別府の歴史見聞録(創立30周年記念誌)

福岡市別府公民館


 
 


目 次

まえがき

草ヶ江の入江
別府の由来と別府の太郎別府の地に伝わる部所の名称(一) 浜の道・裏門・新星の水戸
(二) 東蓮寺の耕地整理

別府原
(一) 草ケ江高等小学校
(三) 煉瓦工場
わが別府の主だった行事
(一)子供通夜



別府公民館長  井上 忠男

 昭和50年代、我国が高度成長の直中にある時、日本の地方都市は古き良き伝統と特色を失い、急速にミニ東京化の道を辿りました。
 私達が住む別府の街もその例にもれず、「成長を維持しながら人が住み、生活や文化の匂いのする街づくり」が問われる時代となりました。

 昭和の初期、別府の有志によって設立された「別府公会堂」が、昭和39年7月に「市立別府公民館」として新たな発足をして今年で満30年を迎えました。
 その記念行事の核として郷土誌の刊行を企画致しました所、土地の古老である藤村勝丸氏より同氏著の「別府の歴史見聞録」を新装刊行することにご快諾を戴きました。

 往古の歴史に始まり、現代に息吹く別府の風俗、心温まる行事等が氏の達意の文章と絵画とによって活写され、一読、深い感銘を覚える名著であります。
 著者は当年88才、生涯を教育と福祉に捧げ、現在別府1丁目において悠々自適の生活を送っておられます。
 氏のご健勝とご多幸を祈リつつ感謝の辞を記して序とさせて戴きます。

 平成六年十月吉日

まえがき
藤村 勝丸

 わが別府の古い歴史については老人の私達も知りたいのですが、昔の歴史を記録した伝説や逸話などのまとまった古文書がないので遠い過去の歴史を詳細に把握することは出来ません。

 そこでわれわれ老人達が今までに知り得た昔のお話しや貴い生活経験の知恵をまとめて記録に残そうではないかという意見が持ち上ったのです。
この折たまたま四通八達碑の移転問題が惹起しその移転に関する直接の責任が不肖私に負荷されることになりました。

 この碑はわが別府の重要な歴史を語るものであるため設立当時の経緯を調査しなければならない羽目に陥りこれが因果の切っ掛けとなった次第です。
 企画としては先ず別府(別府原を合む)各部所の古事来歴や過去の状況などを始め子供の頃に帰って懐かしかった村の行事や楽しかった遊び本の思い出を中心にその頃の世相の一部面を表わす生活用具類を紹介して昔を偲ぶ手引きになるようにとこの手記を起草したものであります。

草ヶ江の入江 いつ頃の時代か分らないが有史以前の太古、当地(別府)は草ヶ江の入という海の南岸に突出した1つの岬であったように思われる。
 草ヶ江というのは現在の別府2丁目、3丁目、5丁目の接点が中心となる場所で、別府原の一部でもあった。
 わが別府の西方北向に突出した草ヶ江の台の岬の裾の部分を「網出ヶ鼻」と言いこの附近に漁師が住んでいて漁業を営んでいたという話しを古老から聞いていた。
 また草ヶ江の西側には荒江という地名もありこの地方が入江の海であった頃には潮流の影響か何かで波が荒く荒磯であったのではないかと思われる。
 又、草ヶ江の入江の東端に当る谷の山々の中には大休み山や鰯山(今の山の上ホテルのある山)と名の付く山もあり、この山の中から入江(湾内)を監視し鰯の群が見付かると狼煙を上げ網出ヶ鼻の漁夫達に知らせたという。
 網出ヶ鼻の漁夫達は狼煙の煙を見て船を出し鰯取りをしたという話も覚えている。
 “鰯見る山の狼煙や網出鼻”拙ない拙者の句であるがご披露しておきます。

 いつの時代頃に海底が隆起して入江の水がなくなり、今日の地形になったかは分らないが、現在の大濠を始め樋井川とその支流に当る七隈川や陸軍墓地の前にある菰川の流れが太古の『草ヶ江の入江』の名残として残っているのではあるまいか。
 鳥飼の一部にも「塩屋」という名称の地が残っているし、わが別府1丁目の中央部にも「洪の道」という名の付く坂道が残っている。


別府の由来と別府の太郎

 大宝令(大宝の律令制)によって設置された筑前の『太宰府』は千数百年の太古より九州全域を管轄統治していた。
 太宰府は朝廷直轄の役所(本府=本庁)であり、府(役所)の総元締めである。
 「別府(べふ)」というのは府(役所)の別れであり支所とか出張所などの出先機関に当るものである。
「別府」という地名は当地の外に粕屋郡の志免にもあり、その外大分県には有名な湯の街「別府(べっぷ)市」があり高知県にも「別府(べふ)峡」という名勝の地がある。
 その他国内の各地にも「別府」という地名の付いた所は少なくないようである。

 当地の地名「別府」の起源も太宰府との関連性があるのではないかと思うのであるが当地には古文書もなく当地に関する大昔のことについては知るよしもない。
 しかし太宰府が設置された後当地のあたりにも何かの出先機関(別府)が置かれ、某の太郎という人物がその機関の頭として権力を振舞い別府の太郎と称したことからこの地に「別府」という地名が生れたのではなかろうか。
 またこれとは逆に、その頃当地に居住していた豪族で太宰府の役所や役人とは全く関係のない某の太郎という人物が「われこそは、別府(べっぷ)の太郎だぞ」と称し当地を根拠に勢力を縦(ほしいまま)にしていたことから「別府(べふ)」の地名が生じたのかも知れない。
 当地「別府」という地名の起源については右の如く2様の推測もできるが何れにせよ読者諸賢の納得の行くご判断にお任せすることにする。
 幼少の頃祖父や近所の古老の人々から別府の太郎という人物の名前は聞いたことはあるが「偉い人」とか「強い人」とか云うことばかりで具体的にこの人物の偉功や行跡については古老の人達も全々知らなかったようである。 別府全域が別府の太郎の居住地であったかも知れないが、この人物の子孫、末裔は元よりその屋敷跡らしき場所も当地には見当らない。別府の太
郎とは架空の人物であると思われる。
 学説による「別府」という地名の起源は『別勅符田』の略『別符』から出たものだといわれている。これもこじっけのようで納得しがたい。
 太宰府政庁の頃この附近には今の福岡城趾の内部に「鴻櫨館」・警固(薬院)の地区に「警固所」という出先機関が置かれていた。当地からこの何れかの役所に勤務していた役人が何かの功績により朝廷から田地を下附されたことからこの地が「別符」という地名になったといわれている。
 しかし、この説は「別勅符田」の略称「別符」の符の字が当地の「別府」の府とは全々異り「別符」を「別府」に当てはめて読み替えさせる不自然な感じを受ける。
 右2つの役所の何れかに勤務していた役人を某の太郎とすればこれが別符の太郎に当てはまらぬこともない。当時この別府には下附されるような田地は無かったと思われる。
 当地別府の由来についてはこの学説による外、単純素朴な前記の考え方も併せ含めるとまた一興あるものではなかろうか。

別府の地に伝わる部所の名称

 わが別府の地には昔から伝わる次のような部所の名称が残っている。
 さ程広くもない地域ではあるが最古の部所名として伝えられている前記の「浜の道」という狭い坂道(薬師堂前の道)があり太古の住民はこの道を歩いて浜(入江の海岸)に出たものと思われる。

 この道の出はずれ山口どんの屋敷の西側に「裏門」という名称の場所がある。門の跡はないがこの地に住んでいた豪族邸宅の裏門がここにあったものと思われる。

 また、当地の北側には「新屋の水戸」という場所もある。豪族の部下か身内の者が家を新築して水戸を作った所かも知れない。
 この地点の3叉路の角には庚申様(道しるべの神)の石碑も立っていた。
(現在久富医院車庫前の庚申碑がそれで約10m位南側に移転されている)

 この外、当地の東側に「東蓮寺」という名称の場所もあったが大正10年福岡高等学校(現九州大学教養部)敷地造成のためこの地の土を提供し耕地整理をしたため今はその跡影すらも見ることができない。
 広い東蓮寺の地域内には寺跡もなく2ヶ所の墓地と1ヶ所の塚があリ他の部分は凡てが畠で隅々まで耕作され四季の野菜もよく収穫された。
 荒れ地は少しもなかった。しかし、ただ東端が急傾斜の竹藪になっていた。ここの竹藪には筒が取れるばかりでなく竹の材質も上々のものであった。

この地の北側の墓地は藤村家一統のものであり、南側の墓地は藤村家の祖先高原家一統のものであった。
 昔は「寺があった」という説もあるが寺の遺跡らしいものはどこにもなかつた。一説によれば何時の頃か全く分らないが寺は火災によって全焼したので小田部の教善寺へ門徒替したということになっている。
 大正10年の耕地整理によって会葬された藤村家、高原家の一統を主とした墓は当時草ヶ江本町の新墓地(今の別府2丁目別府西公園)に移転された。

 この地は昭和49年9月頃、市の別府西公園として新発足したため、納骨堂を新設し、存置希望者一部の墓を残したが、別府の両藤村家一統はこの際殆んどが小田部の寺の納骨堂へ納骨することになった。
 「塚」は別府の太郎の塚という説もあったが、ここからは錆びこけた古刀がー振り出ただけでその外は何も出て来なかった。この塚の伝説は全く噂ばかりのもので実質の伴わない架空のげなげな談しに過ぎなかった。

 東蓮寺の耕地整理跡には別府の幹線道路が造られ、その後間もなく現在の別府商店街が出来るようになったのである。
 当時この耕地整理の大事業に関係のあった人達は、これを記念するためこの新道(東蓮寺道)の中央部東端に、『四通八達』の記念碑を建立した。
 この碑は昭和57年3月交通事情やその他の込み入った問題が生じたため天神森に移転した。

 この時の耕地整理の範囲は単なる東蓮寺地区ばかりではなくその南側(方)の高台(大畠)から天神森・八竜神の前方まで、別府の高台となっていた大部分の土を大量に削り取って、現在の住宅地(当時は平面の畠)にしたのである。
 当時この高台であった広い地域には一軒の家もなかった。
 

大正の初め頃までは、別府の幹線道路は田島より別府の中央を南北に抜けて太閤道に通ずる、幅2m位の曲りくねったただ1本の道があるばかりであった。
 樋井川の右岸(東側)の道は荷馬車の離合出来る位の幅3・4m程度のものであった。

 昔の太閤道は明治43年、福岡市内で開催された第13回九州沖縄八県併合共進会の会場造り(肥前堀の埋立)当時、拡幅されて立派な県道となった。
 肥前堀(今の西日本新聞社の建てられている地域附近)の埋立に使用した土は、草ヶ江の台(今の中村大学の敷地になっている所)を削り取ったもので、当時この土を軌道車(小型の煙突の太い汽車)で運んだのである。

 昭和45年、この県道は更に拡幅され現在の202号線バイパスとなった。
 しかし昔の太閤道の面影を止める旧道の一部が、リボリパン屋の横から元添田不動産KKの前まで、約200mばかり昔の牛方どんの藪下に残っている。
 この道は犬(弓)の馬場(今の別府6丁目西側)から原を経て生の松原唐津方面に通じた昔の幹線道路(太閤秀吉が朝鮮出兵の時に通った道)とも伝えられている。

 田島から別府に入る入口の道路の西側は地面が道よりも5・6mも低く竹藪や雑木に囲まれた窪地で「別府の窪」という名の付けられた所であった。
 ここには橋本家を始め別府の旧家数軒の屋敷があったが、前記耕地整理の折に、この窪の地面まで東側の高い部分の道や畠の上が除去され、現在の家の密集した平地になったのである。

 別府の南入口窪の一隅にあった庚申様の碑は今も残っている。
 窪の北西側に隣接した「招魂場」(藤村源路・大野家の墓のある所)には大きな桜の木があり、招魂の碑もあったが今は基盤の平石だけが残ってぃるばかりで昔の面影はない。
 この招魂碑はたぶん明治維新頃の功労者か忠臣のためのものではなかったろうかと思われる。
 この墓地の東側にあった笹叢の中には高嶋家の破損した墓石もあったが今はどこに処分されているかは知る由もない。
 この墓地の前の道を隔てた北側の高い墓地は讃井家祖先のものであろうが、今は荒れ果てて墓参する人も絶えているようであるが、この墓地の中には藤村姓の始祖に当る藤村長右衛門之尉の墓碑も見られる。
 橋本家の墓地は当町2区の南端に近い松の木立のある所(木下酒店の裏側)にあった。

薬師様
 洪の道のだらだら坂を下りて裏門の方へ出る途中この道の右側に別府の薬師様がある。
別府の薬師様は楚(祖)原の薬師様と共に昔から有名で信者も多く、昔は秋祭りの日には遠くから参拝に来る信者も多く、お堂前の広場の両側には出店も設営されて商いをしたということである。

 薬師様というのは一体どんな仏様だろうか簡単にご紹介しておこう。
 薬師様というのは薬師如来のことで、東方浄瑠璃世界の教主とされる仏様で、人間のあらゆる病気を治癒し、寿命を延ばすことを本願とする仏様として信仰され、医王仏ともいわれてぃる。
 もと、菩薩であったとき衆生を救済するため、除病安楽・息災離苦・荘具豊満・衣食満足など12の大願を立ててその願いが成就して仏(如来)となり、西方の極楽浄土にひとしい浄瑠璃世界に住むようになったとされている。
 日本では仏教伝来当初から盛んに信仰された。とくに我が国では皇族の病気平癒と無事安穏を祈願して薬師後をまっるため法隆寺・興福寺・新薬師寺などが建立された。

