別府郷土史研究(福岡市別府公民館)



もくじ 
  別府公民館長 鳥井松三


  

 大正八年、早良郡鳥飼村が福岡市に吸収合併されたとき、字の一つであった別府地区も同時に併合されたが、当時は市の郊外というよりも純農村にちかく住民も少なかった。

 その後、大正の終りから昭和にかけて、別府地区内の耕地整理が実施されるにともない、遂次住家も増え、特に戦後は戦災にあった人々の移住により、又、三十年代の半ば頃以降は、団地、公務員宿舎、社宅などのアパート群等が相ついで建設されるにつれて、田圃は次々と宅地となって別府地区内から姿を消していった。
農業用水路は埋立てられて街路の拡張に利用され、東西に貫通する道路は、国道二〇二号線のバイパスとして、道幅も二〇メートルに拡幅改修された。
 ここ十数年の変りようは又特別なものである。

 東京に庄んでいる子供たちは、帰郷するたびに道を間違えたと苦笑するありさまで、周りの変化の激しさには今さらながら驚くばかりである。

 そうしたおり、公民館では、前館長時代に、高齢者学級の選択コースのーつとして郷土史研究コースが開設された。それは、この別府の歴史について、旧家に保存されている文書や資料が散逸しないうちに、又当時の事情に詳しい古老の方々が御健在なうちに、調査あるいは、聞き正す作業をしておくべきではないか、との考えからであった。

 郷土史家安川 巌先生の御指導、御教示のもと、約二年を経過し、このあたりで一応まとまったものについては、数編を選び小冊子にして、一つの節目にしたらということになり、この冊子を第一集として印刷配布する次第です。

 一応まとまったものとはいえ、資料・調査については限られたものであり、まだまだ不備な点も多々あることかと思います。

 みなさまの御協力により、加筆、訂正しながら、一層、内容のあるものにして、第二、第三集と回を重ねていきたいと考えておりますので、忌憚のない、ご批判、ご助言を乞う次第であります。

昭和五十五年二月二十六日    
別府公民館長 鳥 井 松 三



    


一、別府のうつりかわり
安川 巌



  
 別府(べふ)・別府(べっぶ)という地名のついたところを『大日本地名辞典』から抜きだしてみると、次のように全国各地に分布散在している。

  別府(べふ)  播磨・伊予・豊前・筑前
  別府(べっぷ) 武蔵・摂津・備中・豊後・肥前

 別府(べふ)・別府(べっぶ)は全く同意義な言葉で、別符からでたものという。別符の地名も岩代・肥前・肥後に存在する。
 別符は別勅符田を省略したものであるといわれている。
 別勅符田は律令制のもとで、朝廷が功績のあった人に対して特別な文書で田地を下附した土地制度を指し、平安時代から鎌倉時代にかけて成立したが、この土地制度は田制の乱れとともに変質した。
 たとえば、官符によって立券した庄園が開墾されるにしたがって、その開かれた新田を第二の官符によって追加公認されたものを指すようになり、後には領主・地頭の権限によって開墾された土地そのものまでも「別符」と呼ぶようになった。

 国学者伊藤常足が著した『太宰管内誌』に、「早良郡別府村は今鳥飼村に属せり。(略)別府と呼処は此外にもあり、いにしえに宮人などの居たり処なるべし」とあり、粕屋郡志免町別府とともに別府(べふ)・別府(べっぶ)の地名は九州には多い。
 その代表的なものは温泉郷で知られる大分県別府市であろう。

 とくに、郷土別府は太宰府政庁のころには附近に鴻櫨館・警固所などが置かれていたから、それらの場所に勤務した役人に対して下附された土地ではなかっただろうか。

 「竹崎五郎絵詞」に、「凶徒赤坂陣を駈落されて二手と成て、大勢はすははらに向けて引く、肥後勢は別府のつか原に、鳥飼の汐干潟を大勢に成合むと引くを追掛、云々」とあり、別府の地名は早くから呼ばれていたものと思われる。

 別府はその昔、樋井の郷とよばれ藩政時代は早良郡鳥飼村の枝郷
であっ
た。
 まず、早良郡の早良という地名であるが、延長五年(927)に編纂された律令の施行細則『延喜式(えんぎしき)』の二十二巻民部上に、「西海道筑前国上巻早良」とみえ、それより七年後の承平四年(934)に源順(みなもとのしたがう)が著したわが国最初の分類漢和辞典『倭名類聚抄(わみょうるいしゅうしょう)』の西海部十七筑前国の部に「早良(佐波良)」とあり、『倭名類聚抄』は早良六郷として早良(サワラ)・額田(ヌカダ)・平郡(ヘグリ)・能解(ノケ)・田部(タベ)・睨伊(ヒイ)の地名をあげている。

 これらの地名について国学者青柳種信は、『古事記中巻』に「平郡都久宿弥者(ヘグリノツクノスクネ)、平郡臣(ヘグリノオミ)・佐波良臣(サハラノオミ)・馬御樴連(ウマミヘクソムラジ)等祖先也」とあり、『姓名録』に「早良臣ハ平群ノ朝臣ノ同祖、武内宿弥ノ男、平群都久宿弥之後也」とあるところから、早良という地名や六郷の地名は武内宿弥の子孫が筑紫の地に留って国政を司ったので、その氏姓がそれらの地名になっ
たのであろうと述べている。

 早良という郡名が早良ノ臣からでたものか、郡名から早良の姓を名乗ったものか、何れが先か詳しいことは判らないが、何れにしてもこれらの史料からみて古くからあった地名であることには間違いはない。

 『倭名類聚抄』には睨伊(ヒイ)とあるが、後には樋井と称せられるようになった。これについて貝原益軒は『筑前国続風土記』で次のように述べている。

 「此郡中、桧原村の東に長き樋あり、是は川の上に樋を掛て川向に水をとり、田をひたすためなり。樋の長七問半あり。むかしより此樋ある故に此辺を樋の郷といへり。」

 眺伊の地名は田島川にかけられた養水のための樋井から、やがて樋の郷・樋井の郷と転訛したと説明しているのである。したがって田島川を厳密に云えば、田島を境にして上流を樋井川といい、「田島より下にては田島川と云う小川也」(続風土記)ということになる。

  樋井の郷は樋井川・田島川の潤す流域、東油山・樫原・桧原・堤・片江・長尾・田島・鳥飼・麁原・荒江の十か村をいう。その田数は263町3反4畝28歩であったといわれている。

 別府が属した鳥飼村について青柳種信は『筑前国続風土記附録』で、「日本紀に垂仁天皇の御世に諸国に鳥飼部を始めて置れしよし見へ、これは当村の名も其鳥飼部の住たりし故の遺名なるべし」と、鳥飼部の職名が村名になったものであろうと述べている。

 『若(鳥飼)八幡宮縁記』によると、神功皇后が朝鮮征伐を終えられて姪浜に上陸され、夜になって鳥飼村まで来られたとき村の住人鳥飼氏が夕べの御膳を差しあげたといわれ、後になって其地に御廟を建立、中殿に八幡大神、左に宝満大神、右に聖母大神を祭り、これが鳥飼八幡宮のおこりいわれている。

 神功皇后にまつわる伝説は福岡市附近の各地に多くのこされている。
この鳥飼の地名も鳥飼部の遺名によるものか、神功皇后の伝説にもとずくものか、はっきりとしたことは判らないが『筑前国続風土記』に、

 「神功皇后御帰朝の時、御饌を奉りし鳥飼氏なりし人の子孫、天正の比、猶此村にあり。鳥飼宮内少輔と云。其子を三郎と号す。其宅の址村中にあり。天正十四年の比にや、御笠郡岩屋の城より夜討をかけしかは、父子共にうち死して其嗣なし。鳥飼氏なる人は、猶民間に残れり。」
とある。現在でも鳥飼八幡宮の神事として鳥飼氏の子孫にあたる人たちの宮座による神饌奉仕が続けられている。


 藩政時代、早良郡は上触と下触の二つに分けられていた。触れというのは大庄屋が統轄した行政区域をいい、大庄屋を触口といった。

 下触は早良郡東北部の樫原・桧原・堤・東油山・上長尾・下長尾・田島・片江・谷・鳥飼・七隈・飯倉・荒江・原・小田部・庄・免・福重・下山門・姪浜・残島・麁原・西新の二十四か村であった。

 それぞれの村には庄屋がいて年貢米の徴収・夫役の割当徴発・宗旨改、あるいは郡・村切立銭の徴収などにあたり村政全般を掌把していた。庄屋のもとには組頭・祖頭取・山の口・散使などがいて庄屋の補助的な役割を果した。それらの村をまとめて統括したのが大庄屋である。

