紅梅・白梅(3) (1991年)



  目 次

1.       徒然草と平家物語
2.       私の失敗
3.       小さな命みつけた!
4.       誕生日おめでとうございます
5.       私の小さな喜び
6.       荒津の浜
7.       我が父鐡雄の思いで
8.       私の趣味
9.       温かかった母の手
10. (戦争)  空襲の思い出
11. (戦争)  過ぎた半生期
12.       思い出
13.       白木蓮
14.       こころの民謡
15.       思いつくままに
16. (戦争)  戦友会
17.       健脚に想う
18.       博多祇園山笠七百五十周年を記念して
19. (戦争)  太平洋戦争敗戦記
20.       続徐福考
21.       里帰り
22.       孫への手紙
23. (戦争)  心のどこかに残っているもの
24.       あとがき





 昭和20年6月19日、母が病気でお座敷に蚊帳を吊って休んでおりました。
 妹が、4才と3才の子供を連れて京城より引き揚げ、私も4才の息子がいて、家の中が騒がしく母の病気が気にかかり、明日、九大に診察に連れて行く積もりにして私は妹の下の子を背負って婚家の若久へ急行電車に乗り高宮駅下車、照りつける炎天下をトボトボと歩いて送って行きました。帰途、六本松の原田医院に寄り薬を貰って8時半頃帰宅。夕食、入浴とやれやれした時、空襲警報が凄く不気味に鳴り響きました。
 B29の爆音・・・ハッと東を見ると二十四聯隊(今の平和台)が真っ赤に燃えています。アレッと思って日頃の防空訓練に則って貴重品を身に着け、防空頭巾をかぶり母を起こし、昌弘を末妹に預け、下の屋敷に避難させた途端、表の納屋の屋根に焼夷弾が・・・(この納屋は別府の防空訓練の集会所になっていましたし、また親戚の疎開の荷物を沢山預かっていました)隣の岡村辰己さん(当時防空訓練の隊長さんでした)が走って来て下さり梯子を登り水槽よりバケツで水を運び一生懸命に消しました。
 やれやれと裏に廻り釣瓶で井戸水を汲み、次の準備に取りかかった時、爆音と共にザーザーと暗闇の空から火が降って来て地面はまるで・・・地獄の阿修羅の火の海とはこの事かと思いました。
 その時、妹が母と昌弘を引きずる様にして下の屋敷(今の味園さんの所)から駆け上がって来ました。もう家より物より命と思い、私は息子を背負って、とうとう門を出て、横の畑に上がりましたが、カボチャ畑の藁に火が付いて燃え上がり、立ってもおれず横の細道を走り、今の大蔵不動産(当時、両側が藁屋根でしたので火の海)を通り越すのがやっとの事・・・
 逃げ走る人が「防空頭巾に火が付いていますよ」と教えて下さいました。慌てて頭巾を取りハタハタと地面に叩きつけて、やっと消しました。ドローとした油、なかなか消えません。手に一寸でも付くとベタッとして火傷する程の強い火です。
私は背負った息子を焼かなくて良かったと思い、教えて下さった方に心から感謝せずにはおれませんでした。
 別府の藪の下を通り、今の徳永インテリヤ(当時は全部田圃でした)まで逃げのび、其処で母と妹と会い無事を喜びました。
 何回もB29が旋回して来て、生きた心地は無く、朝4時頃、しらじらと夜が明けると共に、飛行機の音も漸く跡絶えた様で、やっと一息つき、とぼとぼと我が家に帰り門の前に立った時、すっかり力が抜けてしまいました。
 母屋、納屋、蔵、すっかり焼け落ちて、まだ熱くて寄り付きも出来ぬ有り様でした。食事の箸、茶碗は勿論、身の廻りの品が何も無く、すっかり丸裸です。
戦地の主人に申し訳無いと、悲しく思いましたが、これも戦争の為、仕方の無いことだと思い直し、兎に角この子を大事に、頑張ろうと思いました。
 この強い刺激で母の病気も何処えやら、一応元気になりました。
 あれから46年、息子は50才、私は75才、まるで夢のようです。お陰様でこの息子夫婦に守られて、毎日を楽しく過ごす事ができ、心から有り難く思いますと共に、何時までも世の平和を祈って止みません。



