和7年度早々に完了することになったので、これを機会にわが別府出身の市議会議員経験者であった藤村源路・橋本健太郎・三角松次郎の3氏を中心に町内の有志数名によって新公会堂設立の計画がまとめられ現公民館の場所に二階建ての別府公会堂が建設されたのです。
この公会堂は別府本町と別府新町の人々が主として使用したのですが、階下の広間は冠婚葬祭や多数の人々の集会の場として活用され二階では町内の役員会婦人会などの小会合の外子供達の習字指導などにも利用されていました。
この外わが別府には明治の頃より消防の組織があって4人掛かりで操作する赤い小型のハンドポンプとその附属品一式が公会堂玄関前(現公民館花壇の場所)の格納庫に保管されていたのですが、この消防ポンプも公会堂と運命を共にした公会堂の解体と同時にその姿を消してしまいました。
現在の草ケ江本町会館も別府公会堂の設立後間もなく創設されたのであります。
大正14年草ケ江小学校が創立された頃はその附近に一軒の民家もなく、ただ一棟の二階建校舎のみが広い田の中にぽつんと淋しそうに見えるだけでした。
しかし、その後はまたたく間に学校の周辺やその近郊に民家・商店が雨後の筍のように建ち並び、続いて別府地区や鳥飼地区の広い田や畑の中にも団地のビルや住宅が建設され人口の急増と共にものすごい勢で発展したのです。
新設の草ケ江小学校には谷・六本松・草香江地区の外に別府や鳥飼の子供達も通学が出来るようになって本校区内の人々からは「学校が近くなった。」と喜ばれていたのですが、昭和27年には鳥飼に又、時も同じ頃、小笹に笹丘小学校が草ケ江小学校の分校が新設され鳥飼・別府地区の子供達はこの鳥飼小学校に転校させられたのです。
その後僅か7年の歳月が立つか立だない中に鳥飼小学校にもまた分校の必要が生じ、昭和34年には鳥飼小学校の分校として別府小学校が現在の地に新発足することになったのです。
このようにして鳥飼小学校に通学していた別府地区の子供達はまた別府小学校に移され新設されたばかりの別府団地も含めて今日の新しい別府校区が制定されたのであります。
最初は鳥飼小学校の分校として開校した別府小学校ではありましたが、翌35年度からは独立した別府小学校として新発足したのです。
爾後本校区も別府小学校を中心に校区内の諸団体が誕生して夫れ夫れの目的に向って活動が開始されるようになった次第です。
昭和46年7月には更に第2回目の町堺町名の変更が実施され現在の別府団地を除く外別府1丁目から7丁目までの新町名に改められたのです。
参考までにその内容の明細を記しておきます。
別府1丁目(別府北町の一部と旧別府1・2丁目及び別府新町1丁目の一部)
別府2丁目(別府新町1・2・3丁目と草ケ江本町1・2・3丁目)
別府3丁目(草ケ江本町3丁目と鳥飼の一部及び別府新町1丁目3丁目の一部)
別府4丁目(西田町1・2・3丁目)
別府5丁目(弓の馬場1・2・3丁目と草ケ江本町1・2丁目の一部及び鳥飼の一部)
別府6丁目(田島の一部と七隈の一部)
別府7丁目(田島の一部)
別府団地(元田島の一部)は昭和35年発足当時のまま
その外に別府隣接の地、別府校区と関係の深い町に
茶山1丁目(田島の一部)
茶山2丁目(田島の一部)
田島2丁目(田島の一部と別府新町2丁目の一部)
などが新しく改定されています。
続いて昭和47年4月には福岡市も政令都市になり区制が実施されて今日に至っておりますが、公民館はその以前から市の末端行政の一機関として地域社会の円満な充実発展のため各校区内に設置されているもので、この別府校区には昭和39年7月既設の旧別府公会堂に代り現公民館がこの地に開設されたのです。
爾来歴代の館長を中心に職員や運営審議会委員方々のご熱心な運営努力の積み重ねが今日の優秀な公民館の実績を築き上げたのであります。
創設以来20年間の各サークル活動においては有形無形の貴重な作品や参考資料が数多く創作されていることx思いますが、不肖私の知っております1・2の例を紹介しますと、昭和55年2月に発行された別府公民館編集の『別府郷土史研究第一集』は、わが別府校区を中心にその近郊の歴史を集録したもので、郷土史家安川 巌先生の古文書による早良・鳥飼・別府などの地名の起源や藩政時代の鳥飼村を含む早良郡内の行政の概要を