 普通の薬師像は右手を開き左手に薬壷を持ち左に日光菩薩、右に月光菩薩の脇侍をはべらせ、さらに眷属として12神将を従えている。
 しかし薬師3尊像にはこの外に脇侍を観世音菩薩と大勢至菩薩にしたものもある。

 別府の薬師様は亨和3年亥の8月に普請されたもので当時は御堂も小規模であったが、郷土住民の信仰があつく安政の6年頃には再建の大改修も行われたと記録にも残っている。
 現存の薬師堂はこのようにして昔から祭られていた小さな木造の祠を拡大するため明治の中期頃当地の住民が協議の上各戸に寄附を募りて増改築したものである。
 新築後建物の新しかった折にはお祭り事や村内の行事などに色々と利用されたのであろうが、開放的で特定の管理者がなかったため年月が経つに従いいつの間にか子供の遊び場となり子供達と馴染の深い薬師様になった。
 われわれの幼・少年時代にもこの薬師様に行って独楽を回したり、パッチなどをして遊んだ。
 床板や柱には独楽の根の傷跡が透き間のない程に付いていた。このように子供達の遊び場として賑やかな薬師様には信者がなくなり長い期間、子供達専用の遊び場として荒れに荒れた。

 しかし、村中の農家の田植えが終った後に行われる「早苗祭」の時には、その前日村中の子供達(小学1年より6年までのお通連中)が集り、男の子は樋井川の砂を車力で薬師様に運びお堂前の広場を清掃して砂撒きをした。
 女の子達はお堂の内掃に励み床に水を流しては藁や雑巾で床板を磨き、佛像までも奇麗に洗っていた。
 「早苗祭」の晩は男女の子供達がこの薬師様に集まり年長者(小学6年の者で先生と呼んだ)の手で新しく張り替えた御神灯を灯して参拝し、その後は花火を上げたり歌を歌ったりして楽しく遊んだものである。

 昭和20年の敗戦後しばらくの間は荒れ果てたままになっていたが世情の安定を見るに至りそろそろと参詣者の影も見られるようになり加うるに地元信者の御配慮により屋根瓦の葺き替えも行われその後更に御堂内部の改修も実施され屋内も広くなって見違えるように立派になった。
 この間に薬師様本尊のお姿も金色に塗り替えられ、その外お大師様を始めお不動様・お地蔵様・お阿弥陀様等も合祠され立派な佛閣となった。
 昭和57年4月以前の屋根瓦は現在の銅板葺に改修された。最近公民館裏に別府会館も新設されてぃるが、町内の役員会議などの会議場にもこのお堂を使用させてもらっている。

 近く御堂前には遠藤一馬福岡市長の筆跡になる「別府薬師如来」の石標が大野元喜氏のお世話により建立されることになっている。
 別府薬師様の故事来暦等の明細については大野氏のご研究による諸記録のおまとめを依頼しその完成に大きな期待をかけている。

別府会館
 因みに、公民館裏の「別府会館」は昔(明治初期の頃)鳥飼村・樋井川村(1部)両地区の農業用水を確保するため七隈の山間部(今の福岡大学前)に共同で貯水池を造成した。
その池(区有財産)が現在不要となったため関係区域内住民の同意を得て市がこれを埋立てその売却金を鳥飼・別府・草ヶ江・田島・長尾(1部)等7校区に配分することになったのでこの金によって現地に新築(昭和53年)したものである。
 この敷地は昭和の初期わが別府の有志諸賢によって設置された「別府公会堂」現公民館の一部である。
 この件に関する詳細は当時の建設委員であった藤対文彬氏・水下芳生氏(故人)がご存じである。

天神森
 別府の天神森は大昔より清浄な神域として当地の住民に崇め親しまれた場所であったと思われる。
この森には樹令千年を越える幹の空になった大樹のナノミ(くろがねもち)もあったがこの大木は大正の初期に枯死してしまった。現在は数百年の樹令を持つ楠の大木を始め、市の保存樹に指定されている大樹が6本もある(楠・ほると・くろがねもち3本・榎)。
 このように大樹の密生している場所は隣接地田島の八幡神社境内を除きこの附近にはない。

 話しはちょっと横道に反れるが可愛い別府2丁目の少女の作文の一節を紹介しておこう。
 別府小学校4年5組の富森裕子さんが天神の森に社会科の勉強で「校区の古い物調べ」に行った時のことを綴った作文の終りに、保存樹の大きな楠の木を見て、『もしこの木がしゃべれたら、昔このへんはどんなだったか答えてくれるだろうと思いました。』と書いています。
 大変良い感想ですね。私も全く同感です。文書や絵図にかき残されていない古い昔のことは、こんな大水や天然自然の物に話しを聞いてみたいものですね。

 天神森というのは天神様(菅原道貴公)を祀ってある森という意味で太宰府天満宮の分霊をこの森に祀った頃から名付けられた住民の愛称である。
 昭和5年の2月この森の祠の前に石の鳥居が立てられ、その額に「天満宮」と明記されて以来この場所を天満宮というようになった。
 庶民に親しみ深い天神様の森の愛称が天満宮境内に代ったことは何となく庶民との間に隔たりが出来たような感じを受けた。

 別府天満宮は鳥飼神社(八幡宮)の末社とも云われているが、天満宮と八幡宮とは全く縁もゆかりもない神様であるのに何が故に別府天満宮が鳥飼八幡宮の末社になるのかということについては不思議な疑問を抱かざるを得ないのである。
 しかし、この疑問は別府天満宮に対する私の認識不足に起因していたことが判明し恥ずかしく思っている。
 鳥飼神社の古文書によれば鳥飼神社は「埴安神」と「八幡神(様)」を併せ祭ったお宮であり、わが別府の天満宮は鳥飼神社の祭神埴安神の分霊社に天満宮を合祀したお宮であるため、鳥飼八幡宮の摂末社となるのである。
 何時頃の時代に両祭神の小さな石祠が創設されたものかは不明であるが、明治十五年以前にこの祠が祭られていたことは間違いない事実である。
 「埴安神」とは国土を安らかにする神様で「摂末社」とは名代の分霊神様のことである。

 現在われわれの天神森について右のようなことを知る人は恐らく幾人もいないと思うが、昭和11年10月に行われた鳥飼八幡の御遷宮記念として天満宮石段前の両脇に立てられている幟の竿止め石を見てもここに祀られている埴安神(鳥飼神社の末社)に奉献されたものであることが証明出来る。

 現在の石祠は大正8年頃造り替えられたものであるが、姪洪石の積重による方形の祠の台座はその後間もなく(大正11年頃)改修されたもので境内前の石垣や石段もその折に出来たものである。
 それ以前の天神森は現在の石垣の部分から北側の煉瓦塀のある所までが斜面になっていて笹や背丈の低い雑木が叢生していた。祠前に通ずる狭い凹凸の坂になった参道以外は雑草ばかりで子供達の運動場所には利用が出来なかった。

 いつ頃に始まったものか不詳であるが、この頃この天神森では年に一度の祭典が行われた。
 7月25日のこの日には村中が総出で割子や栄え重に入れた弁当や重詰めの手作り料理を持寄り楽しいお篭が催された。
 この時には近所の者や特に親しい者達が集り適当なよい場所を選んで各自が持って来た其座や蒲を敷いて円座を作り手作りの料理を自幔しながら四方山話しに花を咲かせた。
 酒を嗜む者は一杯気嫌で唄を歌い和気蕩々の中に地区住民の親睦・懇親が出来たのである。
 この雰囲気にひたるわれわれ子供達もまた楽しい一日であった。

 この懐かしい思い出のお篭は大正12年頃まで統いたが、時代の変遷に伴い自然に消滅してしまった。
 当時は木製の華奢な鳥居が今の石段の下あたりにあってその根元に沢山な梅干の種子が捨てられていた。
 この風習も昔から伝わった善意による信仰心の表現の一面であったと思われる。
 境内前の石垣が出来てからは藪のようになっていた斜面の部分が隅々まで全部埋め立てられ境内の面積も現在のように広くなった。

 大正12年の11月には五穀神の合祀出願の許可も下り、もと別府原の最北端の高台にあった草ヶ江高等小学校(大正八年廃校)西側の丘に立てられていた五穀神の石碑(御神体)がこの境内に移された。
 この神様は別名「社日様」とも云われ春秋年2回の祭祀が行われている。

 昭和5年2月には別府の有志20人(橋木健大郎・橋本七蔵・山口勇・友池条之助・大野久五郎・岡村辰巳・武内晴好・高田好彦・草野金吾・藤村源路・藤村好美・藤村芳次郎・藤村貞次郎・藤対作次郎・藤村格兵衛・藤村嘉恵・藤村太郎・讃井勘三郎・樋口廣・森清)によって石の鳥居が祠の前に建立せられ神社としての形容が新まった。
 もうこの頃はこの天満宮北側の畑には(今の国税局独身寮のある場所)西部軍司令部官舎の工事が着工されていた。

 昔は夏の蝉取りや秋の椋の実ちぎりにしか来なかった子供達もこの境内が整地されて広くなってからは三三・五五と遊びに来るようになった。
 この頃天神森の南側(今の財務局ビルや公舎のある所)には大内晴好さんが住まわれており広い畑には各種の野菜を始め色とりどりの珍しい奇麗な花が作られていた。
 武内さんは農・園芸の専門家であり当時はめったに見ることの出来ないオートバイの所有者でもあった。

 昭和41年4月(藤村嘉市氏町世話人の時)天満宮境内を児童広場にするため市当局に申請したがその翌年には許可が下り公認の児童広場として年間3万円の運営補助金が交付されることになった。
 この件に関しては当時の市議会議員古川初雄氏の内助の功があったことを忘れてはならない。
 天満宮の祭典も大正の末期より跡絶えていたので、この好期を記念して昭和42年以降5月5日の子供の日を祭典日と定め、鳥飼八幡宮の宮司を招いて神事を行うことにしている。
 祭典に関しては当町1・2区が隔年交代で神事一切の世話をすることになっている。

 天神森の地所は別府天満宮として登記されているが鳥飼神社の祭神「埴安神」の摂末社であるため管理者は鳥飼八幡宮となっている。
 現在この児童広場には滑り台付の砂場・ブランコ・シーソー・アーチ式梯子等の遊具を備えベンチも設置されている。
 この児童広場の管理や安全維持をするため当町一・二区の町世話人を主体とした数名の児童広場運営委員が定められている。

 石段の右側にある「四通八達」の碑は大正10年当地別府発展のために実施された耕地整理完了後に建立されたもので最初は東蓮寺道、現在の益田歯科医院前の道端(別府団地入口の角)にあったものを交通事情の緩和と地面振動による碑転倒の危険防止のため、当町の役員会に図りその同意を得て移転されたものである。
 この記念碑は昔耕地整理の行われた場所の方に向けて立てられている。

  “先輩が偉業の跡に建てし碑の
      予言違はず別府は開けり”

 この度の記念碑移転とその跡の道路改修には現市議会議員高山博光氏の並々ならぬ内助の功かあったことを忘れてはならない。
 なお、この記念碑の移転に関する詳細は別冊「四通八達記念碑移転の覚え書き」に記録されている。
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記念碑移転の理由と顛末概略
  (詳細は当時の町内会長藤村勝丸保管の「四通八達記念碑移転」の覚え書きにあり)
 一、移転の理由
(1)記念碑建立地の所有者藤村恵三氏に対しこの地の固定資産税が附加されるように
   なったので本人からこの土地を市に寄附したいとの申し出があったため。
(2)別府団地より当町の方へ、また記念碑の前後を往来する自動車の数が激増し交通
   の障害物件となったこと。
(3)設立後半世紀以上もたっているので車の振動や後方の地盤不安定に基づく倒壊の
   危険性が生じたため。

  右の事情により昭和五十六年八月二十六日当町の役員会を開き全員の同意を得て天満宮
 境内の現存地に移転したものである。移転日は昭和五十七年三月四日。

 一、移転の顛末
(1)永年に亘る土地無償貸与者の藤村恵三氏には「感謝状」と「轡の家紋額」を贈る。
(2)移転に関し直接のお世話を頂いた市議会議員高山博光氏には「丸に剣菱の家紋額」
   を贈る。(「感謝状と四通八達記念碑跡」の標識は大野元喜氏の揮毫、記念碑前の
   「東蓮寺道より移転」の標識は藤村和夫氏の揮毫、家紋額の作製は町内会長藤村勝
   丸である。)
(3)その他この事業に関しては副会長藤村嘉市氏の内助の功を忘れてはならない。

八龍
 天神森の南方100m余の地点(財務局公舎アパートの西南端)にわが別府では昔から「八龍」と称する所がある。

 榎・樗・なのみ(くろがねもち)など数本の大樹がありその大樹の木蔭に小さな石の祠が祭られていた。参拝者の人影も殆んどなくこの場所は荒れに荒れていた。
 われわれの幼年時代(明治末期から大正の初め)にはこの中に大きな松の木もあったがこの松の木も遠い昔に枯れて今はその跡影もない。

