「別府」のむかし、いま、あす(創立50周年記念誌)

福岡市別府公民館


はじめに

むかし(1) -古代から江戸時代-
 1.3 奈良・平安時代の油山山麓「別府」       ~鴻臚館、巨大荘園との関係~
 1.6 別府を貫く「太閤道」~秀吉、淀君も通った~

むかし(2) -明治以降-
  2.6 別府橋・別府大橋
  2.9 福岡市の災害
  2.11 四通八達の碑



附録A  信仰の対象について
  A.1 鳥飼八幡宮
  A.3 五穀神
  A.4 別府薬師如来
  A.5 八龍
  A.6 将軍地蔵尊
  A.7 塚地蔵尊
  A.8 庚申

附録B  その他の取材メモ
 B.1 学校区(城南区)の生い立ち

祝 辞
城南区長 吉村 展子

 別府公民館の創立50周年並びに別府校区自治協議会の設立10周年を心からお祝い申し上げます。
 この節目の年を迎えるにあたり、昨年から、三角自治協議会会長を委員長に記念事業実行委員会を立ち上げられ、この記念誌の発刊をはじめ、校区をあげて記念事業に取り組んでこられましたことに深く敬意を表します。
 別府公民館は、昭和初期に創立された公会堂を前身とし、昭和39年7月に創立された歴史と伝統のある公民館であります。
 これまで別府公民館が、地域の皆様に親しまれ、社会教育施設、コミュニテイ活動を支援する施設として機能を発揮されてきたことは、公民館職員の皆様のご努力と地域の皆様のご支援の賜と感謝を申し上げます。
 また、別府校区自治協議会におかれましては、協議会の発足以来、「健康で明るい、そして楽しく住んで良かった別府校区」をスローガンに掲げられるとともに、地域における支え合いを念頭におかれ、高齢者への支援をはじめ、見守り活動、地域活動の担い手の発掘・育成に積極的に取り組まれていることに改めて深く敬意を表しますとともに感謝申し上げます。
 城南区におきましても「豊かな暮らしがあるまち・城南区」をまちづくりの目標に掲げ、自治協議会などの地域団体や大学と連携を図りながら、地域で支え合う安全で安心なまちづくりに取り組んでまいる所存です。
 終わりに、今後とも別府公民館が地域の皆様とさらに連携を深め「集まる」「学ぶ」「つなぐ」という三つの機能を最大限に発揮されますとともに、別府校区自治協議会の皆様のまちづくり活動かますます充実されますことを祈念いたしまして、お祝いのごあいさつといやします。


創立50周年記念誌の刊行にあたって
別府公民館 館長 小森 貴一郎

 昭和39年7月、別府公会堂から衣替えして開設された別府公民館は、平成26年、創立50周年を迎えました。
 創立以来、歴代の館長、主事をはじめ公民館発展のためにご尽力下さいました方々に深く謝意を表します。
 節目の年を迎えて、創立50周年の記念誌を刊行することにしました。
刊行に際しては、後世に伝えたい別府の姿をふんだんに盛り込みました。
 作成に当たっては校区の有志による手作りの記念誌にしたいとの強い思いがありました。計画を進めるにしたがって、地域には多彩で有能な技を持つ人材が少なくないことがわかりました。このことは別府校区の大きな財産であることを改めて認識させられました。
 記念誌の内容に触れますと、歴史をたどるところでは、前半の古代から江戸時代編においては有史以来の「別府」に思いを馳せ、大いにロマンをかきたてる内容に、後半の明治以降編においては、資料を駆使し史実に沿った形に仕上げました。
 時を同じくして、別府校区自治協議会が発足10年を迎えたことから、構成団体には現況とあわせて将来展望を語っていただきました。
 また、公民館編では50年の歩みをたどりました。公民館をこれまでに育てていただいた方々の足跡を読みとっていただければ幸甚の至りです。
 こうして記念誌は出来上がりましたが、願わくはいつまでも皆さんの傍においていただいてページをめくってもらえればと思います。
 最後になりましたが、刊行に至るまで多大な財政的支援をしていただきました「七隈財産区草ヶ江地区連絡協議会」をはじめ、編集に携わっていただいた皆さん、取材へのご協力、資料のご提供等ご支援をいただきました多くの方々に厚くお礼申し上げます。
平成26年11月吉日


 私たちが生活している福岡市の「別府校区」という地域では、いつの時代から人々が暮らし、時代の変遷とともにどんな歩みをして来たのでしょうか?
 別府公民館が創立50周年を迎えるに当たって、こんなことを考えてみました。
 この地域がまだ海の底だった古代、奈良・平安時代、戦国の世、また大名によって治められた江戸時代、そして明治維新後の文明開化、戦前・戦後の近代化を経て今の「別府」があります。

 創立50周年記念誌の歴史編は、「古代から江戸時代」と「明治以降」の2部構成にして、前編は、日本史の大きな流れをながめながら「奴国、伊都国、さらに時代は下って博多、福岡という大都市の郊外に位置づけられる郷土『別府』は?」という視点での歴史物語を綴ってみました。
 後編は、明治、大正、昭和、平成の各時代を体験した人たちの伝承や記憶、さらに豊富に残る史資料、写真で「別府の近現代史」をたどりました。

 また、国勢調査のデータからここ10年の大きな変化を捉えてみました。 最後に、別府小学校の4、5、6年生に「50年後の別府は?」というアンケートを行い、夢を描いてもらいました。「別府」のむかし、いま、あすの物語です。


むかし(1) -古代から江戸時代-

1.1 「別府」で人々が生活を始めたころ

<別府の歴史は海の底から始まった>

図1 約6000年前の「縄文海進」時の博多湾の海岸線(薄黄色の部分)。濃い青が現在の海岸線で、西公園が離れ島状態。

 遠い遠い昔、郷土「別府」は海の底でした。今から6千年以上も昔の話―「縄文海進」といわれる時代のことです。
 地球全体の気候変動などで海面が上昇し、現在は低平地の所にも海水が進入していました。多分、今の国道202号線付近が海岸線で、樋井川や七隈川、室見川などの河口や下流域沿岸も広い入江だったとみられます。
 その頃、この地に人々の生活はあったのでしょうか?福岡平野では2万年ほど前から人間(縄文人)の生活が始まっていたといわれます。
 別府や茶山、田島など海進からまぬがれた丘陵地、いわゆる油山山麓でも、おそらく血縁的なつながりの人たちが小さな集団を成し、食料を求めて田島、七隈の丘陵地、別府の海岸地帯を移動しながら生活を営んでいたでしょう。

<狩猟や採取、漁などの移動生活>
 その痕跡は校区内からも出土しています。別府遺跡(城西団地付近)、茶山遺跡(城南高校東側)、田島A遺跡(田島1~2丁目付近)、田島B
遺跡(鬼面池東)、田島和尚頭遺跡(別府7丁目付近)などから住居跡や土器、石器、矢じり、土壙などが見つかっています。
 食べていたのは、ドングリやカシの実など堅果類のほかシカ、イノシシなどの動物も捕らえて食肉にしていたことでしょう。
 食糧を求める動きは海にも広がっていました。海岸での貝や海草の採取、入江に小さな舟を漕ぎ出し釣り針や銛(もり)、網での魚の捕獲も行われていたことでしょう。それは出土品や貝塚の存在からもわかっています。

 古い地名からも漁労が行われていたことがうかがえます。
 今の南公園・山の上ホテル付近の高台は昔「鰯(イワシ)見山」と呼ばれていたそうです。ここから海(草香江と呼ばれる入江)をながめて、魚の群れが近づくのを見付けると狼煙(のろし)を上げて、海岸付近の住民に漁の開始を告げていただろうこと。
 また、旧草ケ江本町付近は昔「網出ケ鼻」(後に阿弥陀ケ浜)と呼ばれ、地引網を沖合いに引き出す海岸であったことでしょう。まさに「別府」は陸に、海に、これら縄文人が移動しながらの生活圏だったといえます。
 こうした時代が数千年続き、その後、大陸から稲作が伝わり、それに使う石器、土器、金属器が渡来し、住居も発達。さらに地球規模で海面が下降する「海退」や川からの土砂の流入、堆積で陸地が広がり、現在の海岸線に近い地形の郷土が形作られて来たというのが、考古学の研究などでわかっています。



 地名は大別して二つの由来で出来ます。
 一つは地形や土地の特徴。草ケ江や田島、茶山、片江などがそうです。
 もう一つは主な役所・施設や住民の職業などに由来するものです。警固、飯倉、鳥飼などはその例で、わが郷土「別府」の地名は後者に当たります。

<別勅符田説>
 しかし、その語源についての説はいくつかに分かれます。最も知られるのが「別勅符田」の省略と文字の変化で「別府」になったという見方です。
 「別勅」とは律令制の下での天皇の特別な命令のこと。朝廷に功績のあった役人などに別勅で田地を下符した土地を指します。
 わが別府はその田地があったので、その省略形で「別符」→「別府」となり、地名として定着したのではないかといわれます。大宰府の出先機関である鴻臚館や警固所が比較的近く、そこで功績をあげた役人に与えた土地があったとも考えられます。
 地名辞典などによると「別府」の地名は全国に大字だけで300ヶ所はあるとされ、漢字は同じでも読み方は「べふ」(福岡県)、「べっぷ」(大分県)、「びゅう」(宮崎県)など様々ですが、語源、由来は同じとみられています。

<「別府の太郎」伝説>
 もう一つの説は「別府の太郎」伝説に由来するものです。別府公民館30周年記念誌によれば、太宰府の出先機関「別府」が当地に置かれ、「太郎」という人物がその機関の頭として権力を振舞い「別府の太郎」と称していたからという説です。
 逆に、当地に住んでいた豪族で、太宰府の役人と無関係だが「太郎」という名の人物が「われこそは、別府の太郎だぞ」と自称し、当地で権勢を振るっていたから「別府」の地名が生じた、という見方もあります。
 いずれの説が史実か決め手はありません。それだけの力を持っていた「別府の太郎」の屋敷跡や末裔について何の痕跡もないため伝説上の架空の人物と思われます。
 一方、別勅符田説も、当時この地は丘陵地が多く、下符される水田の適地があったかどうかは疑わしく、今もってその該当地も分かっていません。
 現代の「別府」の住民にとって、その由来、起源をはっきりさせたい気持ちは強くても、「郷土史の謎」の一つとしてとっておくのも、歴史のロマンをかき立ててくれるものものかもしれません。



 京の都で、源氏物語に代表される王朝文化(国風文化)が花開いているころ、600キロ以上離れた西国・筑紫の国、とりわけ郷土「別府」とその周辺の油山山麓はどんな様子だったでしょうか?

<遣唐使の出入国の拠点>
 わずか数キロしか離れていない所に国の重要な外交施設「鴻臚館」(現在の福岡城跡、旧平和台球場付近)がありました。外交使節の受け入れ窓口でもあり、先進国に渡る遣唐使、遣新羅使の出国、帰国時の宿泊施設でもありました。阿倍仲麻呂、吉備真備、最澄や空海そして円仁ら名だたる人物がここから出国したのです。

図2 福岡市博物館作成の遣唐使航路図。博多が入出港の拠点だったことがわかる。

 そんな鴻臚館が近くの地域(城南区、中央区一帯など)に影響を与えないはずがありません。
 桃﨑祐輔・福岡大学教授らによる「城南区の歴史散策」によれば、城南区では、七隈の飯倉D遺跡や堤の笹栗遺跡で、奈良時代の製鉄址が見つかっています。
 南区の老司でも観世音寺(太宰府市)の瓦が生産されていました。
 油山山麓には、山の木材を燃料や木炭として大量に消費する製鉄・鍛冶・瓦製造に係る、当時としては高度な技術集団がいたようです。

<製鉄や氷室など先進技術集団>
 一方、七隈の飯倉D遺跡では、奈良~平安時代の集落、製鉄址のほか氷室と思われる遺構も見つかっています。別府校区を含むこの一帯にこんなに近代的?な技術を持つ人々がいたのかと驚きです。
 油山山麓ではかつて、氷の生産と貯蔵が盛んで、樋井川や七隈川が草香江津に繋がっていたことを考えれば、船で氷を運び、外国の賓客をもてなす食卓でオンザロックが供されていたとも想像できます。また、身分の高い人物の遺体の腐敗を防ぐ用途でもあったようです。
 七隈3丁目に残る水ケ浦池は、氷室の氷を生産した池の址かもしれない、と桃﨑教授はみています。

写真1 福岡市博物館がコンピュータグラフィックで再現した鴻臚館の復元想像図

<日本初のチャイナタウン>
 7世紀後半から11世紀中頃まで、国際交流の拠点として地域に影響を与えた鴻臚館も、遣唐使の停止などで廃れてしまいます。
 代わってやって来たのが唐や宋、新羅の商人たちです。鴻臚館は私貿易のための商館に変容し、国際貿易都市として発展していく「博多」、とくに今の博多区の大博通りは、日本初のチャイナタウン「唐房」として注目されるようになりました。
 その数は1600家もあったという史料もあります。彼らは、博多の域外にも新天地を求め、11世紀後半ころから開発が進んでいた油山山麓や樋井川河口の草香江津にも中国商人が居を構えていたと見られています。
その証が、別項でも触れる別府6丁目の「茶山将軍地蔵堂」に祀られている石造物「薩摩塔」です。