 今年の夏は不順な天候が続き、夏らしい照りつける日が少ない。今日はもう立秋である。雨が降ったり止んだりして涼しい、何となくわびしい気分でいる。
そこへ電話、急いで受話器をとる。懐かしい井上様の声、不安がよぎる。不安は残念ながら当たり、ご主人様が先月亡くなられ「初七日も無事終わり、今日は久し振りに一人になり、ホットして電話しました」との悲しい報らせにお慰めの言葉も出ませんでした。
 思えば私達は50年近いお付き合いです。京城の官舎ではお向かい同士で、お互い小さな子供をかかえながら助け合っての楽しいお付き合いでした。この楽しい生活は終戦と同時に終わりました。
 それからはお互い身の廻りの荷物を片付け、手に持てるだけの荷物を持ち、小さな子供達の手を引き、皆さん方と一緒に荷物列車に積み込まれての苦しい引き揚げ。引き揚げ後は、皆さん全国に散りそれぞれの道を切り開いて生活を始めました。
 その後同じ職場の朝鮮引き揚げ者で作っている「ビジヨン会」が出来、お世話くださる方があり、毎年暮れには立派な会誌が届き、全国に散った皆々様の近況がわかる様になりました。
 井上様も福岡で、お元気にご活躍でしたので心丈夫に思ってました。36年に主人が急死しました折りは早速駆けつけて、慰め励ましてくださいました。有り難く力強く思いました。
 50年には「ピジョン会」で、戦後30年になるので物故者の合同慰霊祭を比叡山延暦寺でするので出席するようにとのお勧めがあり、井上様ご夫妻とご一緒に出席致しました。
 引き揚げ以来の再開で、時のたつのも忘れました。その後毎年、場所を替えての親睦会にも出来るだけお供致しました。何時もお邪魔と思いながら往きは御一緒し、帰りは一人で息子や娘達の所に立ち寄って帰ってました。
 色々な所に行きました。京都、名古屋、松本、神戸、高松、熊本、広島、岡山、宮島等々、思い出が走馬燈のように浮かびます。あの頃はお互い元気で旅行が出来、楽しゅうございました。
 ここ5・6年、親睦会にも足が遠のき欠席しておりました。年のせいでしょう。井上様もご主人様が体調をこわされ、病院生活が多くなられてました。しかし、こんなに早くお別れするとは思いませんでした。淋しくなりました。お子様方は皆様、立派になられ、親の務めを果たされての大往生でした。これからは残された者同士で仲良く、残り少ない人生を有意義に過ごしたいものです。
長いようで短い50年でした。