 「八龍」というのは一体何のことであろうか、別府の住民でありながら「八龍」という場所を知る人も稀なのにその謂れ(いわれ)を知る人は更になお少ないであろう。
そもそも「八龍」というのは八大龍王の略称でこの八大龍王を神として祀った社を龍王神社というのである。
 龍王神社の祭神は龍神(竜王)で別府の八龍の祠にもこの龍神が祀られていたのである。
 龍神というのはどのような神様であるかを次に紹介しておこう。
 天満宮境内に祀られている五穀神は米・豆・麦・粟・稗など五種の主食穀物の成就を司る神様であるが、龍神は「水神」又は「海神」ともいわれ、雲を呼び雨を降らせる魔力を持つ神様として古くから信仰され農家の水田耕作にも大変必要な神様である。

 昔は真夏に雨が降らず旱魃(かんばつ)が続いて稲作に悪影響がある時農家の人達は天台宗の僧侶を招きこの「八龍」に集まって読経を頼み神域の外に火を燃やして雨乞をしたものである。

 八大龍王を祀った龍王神社は鳥飼7丁目9番の一角、七隈川のほとりにもあるが、ここには、この他の佛像が色々と合祀され福博新四国第65番の霊場になっている。
 昔から龍神を祀った場所には遍歴修業の山伏が必ず立寄ったということである。

 龍神というのは印度や中国原住民達の蛇神崇拝から生れたもので龍という架空の動物を神として祀ったものである。
 龍は水中に住み空中を自由に馳せ回り雲を呼び雨を降らせる魔力があるものだと信じられている。
 この魔力が信仰の対象となるのであろうか。龍神(龍王)の霊験はあらたかで、何かのご利益があるらしく鳥飼の竜王神社も参拝者が多いといわれている。
 もっともこの霊場にはこの外にお大師様・お不動様・お地蔵様など19種の仏像が合祀されているからだと思われる。
 わが別府の八龍神も霊験あらたかということで昨年(昭和56年9月)信者の浄財によって新規に大普請が行われ、小さな石祠が現在の神殿に建て替えられ真新しい立派な龍王神社が出来上ったのである。この境内には稲荷様も併せ祀られている。
 古書によれば八大龍王というのは8体の龍王仏ということで即ちこの仏は「難陀(なんだ)・跋難陀(ばつなんだ)・娑伽羅(さから)・和修吉(わしゅきち)・徳叉迦(とくさか)・阿那婆達多(あなはだった)・摩那斯(まなす)・優鉢羅(ゆうはつら)」の称であると記されている。

中津原=中手早良
 草ケ江の入江の南側に別府高台の岬(半島)が北向きに突き出し、その西側には別府原の草ヶ江高台の岬(半島)が同じ方向に突き出している。
その中間に両岬よりもやや低い丘陵地の出っ張った所がある。
 この一帯が中津原といわれている所で太古の時代には草ケ江台下の網出ケ鼻に住んでいた漁夫達が舟を繋いでいた所かも知れない。
 中津原の北側の端は前公民館長鳥井松三氏宅前の道の所あたりでこの丘陵地は現在の別府2丁目西部の一端を除き田島2丁目の方へ広く続いていた。
 現在この附近は住宅地として立錐の余地もないように住宅が密集しているが昭和の初め頃までは一軒の住宅もなかった。
 この地においては今を去る七百年前(文永11年)の元冦の折には退却して行く元軍と激戦のあった地である。
 武崎五郎季長の絵詞に『元軍は赤坂陣を駈落されて(おいおとされ)二手と成て(二手に分れて)大勢はすすはら(麁原=祖原)に向けて引く(逃げた)。
 肥後勢は別府のつか原に(中津原に逃げて)鳥飼の汐干潟を(で)大勢に成合むと(合流しようと)引くを(逃げるのを)追かけ、云々』と記されているのを見ても中津原に追い詰められた敗残の元軍が手向いしたであろうことは頷くことが出来る。
 参考までに麁原山に建立されている元冦の碑を紹介しておこう。
 そのー、在郷軍人会西新分会が建立したもの
     御影石の角柱で3m位の高さであろうか、表面に大きな文字で「元冦遺跡」と刻まれ、裏面には、勅諭下賜50年記念、昭和7年1月、行を改めて文永11年10月20日(1274)、帝国在郷軍人会西新分会と記されている。
 その二、石田清氏個人によって建立されたもの
     黒御影石を鏡のように磨き上げて作った高さ3mに及ぶもの、表には「元冦麁原戦跡」と記され、裏には次のような碑文が刻まれている。
     『この地麁原山は、初度の元冦文永11年(1274)10月20日に早良川から百道にかけて上陸した元軍の有力な一部隊の本陣となった。
     元軍は軍旗をなびかし太鼓やどらを鳴らして気勢をあげ、目前に展開する鳥飼・赤坂(福岡城裏)・別府・荒江で鉄砲を放つなどして、わが郷土肥前・肥後の将兵とはげしく戦った。
     そのことは肥前の武崎季長の蒙古襲来絵詞や八幡大菩薩愚童訓に見えている。
     なお、博多湾に浮かぶ能古・志賀島や西戸崎の海陸は弘安4年(1281)再度の役に東路軍がわが軍の猛攻をうけてついに壱岐へ退去するにいたった古戦場である。』

昭和49年11月                 
題字揮毫 福岡市長 進 藤 一 馬      
石 田   清   寄 贈
  この記念碑の碑文によっても別府や荒江あたりが戦場となったことは明らかである。
 赤坂の激戦においては肥後勢の少貳景資が敵将を射落して武功を立てたという話も伝えられている。
 七百年前の元冦後はこの地、中津原の一帯も元の静寂に戻り昭和の初め頃までは人影も希にしか見ることの出来ない辺鄙な村里であった。
 われわれが幼少の頃の中津原は南側田島との境に添って久七山という大きな赤松の疎ら(まばら)に生えた凹凸の多い丘陵の場所があり、松の下には色々な潅木(かんぼく)が密生していた。
 秋になれば、はつたけ・しめじ・ねずみたけ等の茸狩も出来た。しかし、この山の端の方には火葬場の廃墟もあった。

 この火葬場跡の北西に当る谷(水田)を隔てた向うの赤松林の中(中津原の南西部)には島飼村の村立避病院があった。この避病院というのは伝染病院のことで私の祖父も腸チフスでここにお世話になったことがある。
 当時は、われわれ子供達がこの病院の近くを通る時には手の平で鼻や口を覆って小走りでその場を遠ざかったものである。
 この病院は大正の始め頃、荒津病院が出来たので廃院となった。その後、この附近は赤土や粘土が堀り取られ今はその跡すらも残っていない。

 中津原の丘陵地は北部から東部にかけて広い農耕の畑があり、拙宅の畑もその中にあった。私も時々は祖父に付いてその畑に行き甘藷や野菜の収穫を見ていたことを覚えている。
 ここの畑で取れた甘藷の味は特別に美味であったことの思い出が今もなお脳裏に淡く残っている。
 昭和5・6年頃市の西南部耕地整理によって公民館前の道路を始め、中津原の中にも東西南北に通ずる道路が開通し、住宅など一軒も無かったこの地区は今日のように発展し昔の面影すら見られぬようになった。
   “元寇の激戦跡の中津原      昔の歴史知る人もなし”

別府原(原:ばる)

(一) 草ケ江高等小学校
        (元草ヶ江高等小学校の跡は現在日鉄工業株式会社の福岡学生寮になっている)

 別府原というのは今の別府2丁目(別府西公園一帯6丁目・7丁目との境附近)、3丁目の一部(草ケ江高等小学校のあった高台及びその附近)と別府5丁目東部の高地(中村大学より東側の台地一帯)の通称で、太古の時代は草ケ江の入江に出っ張った一番大きな半島ではなかったろうかと思われる。
 丁度中津原の西方に当り東さん宅を始め昔からの旧家や農家が点在していた。
 私の幼少の頃の思い出として印象にはっきりと残っているものは、高台の草ヶ江高等小学校・教護施設の福岡学園(別名を感化院といった)・久我の煉瓦工場である。

 草ヶ江高等小学校には兄達に連れられてよく遊びに行ったものであるが、校合の北側(高台の北突端)と南側が運動場になっており、南向きの正門から校内(運動場)へ入って右側に行けば、鉄棒(昔は機械体操といった)のある広い砂場があるのでいっもその砂場で遊んでいた。
 この砂場の東側、運動場の端の方には大きな栴檀の木があったのでその木蔭に行っては落ちた栴檀の青い実を拾って遊んだことも覚えている。
 また、運動場の西側には小高い所があり大きな松の木が4・5本生えていた。そこには今、別府の天満宮境内に祀ってある五穀神(社日様)が祀ってあったことも記憶に残っている。
 学校の正門前には道を挾んで広い実習畑があり生徒達の栽培した甘藍(キャベツ)などが畝に行儀よく並んでいたのも知っている。

 この頃この学校には松井峯樹という若い元気な教育熱心な先生が居られたことも不思議な程に覚えている。
 この先生は生徒の信望も厚く当時幼年で何の関係もない私までがよくそのお名前を存じ上げている。
 この松井先生は御長命で、90才を越えられ最近までご生存だったと聞き及んでいる。
 草ヶ江校の実習畑はその後間もなく土木工事によって削り取られてしまったが、今の別府1丁目1区の町世話人藤村漸氏の御尊父はこの場所において事故死されたのである。

 この草ヶ江高等小学校は早良郡鳥飼材の福岡市合併により大正八年廃校となったので、私達はこの学校に学ぶことなく鳥飼にあった福岡県女子師範学校附属小学校の高等科男子部(新設)に進学することになった。

 現在の中村大学は昭和41年3月頃教護施設の福岡学園が福岡市隣接の那珂町へ移転したのでその跡に新設されたものである。

 福岡学園は明治の末期にこの地に創設されたものであるが通称「感化院」として一般に知られ外部との接渉は殆んどなかった。
 この施設の収容者達は最初宗教を主とした教育を受け監視付で広い農園(今の中村大学本館のある場所)の作業に精を出していた。
 大正6・7年頃戸田大叡という園長が就任されてからは部外者の出入も多少緩和され、子供の私達も何かの用事があれば学園に入れるようになった。
 当時学園の本館は今の河村家具店横の高台にあり生徒の寮舎は旭幼稚園の用地内にあった。一日の正課を終えた園の生徒達は夕食時までいつも剣道の稽古に励んでいた。

 戸田園長は僧籍にある人であったが儒学者でもあり、一般の庶民にもよく接触していた。東さんを始め別府の有志達とも親交のあった人である。
 天満宮境内にある四通八達碑の碑文を草稿したのもこの人である。

(三) 煉瓦工場

 当時感化院に隣接して久我さんの煉瓦工場があった(今の恵照院のある所)
 工場の内部に立入ったことはないが、職人の人達が煉瓦の型箱に粘り土を入れて生煉瓦を作っているのは外からも見ることが出来た。
 生煉瓦は広い干場の板に並べて干され、乾燥したものは大きな長い焼竃に詰められて焼かれた。
 工場の前には焼き上った赤い煉瓦が整然と高く積み重ねられていたのを思い出す。当時の煉瓦製造業は土木建築の先駆事業であったと思われる。

 まだまだこの時代には煉瓦を使用した建築物はたまにしか見ることが出来なかった。別府小学校が出来てからはこの地区も急速に発展を見るに至った。
 この外、現在の別府2丁目商店街及びその南側隣接のファミール別府ビルー帯には深沢さん経営の瓦工場があった。
  
町境町名の変遷
 次に町境町名の変更(遷)概略を紹介しておこう。
 元早良郡鳥飼村字別府だったこの地区は、大正8年11月、鳥飼村が福岡市に編入されて後、昭和6年頃になって新町名に改まり、別府町・別府北町・別府新町・草ヶ江本町の新名称の町が出来上った。
 別府町というのは昔から木立に囲まれた丘陵地旧別府本村の部分一帯で、中央の道路を境に東側を1丁目、西側を2丁目に区分された。
 別府北町というのは202号線バイパスの北側、今の鳥飼6丁目の南方一部を合む区域(昔は竹の下と呼ばれていた)となり、別府新町というのは旧別府本村西側の、水田地の部分より中津原(中手早良とも書かれていた)の一帯が合まれた。草ヶ江本町というのは旧別府原の全域(昔の十畝町と原の一部)が合まれていた。

 昭和47年福岡市が政令都市になり5区(東・博多・中央・南・西)に区分されたが、その前年(昭和46年)には更に町境町名が変更され、別府小学校を基準とした7地区の別府校区が制定され、別府町・別府新町・草ヶ江木町一帯の地区が別府に統合され1丁目から7丁目に区分された。

 その概略を紹介すると次のようになる。
 別府町の1・2丁目は別府1丁目となり中央部より北側を1区、南側を2区と改定された。
 別府新町はその一部(公民館前の道の東側一帯)が1丁目に編入され、その他の部分が2丁目となった。
 3丁目は202号線バイパスの北側草ヶ江本町の北部、4丁目が3丁目の西側、国鉄筑肥線・七隈川・202号線に囲まれた範囲になっている。
 5丁目は中村大学東側の菊地参道から荒江団地東側の七隈川までの地域となり、6丁目は別府小学校附近より西方の旧弓の馬場、茶山に隣接した部分。7丁目は別府小学校の東側でゴルフ練習場が中心となっている。
 昭和57年5月10日、西区が城南・早良・西の三区に分割され、夫々の新区が誕生して新発足したのであるが、わが城南区に於ては本区役所の建設もさることながら、地区住民を主体とする道路の整備と交通の緩和による本区発展の新市政に期待をかけたいものである。
 地下鉄に代る新規交通機関の構想もまた必要ではあるまいか。