 その下触の大庄屋名と鳥飼村庄屋名を掲げると次のようになる。

       下触大庄屋名       鳥飼村庄屋名

 元禄年中  田島村  孫市 (西島) 安永期  曽七  (鳥飼)
 明和年中  鳥飼村  惣七郎(相戸)  〃   孫三  (鳥飼)
 寛政期   下長尾村 定作      文化期  次右ヱ門
 文政期   不明   弥平       〃   与市  (簑原)
  〃    鳥飼村  太七 (簑原) 文政期  惣次郎 (相戸)
 天保期   下山門村 九兵衛(青木)  〃   太七  (簑原)
  〃    鳥飼村  惣次郎(相戸) 天保期  文右エ門(藤村)
 嘉永~文久 鳥飼村  惣次郎(相戸) 文久期  半四郎 (讃井)
 元治~慶応 有田村  甚作 (末松)  〃   善六  (讃井)
 明治初年  片江村  伊三郎(石橋) 明治初年 善蔵  (相戸)
                                        明治6年  中山 徴
                                        明治6・7年  松尾 耕一
                                        明治10年  藤村 又作
                                        以後      長尾藤三郎
                                         〃      浜地 辛

※なお年度不詳として讃井清右エ門・鳥飼曽六・簑原与市の名がみえるので
 鳥飼村からの選出があったものであろう。

 もっとも明治6年以降は大小区画制となったので庄屋とはいわず戸長といった。一体に大庄屋は世襲制であったが、早良郡では交替制であったことが注目されよう。
 次に下触大庄屋鳥飼村相戸惣次郎家(相戸博敏氏所蔵)に伝わる文書を紹介しておこう。

 「       申 渡 覚
  先般小呂嶋江朝鮮之漁船致漂着候節、人馬諸手当之儀申入候間も無之、宿々早速人馬共相揃差支無之、速ニ場所行込ニ相成候急速之儀心得方宜、速ニ致出方候段、兼而宰判方宜致出精候。
  尤此度ハ誠之漁船ニ付、御多人数不被差向候得共、自然異成船渡来致間舗ものニも無之候条、此節之通巌重ニ相心得可中候事
                   権 之 丞  黒印
      子十二月                    」

 この書状は小呂島に漂着した朝鮮漁船の検挙のために出役した役人のために、下触の村々から人馬供給が急速に行われたことに対してだされた褒賞状である。
 領国沿岸警備の出役に際し鳥飼村からも荷馬人足の供給があったことの窺える興味深い文書である。


 文書といえば、別府村の伊勢講に関する諸記録が藤村格兵衛氏によって保存されている。

 別府では最近まで主婦の間で伊勢講の主旨は変質しているけれども講は継続され毎月、日を定めて講座が催されていたという。そこで別府村の伊勢講についても記しておこう。

 伊勢講というのは、伊勢神宮への信仰を中心にして結ばれた講中のことで、室町時代の末期の頃から一般民衆のお伊勢参りが盛んに行われるようになり、江戸時代にはそれが一般化した。

 藩政時代には一般領民が他国に旅行することは原則的に禁止されていたが、神仏への信仰参詣は例外であった。とくに、伊勢参宮は期間も永く許されていた関係もあって、他国への見物のための旅行もお伊勢参りに名を借ることが多かった。

 そこで参宮のための旅行費用を捻出するために村では講中を結び、くじ引きで代参者を選んだ。代参者が決ると講座元に全員が集り、伊勢神宮から受けてきた「天照大神」の掛軸(これも藤村家に現存)をかけて拝し、酒宴を催して歓送する。
 無事帰国すると、神宮でうけた大麻を土産として全員に配り、他国の珍らしい土産話を講中に語り、講員もまた泗宴を開いて旅行の苦労をねぎらった。

 さて、別府村の伊勢講がいつの頃から発起されたのか、その起源ははっきりとは判らないが、安政期(1854~)から慶応期(1865~)にかけての諸記録が多く残されているので、その頃がもっとも盛んであったのであろう。

 講員は別府村居住の百姓中十六軒のうち12軒で、講主は藤村文右衛門であった。講規則の「定書」によると、掛金は毎月米3升であった。
 したがって、毎月3斗6升の米があつまることになる。講員の間でくじ入れが行われ本くじに当れば米1俵(3斗3升人)、花くじ3本は1升宛であった。
 発起月の掛米はこのように分配されたから手元には残らないが、翌月から本くじに当った人が1升を掛け増したからこの分を金に替えて積立てた。
 翌月は1升、翌々月は2升と段々増えてゆく仕組で1年には6斗6升(2俵)となり、これが積立てられて基金となった。

 たとえ1ケ年ではわずかな金額であったが年を重ねるうちに基金も増え、この基金を希望者に貸付けた。この場合の利息は1割であった。
 残された「大福有銭借渡勘定帳」によって、その貸付金額・拝借人・利息・返済状況を窺うことができるが、この掛米からみると多額の費用を要したお伊勢参りに毎年代参者を送りだすことは困難であったようである。
 何年かに1度のチャンスがめぐって来る程度のものではなかったかと考えられる。とすると、別府村の「伊勢講」は伊勢参宮の旅行費用の捻出というよりも、むしろ村民の相互救済のためのものであったようである。

 その主旨が活されて最近まで主婦の間で講座が結ばれてきたことは非常に珍らしいことである。

 藤村家には前記の伊勢講に関する記録書のほか、「享和三年亥八月薬師堂普請入目覚帳」、「安政二卯十二月薬師様算用之覚」、「安政六年正月薬師如来再立」など、部落信仰の対象となった薬師堂の修理修覆、諸入用の記録もある。

 この記録は、薬師様が村落共同体の信仰の対象として敬められ、部落民によって管理維持されてきただけに村の戸数や人口が誌るされていて幕末から明治にかけての別府村を知るうえで非常に参考になる。

 「安政六年(1859)末六月薬師様再建」によれば、別府村内の居庄世帯数は37戸で、有姓者は21戸であった。
 有姓者は大塚一二三(馬廻250石)、山口孫作(無足組22石6人扶持)、高嶋佐兵衛(清正流陣貝師範5人扶持)などの士分の者も居たが、大部分は足軽・小役人・御馬方など卒に属する身分の者であった。
 無姓者はもちろん百姓身分の者である。したがって村内居住者の56%6が御家中であり、43%2が農民であったということになる。
 城下にもっとも近いだけにこのような住民構成となったものであろう。

 次で「愛宕神社御神納米切立帳」によって明治14年~27年の戸数・人口をみてみると表1のようになる。
  

  これからみると、安政6年には37戸であったものが、明治27年には29戸に減少している。
 この傾向は鳥飼村全体についても云えることであって、廃藩置県による家中の扶持ばなれと、福岡・博多の市中への移住が考えられる。
 参考までに明治末期の鳥飼村の戸数と人口を示してみると表2のようになる。

 これより先、廃藩置県後の明治4年4月4日、戸籍簿の公布にともない戸籍事務を円滑に運営するための行政区制として「区」が設けられた。
 「区」はのちには地方行政区域としての発達をみるが、大小区制度における鳥飼村と隣りの谷村をみてみると、発足当初はともに第一大区・二十四小区に属していたが、明治9年の大区改定にともなって、第九大区・第三小区に変更され、次で明治11年7月、郡区町村編成法の公布によって小区制が廃止され、郡のもとに町・村がおかれるようになり、さらに明治21年には法律第一号による町村制が実施にうつされ、旧藩時代の小さな
村の合併統合が企てられ町村合併が進行した。
  

 鳥飼村では隣村の谷村との合併が強力に推進された。このときの合併調書によると、
 「1 鳥飼村梢々独立ノ資カアリテ他卜合併ヲ企望セザルモ、谷村ノ如キ(貧弱他二合併スル適当ノ町村ナキニ因リ、鳥飼村ノ企望二脊クモ、之ヲ合併シテ有力の町村ヲ構成セントス
  2 鳥飼村旧村、且ツ有カナルヲ以テ鳥飼村卜撰定ス
  3 地勢風俗差異ナク、両村ノ合併将来ノ便益卜認ム。然ルニ鳥飼村人民(之ヲ嫌忌スルモ、他日(其熱ヲ冷カナラシムベシ、将来町村役場「鳥飼村二設置スルヲ便ナリトス。」
とある。

 両村の耕地・宅地面積・戸数・人口を掲げると表3のとおりである。


 両村の戸数・人口はほぼ均等ではあるが、田畑は鳥飼村が多く、谷村には山林が多い。
 藩政時代谷村は下級武士の居庄地であった。それだけに谷村には生産手段をもたない旧士族階級の人たちが多く、村は財政的に貧弱であったことが想像される。
 しかも町家・農家が多かった鳥飼村とは階級的・感情的な対立もあったらしく、これがため両村の合併に際しては「鳥飼村人民ハ之ヲ嫌忌」したようである。
 しかし、財政的に貧弱であった谷村はどこかの村と合併しなければ独立して村政を行うことができず、「鳥飼村ノ企望二背クモ」これを合併して「有力ナ町村ヲ構成」するため両村の合併は強力に推進された。