<巨大荘園でもあった>
 一方、平安時代後半から鎌倉時代初めの城南区付近には、油山の麓から鳥飼干潟に及ぶ「八条院領筑前国野芥荘」と呼ばれる巨大な荘園がありました。
 京都栂ノ尾の高山寺に伝わる文書(高山寺文書25号)によれば、この荘園は709石の所当米(田畑に課けられる租税)を負担していましたが、不足する年貢米を補うため、廻船で各地の市(いち)を巡回して塩を売り、米を買って賄うのが「御荘の習」であったとされています。
 従って野芥荘の沿岸部に当たる鳥飼干潟周辺の海岸には塩田があり、浜で塩を焼き、各地で交易して利益を上げていたと考えられます。現在も樋井川にかかる「塩屋橋」はその名残ではないでしょうか。
 平安時代は城南区一帯が荘園だったというのも、郷土史上の意外な一面です。



 城南区茶山六丁目、弓の馬場・茶山会館の敷地に「将軍地蔵」として長年祀られてきた石造物があります。それがここ数年の歴史学者、郷土史家の研究で、中国渡来の「薩摩塔」として注目を集めています。
 桃﨑祐輔・福岡大学教授によると、薩摩塔の名前の由来は、当初鹿児島県西部の南九州市川辺町、南さつま市坊津町で発見されたためで、実際は長崎県平戸市や博多湾沿岸に多く見られるものです。半世紀ほど前に中国伝来の「薩摩塔」として確認され、現在30基ほどが西九州を中心にあるといわれています。

<中国渡来の石造物>
 「将軍地蔵」と呼ばれてきた本尊の石造物は、高さ約60~70cm、灰青色で砂岩より硬く、相当重い。桃﨑教授によれば、中国浙江省の寧波周辺の梅園村などで産出する石材を用いたものと判明しています。
 その構造は特異な一石彫成で蕨手文や雲形を刻む台座(須弥壇)の上の四角柱の4面には四天王を配し、須弥壇上の壷部に如来や僧像を刻み、反り返った屋根が載って「須弥山」を思わせる立体的な造形です。国内の石造物とは異風を放っています。

写真2 将軍地蔵尊として祀られてきたのは、中国渡来の薩摩塔だった。

 中国より鎌倉時代(1100年代)に渡来したとされますが、その経緯は博多の中国商人たちが航海の守護を願い、目標として信仰する海岸や山岳の寺社に多額の寄付をし、寺社も彼らを神人(じにん=神に奉仕する人)として保護しました。
 このためチャイナタウンができていた博多や油山山麓の寺社には多くの中国製石造物が持ち込まれました。そのうちのいくつかが城南区田島、茶山に「薩摩塔」として残っていました。しかし、田島のものは篠栗町に移された後、水害で流失。茶山の薩摩塔は今日も大切に祀られている貴重なものとして注目を浴びています。
 そもそも将軍地蔵=茶山薩摩塔は、別府公民館創立40周年記念誌によれば、付近の畑の中から掘り起こされたと伝承されますが、別府を含めてこの地域が中国・宋との間に通商があったことを示す物証とみなすことができるのではないでしょうか。



 元寇襲来は、百道浜の防塁跡や東公園の日蓮上人銅像などで、福岡市民には身近に感じられています。しかし、意外と知られてないことも多く、ここでは二点について考えてみましょう。
 一つは、わが「別府」が主戦場の一つだったこと。もう一つは神風が吹いて蒙古軍が退散したのが史実なのか? この2つの疑問を再検証してみました。

<2万8000人の蒙古兵と900隻の軍船>
 1274(文永11)年10月10日、2万8千人の蒙古兵が900隻の軍船に分乗して太宰府を目指し、博多湾に進入しました。いわゆる「文永の役」です。
 翌20日朝、迎え撃つ日本軍は、九州全土から結集した御家人(鎌倉幕府直属の武士)約5千人が、博多湾の海岸線約30kmに防衛線を張って待ち構えていました。
 しかし、日本軍は約5倍の数の敵軍勢の前になすすべもなく、蒙古軍は今津、百道から続々と上陸。麁原(今の西新・祖原公園)に本陣を構えました。
 小高い山の上に蒙古軍旗をたなびかせ、太鼓や銅鑼(どら)を打ち鳴らし気勢を上げます。さらに鳥飼、荒江、別府、赤坂へと旧草香江の入江の海岸線に沿うように進軍。火薬が爆発する「てつはう」という日本にはまだなかった新兵器も使っていました。
 肥後の御家人・竹崎季長は、この戦いの様子を後に絵師に描かせ、戦の様子を上記の様に記しています。有名な「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」です。そして、日本軍の反撃にあった蒙古軍は、赤坂から麁原、別府の塚原に一旦退却。竹崎季長の一団は追撃しますが馬が干潟に足を取られ、取り逃がした、と自慢話(?)風に記述しています。
 「別府の塚原」が、現在のどこか特定できませんが、鳥飼、別府付近で激しい戦が繰り広げられたのは間違いありません。

図3 竹崎季長が書かせた「蒙古襲来絵詞」での合戦の模様。右が竹崎、左が蒙古軍。中央で「てつはう」が爆発している。(宮内庁三の宮尚蔵館蔵)

<千人以上の犠牲者を弔う祠の出現>
 城西中学(鳥飼6丁目)の南側のマンションの一角に、小さな祠があります。「愛宕将軍地蔵大菩薩」です。
 その「縁起」によれば、一帯は当時「阿弥陀ケ浜」と呼ばれ、この付近の激戦で1000人以上の戦死者が出たということです。
 地元の人たちが、これを弔うため当時からお祀りされていた「祠」です。
しかし大正時代になって旧国鉄筑肥線の建設に伴い破壊され埋められたままでした。
 1961(昭和36)年、福博トラックという会社が事業用にこの一帯を買い取った際に「地中に祠が埋まっている」との「霊託」を受け、詳しく調査したところ事実と分かり「祠」を再建したと伝わっています。数少ない地元に残る「元寇遺跡」で、元寇は、実はわが別府校区周辺が主戦場だったのです。

写真3 元寇の戦死者を弔っていると伝わる鳥飼6丁目の「愛宕将軍地蔵大菩薩」。

<神風襲来説にも?>
 また、神風襲来説にも疑問点があります。蒙古軍が神風にあって敗走したという10月20日は旧暦であり、新暦では11月26日にあたります。
 台風シーズンは終わっています。ただ、今で言う強い季節風「木枯らし1号」が吹く時期ではあります。これを神風と呼ぶかどうかは別で、最近の学説によると、蒙古軍の撤退は予定の作戦だった、といわれます。
 そもそも元寇のきっかけは、蒙古の王・フビライがその6年前、鎌倉幕府に、友好か隷属かの回答を求める「国書」を送っていたのです。しかし、幕府はそれを無視、その後、2回も正使が来たのに返書も出さず、1度の謁見も許さずに追い返しています。その「非礼の懲らしめ」の意味で大軍を送ったもので、占領の意思は元々なかったとの見方が有力になっています。
 元のフビライは、文永の役から6ヶ月後に再び使者を送りましたが、鎌倉幕府はこれも問答無用で通しました。それで元は1281年に前回「文永の役」の5倍の軍勢を差し向けてきました。「弘安の役」です。
 佐賀・伊万里湾の鷹島などで凄惨な戦いが起きましたが、この時は閏7月1日=新暦8月17日なので、台風シーズンの最中。本当に“神風”が吹いて蒙古軍の船が多数難破して敗走した、とみることもできます。


1.6 別府を貫く「太閤道」 ~秀吉、淀君も通った~
    (関連記事;太閤道(たいこうみち)と別府橋通り

 「太閤道」と称される道が別府のまちを東西に横切っています。太閤道とは、文字通り豊臣秀吉(太閤秀吉)にちなんでの名称です。
 別府の太閤道は、秀吉が朝鮮出兵した時、博多と本陣が置かれていた肥前・名護屋(唐津市鎮西町)とを往来した道路です。
 2度目の名護屋出陣の際には、淀君を同道したとされるところから、淀君もまたこの別府の地に足跡を残したことになります。豊臣秀吉・淀君という歴史上の有名人が、別府の地を通ったという史実にいまさらながら驚きます。

 太閤道のルートを「別府郷土史研究」誌を参考に、現在の地図・地名に照らし合わせると、別府橋の西側、安藤病院前から別府2丁目と3丁目の間を通り、別府交番裏の細い道に入り、中村学園大学の南側に抜けて別府5丁目と別府6丁目の間の道、城南中学前を通り、逢坂(荒江1丁目、末永文化センター付近)を登って飯倉、原へ出て、生の松原へ通じていたといわれます。
 「筑前国続風土記」は、順序を逆に「生の松原より山門村を過ぎ姪浜の南を経、七隈、田島の北を通る道あり。秀吉公、肥前名護屋へ往来したまうとき、このみちをお通りありという。この故に今に至り太閤道という」と記しています。

 写真4 別府交番裏の小道からスタート

 写真5 中村学園大学裏附近を通って西へ

写真6 城南中と荒江団地の間の通り

写真7 末永文化センター前の逢坂

<草香江を「舩渡し」説も>
 しかし、明和2(1765)年に作成された古図「博多往古図」は、「草香江」の中に「舩渡し」として「太閤秀吉公朝鮮征伐 肥前名古屋へ博多ヨリ行給ふよし、今別府端道六本松馬場頭より続くミち舟渡し」(原文のまま)とわざわざ記しています。訳すると「太閤秀吉公は朝鮮征伐の際、肥前名護屋へこの船渡しを使って博多よりいかれたとのこと。今、別府村の端の道、六本松馬場の頭(先)から続く道(の先)が船渡しである」と読
めます。
 ただし約200年経った後に書かれた絵図なので、それが史実と断定することは難しいと思われます。 なにしろ20万の軍勢が名護屋に集結する大変な行軍ですから、陸路だけでなく一部船で行き交ったとも思われます。

図4 この地図は、1765(明和2)年以降に作られた「博多往古図」の一部、当時入江だった草香江附近を拡大したもの。
太閤の朝鮮出兵の折、「舩渡し」で名護屋城へ向かったと記されている。

 現在の別府附近の太閤道のルートとほぼ並行している国道202号線は、1979(昭和54)年に「別府橋通り」と名付けられ、この愛称で広く知られるようになっていますが、当時「太閤通り」と言う愛称の案も検討されたそうです。
 今や毎年12月初旬、福岡市を舞台に繰り広げられる福岡国際マラソンのルートの一部でもあります。
 スタートから15~16キロ地点が別府で、コース中最高標高の10メートルの別府大橋の上り坂に差し掛かり、最初の難所といわれます。
 このレースの模様は全国にテレビ中継され、遠くに住む別府出身者にはふるさとの街並みを見られ、懐かしむ絶好のチャンスにもなっています。



<農業の奨励と田園地帯>
 慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの軍功により、豊前国中津城主であった黒田長政は筑前一国(52万3千石)を与えられました。
 NHK大河ドラマ(2014年)で知られる黒田官兵衛(如水)・長政親子は、福崎と称していた地名を、黒田家の祖先由来の地・備前福岡にちなんで福岡と改めて築城を開始、慶長11年(1607年)福岡城は完成しました。

図5 元禄12年に作成されたとみられる「福岡御城下絵図」。

 中央が福岡城、機密のため白地のまま。西側の入江が草香江の入江(その約半分が現・大濠公園)。東は崇福寺付近から西は藤崎付近まで。中央に半島状に出ているのが西公園、南は中央区谷付近まで。
 左下の別府付近は何も描かれていない。しかし、入江の西、現・鳥飼3丁目付近に飛び地様の「鳥飼村」と書かれた村落がある。

 江戸時代、すなわち福岡藩治世下の「別府」の姿を物語る適切な資料を見出せませんが、「別府」付近の景色を表したものに、今は市指定名勝「友泉亭」造営のころの古文書に「南に油山などの丘陵地を望み、北は対岸越しに博多湾を見通せる」との記述があります。
 友泉亭は江戸時代中期の1754(宝暦4)年に6代黒田藩主・継高により「別荘」として建てられましたが、ここに言う「対岸越し」は、樋井川の向こうで、まさに今の別府地区を指します。いかに眺望を遮る建物もなく田畑が広がっていたかを物語っています。

<壱岐氏と鳥飼氏の英断>
 時代を遡ると、鳥飼八幡宮境内に所在する碑文「神社記幷社家宮座由来記」(壱岐氏八十六世藤村源治氏)によると、鎌倉時代末期には、別府周辺を、壱岐氏と鳥飼氏が豪族として兵を擁し、治めていました。
 壱岐氏・鳥飼氏は、歴史を下るに従って戦国時代の勢力争いに巻き込まれ、北条氏と菊池氏の戦いの時は、北条英時(鎌倉幕府最後の鎮西探題)に加担し、足利尊氏の九州進出を助けました。
 島津氏が九州を席捲し始めると島津氏に従属しましたが、反島津氏側の攻勢に会い鳥飼城が戦火で焼失するなど、劣勢にたたされたこともありました。
 時代を経て、豊臣秀吉は九州の平定に乗り出しますが、それまで隆盛を誇っていた島津氏を降伏させるに至り九州の戦乱は幕を降ろしました。
 戦乱終結後、壱岐氏・鳥飼氏は今後のことを協議して、刀槍を捨てて戦いの場から逃れ「農民」になろうと決めました。このとき壱岐氏は改姓し「藤村」姓になって庄屋をつとめることとなりましたが、ここで藤村氏が地域の農業の先鞭をつけたことになります。
 壱岐氏・鳥飼氏が武装集団のままでいたら、別府の歴史は別の道を歩んだかもしれません。

 さて話を江戸時代に戻ますが、福岡藩は、藩主黒田長政が自ら指示し土地の生産性(石高)を上げるため農地の開発を勧めました。福岡市南区、城南区には溜池が多く残っていますが、丘陵地帯の同地区で稲作を広めるための水利事業の名残でしょう。
 古地図「福岡城下絵図」には、「鳥飼村ノ内別府村」の記述があり、地域的には広くはないものの、はっきりと存在を示しています。別府は、当時の古地図から、集落のまわり全体が農地(水田)であったことがわかます。