わが別府の主だった行事

(一)子供通夜

 昔からわが別府には重要な村の行事として「子供通夜」というものがあった。いつの頃にこんな行事が始まったのか分からないが、このお通夜と称する行事の趣旨(目的)を考察して見ると、これは明治三十七・八年の日露戦争後に始まったものではなかろうかと思われる。
 終戦後戦勝を得たわが国は大日本帝国として世界の五大強国にのし上り欧米の諸国と共に対等の国交が出来るようになった。しかしながら、欧米の文明諸国と対等の国交を維持して行く上には対外貿易を始め新しい西洋文化吸収によっての富国強兵ということが国是の最大要因となったのである。
産業開発、貿易の振興と共に軍備の拡充が何よりも必要な時代となった。
 軍備の中心となるものは強兵の養成であり強兵の卵である男の子が女の子よりも特に重視されるようになったのである。
 このような世相のもとに、わが別府においても心身共に健全なる男の子を育成するため男児に特権を与えたお通夜の行事が生まれたものと思われる。

 子供通夜というのは、尋常小学校一年生より六年生までの男の子で組織され、わが別府の就学児童全員が参加することになっていた。このグループは最高学年の六年生が先生となり五年生が飯注ぎという役を勤め、下級生の指導や世話をすることになっていた。
  当時(今から七十年以前の頃)わが別府の全戸数は三十数軒しかなく男児の小学生も多い時で十六・七人少ない時は十二・三人位のものだった。
 この男の子たちの子供通夜という行事は春・夏・秋・冬の各季に一回づつ適当な日を選び土曜日の午後から日曜日の午前中までに実施する慣習となっていた。
 このお通夜日取りを決めるのも大人の立合いはなく先生役の六年生が相談の上決定するのである。勿論この行事の座(場所)を引き受ける家は順送りで当番が巡ってくるので次の座は誰の家だということは予め分っているので先生役の者はその家に行ってお通夜の日取りを相談し決定することになっていた。
 詳しいことはよく覚えていないが、この行事の当番になる家は前の当番座の家から前もって連絡や申し送りがなされておったものと思われる。
 お通夜の日が決定すれば上級生の先生はいちはやく下級生に連絡したものである。連絡を受けた下級生の子供たちは指折り数えて其の日の来るのを待ち詫びたものである。
 いよいよ実施当日の土曜日になると急いで学校より帰宅し何事もさし置いて当番座の家に集まり先生の指図を待ったものである。
 全員が揃うと先生役の六年生より何やかの注意があり、飯注ぎ役の五年生が米袋(通夜専用のものがあった)を持って先頭に立ち先生引率の下に低学年の子供もお供して参加児童の家へ米希り(集め)に行くのである。
 目的の家につくと先生は「もうし・もうし。」と掛声の挨拶をする。家の人が出て来ると「お通夜の米を希りに来ました。」という。その時には飯注ぎ役の袋持ちは氷袋を差し出し米を入れてもらう準備をするのである。米は一人につき2合で外に参加会費として二銭(後には五銭位までに引上げられ
たかとも思う。)を頂くことになっていた。
 こうして参加者全員の家を回り米と会費が集まるとこれを当番座の主婦(おばさん)に渡すのである。この米希りの場合、前回の通夜後から今回の行事までの間に男の子が誕生している家からは一合の米と二銭の会費を忘れずに申し受けることになっていた。
 米希りが終ると当番座の主婦の指図に従い先生達役付きの上級生は夕食の『五目飯』の材料買いに八百屋や魚屋など、夫々の店へ使いに行くのである。
 牛蒡(ごぼう)・蒟蒻(こんにゃく)・醤油・沢庵(たくあん)・魚・菓子(松風せんべい)などの材料が揃うと早速晩飯の準備に取り掛るのである。
 牛蒡削りや蒟蒻の摘切りなどを手伝わせる主婦の人もあったが、家によってはこれらの一切を一手に引受けてやってくれる所もあった。このようにして夕食の準備が出来上がるまで下級生の小さな子供達は夫々の遊びに興じ体を動かして腹を減らして楽しい夕金時を待つのである。季節によって夕食の時刻は一定していないが、大てい日暮れの近づくころまでには食事の準備が完了するのである。
 ご飯が出来ると、先ず最初にこれを重箱に盛りその上に松風せんべいを五・六枚立てヽ飯注ぎ役が先頭になり下級生の者達を連れて新生児の家に届けるのである。この仕来たりは『男児の誕生を祝福し、その子が健康に成長して早くお通夜の仲間に加わって下さい。』という祈りや願いを含めた一つの儀式ではなかったかと思う。新生児の加わる場合は割合に珍らしいのであるが時には二・三軒にも及ぶ場合があった。
 このようにして一通りの慣例が終るころには、もう、日もとっぷりと暮れ座敷には参加者全員の夕金準備が出来ている。いち日中体を動かして腹ぺこになっている折から、この食事の始まる時刻を皆待ち構えているのである。
 先生の指図によって行儀よく屋内に這入り食膳又は長台(食卓)が並べられている前に学年順に正座する。全員の着席が終ると先生の指示によって飯注ぎ役は夫々の茶碗に盛よく飯をつぐのである。おいしそうな五目飯の香が鼻を剌激して一刻も早く箸を着けたいのであるが、それもままならぬのである。
 飯注ぎが全部の茶碗につぎ終ると、また食事についてのいろいろな注意がありこれが終るまで食べることが出来なかった。待ちに待った食事の許可があると皆笑顔をつくって人に負けないように食べ始めるのである。
 この時の五目飯の美味さはまた格別で何にも例え難いものであった。食べる量に制限はないので三杯・四杯を食べる者は最低である。五杯六杯と食べる者ほど自慢であり先生から誉められもした。
 飯注ぎ役の忙しさは又一入(ひとしお)で次から次とお代りの請求をされるので最初暫くの間は落ち着いて食べる暇もないのである。沢庵以外の副食物はないので飯の量も常日頃より大量腹に納まり満腹感を覚えるのである。
食事が終ると後片付けの済むまでの間一休みの自由時間である。
 室内の掃き掃除が終ると先生は飯注ぎの五年生より学年順に壁に添って並ばせその場に座らせる。これから愈愈唱歌の独唱発表会が始まるのである。
 歌は低学年の一年生より順次に指名され次々に起立して大きな声で歌わねばならない。声が小さいと「大きな声で。」と注意されるし、下手でも必ず終りまで歌わねばならないのである。大きな声を張り上げて音程を外して歌うと皆から大声で笑われる。それでも最後まで歌い終らねばならない。しかし、歌い終った時には皆の者が拍手をもって「やった、やった。」と誉めてくれるので恥ずかしさは喜びに代りほっと一安心するのである。
 このようにして一座は和気藹々の中に、二年・三年・四年・五年と次々に順番が回って行くのである。中には非常に上手な者も居て一同を驚かせることもあった。
 最後に残るのは六年生の先生であるが先生達は全部が歌わない。上手な者や茶目気のある者は歌って聞かせたり笑わせたりするが全々歌わぬずる賢い者もいる。しかしこれが先生の特権で、下級生には厳しく命令はするが最上級生の先生達は自由に勝手気まヽな振舞が出来るのである。
 でも、下級生の子供達はこの先生達の動作振舞に対してこれに反感を抱いたリ批判をしたりする者はー人もいなかった。長上・先輩に対しては絶対服従の先入感(風習)があったように思われる。当時は反感を持つよりも「早くあんな身分になりたいなあ。」という憧れの気持ちの方が強かったのである。
 六年の上級生も先生という立場に立てば日頃は腕白坊主であっても重い責任を感じ我儘を慎み小さな下級生達を労ってくれた。
 こうした楽しい歌の独唱会が終ると座敷の真中で相撲遊びが始まるのである。しかし、この相撲遊びは私達より五・六年先輩の人達が先生をしていた時代の頃からは各家庭の厳しい批判や悪評の話題となり中止せざるを得なくなった。
 また、この頃までは夜の行事終了後下級生が帰宅した後も先生はその家に残り宿泊することになっていた。これらの仕来り(しきたり)も相撲が中止される頃より廃止されることになった。
 相撲遊びをやらなくなってからは、その代わりに『肝試し』などと称して「浜の道」や「招魂場」あたりの淋しい所に行かせ物陰から威したりして面白がるような悪戯好みの先生のいる場合もあった。
 先生を勤める期間は六年生の一年間だけであった。かようにして美味い五目飯の発べ放題、和やかな歌の独唱会などで夜の行事が終る時刻は九時から九時半頃までの間で予定の行事が終れば解散して近隣の者が相寄り夜道を自宅に帰るのである。
 一夜明くれば次の日はお通夜の二日目である。日曜日ではあるが早朝から起きて顔洗いもそこそこに、また会場の家にと急いで集まるのである。昨晩と同様に美味い五目飯の朝食が準備されているからである。
 人員が揃えば前夜と同じように先生の指図により行儀よく食膳(食卓)の前に座り飯注ぎのついでくれる朝食を鱈腹食って楽しい会食をするのが何よりの嬉しさでもあった。
 食事が終れば飯注ぎ連中の上級生か後片付けや部屋の掃除にかかる。
この間下生の者達は外に出てこれが終るのを待たされる。
 室内の掃除がすっかり終ると先生が皆の者を集め家の主婦(おばさん)たちに「お世話になりまして有難うございました。」とお礼の挨拶をした後全員を引連れて薬師様へ行くのである。
 薬師様ではとくべつの行事と云うものはないがお通夜のお開きは必ず薬師堂にあつまって解散することに決められていた。
 こゝでは解散前に全員に菓子を配るのであるが、皆の者は「早く菓子を分けて呉れないかなあ。」という気持ちで待ち詫びていた。菓子というのは松風せんべいのことでそれも年の数だけ数えて先生が渡してくれるのである。
学年も顔も先生がよく知っているので年令のごまかしは許されなかった。
 上級生になるほど数多く貰えるので小さい者達は年上の者が羨しかったけれども仕方のないことであった。たゞ「早く上級生になりたいなあ。」という悔しさと羨しさで諦めるより外なかった。
 菓子の配分が終り解散すると大部分の者はその数を数えながら嬉しそうにわが家へと急ぎ足に持ち帰ったものである。
 解散の時刻は大体午前十一時前後であったし、お通夜の菓子というのは松風せんべいに限られていた。
 この楽しくて面白かったお通夜の行事も時代の変遷に伴い文明開化の発展と共にいつの間にか(大正十年頃?)消滅してしまった。
 われわれがお通夜を楽しんだ頃はラジオもテレビも無い時代で子供の服装も筒袖の着物(和服)に兵児帯・下駄か草履(藁製)穿きの七・八十年も昔のことで今日のように服やズック・靴などの文化装身具はなかった。
 男の子の特別行事として昔からわが別府に伝わっていたこのお通夜はたゞ楽しかった・面白かったの思い出だけがその時代の経験者には残っていると思われるが、このお通夜の行事によってわが別府の男の子達が身に付け得た宝物は一体何であったろうか、それは今更申すまでもなく次の要因に外ならぬのである。
 即ち、心身共に健全なる男の子を育成するのが目的であったため、これを今少し具体的に考察して見れば、まず、我慢強さと勇気のある元気で健康な子を育てることに主体が置かれ更に他の一面には年少者に対する労りの心や年長者に対する従順敬愛心の芽生えが助成され、長幼の序を弁えることの出来る素直な子供への方向付けがなされた。
 なお、それと同時に友交親しみの和を基とする一致団結の尊さをも知らされたのである。
 男の子のお通夜に対し女通夜という行事もあったが、この行事はお通夜ではなく夕食後に主婦と女の子達が当番の家に集まり、雑談や世間話に花を咲かせ茶菓の持てなしによって夜遅くまで賑う無礼講の親睦会であった。これは年一回正月の中に行われていた。
 その外天神森の外寵りに対し内寵りといって村中の者が弁当持参で当番座の家に集まり(主婦と子供達)昼の会食をしながら親睦を主とした会合の行事もあったが子供以外の男性は少なかったように思う。
 こんな行事がいつの頃に始まっていつの時代に姿を消したのか覚えてはいないが女通夜と類似したわが別府の行事であった故、念のために附記しておく。 
(二)愛宕神社の日参