 翌明治22年4月1日両村は合併、村名を鳥飼村とし村役場は鳥飼村におかれた。
 なお、これと同時に上長尾・下長尾・田島・片江・桧原・堤・柏原・東油山の八か村も合併して樋井川村となり、村役場は田島村に設けられた。
この八か村の合併理由は「古来ノ樋ノ郷卜唱フルー区域」であったからとされている。

 大正期に入ると、福岡市はかねて懸案としていた近接町村との合併を強力に推しすすめるようになった。
 まず大正元年10月には警固村、同4年4月には豊平村の一部、同8年11月には鳥飼村、同11年4月西新町、同年6月には住吉町の合併が実現、今日の政令都市福岡の基礎が着々として築かれた。

 明治37年における鳥飼村の戸数375戸のうち、農業を営むものはわずか17戸であった。
 大部分は給与所得者・商工業・自由業で、明治末期になると既に従来の農村から抜けだして商工業を中心にした市中に近接した住宅街へ変貌しつつあることが窺える。
 明治末期には戸数・人口の減少傾向がみられたが大正期に入ると村内の人口は増えはじめる。福岡市の発展とともに近接町村の住宅開発もすすめられたと思われる。

 福岡市と鳥飼村の合併理由は「地勢上密接の関係を有し、生活程度等ほぼ同一の状態」で、鳥飼村から福岡市へ対し「合併の希望を有」したからという。
 その合併は直に実現するかにみえたが、一方では合併を阻止する運動も起りなかなか実現をみなかった。合併反対の理由の一つにヶ江高等小学校の存続問題があった。

 早良郡では明治19年8月には郡内の組合組織で西新町に高等小学校を創立していたが、教育が普及されるに従って児童の通学の便利をはかり、明治32年6月、区域を分けて有田(原・金武・田隈・壱岐・姪浜)、草ヶ江(西新・鳥飼・樋井川)の二校とした。
 もっとも、入部・脇山・内野の3か村はこれより先の明治25年7月に学校組合を組織して入部高等小学校を設立している。(この高等小学校は明治43年3月には各村の尋常小学校に高等科が附設されたために解散した)
 なお、有田高等小学校は明治38年4月1日、姪浜尋常小学校に高等科が併設されたので、姪浜が抜け原・田隈・壱岐・金武の4か村組合学校となり、この時点での郡内における組合立の高等小学校は有田・草ヶ江・姪浜・入部の4校であった。

 さて、鳥飼村の福岡市への合併運動が起ると草ヶ江高等小学校の経営問題に波及した。もともとが西新・鳥飼・樋井川の3か町村の組合学校であるために、鳥飼村が福岡市との合併によって組合から脱退することになると、同校の経営は当然西新町と樋井川村で引継れなければならない。したがって経営上の問題から同校の存続があやしまれるようになりこれが合併の阻止運動となったのである。

 この間当事者間で多くの接渉がもたれたが解決はつかず、ついに同校は解散することになった。その財産処分の内訳は全財産の55%を樋井川村、30%を西新町、15%を鳥飼村へ分配するということであった。この分配基準が何を根拠にしたものか明らかではないが、おそらく政治的な配慮が多分に加った結果ではないかと思われる。

 ともあれ、合併の難関となっていた草ヶ江高等小学校の問題が解決したため気運は一挙に盛りあがり、大正8年11月1日付をもって福岡市への合併が実現した。
 今川橋を起点に、終点を糸島郡加布里にした北筑軌道株式会社の発起人であった三島藤太等は、唐津までの軌道延長の実現を目指して北九州鉄道株式会社の設立に東奔西走した結果、大正8年3月15日唐津に於て創立総会を開き、資本金500万円(払込350万円)で会社を設立、早速軌道敷設にとりかかり、まず大正12年12月には浜崎・福吉間を開通、翌年4月には前原・浜崎間、さらに7月には虹の松原まで延長開通をみた。
 次で大正14年4月5日、姪浜・新柳町間、虹の松原から唐津までの工事が完成、ここに全線の開通をみるに至った。

 当時の時刻表をみてみると、新柳町始発6時40分、終発10時で8本、東唐津始発6時、終発10時40分で9本の列車を動かし、新柳町駅からの普通乗車賃金は姪浜27銭、今宿41銭、周船寺50銭、前原62銭、加布里70銭、深江83銭、福吉1円、浜崎1円26銭、終点の東唐津までは1円40銭であった。

 その後、東唐津を経て山本までの開通はみたが山本から先の伊万里までの開通はなかなか実現しなかった。経営も困難となり株価も下落して全額払込のものがわずかに6円になったときもあった。昭和10年に至り関係者の努力によって伊万里までの開通はみたものの社運は振わず、政府の買上げを望む声が強かった。

 北九州鉄道株式会社が国鉄に移管されたのは昭和12年10月のことである。

 これより先、昭和2年3月25日大東亜博覧会の開会と同時に新柳町と西新町を結ぶ城南電車、営業キロ数4,988km、が九州水力電気株式会社によって開通営業を開始している。
 起点を新柳町(渡辺通一丁目)とし、それより城南橋・平尾・古小鳥(以上で1区)、練塀町・天狗松・六本松(以上1区)、高等学校前・大濠・鳥飼・城西橋・西新町(以上1区)が停留所で、この間を電車8台で15分間隔で運転を行い、乗車料金は1区3銭であったが、博覧会の会期中は半額の1銭五厘に優待割引された。
 この博覧会開催を契機にして薬院・六本松・別府・鳥飼方面の地域の発展が急速に促がされた。

 明治十五年の早良郡鳥飼村の小字調をみると、村内には次のような小字名がある。
 大坪・浜田・雁原・玄丹・本村・前田・後・竹ノ下・別府・十畝町・中手早良・原・西田原・中浜・西ケ崎・地行・新大工町・桝小屋浜・赤坂の山・ツツジ山・風切谷・茶園谷・馬場頭・浪人谷・井手ノロ・土手の内・馬屋谷・天狗松・六本松・上ノ町・弓射場・蓮地・御馬屋後・新屋敷

 これらの小字名は土地区画整理や町名の改称などによって使われなくなり、今ではこれらの土地が何所であったのか、それすら判らなくなってしまったところさえある。

 全国で広く用いられている土地の地番は、明治初期地租課税の目的で設定された土地の整理番号であった。
 その後、市街地の都市化現象がすすみ社会情勢が変化するにしたがって、当初地押順で定められた地番も分筆・合筆等の結果、欠番・枝番・飛び番などの欠換を生じ市民生活上の実情にそわなくなり、交通・通信・訪問あるいは行政のうえで混乱を生ずるようになってきた。

 周辺町村を順次併合してきた福岡市では大正12年6月に西南地帯の耕地整理に着手したが、旧鳥飼村の属する第3区・第4区の耕地整理は昭和6年に至ってようやく進められている。
 そのときの町名改称図によれば次のような案が提出されていたようである。

 茶園谷           茶園谷・ツツジ山・土手の内・
               井手口・川崎
 六本松           六本松・上ノ町の一部
 大坪町一・二丁目      大坪
 浜田町一 ・二丁目     浜田
 浜田町三丁目        雁原
 城南町           浜田
 草香江町          浜田
 別府北町一・二丁目     竹ノ下
 別府一・二丁目       別府
 別府新町一丁目       別府
 別府新町二丁目       中手早良
 別府新町三丁目       中手早良・十畝町
 草香江本町一丁目      十畝町
 草香江本町二・三・四丁目  原
 西田町一・二・三丁目    西田
 弓の馬場一丁目       西田
 弓の馬場二・三丁目     西田・西田原
 塩屋町一・二丁目      竹ノ下・西新抱地(中浜)
 上中浜一・二丁目      竹ノ下・西新抱地(中浜)
 上中浜三丁目        中浜・石丸
 龍王町           石丸
 城西町           浜
 二百石町          浜・西ケ崎
 西ケ崎町          浜
 菰川西町          玄丹
 菰川東町一・二・三・四丁目 玄丹
 鳥飼一・二・三丁目     玄丹・後
 鳥飼四丁目         玄丹・本村
 鳥飼本町一・二・三・四丁目 本村
 鳥飼五・六丁目       雁原・前田
 城西橋通          西ケ崎
 上今川橋通         西ヶ崎
 西新町一丁目        西ヶ崎
 今川通新町         西ヶ崎
 中田町           中東・中’向畑
 下田町           下田

 土地の区画整理によって一応新たな町名の設定はみたものの、それはその区域内に限られたものであって、全市的な視野にたって行われたものではなく、統一を欠き行政の区画としては不適当なものであった。
 町の呼び名も公称と通称の2つで呼ばれ、且つ地番もその後の発展によってさらに分・合筆が進行したため、ますます複雑化してきた。
 市はこれを是正するため昭和34年度から町名町界の整理事業実施を企図して準備調査に着手、昭和37年5月「住居表示に関する法律第三条第一項の市街地の区域、および当該区域における住居表示の方法について」の議案を議会に提出、その議決を得てまず春吉・高宮方面から新町名の改称作業を開始した。
 草ヶ江・鳥飼方面については昭和38年6月15日から実施され別府・田島地区については昭和46年7月1日付を以て実施された。
 改称された新町名の関係分を掲げると次の表4および表5のようになる。