 田島には、西嶋家という豪農が存在していたこともあり(桃崎祐輔福岡大学教授「城南区の歴史散策」)、隣接する別府も農業が盛んにおこなわれていたことが推測されます。
 樋井川より東は、武士を中心とすます城下町を形成し、西は農地として開拓整備していったものと思われます。

<地名に残る河川改修の跡>

図6 「慶長年間筑前国絵図」による福岡・博多(おおよその推定)(「福岡藩分限帳集成」)

 その樋井川は、福岡城が築城される以前には大濠公園の前身である古鳥飼湾に直接注いでいたことが、「慶長年間筑前国絵図」に示されています。
 しかし、福岡城完成後の正保3(1646)年作成された「福博惣絵図」(福岡市美術館蔵)では、樋井川は現在の流れのように、草ケ江小学校付近から西へカーブし、現在のヤフオクドーム付近で博多湾へ流れ込んでいます。
 西新の東側の川を渡る橋は「今川橋」と呼ばれ、旧路面電車の停留所名もそうでした。その川を「今川」、つまり「今の新しい川」の意味でこう呼んでいたのでしょう。河道切り替えの名残を残し、現在もその地名にもなっています。
 大濠公園の整備、河川の改修、池・堤の築造などは、福岡城の西側の防御だけでなく、水利の確保は稲作奨励のためにも必要な手立てとして進められたことを物語っています。

<殿様たちのお狩り場>
 一方、江戸時代になっても別府の南側の田島、金山、七隈地区の丘陵は多くが原野、山林に覆われていました。
 このためこの一帯は、黒田藩の歴代の「殿様」や藩士たちが遊興、野遊びとして鴨、シラサギ、キジなどの野鳥やウサギ、タヌキ、キツネなどを射る「お狩り場」となっていました。
 七隈1丁目の城南中学西側の丘「逢坂」の末永文化センター敷地内に、黒田藩の殿様や藩士たちが狩りの行き帰りに立ち寄ったとされる茶屋の跡があり、「忘帰台」の石碑があります。その高台からは、約300年前は草香江の干潟や遠く福岡城を望む素晴らしい眺望だったため「時を忘れ帰城も忘れるほどだった」ことからこの名前になったと伝えられています。
石碑を書いた人や時期は不明ですが、命名は藩主ではないかとみられています。
 藩主はこの茶店で近くの娘からお茶の接待を受けた、という言い伝えが残っています。ここは「友泉亭」とともに、狩りの途中の休憩所だったわけですが、今や地下鉄が通りマンションや団地、住宅が建ち並ぶこの一帯が「お狩り場」だったとは想像もできません。

写真8 末永文化センター内に残る「忘帰台」の碑


むかし(2) -明治以降-
「福岡の歴史 -市制90周年記念-(福岡市史普及版)から抜粋・編集。

(1)福岡県の成立
明治政府は明治4年(1871)に「廃藩置県」を行いますが、このとき福岡県には8つの藩(筑前に福岡・秋月の2藩、筑後に3藩、豊前に3藩)があり、この8藩がそのまま県になりました。
しかしすぐに筑前は福岡県に、筑後は三瀦(みずま)県に、豊前は小倉県に整理されて3県になりました。
その後、明治9年(1876)に小倉県が福岡県に吸収され、三瀦県のうち筑後一円が福岡県に合併され、同時に福岡県に属していた豊前の下毛・宇佐の二郡を切り離して大分県に帰属させ、今日の地域の福岡県が出来ました。

(2)福岡市の誕生と博多駅
 明治4年(1871)、政府は大小区画制(または、大区小区制)を採用し、福岡を「第一区」、博多を「第二区」としました。
 明治9年(1876)、福岡と博多を合併して、「第一大区」としましたが、明治11年(1878)、「郡区町村編制法」を導入しこれを「福岡区」と改めました。
 明治21年(1888)、「市制および町村制」が公布され「市」が出来ることになります。福岡区では「博多市」か「福岡市」か、市名に対する関心が急速に高まりましたが、翌22年、県令で「市名福岡市」と決定告示され、ここに「福岡市」が誕生しました。
 このとき「市」になったのは、九州では鹿児島・長崎・福岡・熊本・佐賀・久留米の6市だけでした。
 もともと博多側には「福博分離論」もあったようですが、「将来の発展に不利」ということで、大勢は「非分離」に落ち着きました。しかしこの後度々、「博多市」への市名変更問題が出てきます。明治23年(1890)、32年(1899)に市会(市議会)で市名変更の建議があり、昭和初期にも改称論が出るなど長く尾を引きました。
 市制施行年に開通した鉄道の駅名が「博多駅」となりましたが、福岡と博多の微妙なバランスのもと、「福岡市」と「博多駅」、どちらも残ることになります。

(3)郡部の様子
 明治22年(1889)、「市制および町村制」の実施により郡部にも再編の動きが出ます。
 旧制の町村を改廃し、最も密接な町村を合併して1つの自治体とし、町または村の名を付け、旧町村名は大字として残しました。この結果、早良郡は西新町・鳥飼村・姪ノ浜村・原村・樋井川村・田隈村・残島村(能古島)・金武村・山門村・入部村・脇山村・内野村の12町村に整理統合されました。
 この再編により、鳥飼村(別府はもともと鳥飼村の枝郷です)は谷村、福岡区西町の一部と合併しました。

図1 大正7年刊「九州の中心 福岡市大観」の巻末付図の一部・早良郡鳥飼村周辺
    (注)鳥飼八幡宮は、もともと鳥飼村の中にありましたが、黒田長政が西町へ移したそうです。

その後大正から昭和初期にかけて、ほとんどの町村が福岡市へ編入されることになります。

(4)共進会・博覧会とインフラの整備
明治15年(1882)、長崎県主催で第1回九州沖縄八県連合共進会を開催し、以後、鹿児島、熊本、佐賀と続くことになります。
 明治20年(1887)、福岡県主催で東中洲を会場に第5回九州沖縄八県連合共進会を開催します。これが東中洲発展の契機となりました。
  明治43年(1910)、天神地区で第13回九州沖縄八県連合共進会が開催されました。 会場は、「佐賀堀の埋立地」が中心で、因幡町(福岡市役所付近)の一部に本館などを建築しました。(関連記事:2.4 福岡学園と中村学園大学
これに合せて、市内電車が、医科大学前・西公園間(貫線)、呉服町・博多駅間(呉服町線)で営業を開始しました。当時、神戸以西で最初の市内電車で、以後これらの市内電車は、市民の貴重な足になります。

図2 明治23年林芹介発行、福岡市明細図の一部・中央区周辺(福岡県立図書館所蔵)

図3 明治41年高田書店発行、最新実測福岡市街図の一部・中央区周辺(福岡県立図書館所蔵)

  昭和2年(1927)大堀を埋立て整備して、東亜勧業博覧会を福岡市主催で開催しました。

図4 昭和2年都市計画福岡地方委員会発行、福岡市及び周辺図の一部・中央区周辺(福岡県立図書館所蔵)


  この博覧会を契機として西南部の耕地整理が進展し、同時に市内電車の城南線(渡辺通1丁目-西新町間)も開通して、薬院、六木松、鳥飼方面の発展を促しました。



(5)西南部の耕地整理と市街地の開発
  市勢の進展につれ市街地周辺の開発も活発になってきましたので、市は「耕地整理による土地の利用促進をはかる(要するに、無秩序に開発が進まないようにする)」ため、大正11年(1922)に福岡市西南部耕地整理組合を設立しました。
  施行区域は渡辺通りの電車道から、薬院、六水松、鳥飼を経て西新町に至る広大な地域で、市街地に隣接する耕地や山林に、新しく道路を作ったり、既にある道路を作り直したりして、将来の発展に備えようとするものでした。

  この都市計画とも言える事業は、大正12年(1923)に起工し、約4ヵ年後の昭和2年(1927)4月に完工しましたが、市内電車の城南線を中心に道路網も整然と配置され、これにより西南部地域は新市街地としての開発が進むことになりました。


図5 昭和17年福岡協和会発行、最新福岡市地図(福岡県立図書館所蔵)
  (注)この地図は、市電・国鉄の路線がバランスよく収まるように作られていますので、少し歪んだ部分があります。

(1)高等小学校 戦前の初等教育は「尋常小学校(1年~6年生、厳密に言うと明治40年(1907)以前は4年生までです)」で行いましたので今と同様ですが、戦前の中等教育は少し複雑です。(ただし、義務教育は尋常小学校まででした)
 大雑把にいうと今の中学1年~2年生(明治40年以前は、小学5年~中学2年までです)に相当する「高等小学校」と、今の中学1年~高校2年生に相当する「旧制中学校(男性)」、「高等女学校(女性)」、「実業学校」等に分かれていました。
  戦前は貧しい家庭が多かったので、家が貧しくて旧制中学校などに進学できない子どもは、尋常小学校、または高等小学校から就職したようです。それでもなお進学したい生徒は、高等小学校から、学費が免除の師範学校(中3年~高3年生)や軍関係の学校などに進学し、教師や軍人になりました。
  かって別府の近くにも、その高等小学校の1つである「草ケ江高等小学校」がありました。

図6 明治35年大日本帝国陸地測量部発行、福岡の地図の一部・別府周辺

 明治32年(1899)に西新町・鳥飼村・樋井川村の3町村が、学校組合を作って「草ケ江高等小学校」を設立し、鳥飼村が福岡市に合併される大正8年(1919)まで、20年あまり存続しました。
  「30周年記念誌」に、草ヶ江高等小学校に関して以下のような記事がありますので紹介します。
< 草ヶ江高等小学校には兄達に連れられてよく遊びに行ったものであるが、校舎の北側(高台の北突端)と南側が運動場になっており、南向きの正門から校内(運動場)へ入って右側に行けば鉄棒(昔は器械体操といった)のある広い砂場があるのでいつもその砂場で遊んでいた。   この砂場の東側、運動場の端の方には大きな栴檀(せんだん)の木があったのでその木蔭に行っては落ちた栴檀の青い実を拾って遊んだことも覚えている。
 また、運動場の西側には小高い所があり大きな松の木が四・五本生えていた。そこには今別府の天満宮境内に祀ってある五穀神(社日様)が祀ってあったことも記憶に残っている。
     この草ヶ江高等小学校は早良郡鳥飼村と福岡市の合併により、大正8年に廃校となったので私達はこの学校に学ぶことなく鳥飼にあった福岡県女子師範学校附属小学校の高等科男子部(新設)に進学することになった。>(2)別府が属する学校区の変遷  別府が属する学校区は、以下のような変遷をたどります。        

参考: 戦前の別府近隣の学校群

赤丸は、尋常小学校(小1~6年)、高等小学校(中1~2年)、または国民学校初等科・高等科青丸は、旧制中学校、高等女学校、実業学校(ともに、中1~高2年)、師範学校(中3~高3年)緑丸は、旧制高等学校、専門学校(ともに、高3~大2年)、高等師範(高3~大4年)

 図7 昭和17年福岡協和会発行、最新福岡市地図の一部・西南部(福岡県立図書館所蔵)


(1)耕地整理後の新町名(昭和6年(1931)頃)
  周辺町村を順次併合してきた福岡市は、大正12年(1923)6月に西南部の耕地整理に着手しましたが、旧鳥飼村の属する第三区・第四区は昭和6年に至ってようやく進められ、以下の新町名が決まりました。

図8 昭和17年福岡協和会発行、最新福岡市地図の一部・別府周辺(福岡県立図書館所蔵)

(2)町界町名の整理(昭和37(1962)~46年(1971))
  土地の区画整理により新たな町名は決まったものの、それは全市的な視野にたって行われたものではなく、行政の区画としては不適当なものでした。市はこれを是正するため、昭和34年度から町名町界の整理事業を始めました。
 (注1)住居の表示方法としては、主要道路で囲まれた街区をもって町を構成する「街区方式」と、主要道路の両側に面するか、あるいはその道路に通ずる道路を有する家屋・建物などにつける住居番号と、その道路の名称を用いて住居を表示する「道路方式」とがあります。
  (注2)余談ですが、福岡市は「街区方式」を採用しましたので、(道路方式に近い)太閤町割りに基づく博多の「」は、町との整合性が無くなり廃されることとなりましたが、地域共同体における必要性から、最終的に再編されることになります。

  春吉・高宮方面から新町名の改称作業を始め、草ヶ江・鳥飼方面については昭和38年(1963)6月15日に、別府・田島地区については昭和46年(1971)7月1日に実施されました。

図9 改称直前の町界町名(福岡市資料より)

図10 改称後の町界町名(福岡市資料より)



 現在の中村学園大学の所は、昔は丘陵地帯であったのを切り崩し、六本松から荒江・原に通る道幅7mの道路を作ったということです。
 また切り出した土は、明治43年(1910)の第13回九州沖縄八県連合共進会のときの「佐賀堀の埋め立て」に使いました。線路を敷いて、機関車軌道車(小型の煙突の太い汽車)で運んだようです。

 県道も出来ましたが、切り拓いた場所に「福岡学園」も設置しました。 明治42年(1909)12月、本願寺派仏教会・萬行寺住職の七里順之氏が院長、戸田大叡氏が副院長で、福岡県代用感化院福岡学園(定員30名)が、土取り跡の県有地に設置されました。
 「感化院」とは今の「少年院」で、不良行為をした児童や、生活指導が必要な児童を入所させ、矯正教育指導を行い、その自立を支援するところでした。
 この施設の収容者達は、外部との接触は殆んどなく宗教を主とした教育を受け、監視付で広い農園(今の中村大学本館のある場所)の作業に精を出していました。
 昭和3年(1928)には福岡県立福岡学園となり、副院長の戸田大叡氏が初代園長に就任されてからは、部外者の出入も多少緩和され、何かの用事があれば学園に入れるようになりました。