 わが別府には昔から(開始年次不明)愛宕神社に日参をするという慣習があった。日参というのはこの別府の村から毎日誰かがこの神社に参詣するということで、これが確実に実施されるよう板張り(広い板で作った日参の順番表)を回すのである。
 この板張というものはその下部に村内在住の世帯主名を記入しその上方には縦横に線を引いて小さな桝目の枠を作りその中に参拝の月日を記入することになっていた。これが回って来ればその翌日はその家の人が必ず愛宕神社に参らなければならないことになっていた。
 世帯主名は隣から隣へと順番に記入されているので大休何日頃参拝しなければならないかは凡分っていた。
 当時わが別府の戸数は三十数世帯であったため一ヶ月に一回位の割に参拝の順番が回って来た。その頃はバスも電車もない時代で、愛宕神社までは歩いて行かねばならなかった。
 道順は網出ヶ鼻(草ヶ江台の下)より、新川(七隈川)の龍王橋(当時は小さな土橋があり、その橋の近くに二本の大きな龍王松があってその下に粗末な龍王神の石祠があった)を渡り楚原(楚原の楚は鹿となり今は祖となっている)山の麓を通って藤崎に出て室見橋へと歩いたものである。
 その頃楚原には楚原炭坑があったし、藤崎には赤い煉瓦の高い塀に囲まれた監獄(今の刑務所)というものがあり門内の庭園には赤い着物に編笠の囚人も垣間見ることが出来た。
 刑務所は今の早良区役所・県立勤労青少年文化センター・交通センターのある場所にあった。
 大正の四・五年頃には龍王松の近くにも福岡炭坑が出来たが昭和の始め頃には廃坑となった。今の鳥飼小学校の一部とその南側の住宅地一帯がこの炭坑のボタ山であった。
 愛宕様の日参の行われていた頃は私の幼時で七十年以上も昔のことであるから祖父か父親に連れられてのことである。たまには兄弟連れで行ったことも覚えている。
 また、その頃は鳥飼から今川橋の方へ出ればここから姪洪行きの軌道車(煙突の大きい小型の汽車)に乗ることも出来たが乗車賃がいるので歩くことの方が多かった。
 当時今川橋は福博電車の終点でもあったため時には珍らしい電車というものを見ることも出来た。
 愛宕山の麓に着けば参道の脇にゴウズ池(亀の池)があって、その池には多数の亀が放置されていた。これを見るのもまた楽しみの一つで親亀の背に負われている小亀もあれば岩の上で甲らを干して気持よさそうに眠っているのもいる。水の中を泳いでいるもの、水の底に潜っているものなど数え切れない程であった。水の中に麹の餌を投げ与えるとわれ先にと競い合って餌にパクつく様には何とも云えない面白さがあった。中には餌が欲しさに目を覚ましあわてて石の上から水の中に転がり落ちるものもあって更に一興を添えた。
 亀池からの参道は曲りくねった坂道になり所々に石段もあったので山頂のお宮にたどり着く時は青息吐息の状態であった。
 大きな鈴を「カラン、ガラジ」と鳴らして参拝を終ると必ず社殿の裏に回ったものである。
 この山頂の神社神域から眺める博多湾・玄海の遠望は絶景というべきか、能古(残)の島を左下に見下しその東側の博多湾の全望が海の中道・志賀の島・玄海島などと共に見渡される。
 西公園の展望台から眺める海の景色よりも更に規模が大きく壮観であった。
 愛宕山下の海岸には大正の始め頃より戦後38年頃まで早良鉱業の姪洪炭坑があった。
 今の豊浜地区はこの炭坑の跡地である。海の景色を眺めた後には一八〇度の転回をして必ず南方の岡側の風景が眺めて見たくなるものである。
 縄の様に細く長い室見川の両側には広い早良の平野が展開し背振や雷山の連峰も目に寫る。こゝから見る春の田園風景はまた格別のものであった。
 大正の中期には愛宕山の南側の傾斜面に登山用のケーブルカーがかけられていたが短期間の操業で終止符の運命を辿った。
 また、この愛宕山で知っておきたいことは、山の西側竹の山に面した部分は姪浜石(石垣などに専用のもの)という砂岩の採石場があった。今もなおこの事業は継続されている。市の地下鉄工事もこの堅い岩盤のために愛宕山下のトンネル掘削が難工事だったのである。
 話しは余談にそれてしまったが、これら愛宕様参りの懐かしい思い出もさることながら、一体何のためにわが別府の者はこの神社に日参したのであろうか、愛宕様は日の神様ということでわが別府の村に火災が起こらぬようにと祈願したのが始まりのようである。併せて村の平穏無事、無病息災をも祈願したのであったと思われる。
 このためか、われわれの小さい頃にはこの別府には火災が少なかった。
牛方さん方の風呂場のぼやと藤村徳さんの家の火災は覚えているが最近のように頻繁な大火は起らなかった。昨年から今年にかけて別府一丁目と二丁目に三回の大火があり別府校区間のあちこちの火災を併せると数件に及ぶのではないかと思われる。
 また、この愛宕神社は禁酒の神様として知られ個人では禁酒の願をかける者も少なくはなかった。
 いつの頃にこの日参制度が廃止されたのかよく覚えていないが、当時の『日参板』は大野元喜氏の御高配により今もなお薬師様に保存されている。
 この『日参板』は昨年(昭和五十六年十一月)わが別府の公民館で開催された明治大正展においても歴史研究専門家の目に止まりその保存価値のあることを認められたものである。
 話しは脇道にそれるが、実はわが別府の氏神様は鳥飼八幡宮であってこの神社にはお宮日(十月十九日)の秋祭りがある。われらの小さい頃はこの日に必ずお参りしてその帰途出店で買った肉桂(ニッケー:肉桂の本の根を乾かして十糎位の長さにして数本を東ねたもの)や飴玉をしゃぶりながら歩くのも楽しみであった。
 しかし、この氏神様に対しては村からの特別参詣はなく、このお宮日の日かその他特別の機会(正月の三社参りか七・五・三)を除き殆ど参ることもなかった。
 だが、鳥飼八幡宮のお宮日の日には親戚の者を家に招いてご馳走する風習は割合に盛んであった。
 これ等の良風美徳も今はその影を潜め親族同志の密接な懇親の集いも慶弔(冠婚葬祭の婚と葬)の特殊行事の外には見られなくなった。家庭内の暴力を始め校内暴力などの頻発する今日昔の倫理・道徳を新薬として教育の改善に取り入れてもらいたいものである。

(三)お大師様待ち

 これも村の行事ではないが私等の幼少の頃行なわれていた老主婦連中の寄合いがあった。
 この催しは同好の希望者が毎月一回当番座の家に集まってお大師様祭り(お大師様まちと云っていた)をするのである。
 この晩は弘法大師のお祭りもさることながら、一通りの形式的なお祭り行事が終れば湯茶を飲みながら雑談や世間話しによる楽しい懇親の集いとなっていたようである。これもお大師様のご教示による大切な親和実践の道ではなかったろうかと思われる。
 夕食後当番座に集まった老主婦達は弘法大師の掛軸の前に造られた簡単な祭壇前に正座してリーダーの音頭に合わせ御詠歌の合唱を始める。
 長い柄の付いた鈴を垂直に持ちながら調子に合わせて振り鳴らしたり畳の上に置いた座鐘をまたこれに合わせて鳴らしながら詠ずる御詠歌の名調子には陶然とさせられたものであった。
 あの節回しのよい合唱のリズムは今もなおよく覚えているがご詠歌の文句の一句一節すらも知らないのは誠に遺憾の極みである。
 このお大師様祭りが何時頃に消滅したかは知らないが、現在別府の薬師様に合祠されているお大師様は明治の末期頃に篠栗の新四国霊場より分祠されたものでわが別府の薬師様も福岡第七十四番の霊場となっている。

明治の末期より大正の始め頃の子供の遊び

 今を去る七・八十年前の子供達(主として五・六才から十二・三才位)の遊びについて述べて見よう。
 この頃の子供達は一体どのような遊びをしたのであろうか、野球道具もなければドッジボールなどのボールもない時代だったから色々な道具を使用したスポーツや体育的な遊びは出来なかった。従って昔からあり来たりの遊具か道具のいらない遊びしか出来なかった。
 男の子だけの遊びとしては、独楽(こま)回し・ぱっち・凧揚げ・てんきり・夏の水浴び・魚取り[川の魚釣り・つけ針・溝の鰌(どじょう)や小鮒掬い・うけすけ・鰻てぼっけ]・螻蛄はごの小鳥取りなどがそのおもなもので、男女の子供の共同の遊びとしては陣取り・かくれんぼ・竹なごなどがあり、女の子だけの遊びとしては正月の羽根つき・お手玉・もっさん・はじき・縄跳び・けんけん跳び・綾取りなどがあったようであるがこれ等の遊びを季節的に思い浮かべて見れば更に懐かしく興味の深いものがある。
 正月の十四日になれば土竜(もぐら)打ちの行事があり夜になると竹の先に藁を巻き付けた土竜打ちを持った男の子供達が近所の庭先の地面を「ぽと・ぽと・ぽと」と音を立てヽ叩きながら去って行くのである。
 この行事は何のための行事か分らないが田や農作物を荒らす土竜を退散させ作物の豊作を願うための行事ではなかったかと思う。私達兄弟も祖父から土竜打ちを造ってもらったことをよく覚えている。
 十五日になれば正月の注連飾(しめかざり)が取外され、とんど(左義長(さぎちょう))の行事が行なわれた。この行事は悪魔ばらいという意味があり、当地では奉献行(ほうけんぎょう)と云われていた。
 注連飾りを燃やして鏡餅を焼いて灸べたものであるが、これに厄払いの意味が含まれていたことは知らなかった。
 私はこの事項をまとめるに当り今初めてその意味を知り恥ずかしく思っている。ほうけん行の行事は村の行事として行なわれてはいなかったが、注連飾り処分の仕来りとして各戸で適当に行なわれていたようである。
 一・二月の寒い頃には独楽回しやぽっち遊びが盛んで、独楽回しも二組に分れてリレー式に勝負を競い、ぱっちは瓦や板の上にこれを打ちっけて相手の者を地面や場外に出すことによりその勝負が決められていた。
 これに対し女のこらは、もっさん遊びやけんけん跳などの遊びに興じたものである。羽子板による羽根っき遊びは正月の三日位の間にやる子もいたが一般の子供の遊びとしてはあまり興味がなかったようである。
 正月の頃の室内遊びにはかるた遊びがあり、われわれの小さい頃はいろはかるたや百人一首の読み札で坊主めくリ(ぼんさんはぐり)に興じたものである。百人一首のかるた会もこの時代には催されていたが、われわれがこれ等の会に参加出来るようになるのは十五・六才の頃からであった。
 凧揚げ遊びも広い田圃の空いてぃるー・二月の寒い頃であった。
 三・四・五月と時候が良くなって来れば縄跳びする子らもあり鬼ごっこや陣取り・てんきリ(てんちゃんとも云った)など遊びごとが多くなってくる。
 鬼ごっこと云うのは、隠れんぼ・手繋ぎ鬼などがあり数人集まれば出来た。
陣取りは七・八人以上の人数を要し、二組に別れて互いに敵方の陣を取り合うのである。てんきりは四・五人も揃えば出来る遊びで二十糎位と七十糎位の長さの長短二本の木の枝か竹など(径十二・三粍が適当)があればすぐに出来る遊びで地面に巾五・六糎、長さ十五・六糎、深さ四・五糎の舟型の凹みを作りその上に短い方を横に渡したり斜に置いたりしてこれを長い棒で跳ねだり叩き飛ばしたりして順回しに遊ぶもので公園の端の方でも面白く遊べるのである。現在フィリピンの子供達がこの遊びに興じている。
 室内の遊びでは女の子のおはじきやお手玉遊びが楽しそうであったが、また男女の子供達共通の竹なご遊びも面白かった。竹なごというのは竹を二十四・五糎位の長さに切り、巾一糎二・三粍の薄いへら形のもの五木が一組で色々な遊びをするもの。
 女の子のお手玉遊びは室内でも室外でも遊べる重宝なもので色々な歌に合せて三・四個の玉を高く低く上げて上手に操作するのを見てぃると本人ばかりでなく見る者も楽しそうな雰囲気に誘い込まれたものである。
 また将棋の駒で挟み将棋をしたり、これを山形に積んで音を立てないように指先で引き集める鼠引きという遊が方もあった。
 その外誰にでも簡単に出来る竹どんぼ、杉の実(杉の花の蓄)をつめて鳴らす杉鉄砲・紙をつめて鳴らす紙鉄砲・水を吸入れて飛ばす水鉄砲、みな竹を材料にして小刀で自作して遊んだものである。水鉄砲の外筒は鋸を使用する。竹馬(きんぎょうし)も自作して遊んだものである。
 この外、村の田植え終了後の薬師様における早苗祭の清掃や花火遊び、七夕(この頃の七夕は旧暦で行われ八月に実施されていた)の朝は早起きして稲の葉の露を集めて来て墨をすり字が上達するようにと願いごとを書き女の子達はお薬師様に集まって短冊などを笹の葉に着けて楽しんだものである。
 八月の盆前に軒下などに飾る箱庭(男の子専用)の楽しさはまた格別であった。男の子の居る家には大抵これが飾られていた。
 盆といえば女の子達は新しい浴衣を着て盆提灯をぶら下げて喜んだのであるが、お通夜組の男の子達は別府橋附近の笹藪にもぐり込んだりして夜の暗闇を走り回って鬼ごっこ遊びに興じたのであった。

