紅梅・白梅(8) (1997年)



 目 次

1.       生き方の選択
2.       早生まれ
3.       バスハイク日記
5.       君の名は
6.       大刀洗平和記念館にて想う
7.       咳嗽(せき)
8.       生涯で一番つらい思い出
9.       箱根の旅
10.       満開の桜を見て親友三浦宏君を偲ぶ
11.       趣味作リ
12.       明治維新の歴史的意義について
13. (戦争)  門司の想い出
14.       思い草
15.       太刀洗平和記念館
16.       萩・津和野を訪ねる
17.       花いちもんめ
18.       D町はどこに?
19.       白い杖
20. (戦争)  私の中学時代
21.       逃げた魚


 1.生き方の選択



 2.早生まれ



 3.バスハイク日記




 グアム・サイパンは大東亜戦争末期迄は日本の委任統治区で、戦時中は本土防衛の要をなし、南方軍総司令部をサイパンに置き、南雲海軍中将総指揮の下、陸海空精鋭部隊が守っていた。
 当時アジアの各地に戦火拡大し、長期化で兵器弾薬食糧も尽きかけ兵も国民も疲弊し、昭和19年頃より各戦場共悪化後退、グアム・サイパンも米軍の膨大な化学兵器作戦が連日続行、為に我が軍の苦戦の甲斐なく同19年7月にサイパン・グアムの全日本軍は玉砕した。此のグアム・サイパンを含むマリアナ諸島での日本の戦死者総数27万余と言う。
 以後本土爆撃が苛酷を極め、翌20年8月15日、日本は無条件降伏し戦争は終わった。長かった戦争で国の内外合わせ数百万の戦没者と全国民を不幸のどん底に落とし、都市は焦土と化したが国民はこの中より雄々しく立ち上がり復興に励んだ。
 さて、戦後52年目の今年、福岡市遺族会は戦後2度目のグアム・サイパン戦没者慰霊巡拝をした。
 先ず司令長官以下6万の同胞と原住民も巻き込んで玉砕したラストコマンドポスト、バードアイランド、バンザイ岬、その他の戦跡巡拝で心を込めて慰霊祭を行った。市より助役他多数の参拝も得た。
 総司令壕やその周囲は、戦車砲台その他の兵器が蜂の巣の様に撃たれた儘晒されていて戦争の凄まじかった事、今更のように見た。目を覆い悲しい。
 ラストコマンドは島の最南端に位置し、断崖絶壁で100メートル位真下は太平洋の荒潮が打ち寄せ、しぶく白波は妖怪の如く猛っていた。此処まで追い詰められた日本兵と原住民(女、子供等)は司令官と共に折り重なって自刃したと言う。その死者は6万人を越えたと碑にきざまれていた。又、バンザイクリフより海に身を投じた人は1万人を越え、原住民の老人弱女乳児もいたと碑文にきざまれていた。
 どんな思いで自刃し又波間に身を投じていったのであろうか。時代は遠のいたが此処に佇むと風も泣いている。雨も泣き濡れていた。荒潮の高鳴り、蝉しぐれ、精霊とんぼ等すべてが涙をさそった。只々涙し詫びるのみでした。
 又、マカニヤ沖合海底10メーチル地点を探望船で見たものは零戦機、B29、B24、上陸用舟艇、軍艦等20数台が約100メートル四方に撃墜、撃沈された儘になって魚の巣になっていた。此処でも戦争の無惨の極を見て胸が張り裂ける思いでした。
 グアム・サイパンは福岡より3000km、約4時間の航空で着いた。島は南北27km、幅5kmで淡路島位との事。擂鉢状のゆるやかな丘型で密林も有ったが草原の所も多く見えた。植物は椰子や照葉樹で、鮮やかな色の花々が美しく咲いていた。田畑は一度も見なかった。牛馬も見ず人家も少なく質素だった。
色鮮やかな小鳥が鳴いているのを見た。主産業は何なのか?観光誘致のホテルが林立していた。ライトブルーの美しい海、碧い空には白綿の様な積乱雲が涌き流れ、夢の様な美しい楽土だった。この島で残酷な戦火を起こし原住民を巻き込んだとは――申し訳ない思いで詫び続けた。
 現在のこの両島は観光のメッカで、飛行場もホテルも街も海辺も日本の若人が大勢来ていた。ガイドの話によると今の日本の観光客は戦跡巡拝には関心が無いらしく巡拝は少ないと言う。平和の礎となって玉砕した27万余の同胞の英霊を思うと、時の流れとはいえ余りにも悲しい。同胞玉砕の史実を教育の中に教えられていない?事が腹立たしい。余りにも平和ぼけし、豊かさにどっぷり潰かって過去の同胞の痛みを教えられていない事に強い憤りを感じた。さまざまな教訓を思い知らされた旅でした。
 終わりにつたない短歌、俳句を記します。