 その後定員も200名となり、昭和29年(1954)からは、城西中学と鳥飼小学校の草ヶ江分校が学園内に設置されました。この福岡学園は、現在の福岡市城南区別府5丁目(旧、福岡市草ケ江本町2丁目)にありました。

図11 昭和17年福岡協和会発行、最新福岡市地図の一部・別府周辺(福岡県立図書館所蔵)

昭和41年(1966)3月、福岡学園は筑紫郡那珂川町に移転し、その跡地に現在の中村学園大学ができ、今日にいたっています。

 別府の住民たちの「福岡学園の記憶」は、下記のようなものでした。

 ・国道202号線の南側に有刺鉄線で囲われた、広々とした福岡学園の畑と池があった。
 ・東側は、現在の別府交番署の敷地までが福岡学園の畑であった。
 ・国道202号線の北側は、現在のサンリヤン別府駅前のマンションの敷地(別府3丁目7-10)も、福岡学園の畑であった。
 ・一日の正課を終えた園の生徒達は夕食時までいつも剣道の稽古に励んでいた。
 ・町内の運動会を福岡学園でしていた記憶がある。
 ・小学校の頃、福岡学園から脱走者が出て大騒動していた怖い記憶がある。
 ・福岡学園の生徒が、5~10人組になって農園にブドウを盗みに来ていたので、夜警3人ほどで警察に突き出したことがある。

  (注)時代も変わり平成6年の「子どもの権利条約批准」を受け、福岡学園は平成10年に「救護院」から「児童自立支援施設」と名称を変更しました。
     施設機能も「救護する」から「個々の児童の状況に応じた必要な指導を行い、自立を支援する」に変わっています。子どもを「権利の主体」としてみるのが大きな変化のようです。


  別府には「太閤道」があります。太閤秀吉(豊臣秀吉)が朝鮮役の時、博多から本陣(ほんじん:戦場で大将がいる場所)が置かれている名護屋城へ往来した道で、六本松から樋井川を渡って中村学園大学の裏手を抜け、城南中学校の前を通る旧道がそれだといわれています。
 六本松までのルートははっきりしませんが、別府橋から先(生の松原へ行くルート)は、下の地図の青い線で示した道で間違いなさそうです。(中村学園大学の裏の破線が本来のルートらしいですが、今は通れませんので、今ある道を実線で繋いで歩けるようにしました。)

  図12 太閤道と別府橋通りのルート図

 現在、「中村学園大学」の前を通って「荒江(旧荒江四ツ角)」方面に向かう国道202号線があります。昭和54年(1979)に「別府橋通り」という愛称がつけられましたが、「太閤通り」という案もあったそうです。

  (注)福岡市では、市内の主な道路に「愛称」を付けています。それによると「別府橋通り」は正確には、国道202号線のうち「荒江~赤坂3丁目」までです。

 下は、明治35年(1902)の地図ですが、この地図には「別府橋通り」がありません。(同じく、青い線が「太閤道」です)

 
図13 明治35年大日本帝国陸地測量部発行、福岡の地図の一部・別府周辺

 この地図ができた明治35年もそうですが、太閤さんの時代は、今の中村学園大学の辺りは丘陵地帯で、更にその先は田圃(たんぼ)だったので、人が通るような道はなかったのです。

 (注)「逢坂」という場所は、太閤道と旧早良街道(七隈の丘陵地を南北に通る道)の交差点です。別府橋通りと同様、この時代はまだ、今の早良街道も出来ていませんでした。
    後に早良街道が出来ると太閤道との交差点ができますが、それを「荒江逢坂」と呼んでいます。   逢坂の手前からみた別府方面(昭和30年頃)。右端の煙突は福豊炭鉱。



 では、別府橋通りはいつ出来たのでしょうか? 「別府郷土史研究」に、「明治40年(1907)代に県道の建設が計画された」という記事があります。その記事によると、「現在の中村学園大学の所は丘陵地帯であったのを切り崩し、六本松から荒江・原に通る道幅7mの道路を作った」ということです。
 この道がいつ出来たのかははっきりしませんが、少なくとも「昭和4年(1929)の地図」には、その県道(緑の線は、昭和4年までに、新しく作られた県道などです)が見えます。 (注)下の地図に、原(別府原)の地名が見えます。

図14 昭和4年大日本帝国陸地測量部発行、福岡西南部の地図の一部・別府周辺

 毎年、12月最初の日曜日に行なわれる「福岡国際マラソン選手権大会」では、スタート地点の平和台から西区姪の浜を通り、福重から国道202号線に入って、別府橋通りを走ります。
 小田部大橋が前半11km過ぎの、また別府大橋が15km過ぎの難所になっています。
図15 福岡国際マラソンのコースマップの一部(「福岡国際マラソン選手権大会ホームページ・コースマップ」より転載)



 昭和30(1955)~50年(1975)にかけて、ここは市内有数の渋滞スポットでした。
 昭和40年代(1965年頃)、別府2丁目(現在は、別府駅前)からバスに乗ると、隣の別府橋のバス停に着くまで、ラッシュ時にはごく普通に45分はかかっていました。(帰りも同じです)

 以下「別府郷土史研究」の記事も参考に、「別府橋の歴史」を見てみます。
< 別府橋は別府の橋と呼び、昭和10年(1935)頃にコンクリート橋になるまでは土橋で、欄干もなく橋の両側には草もはえていた。道幅は三間(6m)あるかない位で、馬車が通る時はゆれて、歩いている者は恐ろしいくらいでありました。
 大正から昭和の始めまでは、橋の下の橋桁に道木を渡して、漬物大根が干してありました。樋井川は水もきれいで、井堰の下では水泳もでき、子供たちは勿論、大人も馬の水入れと共に泳いでいる人もありました。>

図16 大正時代の別府橋(「30周年記念誌」より転載)

< この県道(原-東警固線)は、早良郡方面の村々から福岡市中への交 通の中心でしたので、農家の肥汲車(馬車)が朝は3、4時頃からガラ ガラと冬前は木炭を積んだ車力や馬車が通り、年末になると七五三縄(しめなわ)売りの人が続いて、狭い道路は大いに賑ったものでした。>
< 大正13年(1924)、北九州鉄道が開通して ・・・ この道路に踏切ができました。初めは回数も少なかったが、昭和12年(1937)国鉄となる頃からは交通量も多くなり、踏切による渋滞は目にあまるものがでてきました。>

< 電車通りが馬車の通行を禁止したこともあって、この道路が市中で一番交通量の多いことで有名になっておりました。肥汲車の馬車の車輪が鉄の輪からタイヤに変ると、音は静かになったものの、こんどは馬車に替ってトラックが増え始めました。この肥汲車は農家が耕作の肥料として使っていたもので、農家としてなくてはならない、とても貴重なものでした。>
 昭和27年(1952)4月、西新から荒江四ッ角を廻ってこの道を通り、国体道路経由で博多駅へ行く西鉄バスが、1時間に1本ぐらいで運行を始めました。
 昭和35年(1960)4月に西鉄の飯倉営業所ができる頃にはバスの運行本数も多くなり、混雑はますますひどくなりました。
 ここは「筑肥線の踏切」と「別府橋」の2箇所で渋滞しますので、ラッシュ時には別府2丁目から隣の別府橋まで、歩いた方がマシでした。
 この踏切は鳥飼駅に近いので、上り電車がホームに入った途端に遮断機が降り、通過するまで開きません。下り電車・貨物列車などを入れると、踏切が閉まっている時間は相当なものでした。ラッシュ時に待たされる側としては、しいて分ければ「踏切を通過するのに30分」、「別府橋を渡るのに15分」くらいの感覚でしたでしょうか。

 昭和39年(1964)から県道の拡張工事が始まり、昭和44年(1969)9月、まず別府橋が架け替えられました。幅25mで、交通信号も取付けられ、このため「かえって渋滞する」と言う運転手もいました。樋井川方面からの車の混雑は大変なものでした。

 昭和45年(1970)7月30日、筑肥線を跨ぐ別府大橋がようやく完成し、「踏切」に泣かされることはなくなります。工事費は2億6千万円、延長420m道幅も以前の3倍以上に拡げられて、1日3万2千台の通行量をさばくこととなりました。

写真1

 別府大橋の完成により「踏切」での渋滞が解消されると、202号線の交通量が更に増え、「別府橋を渡る時間」は、以前よりもかかるようになりました。
 別府大橋の完成が別府橋の渋滞を大きくしたのは皮肉でした。別府2丁目・別府橋間は、ラッシュ時にはまだ「バスで30分」近くかかっていたように思います。
 「別府橋」の渋滞の原因は、荒江・原・茶山方面(青の線)から202号線を上ってきた車と、昭代・鳥飼駅方面(茶色の線)から来た車と、油山・長尾・堤・片江・福大方面(赤の線)から樋井川を上ってきた車の3方面からの車が、この橋で合流するためです。
 また当時はまだ「バス専用レーン」が施行されていませんでしたので、バスの間に車が割り込んだりして、混雑を更に拡大していました。

    図17 別府橋周辺の道路のルート図(緑の線は、昭和46年以降にできた道路)

 従ってこの交差点の渋滞の解消は、「油山観光道路の開通」により油山方面からの車が分散されるのと、「バス専用レーン条例の施行」まで待たなければなりませんでした。
 現在は、地下鉄七隈線の開業により茶山方面からのバス便が減少したことと、筑肥新道・都市高速が開通したことなどにより、渋滞は更に緩和されているようです。

  昭和58年(1983)3月22日、筑肥線が姪浜駅で市営地下鉄空港線と相互乗り入れを始めたのに伴い、筑肥線の姪浜駅-博多駅間(鳥飼駅を含む)は廃線になりました。

写真2 昭和45年(1970)頃、別府大橋開通後に陸橋から撮影した筑肥線。この写真は中村博氏のホームページより転載しました。
筑肥線の(今)昔写真集」 
写真3 平成25年(2013)、同じ場所から撮影。線路が道路に、鬱蒼とした木立がコンビニとマンションに変わっています。



 福豊炭鉱については、福岡大学経済学部の永江眞夫教授がまとめた「戦後復興期における福岡市内の零細炭鉱─三戸鉱業福豊炭鉱・田島炭鉱の事例─」に詳しいので、主にその抜粋、編集で紹介します。

(1)福豊炭鉱の歴史
 昭和20年(1945)代の戦後復興期に、エネルギー源を確保するため国策として石炭の生産を奨励していました。そのような状況の中、福岡市のような都市部においても、炭鉱の開発が行われていました。
 この時期、福岡市域内には早良鉱業、西戸崎炭鉱、月隈、府内筑紫、福豊・田島の5つの炭鉱がありましたが、後の3つは、年産1~2万トンという零細規模の炭鉱で、その何れもが昭和31年(1956)から35年にかけて石炭鉱業合理化事業団に売却され、閉山しています。開坑から閉山まで10年前後という短命の炭鉱でした。
 昭和24年(1949)7月、三戸章氏は個人経営の三戸鉱業を設立し、別府市の旅館業者である二宮佐久間氏から福豊炭鉱の経営を引き継いだようです。
 直後に朝鮮戦争が勃発し、しばらくは好調な時期が続いたようですが、結局昭和33年(1958)に閉山することになります。

写真4 福豊炭鉱での運動会の様子

 福豊・田島両鉱の閉山に関しては、「福豊炭鉱が、自然条件の悪化(注)から33年7月に閉山し……34年6月には出水事故で田島炭鉱が……閉山し」とされています。

  (注)「昭和32年頃から炭況が悪くなり、・・・それが経営にも影響し」とい  内容の記録があります。エネルギー源の需要が、石炭から石油へ移った影響が出ているようです。

 福豊炭鉱があったとされる場所は、現在炭鉱の跡形もなくびっしりと住宅が建っています。炭鉱跡地の住宅地としての売却は、高度成長期における福岡市の都市化に伴う同鉱周辺の人口増加の波に乗ったもので、それは閉山にかかる費用負担を軽くし、三戸氏に有利に働いたものと思われます。
 また、田島炭鉱の跡地は三戸氏の経営する自動車学校(現マイマイスクール)の敷地として再利用され、新たな事業展開の基盤を提供することになりました。

(2)福豊炭鉱の位置
 福豊炭鉱は、福岡市の西部にあたる旧草ケ江本町から旧大字田島にかけてありました。
 「字図」、および「昭和46年(1971)の地図」を見ると、旧田島と草ケ江本町1丁目(現在は別府2丁目と田島2丁目)との境が炭鉱地域の北限(一部、住宅を除く)、菊地参道(現在の城南学園通り)が西端となっており、南端付近には鉱主の三戸章氏の住宅がありました。
 坑道は本坑が東向き(樋井川方面)に、第三坑が南(田島方面)に向かっています。また、図には坑道として示されていませんが、採掘範囲は同鉱敷地から北側へ、草ケ江本町方面へも広がっていたと思われます。

 (注1)「昭和27年(1952)8月、草ヶ江本町1・2・3丁目の地下の石炭採掘に 関し、当時の福豊炭坑代表者 三戸章氏と、草ヶ江本町居住者代表 町世話人・筒井猶勝氏(戸数220戸余)、立会人・当時の市議会議員、深沢充氏にて、本町地下石炭採掘の件、承認の契約書を取りかわしています。
 (注2)地下の石炭採掘については、別府3丁目(旧草ケ江本町3丁目)の永田文城 氏に以下のようなお話を伺いましたので、それを紹介します。
     -我が家の住所は、草ケ江本町3丁目108番地であったので、石炭採掘の 地域であった。
     -地下が掘削されていくため地盤が沈下し、家が傾き、壁にひび割れが生じ たり、襖や障子など、柱との間には隙間が出来ることが度々であった。
     -その都度、福豊炭鉱から派遣された大工さんが、補修工事に訪れ、家屋や 部屋の修理をして頂いていた。