 このような変遷を経ていま私たちが住む別府の街が形成されてきた。

 それにしても、藩政時代には鳥飼村の枝郷で戸数もわずかに36戸にすぎなかった別府村が、今では校区の世帯数5,500戸、人口は13,000人に達しているという。
 昭和10年頃までは貧弱な土橋であった別府橋も国道202号のバイパス道路として愛称も「別府橋通り」と決るほど基幹道路としての重要な役割りを果すようになった。まさに隔世の感というのはこのような変貌を指していうのであろう。

 急激な都市化の波に忘れ去られようとしている郷土の歴史を今のうちに記録して置かねばと、高令者学級として勉強会をもつようになったのは、確か53年6月ではなかったかと思う。
 それは郷土の周辺に暖かい目を向けた心楽しい勉強会であり、集まられたお年寄の方から教をうけたことも多かった。この研究誌も公民館の好意によって引き続いて発刊されるという。
 小稿は紙数の制約もあってきわめて大ざっぱな記述にすぎない。史料の検討も充分でなく誤った解釈のも多いかと思う。大方諸賢の叱正とご教示を侯って今後会員の皆さんの研究に期待したい。


二、別府あれこれ

 今ではどこの家庭でもコックを開いてマッチを摺ると、すぐガスに火がついてしみじみとその恩恵に浴しているが、ガスがまだ来ていなかった頃は薪を燃し、七輪にガラをおこすなど炊事に要した主婦の苦労は大変なものであった。

 別府橋から以東の地区には既にガス管が敷設され不便が解消されていたが、別府橋以西はガス管を樋井川をまたがらせるために工事費が大巾に増えるため、採算上の関係もあって瓦斯会社は着手をしぶり、なかなか実現をみなかった。

 そこで昭和29年の秋、別府町・別府北町・草ヶ江本町・塩屋町・中浜町一丁目・弓の馬場の7か町の町世話人は瓦斯施設の実現を目指して一致結束して瓦斯施設促進期成会を組織して強硬に敷設を迫ることになった。
 その後折衝をかさねること1年有余、30年の秋になってようやく会社側の約束をとりつける段階に達した。
 しかし、これには会社側から次のような附帯条件がつけられた。

  1 瓦斯利用者は4百戸以上であること。
  2 地区内に要する瓦斯管敷設工事費を受益者で負担すること。

 もっとも受益者負担は引用者各戸平等に1口5千円総額2百万円以上であったのを、再三交渉をかさねた結果1戸当り3千円の負担に決定した。

 以上の交渉を経たすえ、発起人が主体となって別府地区瓦斯使用者組合が結成された。このときの役員名を掲げると次のとおりである。

 別府地区瓦斯使用者組合
    理事長  井上 悟(別府新町)
  常務理事 広瀬高嘉(別府町)     仝 藤村和夫(別府町)
    理事 福田清留(中浜町)     仝 金堀重兵衛(草ヶ江本町)
    理事 本村卯一郎(別府新町) 仝 高鍋 昌(別府町)
    理事 有田栄助(塩屋町)     仝 永田貞雄(草ケ江本町)
    理事 富森大次郎(別府新町) 仝 斉藤敬之助(別府北町)
    監事 筒井猶勝(草ケ江本町)  仝 水崎惣太郎(別府北町)

 地区内の各戸に組合加入申込書を配付、引用者を勧誘して昭和31年2月に発足、事業の推進がはかられた。
 瓦斯使用者組合はこれによって所期の目的を達成したので昭和36年1月解散されたが、そのときの精算報告書が残されているのを掲げておこう。



 これによると、解散に際し精算の結果生じた余剰金はそれぞれの各町に還付されたようである。
 それにしても昭和36年の時点でのガス引用者はわずか540戸にしかすぎない。現在の別府校区の世帯数と比較するとまことに隔世の感が深い。

                     (まとめ 三角 勇)
 


 四通八達の碑
 別府1丁目の団地への入口の角に「四通八達の碑」が建っている。
 この附近は、むかしは東蓮寺というお寺の跡であったという。この寺がいつ頃廃寺となったのか詳しいことは判らないが、今でも藤村嘉市さんの北の方の薮のなかに3~40個の墓石がある。
 墓石の1つには「藤村長右衛門尉之墓」とあり、もう1つには「鳥飼長右衛門書」とみえている。このほか讃井・堀の姓名も刻まれ宝暦・享保・安永・文化・文政・天保の年号が記されている。おそらく東蓮寺との関係があったのではあるまいか。

 東蓮寺は廃寺のうえ小田部へ移ったとも伝えられている。それらのことについては今後の調査に俟なければならないが、大正9年9月この附近の道路改修工事が行われ、この竣工を記念して福岡学園長戸田大叡氏の撰文になる「四通八達の碑」が建てられたのである。

 四通八達の碑
 世運ノ進否ハ一ニ交通ノ利不利ニ在リ故ニ一郷の繁栄ヲ期セント欲セバ道路ノ四通八達ヲ以テ要トス 我別府ノ地ハ鳥飼ノ一部ニシテ福岡ノ郊外ニ僻在セリ 大正八年十一月一日鳥飼邨ヲ福岡市ニ編入シ尋テ高等学校新設アルニ反シ漸ク本区発展ノ曙光ヲ賭ル 而シテ本区ノ道路ハ猶僅ニ東西ニ通ズル一幹線アルノミ餘他ハ皆繩径ナリ而モ高低屈曲シテ交通便ナラズ加之東蓮寺ノ廃墟ニハ墓石点在竹樹叢生シテ蛇蝎ノ棲息スル所タリ里人甚之ヲ難ム故ニ有志相謀テ耕地ヲ整理シ且ツ南北ニ通スル新道ヲ開墾シ以テ本区ノ発展ヲ期セントス
 大正九年九月一日土工を興シ仝十年九月三日竣成ス名ケテ東蓮寺道卜称ス面積元一町八反余部ヲ開拓シテ新道延長ニ二百四十餘間卜奮路改修ニ百六十餘間及び耕地一町九反余歩トナス 経費ハ地代金八千三百四十円 工事費二千三百五十円ナリ是レ当ニ一郷ノ利便ノミナラズ附近モ亦大ニ其ノ慶ニ頼リ是ニ於テ乎本区ノ繁盛期スベキナリ予発企者ノ需ニ応ジテ之が概畧ヲ記シテ以テ之ヲ不朽二傅フ
 大正十年十月一日
福岡学園長 戸田 大叡 記井書

(裏 面)
  土地提供者
 百三十四坪  藤村 藤太郎   七十七坪七合 三角 松次郎
 百二十六坪  橋本 健太郎   六十二坪六合 藤村 源 路
  八十八坪  上野 端 彦   五十一坪八合 藤村 寛 一
 三十七坪四合 藤村 弥三郎   十一坪二合  藤村 太 郎
 三十五坪一合 藤村 好 美   十坪     讃井 勘三郎
 二十九坪   武村 晴 好   六坪八合   岡村 辰 己
 二十六坪   藤村 貞文郎   五坪     藤村 芳次郎
 二十二坪八合 草野 金 吾   五坪     讃井 亀 吉
 二十二坪六合 樋口  廣    四坪七合   西本 ト キ
 十六坪八合  藤村 作次郎   四坪     大野 久五郎
 十五坪五合  藤村 格兵衛   四坪     藤村 タ セ

 発企者    藤村 源 路
        橋本 健太郎

 委 員    藤村 好 美  東  貞太郎
        藤村 作次郎  藤村 源 路
        橋本 健太郎  三角 松次郎
 設 計 者
 福岡市土木技手  朱隼 平 太
   仝  助手  庄野 新太郎
 受 請 人    岩崎 元次郎
 実 行 者    藤村 勝太郎

(まとめ 三角 勇)


 





(二重破線は「太閤道」推定図)
 福岡市制90周年をむかえ、別府校区の中心部を東西に貫く202号バイパスの道路の愛称が本年(昭和54年)10月「別府橋通り」と決められました。

 この道の一部は、昔天正十五年朝鮮征伐の豊臣秀吉が、肥前の名護屋へ通った道と言われて、「大閣道」(たいこうみち)と呼ばれておりましたので、今度の候補にも太閣通りという名も見えていたと聞いております。

 太閣通というのは別府橋の西側、別府一丁目の北方、牛方さんの薮下から二丁目と三丁目の間から中村大学の裏を東さんの北側に抜けて、別府五丁目と六丁目の間の道―あさひ幼稚園横、弓の馬場城南中学前を通り、逢坂(おうさか)を登って原へ(現在の荒江)原から生の松原へと通じていたものです。長垂に太閤水と称して、水が出ている所が現在もあります。