  ふる雨は英霊(たま)の涙か詣で来し
        玉砕岬に嗚く蝉しぐれ

  サイパンの六万自刃の岬にて
       白砂(まさご)となりし遺骨をすくう

  グアム戦跡  すすきが原に虫時雨る

  玉砕地  精霊とんぼに迎えられ


 5.君の名は



 6.刀洗平和記念館にて想う



 7.咳嗽(せき)



 8.生涯で一番つらい思い出



 9.箱根の旅



 10.満開の桜を見て親友三浦宏君を偲ぶ



 11.趣味作リ



 12.明治維新の歴史的意義について




 小学生の頃は山と田圃のm園地帯で春は菜の花、麦畑でひばりが嗚く農村でのんびりしたものだった。村の鎮守様のお祭りの時は、先生が早く帰りなさいと言ってくれて皆と一目散に帰った。
 今は都市開発で一面住宅が立ち並び、昔の面影はなくお宮の楠の木だけが懐かしい場所で、実家に帰った時には立ち寄る。幼少の頃、野山を駆けめぐったのがほんのこの頃のようである。山に松茸が生えるので、祖母と一緒にトーミじょうけ一杯取って、先生や近所の人にわけた。学校の休みの時は山に泊まり、松茸を焼いて食べさせられ、ご飯も吸い物も、来る日も来る日もぶつぶつ言いながら食べた。今考えると贅沢な話である。
 家の事情で真夏の暑い昭和17年、台風のあけの日、祖母に連れられ叔父の家に預けられた。私が13歳の時、汽車に秉った事もない門司駅。市役所の公宅に住んでいた叔父の家は長谷の高台、夜景が素晴らしく綺麗で、空気が澄んでいたのか、ダイヤモンドをちりばめたように輝いて対岸の下関まで見下す景色に感動した。
 世間知らずの小娘には見るもの聞くもの皆珍しく、ガス、電話があり、チリンチリンとベルが鳴ると、怖くて人を呼びに行く。又、冷蔵庫の氷を毎朝届けに来ていた少年がいた。
 叔父は厳格で、立つたまま物を言う事は許されなかった。めったに顔を合わせる事はなかった。
 転校して田之浦に遠足に行き、大きい船が砂浜に乗りあげていた。台風が如何に荒れ狂ったか知らされた。2、3年位そのまま放置されていたらしい。サルベージが下を掘って潮の満ちるのを待って沖に流したとか―新聞で知った。
 博多弁がおかしくて良く笑われた。自分に与えられた仕事を済ませて走って学校に行く。戦争も段々激しくなり、B29が門司港に機雷を落としに毎晩やって来る。その度に防空壕に入り1時間位で又静けさに戻る。その繰り返しであった。
 勤労奉仕に駆り出され空襲警報発令で家に帰る様に言われ、友達と息もたえだえで山の防空壕に入り難を逃れた事、遠足に行き、貝拾いをして帰りの道で機銃掃射され、先生より伏せろ!と大きな声がかかり、道に伏せたので一人も怪我は無く家に帰りました。
 夜9時過ぎにB29が来襲―のラジオ放送を聞き、隣組の壕に駆け込んだ。毎晩の事とて寝入って全然気がつかないこともあった。世話人の方が心配され、翌日話してくれた。学校に行けば午前中は空襲警報で防空壕に入る。ろくろく勉強は出来ず教科書を先生が読まれて、それでおしまいでした。昼夜この繰り返しで、時々は間違って民家に落下し、死傷者を出す。友達も爆風で20m飛ばされたが一命は取りとめた。
 風師山の真上からサーチライトで照らされ、米軍機と撃ち合いになり爆弾の破片がトタン屋根に落ちる音がする生きた心地はしない。夜一人広い家に、留守中の壕で念仏を唱えながら親達の事を思い、泣きながら寝てしまった。叔父曰く「この娘は度胸がすわっとる」と祖母に言ったそうである。人の気も知らないで!と言いたかった。
 戦争もきびしくシンガポール等も米軍に占領されB29も昼夜を問わず襲撃し、天井等をはずし火災を除けるため、防火演習等に駆り出されていた。それでも学校に出席するのを楽しみにしていた。