図18 福豊炭鉱・字図( 昭和35年(1960)作成。左が北方向)

 福豊炭鉱の字図を旧町名が残る「昭和46年(1971)の地図」上に表示すると、下図のようになります。

図19 昭和46年国土地理院発行の地図を元に作成した福豊炭鉱の位置


 
 菊池神社へ通じている道という意味だと思いますが、「城南学園通り」は昭和のある時期まで、「菊池参道」と呼ばれていたようです。
 菊池神社は、鎌倉時代末期の肥後の武将・菊池武時を祀る神社で、武時公の墳墓の地(胴塚)と言い伝えられており、神社の「由来書」では以下のように紹介されています。

 <元弘三年(1333)、後醍醐天皇の命をもって九州博多の地にあった九州探題北条英時を討つため、一族百数十騎を率いて錦の旗を春風に翻し肥後の國菊池を出発し、三月十三日未明より筑前博多の在所々を攻め始めるが、同盟を交わした大友貞宗・少弐貞経は武時公が知らない内に北条方にねがえっていたため全く動く気配がありませんでした。
 それを知った武時公は「日本一の不義者に頼った事が自分の落ち度であった」と大友・少弐の加勢がなくとも北条軍を討つことを決意し、大いに奮戦の後北条軍を散々苦しめ、北条英時ももうこれまでと覚悟してまさに自刃しようとしていたその時、大友・少弐の軍勢千騎あまりが菊池の軍の背後より攻めこんできました。
 それを聞いた武時公は『万事休す』と天を仰ぎ、嫡子の武重を側に呼び「お前は菊池 に戻り城の守りを固くし、再び兵を挙げる時を待て」また「これを持ちかえれ」といって『故郷に今宵ばかりの命とも 知らでや人の我を待つらん』という一首の和歌を衣の袖にしたためて武重に渡し菊池に帰しました。
  (以下、省略)>

  (注)鎌倉幕府が滅亡し「建武の新政」が始まるのは、この事件から3ヶ月後のことです。
     福岡市営地下鉄の建設工事中に、200余りの遺骨が出土し、このとき処刑された菊池武時軍のものではないかという報道がありました。
     「九州探題」は櫛田神社の近くにあったそうです。

 また神社建立の経緯は、神社入口の「立て札」が簡明なのでそれを紹介します。
  <天保2年(1831)、菊池氏の子孫で福岡藩士城武貞が墓碑を建立、翌年に没後500年祭を挙行しました
   明治2年(1869)、最後の福岡藩主黒田長知が、その忠勤をたたえこの地に社殿を建立しました。>

 一方、城南学園通りは「福岡市の道路愛称」で以下のように紹介されています。

  < 区間  城南区中村大学前交差点~城南区福大病院東口交差点
    延長  3.2キロメートル
    路線名 市道地行鳥飼七隈線
    決定年 平成21年(2019)(市制施行120周年記念)
    理由  平成17年(2015)度に城南区で「城南学園通り」に愛称を決定し、 定着していた。>
 写真5 昭和14年(1941)の航空写真(2枚の写真を貼り合わせましたので、左端の方にズレが生じています)



2.9 福岡市の災害

(1)昭和20年(1945)・福岡大空襲
 終戦間近の昭和20年6月19日、福岡は米軍の大空襲を受けました。
 午後11時過ぎ、B29爆撃機の編隊が福岡上空に姿を現し、次々と焼夷弾(しょういだん)を落としました。
 「八幡や大牟田のように大きな工場がない福岡を、爆撃するはずがない」と警戒心が薄かった市民は、虚を衝かれすっかりパニックです。焼夷弾は空中で割れ、中から鉄製の筒がパラパラと落下します。地面や建物に落ちると油脂ガソリンが飛び散り、あたりの家屋は炎に包まれました。死傷者は2千人に達したということです。

写真6 福岡大空襲

 別府公民館が平成3年(1991)に纏めた高齢者教室生文集「紅梅・白梅」に、別府1丁目の藤村イツエさんがこのときの様子を投稿されています。 手記(藤村 イツエさん)

 昭和20年6月19日、母が病気でお座敷に蚊帳(かや)を吊って休んでおりました。妹が、4才と3才の子供を連れて京城より引き揚げ、私も4才の息子がいて、家の中が騒がしく母の病気が気にかかり、明日、九大に診察に連れて行くつもりにして私は妹の下の子を背負って婚家の若久へ急行電車に乗り高宮駅下車、照りつける炎天下をトボトボと歩いて送って行きました。帰途、六本松の原田医院により薬を貰って8時半頃帰宅。
夕食、入浴とやれやれした時、空襲警報か凄く不気味に鳴り響きました。

 B29の爆音・・・ハッと東を見ると二十四聯隊(今の平和台)が真っ赤に燃えています。アレッと思って日頃の防空訓練にのっとって貴重品を身に着け、防空頭巾をかぶり母を起こし、昌弘を末妹に預け、下の屋敷に避難させた途端、表の納屋の屋根に焼夷弾が・・・(この納屋は別府の防空訓練の集会所になっていましたし、また親戚の疎開の荷物をたくさん預かっていました)隣の岡村辰己さん(当時防空訓練の隊長さんでした)が
走って来てくださり梯子(はしご)を登り水槽よりバケツで水を運び一生懸命に消しました。
 やれやれと裏に廻り釣瓶(つるべ)で井戸水をくみ、次の準備に取りかかった時、爆音と共にザーザーと暗闇の空から火が降って来て地面はまるで・・・地獄の阿修羅の火の海とはこの事かと思いました。その時、妹が母と昌弘を引きずる様にして下の屋敷(今の味園さんの所)から駆け上がって来ました。もう家より物より命と思い、私は息子を背負って、とうとう門を出て、横の畑に上がりましたが、カボチャ畑の藁(わら)に火が付
いて燃え上がり、立ってもおれず横の細道を走り、今の大蔵不動産(当時、両側が藁屋根でしたので火の海)を通り越すのがやっとの事・・・逃げ走る人が「防空頭巾に火が付いていますよ」と教えて下さいました。慌てて頭巾を取りバタバタと地面に叩きつけて、やっと消しました。ドローとした油、なかなか消えません。手にちょっとでも付くとベタッとして火傷する程の強い火です。私は背負った息子を焼かなくて良かったと思い、教えて下さった方に心から感謝せずにはおれませんでした。

 別府の藪の下を通り、今のトクナガインテリヤ(当時は全部田圃(たんぼ)でした)まで逃げのび、そこで母と妹と会い無事を喜びました。何回もB29が旋回して来て、生きた心地は無く、朝四時頃、しらじらと夜が明けると共に、飛行機の音もようやくとだえた様で、やっと一息つき、とぽとぽと我が家に帰り門の前に立った時、すっかり力が抜けてしまいました。
 母屋、納屋、蔵、すっかり焼け落ちて、まだ熱くて寄り付きも出来ぬ有り様でした。食事の箸、茶碗は勿論、身の廻りの品が何も無く、すっかり丸裸です。戦地の主人に申し訳無いと、悲しく思いましたが、これも戦争の為、仕方の無いことだと思い直し、とにかくこの子を大事に、頑張ろうと思いました。この強い刺激で母の病気も何処えやら、一応元気になりました。
 あれから四十六年、息子は五十才、私は七十五才、まるで夢のようです。
 お陰様でこの息子夫婦に守られて、毎日を楽しく過ごす事ができ、心から有り難く思いますと共に、何時までも世の平和を祈って止みません。
 1991年10月
 また、別府3丁目前町内会長の永田文城氏にも、空襲・防空壕の話を投稿いただきましたので掲載します。 手記(永田 文城さん)

 昭和20年6月19日の真夜中、福岡大空襲で福博の街はB29の爆撃で炎上し、焼け野原になってしまいました。

 私が、草ヶ江国民学校2年生の時、この防空壕に避難した時のことを思い出すと、夜中に家族揃って避難していた時、父親が福博の街が焼夷弾の爆撃で炎上している光景を見せようとして、私を防空壕の外に連れ出しました。防空壕は、小高い赤土山の側面に横穴式に掘られた防空壕でした。
 東の方角の夜空を見上げると、探照灯の光線や、街が炎上して赤く染まった夜空を見ると怖くなり、泣きながら防空壕へ戻って行ったことを思い出します。

写真7 防空壕前での家族写真       写真8 防空壕の位置   

 この写真は、その防空壕の前で家族揃って撮った写真ですが、戦時中の物のない時代に、ましてカメラなど滅多にない時に、何故あったのか不思議でしたが、その理由を、兄の重文から聞かされました。

 この写真は、兄が城西高等小学校(現在の城西中学校)2年の途中(当時14歳)に志願して予科練に入校し、寂しさのあまり家族の写真を送ってくれるように父親に懇願した為に、父親がカメラを待った知人に頼んで、防空壕の前で撮った写真を現地へ送ってもらったという話を聞きました。
 終戦後、復員してきた兄が持ち帰った写真を、3女の姉が写真帳に貼り付けていたものを切り取って提供した写真です。

 この度の『別府公民館創立50周年記念誌にこの防空壕前で撮った写真が掲載されることを、兄に話したところ、予科練に入校する時、皆に書いてもらった寄せ書きの日本の国旗があることを知り、貴重なものと思い写真を撮り投稿いたしました。
 寄せ書きには、父 重次郎、母 フミ、そして私 文城の名前のほかに、当時の草ヶ江本町の町内会長・東貞太郎様には、『虎』の絵と『栄えり輝く若桜』、城西高等小学校の先生に『祝 永田重文君之出陣』、担任の先生には『今日よりはしこの御盾といでたつ若桜君がみのうえうらやまし』、そのほかには『敵国降伏』、『敢闘精神』、『武運長久』、『撃ちてし止まむ』等々、災難をのがれ無事に帰還することを願う寄せ書きが、親戚の者、ご近所の方、先生方々等の寄せ書きがあり、また2年4組の同級生ひとり一人の名前も書いてありました。

写真9 予科練入校時の寄せ書き(昭和20年1月入校、昭和20年8月15日終戦)

(2)昭和38年(1963)・大水害

 昭和38年6月30日、未明からの集中豪雨のため、柏原川・室見川・駄ヶ原川・片江川・樋井川・七隈川・那珂川・金屑川などの堤防が決壊したのをはじめ、宇美川・御笠川・野間大池などがはん濫しました。
 このため、警固、薬院、平尾、草ヶ江、鳥飼、高宮、野間、永田町、梅光園、竹下、室見、名島などでは、家屋が床上まで水浸しとなって甚大な被害を受けました。
 この水害の特徴は、短時間の局地的な集中豪雨によって中小河川の決壊や氾濫が起こり、被害を大きくしたことです。特に宅地開発が進んでいた「樋井川流域」が、甚大な被害を受けました。
 なお翌7月1日は各学校とも、水害のため臨時休校になりました。

写真10 別府団地の浸水の様子

 その後、平成21年(2009年)7月24日、九州北部を豪雨が襲い、樋井川中流域の城南区田島一帯などでまた、172棟が床上浸水、238棟が床下浸水しました。
 これを受け福岡県は「樋井川床上浸水対策特別緊急事業」という事業名で、平成22年度から平成26年度の5年をかけて「樋井川の川づくり」への取り組みを行っています。


(3)昭和53年(1978)・大渇水

 異常気象によるダム貯水量の低下に伴い、制限給水を実施。
  (詳細は「40年記念誌」にありますので、流れだけを記載します。)

写真11 カラカラになった南畑ダム

  昭和53年
     5月22日、9時間給水を開始したが、すぐに5時間給水に
           突入。
     6月11日より16時間給水に緩和。(水源事情が好転したため)
     9月 1日より6時間給水を実施。
              (台風が、本市を避けたため水不足に)
    11月 1日から7時間給水に緩和。
              (各ダムに回復の兆しが見えたため)
    12月 1日からは9時間給水に緩和。
    12月20日からS54年1月10日まで全面給水を実施。
              (新年を迎えるため、一時的に解除した。)
    翌1月11日からは9時間給水に戻す。
  全ダムの平均貯水量が回復したため、昭和54年3月25日、287日に及んだ制限給水を解除。

写真12 別府団地での給水の様子

(4)平成17年(2015)・福岡県西方沖地震
 平成17年3月20日午前10時53分頃、福岡県西方沖を震源とするマグニチュード7の地震が発生し、福岡県の福岡市(東区、中央区)、前原市及び佐賀県みやき町で震度6弱を観測したほか、九州北部を中心に九州地方から関東地方の一部にかけて震度5強~1を観測した。
 その後、この地震を本震とした余震活動が続き、4月20日06時11分頃に最大余震マグニチュード5.8が発生し、福岡県の福岡市(博多区、中央区、南区、早良区)、春日市、新宮町、碓井町で震度5強を観測した。