 昔の姿を残したものは飯倉の一部にはあるようです。又弓の馬場の峠で、盆綱(盆の綱引き)を引いていたのも戦前になくなってしまいました。
 この旧道は、その以前にも博多の戦いに破れた菊地武時も通ったもので、六本松には首塚、七隈には胴体を埋めたと伝えられています。

  現在の202号バイパス、バス通りは、明治40年に県道の建設が計画され、現在の中村大学の所は丘陵地帯であったのを、線路を敷いて、汽車ポッポのトロッコで、市役所方面の埋立てをして、六本松から荒江・原に通る道路3間半(7m)が作られたものです。
 その工事のための線路布設に際しては、一面田圃で一軒の立退きの支障もなかったと、別府橋本健太郎さんが生前言っておられたのを聞いております。如何に淋しい所であったかが想像されます。

  明治42年12月、本願寺派仏教会で、万行事住職七里順之が院長、戸田大叡副院長で、福岡県代用感化院福岡学園(定員30名)が、土取り跡(県有地)に設置され、昭和3年には、県立福岡学園となり、副院長戸田大叡氏が初代園長となりました。
 その後定員も200名となり、昭和29年からは、城西中学と鳥飼小学校の草ヶ江分校が学園内に設置されました。
 その後、福岡学園は中村大学建設のため、昭和41年3月、筑紫郡那珂川町に移転し現在の中村大学と変りました。

 〇 家政学部=食物栄養学科 児童学科
 〇 短期大学=食物栄養学科 家政科 幼児教育科  
 〇 あさひ幼稚園=二年保育 三年保育

 別府橋は別府の橋と呼び、昭和10年頃にコンクリート橋になるまでは土橋で、欄干もなく橋の両側には草もはえていました。
 道巾は3間(6m)あるかない位で、馬車が通る時はゆれて、歩いている者は恐ろしいぐらいでありました。

  大正から昭和の始めまでは、橋の下の橋桁に道木を渡して、漬物大根が干してありました。樋井川は水もきれいで、井堰の下では水泳もできて、子供たちは勿論、おとなも馬の水入れと共に泳いでいる人もありました。
  時々、家庭用の川砂を取りに行く人があり、河川監視の人に注意を受けていました。許可を受ければいいものを、手続きが面倒で、その手続きをする人はいないようでした。
  別府側には一軒の家もなく、東側に数軒の家があり、これが鳥飼一番の店舗街であったようです。その頃の俚謡(はやりうた)

   別府の橋しや鳥飼の大都会
   やぶーれ鍛治屋にやぶれ大工
   髪つみ屋に鉄打ちやに人力車

 まだ歌の文句の人力車もあったらしいのです。角の中村さんは市八さんといって「うどん」を出して、飲食店として、酒の飲める唯一軒のものであったとのことです。

 終戦前には橋の両側に家が建て込んできて賑やかなありさまとなってきました。
 この県道(原-東警固線)は早良郡方面の村々から福岡市中への交通の中心でしたので、農家の肥汲車(馬車)が朝は3、4時頃からガラガラと冬前は木炭を積んだ車力や馬車が通り、年末になると七五三売りの人が続いて、狭い道路は賑ったものでした。

  大正13年、北九州鉄道が開通して、鳥飼駅ができてました。当時は前原まで62銭東唐津までが1円40銭でした。
 この道路に踏切ができました。初めは回数も少なかったが、昭和12年国鉄となる頃からは交通量も多くなり、踏切による渋滞は目にあまるものがでてきました。

 その間には野芥方面からの花売りのおばさんたちも、リヤカー部隊とか言われて名物になっておりました。
 電車通りが馬車の通行を禁止したこともあって、この道路が市中で一番交通量の多いことでも有名になっておりました。
 肥汲車の馬車の車輪が鉄の輪からタイヤに変ると、音は静かになったものの、こんどはトラックが増え始めました。
 この肥汲車は農家が耕作の肥料として使っていたもので、なくてはならない農家として、とても貴重なものでした。

 肥料を貰う代償に糯米(もちごめ)や野菜、餅などをお礼に持参したものでした。学校や公共施設のものなどは入札によって料金を納めていたようでしたが、いくらであったか聞き洩らしました。
 昭和30年頃から金肥に変り、市街地では衛生車が、下肥をとるのにお金をとるようになり、農耕地の角などにあった肥溜は埋められてしまい、昭和47年には別府3丁目から水洗便所となり始めてその後全校区に及ぶことになりました。

  昭和27年4月から西鉄バスが西新から荒江四ッ角を廻って、この道を通り国体道路経由で博多駅へ行くのが1時間に1便ぐらいで運行を始めました。
  昭和35年4月に西鉄の飯倉営業所ができて、バスの運行回数も多くなったものの、混雑はますますひどいものとなり、道路拡張の話がもちあがるようになりました。

  昭和39年から県道の拡張工事にとりかかり、昭和44年9月、福岡市交通ネックの一つの別府橋が架け替えられました。
  幅25米、取付部分も含めて工費6千万円、交通信号も取付けられて、このためにかえって、交通渋滞すると言う運転手もあったが樋井川方面からの車の混雑は大変なものでした。
  筑肥線をまたぐ立体交叉の別府大橋の工事は着工されてはいたが、なかなか進まずその関係者は135世帯に及び、その立退き交渉に手間どって、6年間かかって昭和45年7月30日、工事費2億6千万円で開通、延長420m、幅20一48mへと以前の3倍以上に拡げられて、一日3万2千台の通行を軽くさばくこととなり、工事以前には1日1万2千台がさばけず、毎日54回もの踏切のストップに泣かされたことは夢物語りとなったのでありました。

 昭和53年から西鉄の壱岐営業所ができると系統番号200番台のバスの運行が頻繁となり、茶山からのバスと共に10番系統15種類で1日536便(1時間平均60便、1分間隔)が進行する道路となり、20mもある道幅なのに狭く感じるようになりました。
 この道路は昭和46年3月からは国道202号バイパスとなり、昭和55年にはバスロケーションシステムというのが取り付けられるとのことです。重要な道路と認められているようです。

 以上、この道路の移り変りをたどってきました。それにしてもこの先、
別府のまち、別府校区とこの道路は、どのように変っていくのでしょうか。

(まとめ 三角 勇)



〇序-勝軍地蔵尊とは-
 「地蔵菩薩とは、六道の衆生を化導するという菩薩で、子安地蔵、六地蔵、延命地蔵、勝軍地蔵などがあり、中国では唐、日本では平安時代より盛んに尊信される。
  勝軍地蔵は軍神として尊信される地蔵菩薩で、蓮華三昧経に説かれ、鎌倉時代以降わが国の武家の間で信仰された。甲胃をつけ、右手に錫杖を持ち、左掌に如意宝珠を載せ、軍馬に跨る。」 (『広辞苑』より抜粋)弓の馬場の地蔵は、将軍地蔵となっているが、勝軍が正しいのではあるまいか。

(一)将軍(勝軍)地蔵の縁起
 田坂競氏(別府六丁目)のお話によると、「茶山六丁目井上議曦氏屋敷がまだ畑であった頃、私は青年時代に父と畑仕事に行った時、父が『お前の曽祖父から聞いた話であるが、このあたりに夜になると人声がして怪しいので、千眼寺(西新町)の僧にお頼みして祈祷してもらったところ、迷っているので世に出たい、祀ってほしいとのお告げがあった。掘ってみると、形が地蔵らしい石が出てきたので、それを祀ったのが勝軍地蔵である
。』と話してくれた。」 とのことである。

(二)境内と堂宇
 現在地は大字七隈弓の馬場、現町名は茶山六丁目一-八、境内約百坪位か、30年前の記憶によると、当時階段を上って左側近くに、石造りの小地蔵堂があり、その西側にお籠り堂があったが、荒れいたみ、土足のままで上っていた。まわりは笹やぶが茂っていた。  お籠り堂は、七隈のお宮が菊池神社に合祀される際、その一部の社屋をここに運び建立された由。
「境内には、もと松の大樹が二本茂り、大正年間までは、青年が大きな下枝を使って盆綱を練っていた。毎年、荒江と弓の馬場で綱引きをやっていた。尚、松の大樹があることから、このあたりが弓の稽古をしていたところではないかと思う。」― 新原 茂氏談 ―
 堂宇   約四坪、床はコンクリート、板壁瓦葺、
          二重の地蔵格子戸にてご神体はよく見えない。
 〇竣 工 昭和45年5月4日
 〇世話人 久保秀次郎、大神幸吉、阿部政吉、田坂 競
      三坂重雄、 久保真吾、柴田 勇
 〇費 用 約十五万円、御芳志者 七十余名
 付記  烏居横のせんだんの大木は、昭和53年9月15日の台風で
     中程より折れた。根本は一回り半位(直径80cm位)