 毎朝、家の呼び鈴が鳴ると姉が「橋爪さんが来られたよ、早く行きなさい」と教えてくれて、2人でいつも連れ立って学校へ行った。帰りも一緒。ある時私に「駒井さん、明日は貴女を誘いに来られないよ」と彼女が言った。「何か用でもあるの」と聞くと「いいえ」と言う。私は気にも止めず家の前で別れた。それが元気な彼女の見納めとは思ってもみなかった。
 昭和20年6月29日、門司に大空襲、私の家より200米先に油脂焼夷弾が50個も落ち、一面火の海、ザアーと言う雨の降るようなざわめき。夜なのに人の顔が良く見え、港の方は真っ赤に焼けていた。只事ではないと防空頭巾をかぶり、かまえの体制を取ろうとしても身体がブルブルと震え、おろおろするばかり。
その間の記憶は余りありませんが、学校の友達の安否が気になり無事を祈りました。
 私の家の上が武徳殿、暁部隊の本部である。やけどをしてホータイを頭からすっぽりかぶり、歩けない人が次々に運ばれて、応急処置に一晩中人の往来でごった返し家族皆、一睡もせずに一夜が明けた。学校に電話をしたが通ぜず、まず学校に行き友達の安否を知ろうと思い、出掛けましたが、熱気で顔はカッカッとほてり足元はあつくて歩けぬ状態でした。そのまま引き返し1km先に焼夷弾が落ちた所に昨日別れた友達の家がある。その方に足が向かい歩いて行った。沢山の人が集まっているので尋ねたら、家の防空壕が直撃弾を受けて一家全滅、気の毒で小さい子供さんもいて可哀相と涙を拭き、顔はすすけていた。私はお名前は?
と問いただしたら「橋爪さん」と言われ、足がすくんで動けなかった。後日、先生から聞いた話ではお母さんと姉弟4人、黒こげで性別も判らぬ状態だったと言う。町内会で葬儀を出し先生方と冥福を祈った。
 街全体が焼けの原、軍事倉庫も全滅、先生の家も罹災されたので何班かに別れて跡かたずけに廻り、それからも毎日の空襲で、何度も焼け出された人もいた。
丸裸になった人には日用品等を差し上げ市より僅かの配給で命をつないでお互いに助け合い、皆愚痴一つこぼさず頑張ったが、8月15日を迎え、これで戦争も終わり脱落感を覚えた。
 17日夜頃からデマが飛び、占領軍が来るので、女、子供は田舎に避難せねばと言われ、身の回りのものと食糧等をリュックに入れて駅に走る。積み残しの人があふれていた。その中には息絶え、むしろがかぶせてあった。あの時の情景は、自分が助かる事のみで人の事等は目に入りませんでした。
 学校も授業内容が変わりつつあり先生方も苦労されたと思う。ある日突然に、戦地より復員されて橋爪さんのお父さんが私達にお礼を言いに来られた。喜んで帰ったら家族全員が焼け死んだ事を知らされ、私も戦死すれば良かったと教壇で慟哭されたのが心にいつまでも残っています。彼女のカスリのモンペ姿。笑った顔に金歯がのぞいて都会的にあか抜けした姿が今でも夢に出てくる。戦争は本当に悲惨なもので犠牲になられた方を偲ぶ時に胸がつまります。
 私の叔父の義兄も沖縄で戦死。叔父は翼賛会の仕事をして国の為に身をけずる思いで働いたのにC戦犯で追放にあい、22年に官舎を追われる様に出た。その上に農地開放で郷里に残した土地は取り上げられ、踏んだり蹴ったりで生きるすべを無くしていました。あれから50有余年、困難を乗り越えて生きてきた。
 戦後の門司の資料によると機雷の数は4600個、日本全体の数が11000個、関門海峡に投下されたのが半数、5000トン級以上の船舶が機雷にふれて沈没したもの157艘、100トンから10000トン級が157艘、海峡は海の墓場となったそうで、海上保安庁等で処理はされたがまだ相当残っているとのこと。
 世に知られざる方々の戦争犠牲を忘れて、今の平和はないはずなのに、ほとんどの戦後生まれの人は耳を傾ける事はない。門司で同窓会がある度に訪れ、昔の彼女の明るいモンペ姿を思い出し、懐かしくもあり又寂寥を感じる。南の方ではいろんな事情で戦っている。子供達が飢えに苦しむ姿が放映されるが、50年前の私達の姿と同じなのである。2度と戦争はしたくない。人類平和の為に心から祈り続けるものである。