 震源地        : 福岡県西方沖(北緯33.7度、東経130.2度)
 震源の深さ    : 約9km
 規模          : M7.0

 福岡市の震度    震度6弱 東区、中央区
           震度5強 早良区、西区
           震度5弱 博多区、南区、城南区

写真13 都心の公園へ避難した人々(中央区天神)写真14 避難所となった九電記念体育館

(以上、福岡市のホームページ、「福岡県西方沖地震記録誌」より)
 福岡は、大きな地震もなく、住みやすい街と言われてきました。この様な大きな地震が起ることは、誰も予想していなかったようです。
 マグニチュード7の地震は、各地に大きな被害をもたらしました。道路のひび割れ、土砂崩れ、埋め立て地の液状化、屋根の破損、ブロック塀の倒壊、マンション壁の亀裂、ガスもれ、家屋内の家具や家電の転倒…。
 なかでも震源地近くの西区玄界島では、全225棟の家屋の8割が全半壊するなど被害は甚大で、ほぼすべての島民が、九電記念体育館に避難しました。
福岡市天神では、地上10階建てのビルのガラスが割れ、歩道に落下し通行人が怪我をする事態が発生しました。たくさんの買い物客は、不安な気持ちで街頭や公園などに集まり避難をしました。携帯電話は通じず公衆電話には長い列ができました。
また、2月3日に開業したばかりの市営地下鉄七隈線でも、車両が駅間に止まり460人あまりの乗客が車内に閉じ込められました。
 別府校区でも、家屋やブロック塀の破損、マンション壁の亀裂など、多くの被害が発生しています。

 別府小学校では、北側校舎への渡り廊下が破損し、通行止めの期間がしばらく続きました。その後、校舎の耐震診断が行われ、数年間に渡る耐震改修工事が行われました。 
 地震発生日は、3連休の中日で子供たちは登校しておらず、混乱が起らなかったことは幸いでした。 

 別府公民館の様子について、当時の職員の方にお話を伺いましたので紹介します。
 ・地震発生時にサークル活動などは行われておらず、大きな混乱はありませんでした。
 ・大きな地震だったので、不安になり慌てて外に飛び出してみましたが、あまり変わった様子はなく少し安心したのを覚えています。 
 ・その後、地域の方々が情報収集に来られたり、被害の様子を話しに来られたり、さまざまな対応に追われました。 
 ・役所からは、すぐに被害の確認や避難所開所について連絡がありました。 
 ・避難所開所~閉所まで、はじめての事で戸惑いながらの対応でしたが、地域の方々の協力もあり、無事に終息に向かうことができました。

  <別府校区・避難所の状況> 
    本震 3月20日(13:00) 避難所開所
       3月25日(17:00) 避難所閉所 合計避難者5名

                *避難所に泊られた方もおられ、まだ寒い時期でしたので毛布を増やしてもらいました。新聞やタオルの差し入れがありました。

    余震 4月20日(10:30) 避難所開所
       4月22日(14:00) 避難所閉所(公民館) 
                                         合計避難者11名
                *選挙のために城南市民センターに移動
       4月29日(12:00) 避難所閉所(城南市民センター) 
  <城南区役所調査・別府校区の被害届>
    本震(3月20日)
     ◦瓦の破損 4件 ◦ブロック塀の破損 3件 
     ◦道路のひび割れ 2件 ◦ガスもれ 3件 
     ◦温水器の破損 1件 ◦火災報知機の破損 1件
    余震(4月20日)
     ◦道路のひび割れ 1件

 別府2丁目の久我敦子さんに、地震発生時の様子を投稿いただきましたので紹介します。 手記(久我 敦子さん)

 今から9年前の3月20日午前10時53分、福岡・佐賀両県で最大震度6弱を観測した福岡県西方沖地震。
 我が家は父の初彼岸で、親戚がお彼岸のお参りに来ていた。お茶をお出ししようかとしている時、突然座敷の襖が揺れ家の柱と壁がきしむ音。
大きな揺れに立っていられない程だった。母は応接台の下に入るよう8歳の娘と姪っ子を押し込む。台所に居た妹と姪っ子は、食器棚から容赦なく落ちてくる食器やグラスに耐えながら食卓テーブルの下に避難。今、何か起こっているのか。これが地震と言われるものか。ほんの数分の出来事だったが何十分にも長く感じた。
 私はすぐ近所に住む叔母の事が気になり訪ねてみると、案の定屋敷を囲む煉瓦(レンガ)の塀は見事に崩壊しており、その片付けにかかっていた。
60年ほど前に煉瓦工場があり久我窯業として営んでいた我が家にとっても歴史を感じるものであった。片付けていると町内でも多くの方々が外に出て自らの体験を話す姿に心の平穏を保とうとしているように伺えた。
 娘や姪っ子たちは昼も夜も食事ができない程ショックを受けていたようだった。
 自然や災害に対してこうも無力であるものか。私たちは立ち向かう術(すべ)を持っていない。だからこそ、いつどこで災害が発生してもおかしくないのだと、意識しなければならない。
 1人死亡、約1.200人が重軽傷の福岡県西方沖地震。私たちはこの1人の死を決して無駄にしてはいけない。そして地域の連携をより大切に強い絆となることが、突然の災害に大きな力を発揮することとなるだろう。
災害は忘れたころにやってくる。今すぐ備えよう!

 平成26年3月24日



 昭和31(1955)年になると「もはや戦後ではない」といわれましたが、住宅はいまだに不足し、昭和30年の住宅事情調査によれば、なお約2万5千戸以上の不足が見込まれていました。
 この住宅の不足は一向に改善はみられず、加えて人口の増加が、これにさらに拍車をかけていました。このような状況のもと、団地の造成に注目が集まります。
 いわゆる「団地」には、市営住宅・県営住宅・公団住宅などがあります。
市営住宅が、比較的低廉な家賃の住宅を供給したのに対し、日本住宅公団が建てる公団住宅は、中高所得層向きの住宅を供給しました。
別府とその近隣には、別府団地、城西団地、荒江団地の3つの公団住宅があります。いずれも昭和30~40年にかけて建てられました。
 なかでも別府団地と城西団地は老朽化対策のため、平成に入って建て替えられ、今はともにアーベインルネス別府、アーベインルネス城西になりました。

  図20 別府近隣の団地の配置図

 別府団地は別府橋の南、樋井川のすぐ西側に広がる団地で、昭和34(1959)年に入居が始まりました。当時は726戸の団地でしたが、平成7(1995)年に建て替えられ、930戸になりました。
 この辺りはもとは田圃(たんぼ)でした。そして、周りより随分低くなっているので、樋井川が氾濫するといつも被害を受けていました。
 その土地を日本住宅公団が買い上げ、別府団地を造成しましたが、買い上げ単価は、外側が3,000円/坪、内側が2,000円/坪だったそうです。

 城西団地は別府橋通り(国道202号線)の北側に位置する団地で、昭和35年(1960)に入居が始まりました。当時は360戸で、平成10(1998)年に建て替えられましたが、こちらは建替え後もほぼ同数です。

 荒江団地は別府橋通り(国道202号線)を挟んで南北に広がる団地で、昭和40年(1960)に入居が始まった1014戸の団地です。
 国道202号線を挟んで、ほぼ同程度の規模で南北2つのエリアに分かれています。

 別府団地の様子について、別府団地幼稚園の納田研二園長先生と、団地が出来たときからお住まいの江口三百子さんに投稿いただきましたので紹介します。

 手記(納田 研二さん)

 昭和30年代に入り、高度成長期を迎え、テレビ・冷蔵庫・洗濯機の「三種の神器」と共に注目を浴びたのが「公団住宅」いわゆる「団地」でした。ニュースに取り上げられ、ドラマや映画の舞台にもなり、庶民のあこがれとなりました。
 その波は福岡にもおよび、その先駆けが樋井川を挟んだ梅光園と、この別府団地でした。とりわけ別府団地は東京・大阪並みのグレードを誇り、家賃の高さもあって入居者の質も高く、天神地区から見ると、当時は云わば「田舎」だったにも関わらず注目度は高かったようです。

 西鉄ライオンズのスター、稲尾投手、和田捕手のバッテリー、ルックスでミスターライオンズと言われた田中久寿男選手が早速入居、一流企業の福岡支社の転勤族が続々入居するなど、より一層別府団地のグレードを上げました。
 また、地元テレビ局のドラマ「露草のように」の舞台になり、主演の芥川也寸志さん、池内淳子さんが来て、大いに盛り上がりました。
 団地内には、郵便局と共に幼稚園があるという、当時では最先端の団地でした。

 昭和38年の大水害のときは幼稚園も床上浸水し、父兄が集まってピアノ等を動かしたことが思い出されます。

 平成に入って建て替えることになりましたが、解体が始まった時、鉄球での取り壊しが行われていました。高度成長期に入る前の景気が良い時に建設された建物らしく、なかなか壊れずにその強度に感心したものでした。
 幼稚園の前には給水棟があって、その地面の下がプールのようになっていたと記憶しています。給水棟の瓦礫でこのプールを埋め立てたように思います。
 幼稚園の園庭の先にはシュロの木があって、建て替えのときにこの木を切り倒してしまいました。しかし、公団によるとこの木は別府団地の象徴という認識であったので、その名残として幼稚園の横の4号棟前に3本立っています。


 手記(江口 三百子さん)

 別府団地は昭和34年に完工し、1~26棟まで720戸あまり、九州でのモデル住宅だったので各地から見学に見えました。いわゆる2DKの始まりでした。(1LDKや3LDKもありましたが・・・)

 入居者の中には、(当時の)西鉄ライオンズの選手の稲尾投手や田中久寿男さん等もいました。
 また、サークルの活動が活発で、今でいう「女性の会」「友の会」を立ち上げ、子供たちのお習字、絵画等、女性は生花、刺繍、レース編、お料理教室など、活気にあふれていました。

 それが平成に入ってからは老朽化が目立つようになり、平成5(1993)年頃から建て替えを始め、平成7(1995)年には、5階建てだった建物が今や14階、930戸になりました。
 すぐ横に流れる樋井川も自然のままでタンポポやレンゲ草等可憐に咲いていたのが目に浮かび、懐かしさ一入(ひとしお)です。
 あれから50年、若い方との入れ替えになり、最初の入居の方は本当にすくなくなり淋しい思いがしています。


2.11 四通八達の碑
  天神森に入ってすぐ目につくのが四通八達の碑です。四方八方に道が広がり発展していくのを願って建てられたものです。


写真16 四通八達の碑

 大正9年(1920)にこの附近(旧鳥飼村字別府)の道路改修工事が行われ、その竣工を記念して福岡学園長戸田大叡氏が撰文(碑文などの文章を作ること)し、この碑が建てられました。
 碑文には次のようなことが書いてあります。
< 別府の地は鳥飼の一部にして福岡市外の僻地にある。大正8年11月1日鳥飼邨(むら)を福岡市に編入し、高等学校(九州大学教養部)が (六本松に)新設され、漸くこの地が発展するきざしがみえてきた。
    ところがここの道路は東西に走る幹線(現国道202号線)があるのみで、他の道はみな細く、しかも高低・屈曲して交通の便が悪い。
    加えて東蓮寺の廃墟には墓石が点在し竹やぶや草むらが生い茂り、蛇やムカデが棲息するところである。
  里人は之を良しとせず、有志で相談して耕地を整理し、南北に通ずる新道を開墾し、この地を発展させようとした。大正9年9月1日着工し、同10年9月3日完成した。名付けて東蓮寺道と称す。(以下、省略)>
  碑の裏面には土地提供者やこの碑の設計者が刻まれています。土地提供者の寄贈により、今の安藤病院から天神森に抜ける道が出来上がりました。

  当初は別府団地の入口付近に建てられましたが、昭和57年(1982)3月、交通事情や倒壊の危惧等のため、現在の天神森へ移しました。
 碑文の冒頭に「世運の進否は一に交通の利不利にあり。故に一郷の繁栄を期せんと欲せば道路の四通八達を以て要とす」と記されています。
  別府がこれから発展していく願いを込められたこの碑を読むにつれ、住宅地が広がり地下鉄まで走るようになった今の様子を、当時の人々が目にしたらどんなに喜ぶことだろうかと思います。



 福岡市のホームページに「国勢調査の結果」があります。これをもとにここ10年の「城南区」と「別府」の変化から、「別府の現在」を見てみました。

(1)人口の変化
  行政区別の人口変化(1980年以降のデータを使いました。)


 他区に比べ南区・城南区の伸びが悪いのですが、別のデータに「人口/面積/人口密度」(平成22年度のデータ)がありますので、以下に転記して比較します。


  これを見ると南区・城南区とも古くから開発が進んでいる地域なので、人口密度は既にかなり高く、飽和していることが分かります。
(中央区の人口増加の理由は、後で検証します。)

  校区別の人口変化(城南区)
 「現在の学校区」に対応するデータは、2000年以降しか取れませんでしたので、その範囲で比較します。


 他の校区に比べ、別府校区の人口の増加が特に大きくなっていますが、その理由は「世帯数と住宅の建て方」の項で示します。

  20-24歳の人口変化(城南区)
 城南区は学生の街です。そこで学生に相当する年齢(20-24歳)の
人口変化を特に切り出して調べてみました。(ちなみに平成25年度の学生数は、福岡大学が約2万人、中村学園大学が約5千人です。)


 その結果、城南区全体としても「減少傾向」が見られますが、特に片江校区・七隈校区の落ち込みが激しいようです。
 これは、以前は大学の近くに「下宿・間借り」などをしていた学生が、地下鉄七隈線の開業により、自宅から通学できるようになったからだと考えられます。

(2)世帯数と住宅の建て方
  中央区の人口増加の理由(行政区別)
 下のグラフは「全世帯数に対する(団地、マンションなどの)共同住宅に住んでいる世帯数の比率」を、建物の総階数に応じて3段階に示したものです。