(三)御本尊(御神体)
 昭和53年10月4日お祭りの日、世話人と共に御本尊を拝見した。高さ約6~70cm、灰青色の石で砂岩よりも固く、相当に重たい。台石の正面は磨かれて、経文らしき漢字刻まれたるも判読しがたい。台石の側面に彫刻の線画あり。
 左の立像は怒髪で、右手に如意珠と杖らしきを持つ。右の立像は僧頭、まさかりらしきものをかつぐ。台石の背面は破損してなく、僅かに下の部分のみ残り、法衣の裾の一部と脚部二人分が見られる。仏を守る四天王菩薩などではあるまいか。台座の上は、割られて三角形の尖れる石のみ、おそらく坐像の仏体ならんか、背後は大きく破損してなし。

  将軍地蔵尊御新堂新築・・・の文字からは、一般に神格と見ていられるのは、将軍によるからであろうが、地蔵菩薩などから考えると当然、仏であろう。
 以前は柴花を供えていた(神)が、近来は、草花となっている由、本地垂迹説、神仏混淆、神宮寺などの思想の一端も伺われる。
 尚、境内に天照皇大神が祀られているが、之は近くの町内、福永氏の小松の山から移転したものの由、堂宇の東にありしめ飾りをしてあり文字不明瞭なるも碑の中央に天照皇大神、左-少彦名命、右-大巳貴命の文字見ゆ。
 この碑はお社日さま、作神さまと称して、昔よりの農家により豊作のお祈りをして祀りながら今日に至っている。

(四)祭礼
  町内の田坂 競氏、佐藤みちよ氏等古老の話によると、往時はこの地域(弓の馬場)は、山野広く、水田少なく、民家数十戸の農村であった。
(現在、別府6丁目2区250戸、茶山6丁目500戸、別府4丁目の一部200戸の大世帯となっている。)
 都市化の進行につれ、獅子舞いなどの祭礼行事も廃れ、道具は倉庫に眠っている由、昭和30年頃までは、獅子舞は行われていた。祭礼は、以前より居住していた30余戸の農家の人で執り行われている。
 ・祭り日
   地蔵さまの日  7月14日 御願立て
                (厄除け、厄逃れ。夏患いせぬように)
          10月 4日 御願ほどき(そのお礼)
   皇大神宮の日  3月 春分の日 ― 祈願
           9月 秋分の日 ― そのお礼
    ※ ともに社日で、春秋とも当番が、箱崎浜におしおいとりに行く。(お潮斉)

 信者は氏子の家を5組に分け、祭りの世話をしてきた。年4回あり、当番は順送りにするので、同じ日にあたることはない。現在は当番の組だけが、おべんとうを作り、会費200円で、会館に集りお籠りをするならわしである。    〇獅子舞
  「七月十四目、御願立ての日、夏患いせぬようにとの趣旨で、昼は子どもたらが、夜は青年がうたって舞って、各戸の家を訪れ、入口でワッショイワッショイとあばれまわり、上間を抜けて裏庭に出て、又踊りまわり、厄病神を家から追い払ったものです。
   獅子の面をつけた者は踊るだけでしょうが、まわりの者は踊りに合わせて、獅子のうたをうたったものです。」

    さてもみごとな
        くしだのぎなん
            トンコセー トンコセー
    枝もさかゆりゃ
        コーラ葉もしゅげる
            ヤットコセ ヨーイヤナ
    アレバイネー
        コレバイネー
            アーリャ ナンデモセー

 佐藤ひなさん(別府六丁目)は、八十五歳とも思えぬ若い声で、うたいながら、獅子舞の話をされたのでした。それは元気な若々しいうたごえでした。 今は、農家でも、表から裏に通り抜けられるような土間はなく、従って獅子舞も何時のまにか止んでしまったものと思われる。
(まとめ 笠 進)
ご協力いただいた方々
          田坂  競 氏(別府6丁目)
          中村  豊 氏(別府4丁目)
          久保 義 信氏(別府5丁目)
          佐藤 みちよ氏(別府6丁目)
          佐藤 ひ な氏(別府6丁目)
          新原  茂 氏(七隈2丁目)



 別府小学校内の東北隅に、塚地蔵を祀る祠がある。その祠についての由来などを聞きまとめたものである。

@塚地蔵由来記
 別府小PTA新聞(47・6・30発行)に掲載されたもので、五代校長楠原吉助氏の記述による。
 「小学校北隅、道路に面して、まだ木の香も新しい地蔵堂かある。来校者や校区の方々より『どうして学校敷地内に、あんな堂があるのですか、何かいわれでも・・・』と尋ねられることがしばしばである。
 以下これに答えるためと、記録に残すため、各層方々よりの記録をまとめ記することにする。

〇災害の続発
 堂宇建立を発企したのは、四代(45-46年)の篠崎秀夫校長である。
 当時、学校では、児童職員の災害が続いた。その主なものが、この人がと思われる一の瀬先生の、学校勤務中突発の発病からの死亡、長野、星野両先生の交通災害、五年生女児の何でもない転倒事故が、内臓の大手術となるなどで、このため職員は勿論、児童にも神経質といわれる位、注意もし指導もしてきた。

〇石碑の発見
 このような時、たまたま町の古老から『今、学校があるところは、深い森におおわれ、その中ほどに盛土をした塚らしいものがあったことを記憶している。その後、昭和の始め頃には、何か石碑が建てられていたように思うが、幼少の頃、親たちから、あの森の中に入ると崇りがあるから入っ
てはいけないと厳しくいわれていた。どうしても森の前の道を通らなければならない時は、顔を横向けて走ったものだ。』という話を聞き出し、現在の科学では考えられないことながら、その塚と災害を結びつけ真剣に考えるようになった。
 開校して十余年、昔の森は跡方もなく整地され、児童の増加に伴ない、校舎は次から次へと増築され、どのあたりに塚があったのやら、昭和の始め頃建てられた石碑がどうなったのやら、分らない状態であったが、校内くまなく探すうち、ブルトーザーで押されたまま半分土に埋もれた重さ1tほどの石碑を発見、掘り出して見ると碑面に『戌神大明神、昭和八年建立』と彫られた碑であった。

〇恵照院と碑
 早速市教委にこれまでの経過を説明し、善処を要望するとともに、学校近くにある真言宗恵照院の院主先生を呼んで、供養をお願いすることにした。
 相談に伺った時『戌神様ですか?・・・』と一瞬ためらいの表情をされ『実は戌神様は大変恐ろしい神様で、私のような仏に仕える者も、戌神様の前を通る時
には、顔をそむけて通るのですよ。』とのこと、しかしこれまでの学校の事情をくわしく話し、助けて下さいと懇願、やっと聞き入れてもらうことになった。
 時は昭和46年2月みぞれまじりの雪のちらつく寒い日であった。
 祭壇を設けござを敷き、学校・PTA等関係者10名位の参会者のもとに供養がはじまった。読経の中途より、次第次第に院主の表情が険しくなり、身体がふるえだし、読経の声も或いは大きく、或いは細く幽気迫るものを感じた。
 やがて読経も終り、語りかけるような院主と神との問答が暫らく続いて、供養は終ったかに見えたが、やおら参会者の方に向をかえ『之は大変な神を祀ってありますね。実は読経中17人の筋骨たくましい武士が出てきまして、われわれを戌神として祀るは何事ぞ。われらはれっきとした黒田の家臣である。故あってこの地において、あえない最期を遂げ、この地に埋葬されたが、供養の人とてなく、ましてや戌神大明神としては成仏できな
い。早々に堂宇を建て供養してくれとの哀願めいた申し出がありましたので、それは大変失礼なことを致してまいりました、早速学校の方とも相談して、供養も致しましょう、お堂も建てますので、どうかこれまでのことは許して頂きまして、この先この学校を守って下さいますようにとお願い致しました。』とのことであった。
 そう言われてみると、町名改正までは、附近の地名には『弓の馬場』『犬の馬場』というのがあり、黒田藩政時代、弓矢の修練場があった所と思われ、この武士は何かの不始末から、殿の怒りにふれ、この地で処刑されたものと思われる。