季節の渡り鳥

 春の好季節になると桜の花を始め桃の花や杏の花など様々の花が咲き乱れ田園には菜種(なたね:油菜)・紫雲英(れんげそう)の花も満開して絨毯(じゅうたん)をつくる。野原や道端には蒲公英(たんぽぽ)の外に(すみれ)や色々な可憐な草花が咲き揃うようになる。
 この時期には各種の渡り鳥も次々に姿を見せるようになって来る。早春の(うぐいす)・目白雲雀(ひばり)を先駆者として(ひよ)・(ひわ)・四十雀(しじゅうがら)などが飛来し白鷺五位鷺などの姿も時々見られるようになる。
 夏から秋にかけては百舌(もず)・みそさざい菊頂き鶺鴒(せきれい)・翡翠(かわせみ)・芦切り・(つぐみ)などもやって来た。
 夏の夜、田の中で「コンーコン」となく水鶏(くいな)はこんこん鳥とも云われその声には心淋しさと恐怖心さえもかき立てられた。またわが家の大木(現在保存樹のくろがねもち)に夜来て「ホー・ホー」と鳴く木葉ずく(このはずく)や「コウゾー・コウゾー・テレスコテンテン はなくそくうぞう」と嗚く大梟(ふくろう)の声には幼い頃恐れをなしたものである。
 燕は春過ぎから初秋までの間にやって来る鳥で(すずめ)や(からす)などと共に一般の人々に馴染み深い鳥であるが最小のみそさざいや菊頂きはいっぱんの人々に知られぬ可憐で奇麗な小鳥であった。
 みそさざいは下水の溝に孤独で餌をあさる焦げ茶色の鳥で菊頂きは集団で赤松林にやって来る頭に黄菊の花弁のような奇麗な羽毛のある可憐な小鳥であるが嗚き声はあまりよくない。天神様に赤松林があった頃は秋の季節によく飛来したものであった。
 水鶏(くいな)は千鳥によく似だ鳥で背が黒く嘴と足が梢々太くて長い。
(ひたき)や百舌(もず)は「螻蛄はご(注)」という自作の器具によって捕獲しわれわれ腕白小僧の餌食にもなったものである。また鶫(つぐみ)
は馬の尻毛で作った罠で捕獲しおいしい焼鳥としても賞味した。動物愛護の精神をもってすれば誠に残酷に思われるが、おいしい食物のない昔の時代にこれら実益のある面白くて楽しい遊びは外にはなかった。

 (注)「螻蛄はご」はモズ、ツグミ、セキレイ、ヒタキ、コマドリ、ムクドリなどを捕獲
    するのに用いられる。30cmほど×20cmほどの板の中央に裏から釘を打ち、表に出る
    釘に鳥が好んで食する螻蛄(けら)、ミミズなどをさして餌にする。板の両端には
    穴を開けてそこにはごを挿して弧形に曲げる。鳥が来て餌をついばむとはごが倒れ
    て鳥に付着する。
    現在ではかすみ網やとらばさみ、あるいは雉笛などとともに禁止猟具に指定されて
    おり、鳥類の捕獲自体も銃猟若しくは網猟に限定されていることから、鳥黐を使用
    して鳥類を捕獲する行為は、禁止猟具を用いての捕獲およびわなを用いての鳥類の
    捕獲に該当し、鳥獣保護法違反で検挙対象となる。

 また前記とは別に川や溝での魚取りも楽しい思い出のーつとなっている。
 わが別府の東側には樋井川が流れておりその川から続いた農業用水を送る狭い溝が別府村の周囲を取り巻き水田のここかしこにも通じていた。
 田植えの終った初夏の頃から晩秋にかけては毎日のように学校から帰って来ては近くの溝に(どじょうしょうけ)を持って魚掬いに行ったものである。


 溝にも所々に広く深い場所があってそこには大きな鰻(うなぎ)鯰(なまず)鮒(ふな)などが居るのだが、そこには危険で這入ることは出来なかった。
 われわれ子供らは狭くて安全な溝に這入って魚を掬うのである。しょうけ(笊)に入る小魚は目高(めだか)田鮠(たばえ)・しびんた小鮒・どんぽう(どんこ)・などが主なものであったが時には小さな鯰の子や鰻の子などの交じって来ることもあった。鰻や鯰の入った時はことの外喜んだものである。

  溝の中には小魚の外に別記図示による様々な水棲動物が居て、笊を上げ度にその中に何物かが這入って来る。当時は魚を取るためにそれらの雑物には振り向きもしなかったが、今にして思えばくだらぬ小魚よりもかえってこれらの虫の方に興趣が残るのである。


これらの諸虫を惜し気もなく放り捨てながら、小魚取りに熱中していると泥まみれの足が痒くなって来る。思わず手を差し伸べてそこに当てると(ひる)がくつ付いて血を吸っているのである。これを摘み除けると赤い血が足を伝って惨みでたものである。魚取りに熱中するような子供達の中には蛭を恐がる者はいなかったようである。
 かまつかやかたびら鰌・すいつき(よしのぼり)などは水の奇麗な川に多く住んでいた。海老類は体長十糎位の手長海老(鋏のある前手の長さが十糎程のものもあった)の外、体長五・六糎のもの二・三糎の田海老や色の黒い鰹海老も珍らしくはなかった。
 しかし、これら数多い魚の中にもふしぎな跳び沙魚(はぜ)があり、芦の枯枝などに止ったり、水の上をぴょんぴょんと跳んでは水に潜る沙魚の子に似た珍らしいのもいたが、この外に体に黄白色の斑紋のある鯰の子によく似た体長十糎か十二・三糎位のギギュウという魚もいた。この魚は樋井川には生息数が極めて少ないので珍重がられたものである。また、この魚の黒焼は疫痢の妙薬になるとも云われていた。
 川の深い所に住み付いている鮒は体長十四・五糎から二十糎位に成長し、浅い所では取れなかった。鯰も三年鯰と云われる五十糎位のでっかいやっもたまには捕獲されることがあった。
 樋井川には鮎や鯉は稀にしか居なかった。晩秋の頃雨が降って川の水が薄粘土色になると漁好きの人達は大きなたぶを持って川に行き、川の中にたぶをすけて鰻待ちをしたものである。この時には鰻ばかりでなく鋏に黒い毛の生えた大きなもくず蟹(つがに)もよく取れたものである。
 つ蟹は美味で食用品としても喜ばれた。蟹の話しになったので補足しておくがこの外に川や溝には土色をした中型の牛蟹というのがいた。この蟹は食用にならないので取る者も居なかった。また、この牛蟹位の大きさで鋏の太くて赤い紅蟹というのも居た。この蟹は水辺ではなく村中の道端のどこにでも見られたので竹切れと雑巾ばけつを持って取り歩いたものである。蟹取り遊びも忘れ難い子供の頃の郷愁である。


 樋井川ではよく魚釣りをした。春先から夏にかけてよく釣れるものは鮠(はや)で、みぞの浅い所に生息しているせむしという細い虫や煌(いなご)の子を餌にして釣ると白鮠・山鮠・縞鮠などがよく釣れた。
 上流の方へ行けば鮎も居たが鮎は餌釣りでは取れなかった。
 山鮠というのは白鮠の雄で、しびんたと共に淡いピンクを帯びた薄い瑠璃色の光沢ある奇麗な魚であった。
 鮒釣りはみみずを餌にして井堰下の深い所や溝の広くて深い所(いかリ)で釣ると十二・三糎から十五・六糎位のものが釣れた。
 この外手長海老を釣るのが又面白く、田螺(たにし)を餌にして鮒釣と同じ場所に何本も釣り糸を垂れて置けば大きな手長海老がしがみ付いて来るのである。しかし、この餌には針がないので水面まで引上げぬうちに手綱で掬わないと逃げられてしまう。
 かまつかやしじみ貝は釣れないのでかまつか取り専用の器具(かまつかかき)で川底の砂をかき集めるようにして取るのである。


 魚釣リとは一寸趣を殊にするが、夏の季節には川の真菰の蔭や溝の草の茂った場所に漬針というのを漬けるのである。
 漬針というのは四十四・五糎位の細い割竿に六十糎位の畳糸を付けその先に少し大目の釣針を付け鍋を二糎位の長さに切りこれを餌にして釣針に付けるのである。餌付けが終ると糸を竹竿に巻き付け十本から十四・五本を持って日暮前に川や溝に持って行き魚の居そうな前記の場所に他人には見えない
ように竹竿を土の中に深く匿し挿すのである。
 全部を漬け終ると家に帰り明朝の獲物の夢を楽しむのである。朝になると夜の明けるのも待ち遠しく薄暗い中に起き出して漬針を上げに行くのである。
 次々に上げて行く中に大きな鰻や鯰が針にかかっていて糸が草の根に巻付き草が揺らゆらと動いているのを見ると何とも云えぬ嬉しさが胸に込み上げて来るのであった。収穫の多い時は四・五匹で少ない時は一匹か零匹の哀れさであった。
 この漬け針の面白さ楽しさは経験者以外の人には味わうことの出来ない醍醐味でもあった。
 この外、鰻釣り専門の『コッポン釣り』というものがあり長い竹竿の先に糸を付け、その先に太い釣り針を付けて小さい筋蛙を餌にして溝の草間の水面に「コッポンーコッポン」と音をさせるのである。
 鯰が居る時は水底から浮き上がって来てすぐに餌の蛙にぱくりとかみ付くのである。こんな鯰釣りは勝負が早くて少年のわれわれには忘れ難い興趣が残っている。


 またこの外、雨上りに溝や水田の水口(水を出し入れする所)に行って有卦(うけ)をすけ、鰌や小鮒・田鮠(たばえ)などを取るのも腕白坊主たちにとっては興味深い遊びごとだけではなく健康の増進をも兼ねた一石二鳥の効果があったものである。
 鰻てぼは田螺(たにし)の中身をなま干にしたものをその中に入れ晩の中に川の中に沈めて置いて翌朝早くこれを引き上げるのである。この中に入る鰻は漬針に掛かる鰻のように大型のものは少なかった。


 この頃の樋井川は田舎の田園の中を流れる水の奇麗な川で今の塩屋橋の百米位上流に石ばかりで築いた石の井堰(いて)を始めその上流、今の草ヶ江新橋の所に河童井堰があり、更にその上流、今の安藤外科病院の横あたりには一番井堰、またその上流の別府団地と梅光園団地を結ぶ梅光園橋の附近には二番井堰というのがあった。


 その上流の田島・友泉の方にもいくつかの井堰はあったが直接われわれ子供達には関係がないのでよく覚えてはいない。
 最下流の石井堰というのは海水と淡水を関分ける大切な井堰で、この井堰下の川の中には海に住むいな(ぼらの子)・せいご(すずきの子)・跳び沙魚(はぜ)や塩水を好むえび・かに(小型の蟹)などの淡水生物とは異なる魚や小動物が多かった。
 千鳥や鶺鴒(せきれい)などもやって来て干潮時は子供達の良い遊び場でもあった。
 井堰というものは水田の灌漑(かんがい)に川の各所の間を満水にし六月の田植前にこの水を溝に流して麦や菜種を作った後の乾いた田圃を潤すのである。
 こうして井堰が堰き止められると井堰下の水嵩も増し渇水時よりもずっと深くなり子供達の泳ぎ場や水浴び場として最適の遊び場となるのである。
 井堰の真下は渇水時でも深い水たまりとなっているので満水時ともなれば五・六年生位の子供が両手を上に伸ばして川底に立てば指先も水面に出なくなる程に危険な場所ともなる。
 しかし、これらの場所において腕白坊主の子供達は水遊びをしたのである。
指導者も居なければ大人の監視人も居ないのであるが泳げぬ小さい子供達は浅い所で水遊び(水浴)をするし、大きい子供達は首までっかる深い所まで入っては浅い方へと泳ぎ帰り泳ぎの要領(こつ)を習得したのである。
 大きな子(五・六年生位)は井堰の上から深い所に飛び込み水中に潜ったりして自幔そうに泳ぎ回ったものである。
 この一番井堰における水浴びの楽しさは今もなお忘れ得ない思い出として脳裏に沁みて残っている。この場所には谷・六本松・馬場頭あたりからも子供達が沢山やって来るので人数の多い時には芋の子を洗うようになることも少なくはなかった。
 鳥飼あたりの子供達は石井堰の下で水浴びをしていた。川で泳ぐのは一糸も纏わぬ素膚であるから小学生の十二・三才位までの者でそれ以上の大きな子供(高等小学生)達の姿は見られなかった。
 子供達の泳ぎ場所は一番井堰の下に決まっていて下流の河童井堰では誰一人泳ぐ者はなかった。この井堰下ではわれわれの時代よりももっと前に子供の溺死や老婆の投身自殺があった場所であるため一般の人々に敬遠されたのであった。
 二番井堰下でも殆ど泳ぐ者はなく、このあたりは主として魚釣り場として大人の人たちにも利用価値のあった場所である。
 一番井堰横の深く広い溝(たけのぼし)も魚釣りや海老釣りの場として最適の場所であった。
 また、夏の暑い夕方頃には餌付けうちといって、糠と土をこね合せて丸めた餌を川の中に投げ込み、その餌に寄り集まった魚を投網で取る大人の人々の姿もたまには見られた。また、桶漬けといって餌を入れた浅い桶に中央部を小さく開けた布をかぶせ砂の中に埋めておいて鮠を取るのも泳ぎながらの遊びごととしては面白かった。


 稲が稔って川の水が不用になると井堰落し(十月頃実施)というものがあり、井堰の中程を切り開いて川に溜まっている水を落してしまうのである。
 この井堰落しというのは全部が一緒に行なわれるものではなく、石井堰と河童井堰が最初に落され、何日かおいて又一番・二番井堰という具合に大抵日曜か土曜に当てられていた。
 これは子供達の為を思ってのことだったとも思われるが、この日は村中の子供達が鰌じょうけやたぶを持って川に集まるのである。
 深い川の水が浅くなって川土手を下りて行けばどこででも魚を掬うことができるのである。一寸広い水溜りを見つけると多くの者がそこに集り、水が泥水になる程踏みたくって魚を掬うのである。鮒やどんぽ・鰻や総など種々様々な魚や海老などが取れるのである。
 鮠類のか弱い魚は泥水に酔って浮き上って来るまでになる。時にはこんな場所で五十糎程もある大鯰(三年鯰といった)や二十糎程の大鮒などを掬い上げることもあった。
 近所の人が捕獲した大鯉(体長が五十糎位もあったろうか)や大鰻(胴回りが二十糎近くもあったろうか)には驚きの外なかった。    