始め別府の移り変りについては、幕末頃より明治の初期における戸数や人口、明治22年4月の鳥飼村と谷村の合併、大正8年11月の福岡市と鳥飼村の合併などの外に筑肥線と城南電車の開通、土地の区画整理と町名改正、別府地区の瓦斯施設なども紹介されております。
その他別府の四通八達碑、別府橋通りの物語、別府天満宮や五穀神、勝軍地蔵・塚地蔵、福豊炭坑などの故事来歴が調査され記載されています。
しかしながら、本校区内に在住している人でも一部の高齢者を除いてはこの貴重な史実を殆んど知らないのではないかと遺憾に思っています。
不肖私はこの第一集に記載されていない古い昔の体験談やわが別府に伝え残されていた昔の諸行事などを、第二集の積りで『別府の歴史見聞録』として著述発行し、公民館にもその一部を寄贈しておりますのでなるべく多くの方々にお目通しを頂きたく思っております。
また、昭和55年度より老人大学という高齢者の社会教育学習グループが開設され毎月2回ではありますが、この学習において色々と新しい時事問題や心の若返るような面白し講義を聞きながらグループの方々とも顔見知りになることの出来るこの集いの日を私達は楽しみにしている実情であります。
このクラスには予め定められた学習の外に、毎年夏休みの宿題として与えられた課題の作文を提出することになっていますが年度末までにはこれが寄麗に製本されてクラスの全員に手渡されることになっています。
この文集の中には高齢者の昔の辛い体験談や違い過去の懐しい想い出などの外に若い人達にも知ってもらい是非とも伝承して行きたい様々の大切な事柄が書き綴られているのです。
この貴重な高齢者の文集は最初の55年度より今年3月の58年度まで4年間分の4冊が既に発行されて公民館にも保管されています。
これらの出版物は若い人達ばかりでなく一般の皆様方にも必ずお役に立つものと確信致しております。
各サークル活動においても会員の皆様は入会してよかったと満足されていることと思っています。
このように公民館の存在は有難く大切なものです。
今後とも校区内地域住民の方が公民館の本旨を充分に理解し公民館活動の推進にご協力を賜わりますよう希望とお願いを申し上げ20周年記念の詞と致します。
市の西南部耕地整理の終了後間もない昭和七年頃に設立されて30年間もわれわれ別府の町民が親しみを持ちながら使用した別府の公会堂も市立の公民館が建設されることになって解体されてしまうのを当時は心淋しく思っていたのでしたが、昭和39年6月には現在の新しい公民館が新築され、7月より新発足することになって解体されてしまうのを当時は心淋しく思っていたのでしたが、昭和39年6月には現在の新しい公民館が新築さ
れ、7月より新発足することになったので町民の人達もこの新公民館に対する喜びと将来への発展に期待をかけていたのでありました。
しかし、公民館の発足当時は公民館に対する地域住民の認識不足や公民館使用上の色々な制約などがあるため、公民館に対する親しみが薄かったので館長を始め職員の方々の公民館活動に関するご苦心も多々あったことと思っておりますが、年を重ねるにつれ公民館に関心を持つ人達も逐次増加し、公民館と地域住民との間に密接な関連性が根強く培われるようになって今日の公民館に成長発展したのであります。
わが別府公民館の誇りとする所は、多岐多彩な公民館活動が順調に推進されていることで、サークル活動の種類も30種目を越えている盛況さであります。
しかも、各サークルには夫々専門家の立派な講師の先生方がその指導を担当しておられるので、受講生の人達はただその道の知識技能を修得するだけでなく、お互いが楽しく学び合う中に相互間の温かい友情も芽生えて地域住民の和やかな集いの場にもなっているのです。 この外に高齢者教室や郷土史研究等の定例行事を含め臨時的な社会教育、地域内の衛生福祉活動などの推進の場としても多種多様広範に亘る事業に対するご協力も嘸かし大変なことと推察致し館長・主事を始め公民館関係者方々のご苦労に対してはただただ、頭の下る思いで常に感謝している次第であります。
わが別府の公民館はこのように経営内容の充実した校区内の社会教育中枢機関であり、その活動実績の優秀さは既に市当局にも認められているところであります。
昔から別府というのは早良郡鳥飼村の枝郷(字:あざ)であって、明治15年頃の鳥飼村の小字調べによると、別府には竹ノ下・別府・10畝町・中手早良(中津原)・原ばる(別府原ばる)、などの小字があってこれらの小字を総合したものを大字の別府と呼んでいたのであります。