〇地蔵堂建立
 このことがあって市教委に、これまでの経過を説明するとともに、堂宇の建設を強くお願いしたが、宗教的のことにこれまで資金を出したこともないし、又義務教育の立場から考えても、建設資金を支出することはできない。しかし校区又はPTAでやられる分については、十分その事情もわかるので、黙認するということで話がつき、結局地蔵尊については恵照院より、堂宇については当時のPTA会長の久我恒喜氏の御寄進で、その名
も塚地蔵として完成したものである。
 しかし当初建設された場所が、学校正門の左側校舎に面して建てられていた。(註、これまで篠崎校長時代) このため学校内に地蔵尊を祀っている印象を与える半面、児童に対し義務教育の立場から、この地蔵様は、こんないわれがあって学校内にあるので、皆さんたちも拝むのですよとも言えず、十分な御供養もできないというのが実情であった。(註、これより第五代楠原校長時代)時あたかも学校火災が発生、これと結びつけて再
度位置の変更をお願いし、現在地に道路に面して正面を向け、学校敷地外にあるような印象を与えるように設計し、道行く人にも拝んでいただけるようにし、又移動については恵照院のご意向も充分承り、以前に建てた戌神大明神の石碑を、地蔵尊の下に立てて埋めている。
 現在近隣の方も季節の花やお供え物をされたり、登下校の児童の中には、礼拝していく者もあり、このような姿を見るにつけ、悲運の最期を遂げた武士の霊も浮かばれたことであろうし、特に地蔵様は子どもたらが好きだと聞いている。
 願わくば今後別府小学校の守り神となっていただくことを願うものである。」

 以上の記事で、塚地蔵の大要はわかったが、私はそれ以前のこと、昭和8年に誰が、何のために建立したか、又それ以前はどんなであったかを知りたいと思った。
 古老の方を7,8名次々と訊ねて廻り、なにぶん古いことでもあり、記録も見当らなかったが、おおよそ次のような事を聞くことができた。

(一) 恵照院主、山口恵照尼(祭主)のお話によれば、「ご祈祷に行ったのは昭和46年二2月3日、みぞれの降る寒い日でした。戌神大明神の石碑を基礎にして、その上に塚地蔵尊を刻んでもらいお祀りしました。毎年2月3日にお詣りして祈祷供養をいたしております」とのことであった。

(二) 三角勇氏(別府3丁目)の語られるところによれば、「別府小学校の周辺には、昔、森川どん、小林どん、東どん、山口どん(別府1丁目)、平井どん(弓の馬場)など、どんと呼ばれる士族の家がありました。
    その間に農家が点在する森や林の多い丘陵地でした。現在、東さんと平井さんは住んでいられますが、森川・小林・山口さんの子孫はどこにおられるか不明です。
    元の森川どんのところが、松本さんの屋敷でした。私の子供の頃は松本公園といっていました。公園のように広くきれいでした。
    松本公園のあたりが今の別府小学校の敷地に当りましょう。」とのことであった。

(三) 永田貞雄氏(別府3丁目)は、「学校の地蔵さんの石碑は、昔は自然のまま横だわっていたものです。」と話された。

(四) 池田清五郎氏(別府3丁目)の話によれば、「今の別府小学校の地域は、大きな松の木も数本ある雑木の山でした。
    薮の中に細い道がありました。森川どんの屋敷はありました。松本さんは森川さんから買いとられたと思います。
    家は山すその所にあり、西南向きだったと思います。藁屋根で庇は瓦ぶきで裏手の方にも長くなった家でした。松本公園といっても
   公園ではなく、松本さんが、あずまやを建てたり、庭木の手入れをされたり、桜の木もある広い屋敷でしたから、附近の人が公園のようだと言ってからのことだと思います。
    石碑のことは知っています。あれは松本さんの頃(昭和の初め)家に色々と不幸が続き、娘さんが長患いされたりしたので、西新か麁原の神様に祈祷してもらわれたところ、『庭に大きな石がある、それを祀るように』のお告げがあったので掘り出されたのでしょう。
    昭和8年と刻まれてあるのは、多分松本さんが石屋にその時頼まれて建立されたのでしょう。私が二十歳になる前でしたから、何ヶ年かそのままにしていられたのだと思います。」とのことであった。

  筆者は昭和26年に弓の馬場の現居庄地に移転して来たのですが、その頃は別府小学校の敷地あたりは、雑木林の山野でした。現在もその面影が、別府小学校の南側に残存していますが、之も切り払われてやがては宅地となるのでしょう。
 松本さんの家があったか否か覚えていないが、中に入っていくと、かなりの広い草原になっていた。塚らしいものはなかったが、高さみ五十位の自然石のわりと新しいのが建っていた。碑面に戌○○○○と刻まれた文字が見えたが、戌の字以外は判読しがたく、梵字ではないかと思った。戌の字だからおそらく犬の馬場の地名に関係あるのではないかと想像した記憶があります。
(まとめ 笠  進)
ご協力いただいた方々
   楠原 吉 助氏(元別府小校長)
   山口 恵照尼氏(恵照院主)
   三角  勇 氏(別府3丁目)
   永田 貞 雄氏(別府3丁目)
   池田 清五郎氏(別府6丁目)
               他


 別府天満宮

(一)鳥飼八幡宮の古文書
   鳥飼八幡宮の山内宮司に会い、その古文書を拝借して別府天満宮関係分のみ、筆記したものである。

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   明治十五年十二月 鳥飼神社々務所 ㊞
  鳥飼神社
        建物明細帳
  摂末
                                        (表紙)
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  筑前国早良郡鳥飼村字別府一〇七〇番地
   無格社
       天 満 宮  一、祭 神  埴安神
         菅原道真公
  一、由 緒  創立年度 不詳、社説ニ本村埴安神社ノ分霊社ト云、
         毎年旧暦八月十六日ヲ以テ大祭日トス
  一、社 殿  三尺四方 石祠
  一、境内坪数 百六拾五坪  神地
  一、信 徒  凡七拾五人
  一、管轄廳迠ノ距離
         右之通御座候也
  筑前国 福岡区 西町
      県社  鳥飼八幡宮 祠掌兼務
                    岡崎邦雄
         明治十二年九月
             右  村戸長 濱地 辛
  上欄ニ
   大正十二年六月六日 五穀神社合併出願
   大正十二年十一月二十六日 許可、同十一月二十九日合祠

(二)石祠・境内
   もとの石祠は、長尾山から運びきたりて造りしもので、藤村源路氏方にあり、現在のものは、後に建て直したるもので、形やや大なりと。
   地所は別府天満宮(登記済)、管理は鳥飼八幡宮、境内に楠の木、ほるとの木、くろがねもちなど20本の大樹あり。往時より天神の森と呼ばれ、目標となりし由。市保存樹指定のもの5本あり。
   現在ぶらんこ、シーソーなどの設備もされ、児童公園として利用されている。子ども会(別府1丁目)と育成会で清掃をなせり。

(三)祭祀と世話人
   5月3日(子どもの日)天神さまは学問の神であり、子どもが好きであられるから、この日に定められた由、当日は鳥飼八幡宮の宮司により神事が行われ、参拝者の子どもには菓子など配っている。費用は町費から1万3千円位とか。
   昔は祭日は7月25日(天神さまは25日がお祭りであるから)に、氏神さまではないが、手べんとう、かぼちゃの煮〆などでおこもりをしていた。
  世話人は特にきまりはないが、町の老人有志が奉仕してきた。


  もと 藤村 源路   現在 藤村格兵衛
     橋本 賢太郎     藤村 嘉市
     藤村 芳美      藤村 和夫
     高鍋         藤村 義雄 他


(一)五穀神とは ―広辞苑による―
   五穀=米麦豆粟稗(黍)の5つの「たなつもの(種のもの)」。
   人が常食とするもの。稚産霊命(わかむすびのみこと)倉稲魂命(うかのみたまのみこと)保食命(うけもちのかみ)の総称で、農作の神、作神さまである。

(二)来歴
 〇鳥飼八幡宮の古文書より抜粋
   筑前国早良郡鳥飼村字原一三一八番地
     無 格 社
          五穀神社
  一、祭神 大年神、御年神、若年神、豊受姫神、大巳貴命
  一、由緒 創立年度 不詳、古老ノ説ニ文政年間 本村農民等
       五穀成就ノタメ創立スト云
       毎年旧歴二月社日ヲ以 大祭日トス
  一、社殿 無之 但 石ヲ以神体トス
  一、境内 拾五坪  神地
  一、信徒 凡百五拾人
    (以下天満宮と同じ記)
  上欄ニ 明細帳脱漏神社ニ付 大正十二年六月明細帳ニ編入願提
      出ノ上合祀、大正十二年十一月二十六日許可、天満宮ヘ
      ハ十一月二十九日合祀 相済

 〇もと草ケ江高等小学校の西側の丘の上に在り。まわりに松の木4、5本あり、生徒たちの遊び場となっていた。

 〇大正12年頃お祭りもしなくなり、おこもりも廃れたので、境内の広い天満宮へ合祀した。しかしその後まわりの民家に続いて数回小火があり、永田貞雄氏の父上が、信心の神さまに尋ねられた処、「五穀神が帰りたいと申されている」とのお告げがあった。それから別府の藤村弥太郎氏宅の坪石をゆずり受け、以前の場所に再建された。現在、
  もとの地に五穀神あり、石碑やや小さし。