 14.思い草



 15.太刀洗平和記念館



 16.萩・津和野を訪ねる



 17.花いちもんめ



 18.D町はどこに?



 19.白い杖




 歳をとると良く度忘れするものですが、昔の事は覚えているものです。若い頃が懐かしく思われます。
 さて、私の中学時代は昭和14年入学、19年に卒業いたしました。物心ついた時より中国にて戦火が拡がり、12年7月7日の日支事変でピークをむかえ16年12月8日、大東亜戦争へと突入いたしました。
 その日は月曜日で晴れ、寒かったと記憶しています。上海でアメリカの砲艦を拿捕した。そしてハワイ空襲の大戦果に万歳、万歳で浮かれていました。全く私の少年時代は戦争に明け暮れていたのです。今からみると想像もつかない時代だったのです。現代の高校生は幸せだと思います。
 当時の私は中学校への憧れを抱き入学したものの、制服はスフ(人絹)を着せられ、それでも嬉しくてならなかった。編上げ靴は豚革であり、足にはゲートルを巻き、戦時色一色でした。食糧は配給、衣料切符の発行となり窮屈な生活となりましたが、嬉々として中学生活を送ったものです。だが、その中学生活にも暗い蘇りがさしはじめました。
 戦争は絶対に勝つ、日本は神国であると信じていました。教育とは恐ろしいものです。だが懐かしい気もします。国民が総て大きな目的のために邁進して頑張ったのです。尊い事です。今日の日本はと思うと寂しい限りです。
 それはさておき、私の中学時代を振り返ってみましょう。中学3年になると軍事教練も厳しくなり、筒先が肩にかかり重い三八式歩兵銃を持たされ百道の浜を走り廻ったものです。昭和17年頃、若鷲の歌が流行し映画もあり、我々友人も成績の良い者は海兵、陸士へ、悪そう坊主は予科練へと行ったものです。七つボタンが格好良いといって入隊した者もいます。勿論国の為という事は当然の事です。
 因みに同級生で戦死は2名でした。学校に残った者は授業の合間をぬって勤労奉仕です。農家の手伝い、芦屋(現航空自衛隊)の飛行場の建設、六本松の陸軍墓地の作業、油山にて炭焼き、一週間も10日も泊り込みの奉仕です。
 5年生になると四六部隊の営内宿泊があり、一週間兵隊と一緒の生活。卒業直前、福岡県下の中等学校の連合演習がありました。三八歩兵銃をかついで夜中に一里も走らされ辛い思いもしましたが、苦にはなりません。当然の事と思っていました。だが、時には悪い事もしました。西公園の山に登り煙草を喫ったり、西公園にあった九州高女(九州女子高校)の生徒をひやかしたり、かくれて映画を見たりしたものです。
 こんな事もありました。2、3日学校を欠席すると西新警察署より呼び出され説教された友人もいました。今では考えられない事です。
 私達は5年で卒業しましたが、2級下の連中は4年生で繰り上げ卒業という事もあり、いよいよ敗色も濃くなり運命の8月15日を迎え、ただ茫然とした事を覚えています。
 現在の日本は平和な良い国だと思います。戦後53年、戦争の事は決して忘れてはなりません。しかし余りにも引きずって廻るのは如何なものかと思う昨今です。


 21.逃げた魚




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