大正8年11月鳥飼村が福岡市に合併し同12年の半ば頃より始められた市の西南部耕地整理は旧鳥飼村に属していた第三区・第四区が最後となり昭和7年頃に完成し別府の全地域内にも東西南北に巾広い新道が幾筋も新設されて、その頃まで殆んど人家のなかった竹ノ下・十畝町・中手早良にも民家が建ち並ぶようになって来たのです。
この時の耕地整理によって改められた別府各地域の名称には凡て町名が付けられ別府北町一・二丁目(現202号線の北部で鳥飼5丁目の一部、竹ノ下を含む)、別府町1・2丁目(別府本町)、別府新町1・2・3丁目(中手早良・十畝町の一部)、草ケ江本町1・2・3丁目(十畝町・別府原)、西田町1・2・3・4丁目(現別府4丁目のー一帯)、等の新しい町が出来たのです。
弓の馬場も西田町・別府原の一部を含めて1 ・2・3丁目に改められました。
交通の便がよくその上に環境もよいのでこの別府地区には年々民家が激増し今日の発展を見るに至ったのです。
鳥飼村が福岡市に合併前の大正中期の頃までは小字の別府(現1丁目1・2区)の戸数は36・76・7戸で別府原には草ケ江高等小学校や教護施設の福岡学園(感化院)などはあったが民家は十数軒を数える程しかなかったのです。
このように少ない戸数だったのですがわが別府には明治の昔から会議所という公共の設備があり、この地区内の人々の集会や諸行事の相談場所として使用され、夏の七夕の折には子供達の七夕揮毫の展示会場などにも利用されていました。
この建物の玄関前には土俵も設けられ、何かの行事の折には子供や青年会員達の相撲遊びも見られました。
この会議所は東蓮寺(部所名)の入り口藤村嘉市さん宅の北隣(現別府1丁目1区の5番17号)にあったのです。
また、その横の畑では明治の末期頃まで冬の寒い時期にはこの地域で収穫された砂糖きびによる砂糖絞めも行われ黒砂糖が造られていました。
この会議所も大正10年頃には私鉄筑肥線の新設工事事務所に貸与されていましたが工事完了後の同14年頃には建物も損傷が酷くなり土地と共に村内の希望者に売却され撤去されてしまったのです。
その後数年間は会議所の必要は認められながらも再建は出来なかったのですが幸にしてこの地区の耕地整理が昭和7年度早々に完了することになったので、これを機会にわが別府出身の市議会議員経験者であった藤村源路・橋本健太郎・三角松次郎の3氏を中心に町内の有志数名によって新公会堂設立の計画がまとめられ現公民館の場所に二階建ての別府公会堂が建設されたのです。
この公会堂は別府本町と別府新町の人々が主として使用したのですが、階下の広間は冠婚葬祭や多数の人々の集会の場として活用され二階では町内の役員会婦人会などの小会合の外子供達の習字指導などにも利用されていました。
この外わが別府には明治の頃より消防の組織があって4人掛かりで操作する赤い小型のハンドポンプとその附属品一式が公会堂玄関前(現公民館花壇の場所)の格納庫に保管されていたのですが、この消防ポンプも公会堂と運命を共にした公会堂の解体と同時にその姿を消してしまいました。
現在の草ケ江本町会館も別府公会堂の設立後間もなく創設されたのであります。
大正14年草ケ江小学校が創立された頃はその附近に一軒の民家もなく、ただ一棟の二階建校舎のみが広い田の中にぽつんと淋しそうに見えるだけでした。
しかし、その後はまたたく間に学校の周辺やその近郊に民家・商店が雨後の筍のように建ち並び、続いて別府地区や鳥飼地区の広い田や畑の中にも団地のビルや住宅が建設され人口の急増と共にものすごい勢で発展したのです。
新設の草ケ江小学校には谷・六本松・草香江地区の外に別府や鳥飼の子供達も通学が出来るようになって本校区内の人々からは「学校が近くなった。」と喜ばれていたのですが、昭和27年には鳥飼に又、時も同じ頃、小笹に笹丘小学校が草ケ江小学校の分校が新設され鳥飼・別府地区の子供達はこの鳥飼小学校に転校させられたのです。
その後僅か7年の歳月が立つか立だない中に鳥飼小学校にもまた分校の必要が生じ、昭和34年には鳥飼小学校の分校として別府小学校が現在の地に新発足することになったのです。
このようにして鳥飼小学校に通学していた別府地区の子供達はまた別府小学校に移され新設されたばかりの別府団地も含めて今日の新しい別府校区が制定されたのであります。