樋井川の橋と馬車・土手のキリギリスなど
 この頃、樋井川には別府橋(土橋)の下流には鳥飼の栴壇土橋と今川橋(旧と新)があるのみで、別府よりも上流には田島と友泉に二つの土橋があるだけだった。
  自家用の乗用自動車・バス・トラック・バイクなど騒音を発する文明の利器の何一つない静かな時代で荷物を運搬する器具は馬や牛の曳く馬車か人の曳く車力、人を乗せて運ぶ人力車だけだった。
 或る特定の場所に行けば多数の人を運ぶための汽車・電車・鉄道馬車などの乗り物は見られたのであるが、わが別府の周辺では見る事も出来なかった。
 夏の川遊びの折には川土手の草叢でキリギリスや蝗(いなご)などを取るのも面白い遊びの一つであった。また、夏の夜の蛍取りは今の別府商店街と別府団地の境にある昔の東蓮寺藪下の溝辺(今は暗渠となっている)で燥ぎまわったものである。この附近には大型の源氏蛍は居なかった。

蛙について
 蝶や蜻蛉・蝉などの昆虫についても述べて見たいが、一般の人々には歴史とは関係がないものと思われ勝で興味も少ないと思うのでこれを割愛するが、長い竹竿に紙袋を付けて蝉を取る時の楽しさは言葉では言い表すことの出来ないものがあった。みんみん蝉と蜩蝉(ひぐらし)は昔からこの附近には居なかった。
 前に鯰釣りの餌として背中に一本の縦筋のある筋蛙(すじびき)のことを書いたが、蛙で最も威勢のよいものは殿様蛙で体は一般のものよりは梢太くてスマートである。
 これらの水田における夕方のコーラスも風情があった。昔からわれわれの周辺に居たものは、この外に土色の保護色で異臭を持つ土蛙・緑色をして木に止る雨蛙・水の無い川に住む薄赤色の赤蛙(薬用になると珍重がられた)
・蛙の王様ともいうべき蝦蟇(がま)などであった。
 夕方になって庭の隅からのそりのそり出て来て餌を探し求める時の様は、如何にもグロテスクな格好であるが虫取りの敏捷さには驚きの目を見張ったものである。今はもうその姿も見ることが出来なくなった。
 美声で鳴く河鹿は昔からこの附近では見られなかったし、今水の中で夜唸り声で鳴く食用蛙も昔は居なかった。
 蛙とは違うが、らい魚(台湾鰌)やざりがになども昔の樋井川や溝には居なかった。 

昔の生活用具の一部
 さて、七・八十年前の明治末期から大正時代にかけてのわが別府本村には三十数軒の家があるばかりでその中の大部分は農家であった。官公署に勤務して給料生活をしている人の家も殆どが半農で、水田がなくても畑の無い家はなかった。
 電灯がわが村に点灯されたのは明治から大正に代る時代でこの頃はラジオもなければテレビもない時で勿論上水道や瓦斯(ガス)などもなかったのである。
 したがってわれわれの幼なかった頃の生活状況も前述の如く極めて質素な非文化的なものであった。
 各家庭においても田畑の耕作を始め別記図示のような作業用具が備えてあった。その他木製の臼や杵・石臼(餅っき専用)・石の羅臼・簑・笠・傘・鍬・鎌などなどがあり、どこの家にも小屋とか蔵などの倉庫に相当する建物があったのでその中に入れてあった。
 その他養蚕の道具とか糸車、米を精白する用具の唐臼・爺や吠・機織機なども普通一般の家には備えられていた。
 農家にはこの外に鋤鍬や馬車・車力・馬具などの諸道具が見られた。その外にまだ色々な思い出深い容器や器具などが次々に思い出されてくるがきりがないのでこの程度に止めておく。
 これらの話しは、わが別府だけではなく広い一般社会の共通した生活様式やわれわれの幼少時代におけるどこの村や町ででも見られた普通のことであるが、別府の地に育った昔の人々やわれわれ子供達も同じ昔の古い道を辿って来たので思い出深い追憶の一部面としてこの手記に止めて置くことにした
のである。
植物の異動変遷の一部面
 動植物においても昔と今は大変化があっているのであるが、一般の人々には殆ど関心がなく忘れ去られているが、天神様の大なのみ(くろがねもち)を始め八龍の大松、もと牛方さんの屋敷(今の国鉄学生寮)にあった大松、藤村藤大郎さんの屋敷(今の久富医院)にあった大松は既に枯死してしまった。
 生き永らえているのは天神様の大を始めとする六本の保存樹とわが家のくろがねもち(なのみ)、別府二丁目公民館前の丸林さん(守部さん)宅のの木の保存樹だけとなっている。
 昔(今でも行われている?)正月七日の七草粥に入れた春の七草[芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・繁姜(はこべ)・仏の座(ほとけのざ)・菘(すずな)・蘿蔔(すずしろ)]は庭先や道端、畠の隅々などのどこにでもあったものであるが、今これらの草をこの附近で全部探すのには骨が折れるようになった。
  (注)すずなは(かぶ)で、すずしろは(大根)とされている。
 ついでに秋の七草についても述べておこう。草花の少ない秋の季節に道端や野原で先ず人の目を楽しませてくれたものは秋の七草がその代表的なものであった。
 その草花は[萩(はぎ)・尾花(おばな)・桔梗(ききょう)・刈萱(かるかや)・女郎花(おみなえし)・葛(くず)・撫子(なでしこ)]で所によってはこの中のー・二種を藤袴(ふじばかま)や朝顔[昼顔または木桂(むくげ)]などにしているのもある。
 昔はこれらの野草もわが別府の周辺で見られた(野性の桔梗や河原撫子は希であった)が今はもう田舎の方に出掛けても一部のものを除き見ることが出来なくなった。
 またこれとは対照的に、明治の初年に外国から荷物に附着して来た野草の種子は最初国鉄の鉄道線路内に落ちて発芽しその子孫の種子は猛威を奮って全国の津々浦々に飛散し今でもわが町内の道端や家の庭先にも多生している。
その名はひめむかし蓬(よもぎ)[鉄道草とも云われている]というものでその繁殖力の旺盛なのには驚いている。
 ところで最近花粉の公害(喘息の因となる)で騒がれている「せいたかあわだち草」の繁殖力は更に前者を凌ぐものがあり山野のみならず道端や家の庭先にまでも生え込んで来ている。
 二・三の植物を見ただけでもこのように自然の大変化が見られるのである。
古いものは姿を消し新しく思いも及ばぬものが出現して新時代を更新して行くのである。「今昔の感一入(ひとしお)」という思いがするのである。

庚申様
 わが別府の村(今の一丁目一区二区)の南北両端に二つの庚申様の石碑(ご神体)のあることは前にも一寸触れておいたが、ここに改めてその学説を詳述することにする。
 『庚神様』というのは塞神のことで道祖神ともいわれている。この神様は道路を守り悪気・邪神をさえぎり防ぐ神で道(村境や峠や道の辻)に座して悪霊を防ぐ威力を持つ神とされている。
 どこの村や町に行ってもその入口・出口や岐路の所には必ずこの庚申さまが祭ってあるのを見受ける。これは自分達の村や町の安穏無事を願い悪霊を入れぬための防禦策として祭られたものであることは疑う余地もないことである。古い昔の人達にとっては迷信を超越した強い信仰心の現れであったと思われる。
 また、別の説には猿田彦を祀った道路の守護神・旅行者の案内神ともいわれているがこれにもまた一理があるのである。石碑に猿田彦神ときざまれているものもあり猿田彦は庚申様と称せられる神の中の一神だからである。
 わが別府にある庚申様は北側二区久富医院の車庫前)にあるのが明和九年(1772年)に建立されたもので庚申と記されている。南側(二区池松さん玄関横)にあるのが天明巳五年二七八五年)に建立されたもので庚申天、一月吉日と記されている。
 庚申様の本体は様々で青面金剛菩薩とするのが一般であるとされているが、その外に、(阿弥陀仏・観世音菩薩・大日如来・地蔵菩薩・不動明王・帝釈天・猿田彦・道祖神)などの神仏とされているのもある。
 ○塞神(さえのかみ)は道祖神(どうそじん)・幸神(さいのかみ)  ・障神(さえのかみ)・塞大神(さえのおおかみ)・道神(みちの  かみ)・衢神(ちまたのかみ)(街道神)などとも記され複雑な性  格を持つとされている。
 ○猿田彦は天孫降臨の折、天孫けい瓊々杵尊(ににぎのみこと)一行の行く手に立ちふさがって邪魔をした奇態な行相の神であるが、半裸で腰ひもを前にたらした天飼女命(あめのうずめのみこと)の戯れたひょうきんなやりとり(応対)に魅せられて変心し従順に道先案内の役をつとめたと云われる。
 赤ら顔で鼻が長くて尖り、口が大きく裂け目が鏡のように光っている異形な風体をした神であったが後伊勢の海辺で魚を取っているときひらぶがいに手をはさまれて海中に沈んだとされている。伊勢市の猿田彦神社はこの神を祠った神社である。
 早良区役所西隣の藤崎バス乗継ターミナル前にも猿田彦神社があるが庚申の文字は見られない。この神社には猿の紋があり開運・招福の神となっている。
 庚申様と猿の関係は特別の謂れはなく干支(十干・十二支)の中の組合せかのえさる(庚申)が動物の猿と同音なるが故に猿田彦の猿と庚申の申(さる)との関連性を結び付けたものと思われる。

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〔庚申様の行く方〕
 天明5年巳年1月吉日にわが別府の南端(今の別府1丁目2区13-3)に設置されていた「庚申天」は昭和61年5月1日福岡市歴史資料博物館の資料として寄贈処理された。
   o 村民の健康無事を守護したる       庚申様も今は邪魔物
   o 庚申天この神様の由緒をば       知る人ぞなき今の世の中




 この寄贈申込に対し福岡市の歴史資料館より渡辺氏が出張し来り、市原武雄氏と受入れについての話し合いがあった。市には予算が無いので移転に関する諸費(神官の神事事業費・碑の除去運搬費一切)を市原氏が負担することにした。
 現在この庚申塔は早良区室見の老人憩いの家(前公民館)の庭に仮設置されているが昭和64年に開催される福岡市の亜細亜太平洋博覧会の終了後は百道に新設される福岡市の歴史資料博物館へ移転設置されるとのことである。
                S 61. 8.5(1986)
  名古屋市南区赤坪町6  古谷松江氏所有
    「天明五年」銘 庚申塔
   所在   城南区別府1丁目(2区)13- 3
   最大高  112.0cm
   最大幅   56.0cm
   最大厚   21.0cm
   銘文等  「天明5年巳年

          庚 申 天 (陰刻)
              1 月 吉 日

昔はどこの家でも内土間がありその土間に大きな(かまど)を造り荒神様を祀っていたのであるが、内土間のない現在の狭い家に荒神様を祀っている人達は少なくなっていると思うが、老人の居る家では神棚の端に荒神様を併祠されているようにも聞き及んでいる。
 荒神様というのは昔の宗教家が仏・法・僧の三宝の守護神として祀ったのが始まりで後にわが国古来の荒々しい神の思想が統合され三宝荒神の名がつけられたのであるがその後、何時とはなしに三宝を略して荒神様というようになった。
 荒神様の形相は種々で一定しないが、不浄を嫌う神であるとして屋敷内の聖地である竃に住むとされ竃の神として信仰されて来た。
 また荒々しい神であるから火に因んで竃の神として祀るようになったともいわれている。

別府の砂糖絞めと会議所
 別府老人大学の手記集『幼い頃の思い出』の中にこの砂糖絞めの事を簡単に書いたのでこれを省いていたがこれもわが別府における昔の重要な年中行事の一つであったと思うので最後のまとめとして付け加える事とした。
 この砂糖絞めというものが何時頃始められたのかは分からないが明治の末期(四十四・五年頃)までは続けられていた。
 昔は養蚕を副業とする農家も多かったが、砂糖きびを畑に作って黒砂糖を作り店から買わずに自家用の調味料とする家が多かった。当時白砂糖というものは高級品で普通の家庭では殆んど使用されていなかった。
 晩秋になって各自の畑から収穫された砂糖きびは冬の農閑期に東蓮寺入口にあった会議所前(今、野倉さんの住まわれている所)の畑(現在後藤さん宅と佐藤産婦人科医院のある所)に持ち寄り砂糖絞めが行われた。後藤さん宅と佐藤さん宅は現在高低の差が出来ているが、当時はずっと東蓮寺の東端まで後藤さんのお宅並となっていたのである。
 砂糖絞めを始める時には広い畑の中に砂糖きびの絞り機械を据え付け、馬の胴にその機械の上部にある長い柄を取り付けてその馬を円形に歩行させるのである。
 中心部の機械の前には作業員が居て、回転する機械に砂糖きびの端を差し込むとその幹の汁が絞り取られ薄く圧縮された長いきび殻は反対の方に出て行き絞られた汁は機械の下に溜るのである。この液は畑の端に造られた仮設の小屋に運ばれ天釜で煮っめられて黒砂糖となるのである。黒砂糖が釜上げされた後子供達はその小屋に這入って釜の縁などに附着している残り砂糖を紙めては楽しんだものである。
 この畑の前の会議所はわが村共有のもので村の会議や寄合いなどに使用されたもので、われわれの幼かった頃は当時青年であった先輩の人達が七夕の揮毫展示会などを催していたことも覚えている。
 またこの会議所は大正一二・三年頃北九州鉄道株式会社の仮事務所ともなり、その後間もなく私鉄筑肥線の開通(大正一四年四月)を見るに至ったのである。この私鉄が国鉄に移管されたのは昭和一二年十月のことである。