    データは1995年から示してありますが、2000年については該当するデータが
 ありませんでしたので、割愛しました。

  これを見ると、「中央区」のように「人口密度が高い地域」では、全世帯数に対する共同住宅の世帯数の比率、特に「6階建以上の共同住宅」の世帯数の比率が、年々大きくなっており、「共同住宅の高層化」が進んでいることが分かります。それが中央区の人口増加の理由だと考えられます。
 中央区はその大部分の地域で「建物の絶対高さの制限」がありませんので、特にこの傾向が顕著に表れます。(ただし、容積率、斜線制限、日陰規制などの制限は受けます)
  別府校区の人口増加の理由(学校区別)
 行政区別で示したグラフと同様のグラフを以下に示します。 (2000年以前のデータはありませんでしたので、2005・2010年のみを示し
  ます。)


 これを見ると中央区と同様、特に別府校区で「共同住宅の高層化」が進んでいますので、これが城南区の中では「別府校区の人口の伸びが大きい」理由だと考えられます。
 別府校区で「共同住宅の高層化」が進んでいるのは、「建物の絶対高さの制限」がない国道202号沿線を含むこと、交通の便(地下鉄別府駅、西鉄バスの本数など)が良いことなどが考えられます。
     

別府小学校生へのアンケートより

 別府公民館は今年、創立50周年になります。

 そういえば50年前、昭和39(1964)年の東京オリンピックが開かれた頃の別府はどんな様子だったか思い起こしてみて下さい。

 国道202号線はまだ道幅が狭く、別府橋の筑肥線踏切で慢性的な渋滞、雨が降れば泥んこ道で沿道の家屋に泥が跳ねていました。

 高い建物は別府団地や荒江団地程度で、マンションはまだ現れていませんでした。

 そして周囲には田んぼが多く残り、南部の丘陵地帯には木立ちが多く残り緑豊かでした。

 それから50年後の今や道路は広くなり、地下鉄まで走っています。

高層マンションも林立し、周辺の緑も減って宅地化が進んでいます。この50年間の変容ぶりは目を見張らせるものがあります。



 この時間の「物差し」を逆に未来へ伸ばしてみて、2060年代を生きる今の子供たちに「50年後」「自分たちが60歳を超えたころ」の別府を想像して書いてもらいました。

 以下は、別府小学校4,5,6年生(昨年12月時点)全員の460人に「50年後の別府はどうなっているでしょうか?」と聞いたアンケートの結果をまとめたものです。



<近代都市化>

 子供たちの回答で最も多かったのが「高層マンションが増える」が123人でした。

 同じように「高速地下鉄になる」「地下鉄がリニアになる」「空飛ぶ乗り物が走る」「動く歩道になる」など計83人が空想物語的な夢を描いています。

 さらに「別府でオリンピックがある」「空港が出来ている」など、50年後では実現しそうもない「夢のまた夢」のようなものもありました。



 こうした近代化の半面、「自然が減る」という心配も22人が示しました。同様にエコロジーに関していえば「電気自動車が増える」「ガソリンスタンドがなくなる」と、今の大人たちが志向している「脱石油」「環境」と同じ考えも持っているようです。

 子供らしいのでは「馬での通勤通学が増えている」「犬型ロボットが増えている」「マンションの屋上で風力発電している」など、大胆な“夢”も見られました。



<授業のIT化>

 一方、小学校生活については「授業、学習がアイパッドやタブレット、パソコンになる」(28人)、「鉛筆が無くなる」(4人)と見通していました。

 別府小学校自体も「建て替わる」「全教室にエアコンが付く」が目立ち、この流れは現在の動きを捉えた現実的で期待を込めたものでしょうし、次世代の子供たちへの心遣いかもしれません。

 また、遊び場については「サッカー、野球ができる公園が増えている」「公園や学校にジェットコースターが付く」など“願望”を込めたものも目立ちました。


<生活面について>
 別府校区の人口については36人が「増える」としたのに対し、2人が「減る」とし、多くの児童が「少子高齢化が進む」と厳しい現実を見据えているようです。
 そして18人が「外国人が増える」「国際化が進む」と答え、時代の流れを子供ながらにしっかりと見ているようです。

 買い物については「ショッピングモールが出来る」「店舗が増える」(計57人)とみていました。同時に「ユニバーサルデザインになる」「バリアフリーになる」「歩道が広くなる」「自転車専用道ができる」(計47人)などプラス面で捉える児童も目立ちました。

 同時に街の雰囲気として「自然が増える」(51人)のほか「笑顔の街になる」や「明るい街に」「優しい街に」「無事故で平和な街に」「犯罪がない街に」という子供たちの期待と願いもありました。
 そして自分(今の子供たち)が大人になった時の心構えを語っているようにも読み取れます。
 実際に、別府校区がこのような暮しやすい街になっていることを期待したいものです。
50年後の別府4年5年6年合計
A.近代都市化    
高層ビル、マンションが増える145356123
新しい乗り物、空飛ぶ乗り物、自動運転、ホバークラフトなど21232064
電気自動車などになる、ガソリンスタンドがなくなる320528
自動化が進む、機械化が進む、無人化が進む89724
地下鉄の駅が増える、路線が増える、交通の便がよい412723
人型ロボット、ロボットと共存、ロボットペット、ロボットのメイド69116
都会化が進む53715
高速道路37212
動く歩道になる、階段がなくなる12710
高速地下鉄になる、地下鉄がリニアになる2259
別府でオリンピック0167
タイムマシーン3216
学校は地下へ、生活は地下で3126
別府から別の星へ行ける、エレベータで宇宙へ、どこでもドアがある2136
上空にも家や電車、空中都市1023
別府に空港ができる0213
車が入るストローのような物ができ、町を排気ガスから守る1001
風力発電マンション化0101
工場が建つ0101
馬で通勤通学0101
     
B.学校の変化   
別府小は大きくなる、子供・赤ちゃんが増える、別府小が建て変わる3181940
授業学習がタブレット,コンピューター,アイパットになる320528
公園が増える(サッカー,野球が出来る)、遊ぶ場所が増える1061127
教室にエアコン、イスがフカフカ、快適な学校(遊園地、プール、売店)311721
子供減少、別府小がなくなる101011
子供もスマホ、タブレットが当たり前2338
公園や学校のグランドが芝生2226
自転車通学できる3025
手話が出来る機械がある、点字は必ず打ってある4004
鉛筆が無くなる0404
公園、学校にジェットコースター0404
新しい小学校ができる、別府中学校ができる0123
学校の机が冬には炬燵になる0011
勉強が楽になる自動勉強装置ができる0101
学校にヘリポート0101
     
C.生活面では   
ショッピングモール、店舗、デパート、コンビニが増える、ホテルができる10182957
明るい町、笑顔の町、住みよい町、穏やかな町、挨拶が交わされる町25161657
自然が増える、緑化が進む、たんぼや畑も2342451
高齢者、身障者に優しい、助け合う町18151144
安全な町、安心な町、平和な町、喧嘩やいじめがない1951943
ユニバーサルデザイン、バリアフリー、マンションのスロープ8181440
環境の良い町、健康に良い町、清潔な町、きれいな町219838
人口増加 1010 1636
便利な町、買い物はすべてカード決済1361029
おしゃれな町、賑やかな町、高級住宅地821424
自然が減る571022
スポーツ施設、遊園地、ドーム、タワー、イルミネーション、花火大会がある211619
老人が増える201113
国際化が進む19111
病院が増える、総合病院ができる61411
電車、バス、車が多い21710
事故がない5139
外国人が増える0347
CO2増加、温暖化、夏は80度0246
どんな怪我や病気でも治る、危険なウィルスがいない4015
自転車専用道路ができる1135
太陽熱の利用、太陽光発電が増える2024
3D、4D、5Dテレビ、腕時計テレビ2204
歩道が広くなる1113
一軒家ばかり、一軒家が増える0202
交番が増える、交番の建替え1102
人口減少0112
動物がいない0202
安全な原子力発電が出来る1001
インフレになる1001
セキュリティが強化される0101
自動トイレが一杯ある1001
食糧難0101
生き物が大量に飼育されているが、野良犬や野良猫がいない0011
     
D.実現しつつあるものは    
大気汚染が進む、公害1034
ルールを守る2103
スポーツ女子が多い1001
建物がライトアップされている0011
宅配便が発達1001
地震予知1001
電柱がなくなる1001
     
E.その他に    
観光名所になる1225
動物が多い、ペットを大事にする、動物用の翻訳機3025
動物園、植物園、水族館がある2215
別府公民館が大きくなる、建て変わる2024
(別府は)変わらない3003
空からキャンディーチョコが降る、スイーツパークができる0022
室内野球練習場がある、バッティングセンタがある2002
戦争が始まる0202
別府の町名が変わる2002
別府公民館の周りに花公園ができている0011
後ろに走る自転車がある1001
津波用の護岸がある1001



 別府公民館創立50周年を迎えるにあたって、記念誌を刊行することは既定の方針でした。そのことを受けて平成24年より活動がスタートしましたが、従来とは違った趣の記念誌にしたいという強い思いがありました。
 構想の段階から福岡大学福岡・東アジア・地域共生研究所の協力を仰ぎ、夕イムリーなアドバイスを誌面づくりに生かすことができました。
 歴史編において、太古の時代まで遡って書き起こしたことは過去の記念誌とは異なる雰囲気を醸し出すことができたのではないでしょうか。
 取材に際して、福岡大学人文学部桃崎祐輔教授のゼミナールヘの参加は特筆したい出来事であり、また昔日を知る人を囲んでの座談会の開催や訪問してのヒヤリングの成果、あるいは校区(近隣校区を含めて)内を歩き回ることによってもたらされた新しい発見も多数ありました。その中のいくつかは本文中に取り込みました。
 制作が進むにつれて携わるメンバーの熱意は頂点に達し、記念誌の内容も充実させることができたと思っています。
 記念誌の作成を通じて、「別府」のまちの良さをあらためて感じました。
今後ますます住み良いまちに発展していくことを期待したいと思います。
 最後になりましたが、記念誌の作成にご支援、ご協力をいただきました皆様方に重ねてお礼申し上げます。

附録A 信仰の対象について

紙面の都合により本誌には一部をコラム化して載せるにとどめたが、ここでは本誌に掲載したコラムを割愛し、全文を掲載する。

A.1 鳥飼八幡宮
 県営住宅鳥飼団地の東の入口に「神功皇后御駐輦(ちゅうれん:天子が行幸の途中で車を止めること)之跡」「福岡県女子師範学校跡」などの石碑があり、そこには鳥飼村出身の政治家、金子堅太郎(注1)の撰文(碑文などの文章を作ること、またはその文章)があります。  (注1)ルーズベルト大統領と親しく、日露戦争のときに『米国の友好的な対日世論の         形成』に功績があった。


 以下、意味を中心にその内容を見てみます。

< 仲哀天皇九年十二月、神功皇后が三韓より凱旋し鳥飼村に立ち寄られ たとき、村長の「鳥飼某」が夕饌を献上したので、皇后は大変お悦びに なり『今度のことは皇子の御為なれば其生さきを祝せん』と言って、皇自ら盃を群臣に与えた。その後鳥飼氏の後裔の人達は、その地に神社 を建て「若八幡」と名付けた。  慶長六年(1601)、黒田長政は福岡城を築き、此の場所を別邸とした。
  同十三年(1608)、その祠(ほこら:神を祭る所)を現在の西町に移し
 鳥飼八幡宮(注2)とした。  明治三十六年(1903)、学生に神功皇后の偉業盛徳を欽慕させ、良妻 賢母の性格を修養させる格好の場所なので、福岡県庁が此の地に女子師
 範学校を建てた。(以下、省略)
 大正十二年(1923)五月 枢密顧問官従二位子爵 金子堅太郎 謹撰>

(注2)「鳥飼八幡宮が、何故鳥飼村の外にあるのか」不思議でしたが、黒田長政が移したんですね。

 またアクロス福岡文化誌の「福岡県の神社」によると、鳥飼八幡宮は以下のように紹介されています。


< 鳥飼八幡宮は、福岡城下の早良郡に属する範囲と、城下成立以前からの鳥飼村の産土神(注3)として人々の崇敬を集めた。神社の創建年代は不明であるが、草創を神功皇后との由緒に求める縁起が伝えられている。
 ただし、鳥飼の地に八幡の神が勧請されたことは、中世この地が筥崎宮の領地であったこととも深く関わっているだろう。>


 (注3)産土神(うぶすながみ)はその者が産まれた土地の神であり、その者を一生
守護すると考えられている。

 「福岡県の神社」の記事に従えば、鳥飼八幡宮は「もともとは(別府も含む)鳥飼村の産土神」であったようです。


 別府の天神森は、昔から清浄な神域として当地の住民に崇め親しまれた
場所です。

 この森には数百年の樹令を持つ楠の大木を始め、市の保存樹に指定されている大樹が6本もあります。このように大樹の密生している場所は田島の八幡神社境内を除きこの附近には無く、ちょっとしたパワースポットとなっています。



 鳥飼神社の古文書に、明治15年(1882)12月の「鳥飼神社・摂末社(名代の分霊神様のこと)、建物明細帳」があり、別府天満宮の記述もあります。
 それによると、「社名が天満宮」であることと、「祭紳が埴安神(はにやすのかみ)と菅原道真公(天神様)」であることが記載されています。

 また、別府郷土史研究によると「(この場所は)往時より天神の森と呼ばれ・・・」とあり、「天神様を祀る前から天神森と呼んでいた」とも考えられます。
 そもそも「天神」には、①天の神(あまつかみ)、②天神様(菅原道真公)などの意味がありますので、「神様がいる森」くらいの意味で「天神森」と呼んでいたような気もします。

 30周年記念誌に、「昭和5年(1930)の2月、この森の祠の前に石の鳥居が立てられ、その額に社名の天満宮が明記されて以来、この場所を『天満宮』というようになった」という記事があります。しかしその後「四通八達の碑」なども移設されましたので、ここでは「天神森」と呼びます。

