紅梅・白梅(4) (1992年)


 目 次

1.       「天道・是か非か」
2. (戦争)  太平洋戦争の終結頃の思い出
3.       箱崎宮外苑の牡丹園にて
4.       環境保全の一翼を担う緑地について
5.       東長寺に「福岡大仏」が威容
6.       いつのまにか
7.       花と水
8.       伸び伸び人生
9.       病床の感傷
10.       夏は巡りて
11.       豊かさの中の貧しさ
12.       私の病歴
13.       友情
14.       思い出
15.       宮崎への旅行で楽しかりた想い出
16.       或る講義から
17.       中国旅行記
18. (戦争)  花曇
19.       四島のゆくえ
20.       名前の由来
21.       学校教育の今昔
22.       トルコ散策



 1.「天道・是か非か」




 主人は軍人で、若い頃熊本幼年学校20回卒業生、また、陸軍士官学校35期生で軍人畑を歩いて来た。
 終戦前は少佐で、小倉歩兵第十四連隊付であったが、その頃戦地から俘虜が来る様になり、小倉に俘虜収容所が出来た。主人はフランス語が出来ると言うので第三分所長に着任した。
 その頃オーストラリアから浮虜が千人も来る様になり、仕事場の事や食料の事等の問題をかかえて大変だった。
 そんな大事な時、主人は体が悪くなり、相当無理を重ねたので。止むなく陸軍病院に入院せねぱならなくなった。後任の人が来られる様になったが、その人は兵上がりで外国語も出来ない人だった。「時が時ですから俘虜は大事に扱って下さい」と言ったら「たかが俘虜じゃないですか」と言われたので主人は心配して「勉強せん人は気楽で良いね」と案じていた。主人はその儘、病院へ車で去って行った。終戦少し前、中佐に進級して待命となっていた。
 私共家族は小倉の家を閉じて浜崎の生家へ疎開することにした。主人は学生の頃からフランス語が出来たので、俘虜とは何のトラブルも無く、うまく行ったと思う。色々な事があり空襲も何回となく来た様だが、やがて終戦となり同時に俘虜達も帰国したが、その時俘虜達は、収容所職員についての口述書を沢山書き残して帰ったらしい。これも負けた国だから仕方のないことと思うが、元職員達は次々と呼び出しを受けたらしい。大牟田収容所所長は、まだ年若で世間知らずとは言え、早々と絞首刑にされた。
 家にも巣鴨からチラシが送られて来る事が時々あった。「誰々が何々」と罪状が書かれたものである。家にも呼び出しが来ると恵っていたが、忘れた頃にその呼び出しが来た。雪の降る寒い夜、主人は夜行に乗車した。「今度は帰ってこれるかしら」と思って見送った。一週間位して葉書が来た。文面に依れば、受付の二世が「口述書が何も無かった人ですね。どんな人かと待ち受けて居りました」
と大事にしてくれて、食事も沢山勧めてくれた、とあり安心した。
 体の方も軍医さんが良く世話をしてくれるので心配はいらぬとの便りが来た。
「情は人の為ならず」とか。主人の優しい心のお蔭だと嬉しく思っている。
 その後「裁判の立会人ばかり務めさせられる」と便りが来た。良かったと思った。少し後に「主人が病気で転地させるので、奥さん来て下さい」の電報が来た。
私は生まれて初めて東京行きを思い立った。昔だから道中が長く、広島等は何も無く、焼け野原だった。駅も仮小屋だけ。東京駅に着いた。誰一人知人もなく、外務省を尋ねても誰も知らぬと言う人ばかり。途方に暮れて考えた。渡る世聞に鬼は無いと言うので、誰にでも頭を下げて尋ね廻った。汽車の中で外務省から来た書類を出して見せていたら「私は毎日散歩する時通りますので案内しましょう」と言う方がおり、その方に連れて行って貰った。おかげでやっと終戦連絡事務所に着いた。
 主人に会ったら驚いて「何しに来た」と尋ねられた。自動車で清瀬の病院へ連れて行って貰い、大勢で迎えて下さった。幸いに半年位で帰って来ることが出来た。
 家で少し勉強して、土地家屋調査士の国家試験を受け一回で合格した。浜崎でも、福岡へ来てからも支部長にさせられた。仕事も多く福大の測量も沢山あったが、休み無しの疲労が重なって体が弱り、誰からも惜しまれて到頭不帰の人となった。本当に今少し元気で居て貰いたい人であった。勉強一途の人だった。
 酒もタバコも呑まぬ者でもガンになるのですね。


 3.箱崎宮外苑の牡丹園にて



 4.環境保全の一翼を担う緑地について



 5.東長寺に「福岡大仏」が威容



 6.いつのまにか



 7.花と水



 8.伸び伸び人生



 9.病床の感傷



 10.夏は巡りて



 11.豊かさの中の貧しさ



 12.私の病歴



 13.友情



 14.思い出



 15.宮崎への旅行で楽しかりた想い出



 16.或る講義から



 17.中国旅行記



 18.花曇

 花曇りの季節になると心の痛む忘れ難い想い出があります。
 時は昭和20年3月27日。戦局は益々厳しくなり、女子学生も学業を投げうって軍需工場で慟く毎日でした。
 当日私は、級の生徒を引率して太刀洗飛行製作所行き。晴天でした。女子学生達が工場の人に仕事の説明を聞いて居るその時、全く思いがけなく警戒警報。工員の方は空襲警報まで職場を死守、学徒は警戒警報で避難との規則で、級全員集合、近くの民家の防空壕へひたすら走りました。皆の足の早かった事、死に物狂いです。途中B29の爆音が聞こえ、空を眺めると早春の空にきらきらと光っています。
 幸い大きな防空壕があり無断で入らせてもらいました。その時は既に爆撃がはじまって居りました。入口に扉代わりになりている私の背に爆風や土砂が降りかかり、近くの竹藪が大きくざわめきます。「死なば諸共」と全員息をひそめ、身体を丸めて恐怖に耐えました。余りの恐ろしさに、何分、いや何十分経通したか、ただただ運命に身をまかせるばかりです。
 爆音が去り空襲は終わりました。「よかった、生きててよかった」。お互いに手を取リ合って泣きました。うれし泣きとぱこんな時の事を言うのでしょうか。
生徒とは姉妹の様な20歳そこそこの新米教師には、50余人の生命は余りにも荷が重過ぎました。社会人になったばかりの経験不足の私には、こんな時どう処置していいのか咄嵯に思い浮かびません。
 空を見上げれば一面鉛色、まさに「花曇」そのものです。ガソリンの爆発のせいでしょうか。
 防空頭巾やモンペの土砂を振り払う事も忘れ「全員無事、一人の怪我人もありませんでした」と報告。小柄な老校長さんは「よかった、よかった、全員無事で。
その報告を蘭くまでは、居ても立っても居られなかった」と目をしばたたかれました。その泣き笑いの顔は今も私の脳襄に刻まれています。
 想い出したくない、触れたくない人生の一こまで、実は手記にする事を躊躇しました。然しあれから半世紀、飛行場跡にはビール会社が建ち、のどかな田園風景を描いています。現在の平和で豊かな生活に感謝しつつ。私なりに一生懸命生きた若き日を想い出すのも無意味ではないのではないかと拙いペンを執りました。


 19.四島のゆくえ



 20.名前の由来



 21.学校教育の今昔



 22.トルコ散策



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