 〇祭祀は年2回社日の日に行われる。
  鳥飼八幡宮の宮司により神事あり。町内有志世話人となられ、費用は町内より支出、天満宮と同様なり。
  旧大宇原の五穀神に於ても同様の祭りが行われ、現在永田貞雄氏が主としてお話をされ、社日の日は附近の信仰される方も参集される由。
(まとめ 笠  進)
      ご協力いただいた方々
         鳥飼八幡宮  永田 貞雄氏
         藤村格兵衛氏 藤村 和夫氏
         藤村 嘉市氏 藤村 義雄氏
 



〇序 昭和五十四年六月 西区田島二丁目ニーニ六 三戸 章氏(元筑豊炭坑経営者)宅訪問、お聞きしたことをまとめてみた。
   土地買収契約書、図面等多くの記録を保管していたが、その倉庫(現在の田島自動車学校側)が、不審火で全焼したので記録はなく、図面などは福岡通産局に保管されてある由。
(一)名称 三戸鉱業 福豊炭坑(個人経営)
(二)期間 昭和二十四年四月―同三十四年七月まで、拾ヶ年余
      別府市の旅館業二宮佐久馬氏より譲り受け。採掘すれば、ま
      だ石炭はあるが、エネルギー源が替り、石油の出廻りなどに
      より、国の石炭整備事業団へ売却したとのこと。
(三)鉱区 約七十三万六千坪
      地域 北一六本松―荒江線の道路
         東ー樋井川沿いの近くまで
         西ー別府三丁目あたりまで、弓の馬場あたりはなし
         南-田島本村よりも南まで
      坑口は田島二丁目と別府六丁目の境界附近
      坑道 主要なもの三本あり
         一坑ー田島四丁目方面 もっとも長い
         二坑ー別府方面
         三坑-現在の中村大学正面北方まで
      炭層ー第三紀層
      深さー直深二百五十瓦、浅いところは五〇-百瓦位まで
       田島炭坑とつなぐ予定であったが、実現しないまま造らないとの約束で、附近の埋立てに使用した。

(四)従業員
   社員  六十人、社宅(個人)は各地に散在、元社員光永氏の現在の家は社宅であった由(別府五丁目)
   稼働者 年により増減あり、三百人から多い時は六百人に達した。
       附近の人、筑豊、山口県あたりよりも多数集まった。
       炭住(炭坑従事者の社宅)は、今の久恒ビルの東からパーマ店あたりに数棟あり、その他にも点在していた。十二間長屋とも呼んでいた。
(五)出炭と販路                    ‘
   月産 約六千噸
      石炭は粉炭、中塊炭、塊炭と分ける。トラック十台内外で運送していた。筆者もその現況を見た記憶あり。
   主な販路としては
      九電名島発電所(現在なし)、久留米市日本ゴム、粕屋郡高千穂製紙、大阪セメント、名古屋、四国塩田地帯、大分国立病院、市内のお風呂屋さん等。
(まとめ 笠  進)
   ご協力いただいた方
      三戸  章氏(田島二丁目)


上野就賢が明治二十一年に著しかものによると、
「鳥飼のえき郷谷村に六木松といふ所は、是は今の入口の石橋を不越して茶園谷之山下をめくる道あり。其東手の辺に大松六七株計ありし也。是も文政の大風の時倒れたり。植継なし。馬場頭の方現今は人家建つつきたり」とある。
 注1 文政十一年八月九日、廿四日の両度にわたって吹き荒れた大風。
    このときの被害は
      田高十五万石損毛  潰家三万    破船九百七十隻
      圧死三百五十八人  溺死二十余人  負傷者三百九十一人
      斃牛馬百三十頭  であったという。
 注2 福岡城の南西に馬術の練習場(馬場)があった。馬場の附近には馬術の師範や御馬方など馬術関係者が多く住んでいた。
    馬場頭とは、それに由来したもので分限帳にも次のように記載されている。
     弐百五拾石  大坪流師家
             福山 長助  内馬場
     百六拾石   荒本流師家
             林 喜平次  内馬場

 したがって、六本松という地名は六七株の松の大木のあったところに由来したものであろう。このほかに草か江附近には六本の名松があった。
上野就賢の著書から抽いて次に紹介しておこう。


 城内旧藩主の表門前 下り松

 此松は弐株ひと所にあり。一本はいと高く一本は下にはへたり。助柱を入れてゆきき便をなす。表門前の広き此松覆へり。南枝は殊に延長く行く人頭をうつ。ともに美観なり。
 文政十一年子八月九日大風にて大いにいたみ。其後追々枯たり。此時代木を山奉行岡田貞四郎、山方付大塚茂助出務して植たり。
 傍に今二株あり。初より殊に成長よろしく今大に栄へたり。二本共取払成しは台兵人込し後也。藩主の時は殊にめてられし松也。ともに廻り五囲巳上ありしなり。

鳥飼八幡宮社内の松

 此松並楠の本社前の筋並ひ立り。慶長十三年に鳥飼村茶屋の内より此所に社を移せし時、察するに此二本はありしならむ。依て高洲の上なり。
かたかた社地相応なるを以て永く鎮まります類ならむ。
 楠は明治の初に枯て今幹のみ残る。松は其後明治十年前後に倒れたり。
両樹とも有志植継、今松二本あり。遂年盛大なるべし。枯木松も廻り五囲計、上によく延たり。楠は廻り六囲七囲もあるべし。

天神森の松

  此松の代木として大木の小枝の切口に生したる一尺余の松並原畠より 三尺余の松三本を控に取来り廿一年三月廿一日旧二月九日に里人植付候 也。

 此松は幹最もうるはしく、独五本の松に残りて幾千年の色を顕せり。
文政の大風にて其枝の大成四方に繁茂して世の松に殊りたり。
 唐崎、高砂、曽根の松といふも此松の枝大にして栄へたるに及ひかたし。
実に稀代の美観なりしが、風急にかかりて大半折たり。其後の暴風にても枝折、今僅に枝残る。
 鳥飼の村は入海の辺にて古しへ半島村の形をなせり。所々塩屋もありて此松を塩屋の松とも呼り。
 此辺りは少地高山地也し。前の田の所は海浜にて、向ひに畑には今も塩屋に用ひし小石あまたあり。樋の川、別府の山のひにて堤破裂し其地の満水高きに登りて見るに実にむかし入海なりし時の気を再びおもひ出られし、右の松はいつれの代よりありしと言ふ事誰かしるものあらむ。此松も五囲已上、珍敷ものなれは、別に六木松の記を作れり。

鳥飼本村の川端の松

   此松は寛文年中橋本村八幡社を移し給ひし時、植られしよし也。黒田光之公御手植の松といふ。此辺の松は皆赤松にして此松は真直に延ひ三十余聞なりし。明治十三四年此伐跡存、美松也しよし。

 此松の有所を田楽台と言、向ひの番も同し。今川堀し時地続を切割とみえて今は岸の上にあり。此松も上に能延ひ、廻り五囲已上成し。是は文政暴風の後天然に川中へ倒れたり。此下屋敷其頃小池忠太という。代本を植継で置しが、むかしの松に姿かわらず、共栄へいと速也。松か根に、此時より松王の桐を営み祭れり。
 明に必祭こと也。此屋敷後隣家加来氏の持と成。爾後上野就賢か持成。
此辺南西北等眺望よろし。此代本の松速に繁茂して今五十年計には珍らしく成長せり。

新川筋 龍王の松

 此松は中浜の地続に小高き所にありし成べし。新川出来て堤の横に生たり。下に小祠あり。龍王の社といふ。
 早年盲僧集りて雨乞の祈祷をなす。必其験あり。近年村内にて小社を瓦葺にて営む。この松も文政の大風にて大にいたみ、其後枯倒る。有志者代本を二本植置たりしか、初の上の松はいか成故にやむかしの姿に能似て成長す。
 一本は堤の川縁の方に植しか殊に長し、大に高く延ふ。ともに幹大なり。
  〇川縁の松は農忠八植し也。一本は伝正房植しと也。


   


 なにげない日常生活のくりかえしのなかで、思わぬときに、心のなかの「ふるさと」が遠いところで自分を呼んでいるような、そんな気持にさせられることがあります。帰ろうと思っても、それが現実には<ない>のだと知っているだけに、なおさら感概ぶかくなるようです。
 こんにち、「郷土史」への関心が高いといわれていますが、そんなこともー因にあるのではないでしょうか。
 ともあれ、ここに掲載されたいくつかの小稿が、みなさんの心にあらたなる「歴史」への関心を呼びおこすことができればと願っています。
 この「郷土史研究」第一集を発行するにあたって、関係者を尋ね歩いて聞き書きしたり、実地調査をしたりなどして御執筆くださいました三角 勇氏、前館長の笠 進氏、また貴重な資料を提供していただきました藤村格兵衛氏、久羽末吉氏、その他、御協力くださいました多くの方々に、心より感謝申し上げます。
 特に、昭和五十三年六月以来、「別府」の歴史発掘のために、多忙な時間をさいて御指導くださっています安川 巌先生に、深く敬意を表します。

公民館主事 長 井  寛

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