最初は鳥飼小学校の分校として開校した別府小学校ではありましたが、翌35年度からは独立した別府小学校として新発足したのです。
爾後本校区も別府小学校を中心に校区内の諸団体が誕生して夫れ夫れの目的に向って活動が開始されるようになった次第です。
昭和46年7月には更に第2回目の町堺町名の変更が実施され現在の別府団地を除く外別府1丁目から7丁目までの新町名に改められたのです。
参考までにその内容の明細を記しておきます。
別府1丁目(別府北町の一部と旧別府1・2丁目及び別府新町1丁目の一部)
別府2丁目(別府新町1・2・3丁目と草ケ江本町1・2・3丁目)
別府3丁目(草ケ江本町3丁目と鳥飼の一部及び別府新町1丁目3丁目の一部)
別府4丁目(西田町1・2・3丁目)
別府5丁目(弓の馬場1・2・3丁目と草ケ江本町1・2丁目の一部及び鳥飼の一部)
別府6丁目(田島の一部と七隈の一部)
別府7丁目(田島の一部)
別府団地(元田島の一部)は昭和35年発足当時のまま
その外に別府隣接の地、別府校区と関係の深い町に
茶山1丁目(田島の一部)
茶山2丁目(田島の一部)
田島2丁目(田島の一部と別府新町2丁目の一部)
などが新しく改定されています。
続いて昭和47年4月には福岡市も政令都市になり区制が実施されて今日に至っておりますが、公民館はその以前から市の末端行政の一機関として地域社会の円満な充実発展のため各校区内に設置されているもので、この別府校区には昭和39年7月既設の旧別府公会堂に代り現公民館がこの地に開設されたのです。
爾来歴代の館長を中心に職員や運営審議会委員方々のご熱心な運営努力の積み重ねが今日の優秀な公民館の実績を築き上げたのであります。
創設以来20年間の各サークル活動においては有形無形の貴重な作品や参考資料が数多く創作されていることx思いますが、不肖私の知っております1・2の例を紹介しますと、昭和55年2月に発行された別府公民館編集の『別府郷土史研究第一集』は、わが別府校区を中心にその近郊の歴史を集録したもので、郷土史家安川 巌先生の古文書による早良・鳥飼・別府などの地名の起源や藩政時代の鳥飼村を含む早良郡内の行政の概要を
始め別府の移り変りについては、幕末頃より明治の初期における戸数や人口、明治22年4月の鳥飼村と谷村の合併、大正8年11月の福岡市と鳥飼村の合併などの外に筑肥線と城南電車の開通、土地の区画整理と町名改正、別府地区の瓦斯施設なども紹介されております。
その他別府の四通八達碑、別府橋通りの物語、別府天満宮や五穀神、勝軍地蔵・塚地蔵、福豊炭坑などの故事来歴が調査され記載されています。
しかしながら、本校区内に在住している人でも一部の高齢者を除いてはこの貴重な史実を殆んど知らないのではないかと遺憾に思っています。
不肖私はこの第一集に記載されていない古い昔の体験談やわが別府に伝え残されていた昔の諸行事などを、第二集の積りで『別府の歴史見聞録』として著述発行し、公民館にもその一部を寄贈しておりますのでなるべく多くの方々にお目通しを頂きたく思っております。
また、昭和55年度より老人大学という高齢者の社会教育学習グループが開設され毎月2回ではありますが、この学習において色々と新しい時事問題や心の若返るような面白し講義を聞きながらグループの方々とも顔見知りになることの出来るこの集いの日を私達は楽しみにしている実情であります。
このクラスには予め定められた学習の外に、毎年夏休みの宿題として与えられた課題の作文を提出することになっていますが年度末までにはこれが寄麗に製本されてクラスの全員に手渡されることになっています。
この文集の中には高齢者の昔の辛い体験談や違い過去の懐しい想い出などの外に若い人達にも知ってもらい是非とも伝承して行きたい様々の大切な事柄が書き綴られているのです。
この貴重な高齢者の文集は最初の55年度より今年3月の58年度まで4年間分の4冊が既に発行されて公民館にも保管されています。
これらの出版物は若い人達ばかりでなく一般の皆様方にも必ずお役に立つものと確信致しております。
各サークル活動においても会員の皆様は入会してよかったと満足されていることと思っています。
このように公民館の存在は有難く大切なものです。
今後とも校区内地域住民の方が公民館の本旨を充分に理解し公民館活動の推進にご協力を賜わりますよう希望とお願いを申し上げ20周年記念の詞と致します。