 16.戦友会

 元満州6752部隊戦友会の案内が来た。一泊で、翌日には西部第四聯隊を見学するとのこと、早々に出席の返事をする。
 今年は何人の戦友が集まるだろうか、世話役としては気になる所であろう。去年の戦友会には33名中、やっと18名の老兵が集まった。
 第一回の会合は朝鮮戦争当時、福岡市の護国神社で開催され、出席者は150余名の盛大さであったと記憶する。「何々上等兵が来とらんが・・・」「あれあー死んだばい」。地方人になった今日でも、この日ばかりは兵隊の気分になっておる。
 「益永一等兵はどうしとるかね」「下手な絵ば画いとったが死んだらしい」と言われぬよう頑張る外なし。若いもんに負けるもんか、と意気まいても杖の力を借りてよつやく「きおつけ」の姿勢がとれる位で、「歩調とれ!!」てな号令にはお手上げである。
 自衛隊よりお迎えのバスが来た。それぞれの火器の説明を聞く。昼食時間には兵隊と同じお膳が出る。聯兵長殿も同席されたが、我等は大先輩の老勇士である。
なにも気おくれすることはない。
 戦友会での話題は、相も変わらぬ同じ話の繰り返し、去年聞いたような気がする話でも、新鮮に聞こえるから不思議である。それぞれの戦友会でも同じであろうが、今日唯今の暮らし振りの話はせぬ。長く続く原因でもあると思う。
 シベリア抑留者が殆どで、個人としての見聞以外は知ることもないが、「鉄のカーテン」の中での事は一種のタブー視されて「某国」と表現され、例えば日本海並びに太平洋の日本沿岸には、某国の潜水艦が網の目のように張り巡らされている。時たま故障したのが浮上し、白煙をあげながら我が領域の対馬の横すれすれに母艦に曳航され北上して行く。これに対し我が方は写真撮影をするのみである。ソ連は領海領空侵犯に対しては即刻撃破し、いささかの良心の傷みもない。
 「四島返還」「何々、そんな話はすべて解決済みである」と主張する。しかも地球を壊滅する程の原爆を保持し、なおかつ60数回も地球上の生物すべてを消滅する程の核保有国であるため、他国は勿論、地球上すべてのものが泣き寝入りする外はない。
 所がご存知の今回のソ連政変、湾岸戦争時も同様であるが、知識人或いは評論家と言われる人々が、恰も我が家の出来事のように、内政干渉ともとれる言勤を弄している。「背に腹はかえられぬ。早急なる援助が必要である。取りあえず食糧を」と言われる。500余万の兵隊の食糧まで賄う義務があるのか、無学な小生には解けぬ問題である。どちらにしても大国である。そう簡単に世直しが出来る筈がない。只々「地球は青かった」の名言通り、平和を祈る。「地球は赤かった」でノストラダムスの予言通りにならぬ様願いたい。
 70歳から80余歳の老兵士が、最後の一員になる迄、元気でおられんことを祈っている。



 今年、82才になりますが、お蔭様で至極元気に過ごし、感謝に絶えません。
 明治・大正・昭和・平成と4代の上(かみ)に仕えてまいりましたが、昭和激動の太平洋戦争は生涯忘れぬことのできない敗北の一頁で、二度と繰り返さないよう心に堅く誓ったものである。
 昭和16年12月8日、この戦争が勃発して、昭和20年8月15日降伏申し入れにより終戦を迎えた。私はこの約4年間の戦いを見た儘、ありの儘を申し述べ、21世紀に向け参考に供したいと考えている。
 当時、私は郵政省管内の貯金局東京本局に勤めていたので、大体の経過は判っていた。昼は爆弾・夜は焼夷弾攻撃の続く毎日で、翌日になると防空壕の中には男か女か見分けもっかず重なり合った屍(かばね)、一方、交通機関はめちゃめちゃに壊され、方向すら見当のつかない情況であった。その姿のぼめ(みじめ)さは言葉にならない残酷さであった。
 中央の東京地区が終わると、戦いは南下いたし横浜・横須賀・大阪・名古屋・京都と次から次へと攻撃を緩めず、九州福岡は20年6月19日、焼夷弾により焼き払い、次は広島を8月6日、原子爆弾投下により全壊、最後は8月9日、長崎を爆撃し昭和20年8月15日、大日本帝国の降伏により終戦を迎えた。
 私の家族も6月19日、福岡の空襲により丸裸となり、箸一本から這い上がってきた戦災者の一人であった。先ず家族5人の住居を建て、衣類は親戚知人からのもらい物、または物乞父換いたし、食べ物は芋類・麦類・大根等頂きものが多く、主食は配給で、有るもので間に合わせ辛抱して生活して頑張っていたものであった。また、当時は建物にしても材木・材料・瓦・釘一本一枚まで統制で、生きていくのが精一杯の世の中であった。
 人間、一大決心すれば出来ない事は一つもないと確信する。今は家族皆独立して頑張っていて、何も心配することはない。然し世の中は色々の事件が山積みしている。その事件は国際的となり油断はできない。
 世界中の皆さん、及び21世紀間近の若人の皆さん、先ず健康で、先進国の先頭に立ち、頑張っていただくよう祈念して筆をおきます。
終わり