<附> 鳥飼八幡の宮座志

 
鳥飼八幡宮の宮座について

 その由来と仕来り 宮座というのは鳥飼に五軒、現、鳥飼(暢)・松田(和雄)・讃井(嵩志)・相戸(穐宣)・相戸(正)家。別府に現、藤村(文彬)・藤村(昌弘)・
藤村(義雄)・藤村(嘉市)・讃井(典彦)家の五軒、計十軒である。
 仲哀天皇(第十四代)のお后神功皇后が三韓からご帰国の折、この地の住民鳥飼氏の祖先がお食事のお世話を始め色々な物を献上したことから、その後この地に宮座(お宮を造る場所)が選定され、仲哀天皇のお世継ぎである応神天皇をお祀りしたのがこの八幡宮の始まりであるとされている。その後このお社には埴安神を併せ祀り現在の地に移され今日の鳥飼八幡宮となったのである。
 最初の宮造りをした昔の鳥飼氏を始め讃井・相戸・松田・藤村・讃井諸家の祖先の人達が直接の世話役(宮座)としてこのお宮の管理、維持の一切を担当することになったのである。
 別府の宮座の一員藤村文彬氏の曽祖父、文右衛門さんの先代か先々代が庄屋として鳥飼よりこの別府に居住(赴任)されたのであることを今は亡き昔の古老から話しに聞いたことを覚えている。このようにして古い昔から十軒の宮座後裔の方々が今日までも引続き鳥飼八幡宮のお世話をされているのである。
 宮座の仕来り
 十軒の宮座の人々は神社の維持管理に当り、その最も大切な年中行事を絶やさぬよう順廻しの当番制を定め、本行事(主役)と小行事(補助役)の二人が1組になってその当番に当ることになっている。本行事を勤める人の家を本座と称し毎年十月十七日に宮座全員がここに集って十月十九日の神社祭典日のお供え物造りやその他必需品一切の準備をするのである。
 お供え物や用具などについて
 注連縄(しめなわ)造り。お供えの強飯(こわめし:轜米をせいろうでふかしたおこわい)を入れる藁(わらづと)造り。(これ等は十五・六日頃より着手しなければならない。)お供えの鏡餅や神殿内お清め用の撒餅掲き(細長い樫の棒を杵にして十人全員が口に藁すぼを街えて掲く)お供えの蒸し米(お強飯)造リ。お供えのお神酒・鮮魚(鯛)・野菜(根菜・葉菜類)集めに取り掛りこれ等の準備をこの日(十七日)中に整えるのである。
 蒸し米(おこわい)を詰めた二十個の藁苞は交互に十個づつ二本の長い棒に付けられる。大形の苞六個には一個に約二升ほどの量が入れられ、残りの小形の苞には約一升程度の量が入れられる。
 鏡餅は二升一重ねのもの1重ねを造る。撒き餅は伸し餅にして小さく千切って造る。(これ等の餅入れは藁で矩形の手下げ袋のように造られて藁を束ねた下げ紐まで付けられている。)
 この日、木座の家には朝早くから神官が来て表入口に立てた笹竹(二木)や井戸・かまどの周辺に注連縄を張りお祓いをして木座を清めるのである。
 お供え物の運搬
 十八日の早朝(午前五時頃)運搬の任に当る宮座の人達は本座に集り前日に準備した凡てのお供え物をお宮へ運ぶのである。その運び方については別紙略図の如く藁芭を掛けて長い棒の両端を二人で担いで二列に並び、他のお供え物を入れためごを天秤棒で担いだ人がその後に付いて行くのである。
手の空いている他の人は交代用員として更にめごの後に追随する。


この場合寡男や女性にはその資格がないとされているが、お供え物運搬時の服装は普通の着物に草履ばきだそうである。お宮に到着すれば神官の服装と同じような白衣に着替え作業前に千切餅を神殿に撒いた後神殿の清掃やお供え物の飾り付けをする仕来りになっている。お供えの作業が終れば社務所の会議室に集まり鰌汁にて打上げの行事を終り解散となる。
 この鰌汁は戦後時代の変遷と共に豚汁からかしわの水炊きに変っているとのことである。
 お供え物奉納の道順はわが別府の場合、本座を出発して別府橋を渡り樋井川の右岸(東側)の道を下流の方へ下り、石の井堰(今のしおや橋の上流二百米の地点にあったが取除かれて今はその跡もない)附近より鳥飼本村の中を通って行くのである。
 終戦後は十月十九日の盛大な昔の祭典行事も質素な普通の秋祭りとなりお供え物の種類も減量簡素化され最近は年末の十二月十四日に当番の宮座が準備して来た鏡餅(三升一重ねにしたもの)やその他のお供え物(柿や密柑も合む)を飾り付けることになっている。
 この日お供えの品物を運ぶのは当番の主・副二人で車(自動車)などを利用する。当番外の宮座の人々は自宅より直接お宮に行くことになっている。
作業時の装束は昔の通りで作業終了後の鰌汁はかしわが使用される。
 鳥飼八幡宮の御遷宮
 前記の重要な行事(祭典)の外にこの神社には御遷宮という大行事がある。
この行事は二十年に一度行われる大行事で、宮座の人達はもとより氏子の各町(村)より多数の人々が集まりこの行事に参加するのである。
 宮座の人達を主とする鉢巻に法被姿の青壮年が担ぐお御輿を先頭に老若男女の人達がこの行列のお供をして神社近くの氏子の町内を廻るのである。
(昭和五十二年十月十六日の御遷宮の時は神社前の道を東へ進み唐人町の東側黒門より大濠公園の西側を南へ進み気象台の前に出てその広い道を西進し鳥飼の松田整形外科病院前の四つ角より右折北進してお宮に戻ったとのことである。)
 以上宮座の由来と仕来りを述べたが、これも先輩の藤村格兵衛・藤村嘉市氏を始め宮座の藤村イツヱ(昌弘氏の母上)・藤村義雄氏らの宮座行事に対する体験談や見聞による貴重な資料をまとめたものである。
 宮座の仕来りについての古文書や記録は見たことがあると云う人もあるが現在どこに仕舞われているのかその存在を知る人はない。御遷宮行事に関する行列の隊形や順序方法等の詳細については鳥飼八幡宮や鳥飼の宮座の方々に尋ねられたらよく分ると思いますが、行列の最後に続く正装の稚児の行列は乱れ乍らも一入美しく可愛いものである。
  一丸八三・一月
藤 村 勝 丸
補 足 事 項
 一、調査事項の一部は大野元喜氏のご協力も頂いております。
 一、昔から別府には宮座専用の水田(一反半=約1480平方米)があり
   毎年精米と粳米(常食用の米)が半々に作られていました。
   今は別府団地の中に包括されています。
 一、宮座志の『志』というのは、しるす(記)とかしるしたるもの(記録
   ・記述)の意。
 一、この宮座志は別府の宮座藤村イツヱさんのお話しを基にしてまとめた
   ものであります。 

あとがき、その他

 旧鳥飼神社の跡地にある石碑

 碑文
 仲哀天皇九年十二月神功皇后三韓より凱旋し鳥飼村に駐し給ふ 村長鳥飼某夕饌を献上す 皇后大いに悦び今度の一拳は皇子の御為なれば其生さきを祝せんとて親ら盃を群臣に賜ふ 鳥飼氏の後裔其の地に神社を建て若八幡と号す 慶長六年黒田長政福岡城を築き此地を以て別墅となす 同十三年其祠を西町に移し鳥飼八幡宮と称し其跡に小祠を建つ 明治三十六年福岡県庁此の地を選みて女子師範学校を建築す 蓋し学生をして神功皇后の偉業盛徳を欽慕し良妻賢母の性格を修養せしむる適当の地なればなり 日本全国の学校中他に此の如き名誉の遺跡のあるを聞かず 大正十一年三月皇后陛下本校行啓の際親しく台臨あリ 余其の由緒を言上せしに深く感賞し給ふ 今茲に有志相謀り記念碑を建設し余が出身地なると其の隣地は余が母の実家の跡なるを以て余に碑文を求めらる 謹みて其の概要を記す
大正十二年五月 枢密顧問官役二位子爵       
金 子 堅太郎 謹撰
昭和四十三年五月吉日     坂 口 秀 敏 謹書


 あ と が き
 この手記については予め色々な企画構想を立てながら著述を始めたのでありますが、書き始めてみると次から次にあれやこれと思いもよらぬ素材が飛び入りを希望して来ますのでその選択に悩まされ取り止めもないことの羅列に終ってしまいました。そのために文章のまとまりもなくさぞかし読み難い点が多かったと思います。
 またこの中には別府以外のことで一般の社会と共通の事項も意識しながら取り入れておりますが当時別府の者だけが特別に変った生活をしていた訳ではないので止むを得ないこととご了承願いたく存じます。
 この外まだまだ最初に予定していたことの書き漏らしもありますので不備の箇所は読者の方々の通切なご判断とご推察におまかせいたします。願わくばこの手記によって明治・大正時代を主としたわが別府の歴史の概略を御察知頂ければ幸甚に存じます。
 今はなき懐かしい鳥飼の母校
 福岡県女子師範学校附属小学校で習った童謡の追憶
 (当時の小学生は)“着物着て帽子を被り下駄を履き
                  雑嚢背負い学校へ行く”
 赤とんぼ
 一、夕やけ小やけの 赤とんぼ    おわれて見たのは いつの日か
 二、山の畠で くわの実を    小かごにっんだは まぼろしか
 三、夕やけ小やけの 赤とんぼ    とまってぃるよ さおのさき

 われ等の母校福岡県女子師範学校は昭和二十年六月十九日アメリカ空軍の大空襲により焼滅してしまった。現在その跡地には福岡市立南当仁小学校・同市立大濠養護学校・県営住宅などが設立されている。神功皇后のご遺跡も残っている。
 旧女子師範学校はその後久留米市に移転されたが学芸大学の発足と共に男子部女子部が統合され現在は福岡教育大学に変り宗像郡の赤間町に建設されている。
 懐かしかった旧女子師範学校の附属小学校は今、久留米市南町に福岡教育大学附属久留米小学校として現存している。
 昭和五十七年八月一日(1982)
藤 村 勝 丸
著者略歴
 明治三十九年十月  早良郡鳥飼村字別府(現福岡市城南区別府一丁目
           一区)に出生
 大正十五年三月   福岡県福岡師範学校卒業
自大正十五年四月
至昭和十八年三月   小学校訓導として下記の各学校に勤務
           嘉穂郡飯塚尋常高等小学校に一年、福岡市草ヶ江小
           学校に四年、同住吉小学校に九年、同春吉小学校に
           三年、この間青年学校助教諭を兼務
自昭和十八年四月
至同工十年八月    満州三菱機器株式会社に入社、同社の私立青年学校
           に勤務し技術工養成所の暁雲寮長を兼務
自昭和二十一年九月
至同二十八年三月   満州瀋陽(旧奉天)より引揚、出版業九州文化社へ
           入社、営業部長として勤務二年半、株式会社藤村計
           器工業所取締役として勤務五年
自昭和二十八年四月
至同五十一年四月   財団法人福岡県母子福祉協会に勤務室見母子寮長二
           十三年この間西区室見五丁目の町世話人を十期二十
           年担当
自昭和五十一年五月
至同五十七年八月現在 財団法人福岡県母子福祉協会の理事に選任され目下
           在任中この間城南区別府一丁目一区町世話人を二期
           四年担当

※ 別府地区より選出された市議会議員
  藤村 源路(一期間)大正十二年一昭和二年(憲政会)
  橋木健太郎(二期間)昭和二年一昭和十年(政友会)
  三角松次郎(一期間)昭和十年一昭和十四年( 〃 )
  小川 倫右(一期間)昭和三十八年一昭和四十二年(自民)
  古川 初雄(一期間)昭和四十二年一昭和四十六年( 〃 )
    別府転入は昭和三十六年頃(当時は市議会議員)
    県議の経験もあった
  高山博光 昭和五十四年初当選、昭和五十八年、六十二年、
       平成三年再当選(自民)
    昭和五十四年中央区より別府へ転入

 編集後記
 市立別府公民館創立三十周年記念行事の一つとして郷土誌の発行を企画致しました所、「別府の歴史見聞録」の著書藤村勝丸氏より校区の皆様のために、同書の稿を改めて記念誌として刊行することにご快諾を戴きました。
 「郷里とは」「自然と人間とは」という問題について、示唆に富む内容であると思います。
 これを機に、別府校区内は勿論、郷里を愛する皆様に広くご愛読戴ければこれに過ぐる喜びはないと存じます。
 平成六年十月吉日
市立別府公民館創立三十周年記念実行委員会

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