 今年も「紅梅・白梅」(3)の発行となりました。何故「紅梅・白梅」なのかと思われる方に説明いたしたいと思います。
 高齢者教室生文集の1989年号の表紙に梅の花の絵を和田豊さんに描いていただき、井上忠男館長は、若き甲種幹部候補生の昭和20年頃、戦局の日々に悪化した厳寒の満州の兵営で、中隊長のご発声で「春まだ浅き前線の古城に香る梅の花、せめて一輪母上の、便りに秘めて送ろうじゃないか」と全員で熱唱されたときの情景を彷彿とされる文章をお書きになりました。
 和田さんの、古木に咲いた美しい梅の花と井上館長の名文とが、読む人々に「梅の花の日本的な気高さと美しさ」として一層の感銘を与えたものでした。
 爾来、別府高齢者教室生の文集の表紙は「紅梅・白梅」となっております。
 皆様方の作文を読ませていただき、男性の方々は戦場へ、女性の方は、銃後で、それぞれに国と家庭を守り、滅私奉公をされておられました。今も、心身の傷跡となって癒えることなく様々な形で残っておられるようです。
 今、平和に楽しそうに「想い出の軍歌」を唄っていらっしゃる姿を見て「ジーン」と胸のしめつけられるような思いがいたします。
 私の父は、終戦の4日前に45才で病死しました。当時は、薬も無い、食料も無い最悪の時代でした。
 太平洋戦争も昭和20年に入りますとアメリカのB29が航空母艦を基地にして紀淡海峡を経て、私の故郷和歌山の上空を通り、波状攻撃を繰り返し乍ら、大阪を爆撃しました。
 「紀伊・和歌山県、警戒警報発令!」「紀伊・和歌山県空襲。警報発令」ブーーブーーブーーブーーと不気味なサイレンの音に悩まされながら、毎日、夜何度も何度も防空壕に入りました。いつの頃からか、和歌山県に「紀伊」を、岡山県に「備前」をつけて呼ばれるようになりました。両県は電波を通すと同県のように聞こえ混乱があったからだそうです。
 8月6日、広島に原爆が投下された時は「紀伊・和歌山県警戒警報!」発令でB29一機が和歌山の上空を通過して広島県に入りました。翌日の新聞は大きな見出しで広島市に最大級の被害のあったことを報じました。
 病床の父は「たった一機の飛行機が飛んで来て、たった 一つの爆弾を投下しただけで、こんな大きな被害のあったのは、アメリカは、きっと今までと違う新しい爆弾を 発明したのに違いない!」と言い四日後に死亡しました。たった一つの爆弾があの恐ろしい原子爆弾だっだことも知らず、日本の敗戦も知らず、戦後の目ざましい復興と、世界一豊かな日本になったことも知らず、唯々「貧しても、貪すな!」と口ぐせのように言っていた父、逝きて47七年、女手一つで私達を育ててくれた母も、86歳になりました。母に孝行をしたいと思いながら、いつの間にか私も母と一緒に高齢化時代の仲間入りをする年令となり、子供たちの優しい言葉を励みに、毎日を送っております。
 私も知らず知らずに高齢者教室生予備軍になってしまいました。
 今回、井上館長のおすすめで寄稿させていただきましたが、矢張り、私も皆様方と同様に戦争の傷が心のどこかに残っているようです。

付 記
 この文を書いた二日後の九月二十九日、アメリカのブッシュ大統領は「米、陸海軍の戦術核全廃」を宣言したことが報道されました。

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