 昭和42年(1967)4月天満宮境内が市の管轄の児童広場になったのを機に、大正末期より途絶えていた天満宮の祭典を、5月5日の「こどもの日」を祭典日と定めて復活しました。
 この日は鳥飼八幡宮の宮司を招いて、子供の健康と安全を祈願する神事を行っています。祭典の神事一切の世話、児童広場の管理、周辺の清掃などは別府1丁目の町世話人を中心に行っています。


A.3  五穀神

 別府校区内には2つの「五穀神」があります。
  1つは天神森にあり、大正12年(1923)に「早良郡鳥飼村字原1318番地(注)にあった五穀神を別府天満宮へ合祀した」ことが、鳥飼八幡宮の古文書に残っています。
(注)草ケ江高等小学校の西側の丘の上にあった五穀神の地番のようです。現在は、別府3丁目ローソンからアンピールマンション辺りでしょうか。
  この五穀神の創立年度については、先の古文書に「不詳、古老の説に文政年間(1818~30年)に創立と言う」とありますので、少なくとも江戸末期にはこの丘の上に祀られていたようです。これを大正12年に、天神森に移したということです。

天神森の五穀神 

  もう1つは、別府3丁目ローソンの北側の駐車場の片隅にあります。
  先の五穀神を天神森に移した後、元の場所のまわりの民家に続いて数回の小火があり、永田貞雄氏の父上が信心の神様に尋ねられたところ、「五穀神が帰りたいと申されている」とのお告げあったので、藤村弥太郎氏宅の坪石を譲り受け元の場所にもう1つの「五穀神」を再建しました。

元の場所の五穀神

こうして2つの五穀神が今でも立っています。

もともと「五穀神」とは五穀(米・麦・豆・粟・黍)をつかさどる豊作を願うための神様です。祭祀は年二回、社日の日(注)に行われ、鳥飼八幡宮の宮司による神事があります。その後に「お寵り」と言って主婦らが弁当や重詰めなどの手料理を持ち寄り集うなどしていました。

    (注)社日の日とは、産土神(うぶすながみ:生まれた土地の守護神)を祀る日。
          春分の日と秋分の日にあり、春のものを春社(収穫の祈願)、秋のものを秋社(そのお礼)ともいいます。

  別府3丁目にある「五穀神」は現在鳥飼八幡が管理はしているものの、住民による「お寵り」の習慣はなくなっています。
  しかし天神森では、町内有志が世話人となり1人1,000円の会費を集めて別府会館で現在でも「お寵り」を実施しています。

元の場所での「お籠り」の様子(昭和30年(1955)代)

A.4 別府薬師如来
  別府の薬師様は、楚(祖)原の薬師様と共に昔から有名で、秋祭りの日には遠くから参拝に来る信者も多く、お堂前広場の両側には出店も設営されて賑わったという事です。
  享和三年亥(1803年)8月普請されたもので、当時はお堂も小規模であったが、郷土住民の信仰が厚く、安政6年(1859年)頃には再建の大改修も行われました。
  現存の薬師堂は、明治の中期頃、昔から祀られていた小さな木造の祠を大きくするため当時の住民が協議のうえ、寄付を募って増改築したものです。


  また、昭和20年(1945)敗戦後しばらくの間は荒れはてたままになっていましたが、世情の安定につれ次第に参詣者の影も見られるようになり、更に地元信者のご支援により屋根瓦の葺き替えやお堂内部の改修も行われ、屋内も広くなり見違えるようになりました。
  この間に薬師様本尊のお姿も金色(こんじき)に塗り替えられ、その他お大師様を始めお不動・阿弥陀様・お地蔵様等も合祀され立派な佛閣となりました。



  昭和57年(1982)4月、お参りする人のご奉捨(お賽銭)により、現在の銅板葺に改修され、お堂前には進藤一馬福岡市長の筆跡になる「別府薬師如来」の石碑が建立されました。
なおこの敷地は国有地(財務局管理)だということです。  今でも毎月8日には、近所のご婦人方が15人ほど集まり、掃除・読経のあと歓談などをしているそうです。


A.5 八龍

  天神森の南方100m余りの地点に「八龍」と称するところがあります。
  数本の大樹に囲まれ小さな神殿が立っています。昔は天神森と同じ敷地内にあったようですが、太平洋戦争中に建てられた陸軍官舎により天神森との間が隔てられたのでしょう。


 昔は「八龍」の辺りは鬱蒼とした木立に囲まれ昼なお暗かったので、「近づくと祟りがある」と恐れられていました。
 それで一時は参拝者もなく荒れ果てていましたが、昭和53年(1978)、神道教会の方がここの掃除をするようなり、以後その教会でこの神社を管理するようになりました。昭和56年(1981)には、信者の方々の浄財により現在の神社に建て替えられています。
 今は、周辺の道路も広がり、宅地の開発も進んだので、昼間は随分と明るくなったようです。
 「八龍」の祭神は龍神(竜王)で、「水神」または「海神」ともいわれ、雲を呼び雨を降らせる魔力を持つ神様として古くから信仰され、農家の水田耕作に必要な神様と言われています。
  昔は真夏に雨が降らず旱魃(かんばつ)が続いて稲作に悪影響がある時、農家の人達は天台宗の僧侶を招き、この「八龍」に集まって読経を頼み神域の外に火を燃やして雨乞をしたものです。
  いつ頃建立されたものかは不明ですが、水田や畑が殆どだったこの別府の地においても人々の信仰を集めていたのでしょう。
  土地の登記は財務局となっていますが、神社の管理は信者の方々で、境内には百度石も作られ、お稲荷様も併せて祀られています。

 
A.6 将軍地蔵尊
(1)将軍地蔵尊
 弓の馬場・茶山会館の敷地内に将軍地蔵尊が祀られています。
 別府郷土史研究によると、昔この辺り(茶山六丁目)は、夜になると怪しい人の声がして大変恐れられていましたので、千眼寺(西新町)の僧にお頼みして、祈祷してもらいました。すると「迷っているので祀ってほしい」とお告げがあり、掘ってみると地蔵らしい形の石が出てきたそうです。
これを祀ったのが、将軍地蔵尊の縁起です。


(2)社日さま(弓の馬場・茶山地区)
 お堂の左側に、天照皇大神の石碑が祀られています。石碑の中央に天照皇大神、左に小彦名命、右に大巳貴命の文字が不明瞭ですが刻まれています。



(3)祭礼
        7月15日  御願立て(厄除け・厄逃れ・夏患いせぬように)
           深江神社(糸島市)より祈願に来ていただく
     (注)昔は、10月4日に「御願ほどき(そのお礼)」も行われていましたが、今は行われていません。

        社日(春社) 五穀豊穣の祈願
     

昭和30年(1955)頃まで夏の御願立ての日に、獅子舞などの祭礼行事も行わ
 3回の祭礼は、氏子(現在16軒)を半分に分けて交替でお世話をしています。祭礼時に1軒千円を集め運営費とします。各自食べ物を持ち寄り会館にて「お籠り」を行う習わしとなっています。

A.7 塚地蔵尊

  別府小学校内の北東の隅に、塚地蔵を祀る祠があります。



  別府小学校四代校長の在任当時(1970-1971年)、職員・児童の間で病気になる人がでたり、立て続けに事故が起きたりしました。こういう不幸な出来事が、元々学校敷地内にあって所在が分からなくなっていた「塚(墓の意味がある)」の崇りと結び付けて考えられました。

  そこで、改めて校内を探すと半分土に埋もれた石碑が見つかったので、近隣の寺院にこの碑の供養をお願いしたところ、「読経中十七人の筋骨逞しい武士が出てきて、『本来この碑は黒田の家臣を祀るものであったのに供養の人となく成仏出来ない。お堂を建てて供養してくれ』と告げられた」ということです。

 このことがあって市教委に相談するも、「宗教的な事に資金を出したこともないし、義務教育の立場から考えても、建設資金を支出することは出来ない。しかし校区またはPTAでやられる分については、特に口出しはしない。」と言うことで話がつき、結局地蔵尊については寺院より、お堂については当時のPTA会長のご寄進で、その名も「塚地蔵」としたものです。
 当初建設された場所が学校正面の左側校舎に面して建てられたため、学校内に地蔵尊を祀っている印象を与えたので、たまたま学校火災が発生したのを機に、現在地に移し、道行く人にも拝んでいただけるようにしました。
 今は、近隣の方も季節の花をあげたりお供え物をしたり、登下校の児童のなかには、礼拝していく者もあり、悲運の最期を遂げた武士の霊も浮かばれたことでしょう。今後別府小学校の守り神となっていただくことを願うものです。

A.8 庚申

  昔は、どこの村や町でも、入口・出口や岐路に、必ず庚申様が祀られているのを見受ける事ができました。
 「庚申様」とは、塞神のことで道祖神ともいわれています。村境や峠や道の辻に座して、道路を守り邪神を遮り、悪霊を防ぐ大きな威力を持つ神です。
また、石碑に猿田彦神と刻まれた物もありますが、これも庚申様のひとつと考
 別府一丁目一区二区、南北両端に二つの庚申様がありました。

 北側の庚申様は、明和九年(1772年)に建立されたもので、「庚申」と
記されており、今も元の場所にあります。



 南側(別府1丁目13-3)の庚申様は、天明五年(1785年)に建立されたもので、「天明五年巳年・庚申天・一月吉日」と記されていましたが、昭和61年(1986)5月1日福岡市歴史資料博物館へ資料として寄贈されました。

 また、弓の馬場・茶山会館の近く、別府6丁目にも庚申様が祀られていましたが、宅地造成のために祀ることができなくなり、深江神社(糸島市)に納められました。
 この他にも、身近な所で、庚申様が祀られていたのではないでしょうか。

附録B その他の取材メモ
本誌への掲載は見送ったが、調べた内容を記録に残す意味でここに掲載する。


B.1 学校区(城南区)の生い立ち
別府小学校の生い立ちを調べる過程で、城南区全体の小学校の生い立ちも調べてみたが、分校の定義がはっきりしないのと、内容が別府校区から離れ過ぎるので、本誌への掲載は見送った。

 明治22年、別府近隣の村落は鳥飼村・樋井川村・原村・田隈村などに集約されました。鳥飼村以外の村落の状況は下記です。
 早良郡樋井川村は、上長尾村, 下長尾村, 田島村, 片江村, 檜原村, 堤村、柏原村, 東油山村が合併、 早良郡原村は、荒江村、有田村、飯倉村、小田部村、庄村、七隈村が合併、
  早良郡田隈村は、干隈村, 梅林村, 野芥村、西油山村, 西脇村, 免村、次郎丸村, 田村が合併してできました。 戦後になってこれらの地区の人口が増え出すと、集約前の村落も人口が増加します。従って小学校の分校も、集約前の村落を中心に進んでいくよ
うに見えます。

注)各小学校の沿革(ウィキペディア、および各小学校のホームページ)を参考に、作成しました。
    

B.2 草香江町と草ケ江町
 「耕地整理と町界町名の整理」の原稿に関し、中央区草香江の旧町名について、「草香江町」「草ヶ江町」のどちらなのか、編集委員の間で議論になったので調べてみた。

    耕地整理直後の町名については、福岡県立図書館所蔵の「昭和5年の福岡市街図(協和会発行)」に「草香江町」の表示が見えます。
(それ以前の地図には、町名の記載は見られません)

 地図上で「草香江町」の表示が見られるのは、下の昭和23年、塔文社発行の「福岡市交通案内図」が最後です。(昭和24年頃、草ヶ江小学校を卒業した編集委員が所持する卒業名簿の住所表記は「草ヶ江町」となっているそうです)



  下図は、草ヶ江・鳥飼方面で「町界町名の整理(昭和38年)」が行われる前の、積文館発行・昭和30年度限定版福岡地典です。
「草香江町」は、理由は不明ですが終戦後に「草ヶ江町」と町名を変更し、それは「町界町名の整理」で「中央区草香江」となるまで続いたようです。



B.3 草ケ江本町会館と別府六ケ町会館(資料提供:永田文城氏)


福豊炭鉱の記事との関連で起こした記事だが、別府校区全体の話ではないので 本誌への採用は見送った。

昭和27年(1952)8月、草ヶ江本町(1~3丁目)は福豊炭鉱から「石炭採掘の承認契約金、及び迷惑料」を受け取りましたので、「草ヶ江本町特別会計委員会」を起こして、これを管理することにしました。
その後昭和32年(1957)、積立金の使途について居住者からアンケートを取り、「集会所を建設する」ことが決まります。 建設地は、久我武夫氏から買い受けた「草ヶ江本町2丁目40番地の1」の土地と、篤志者から寄附された土地とを併せた土地とし、整地を
行いました。

 34年(1959)9月、建設に取りかかり、同11月、集会所が完成しました。出席者30余名で落成式を実施し、同時に草ヶ江本町会館管理運営理事会で会館の管理運営を行うことを決めました。



 昭和34年12月、集会所の名称を「草ヶ江本町会館」とし、鳥飼公民館の草ヶ江本町分館として発足させました。
その後昭和46年(1971)7月、福岡市の町界町名の整理により、「草ヶ江本町」から「別府」へ町名が変わったので、会館の呼称を「別府六ケ町会館」と変更しました。
 「六ケ町」とは、旧草ケ江本町1~3丁目に相当する「別府2丁目(3区・4区)、別府3丁目、別府5丁目1区、別府6丁目1区、別府7丁目、田島2丁目4区」の6町内会をいいます。
 平成元年(1989)9月、城南学園通りの道路拡張により、会館を移転
する必要が生じましたので、旧会館を取り壊し、現在の場所に建て替えました。

 現在「別府六ケ町会館」は、関係町内会からの補助もありますが、大部分は各種団体・サークルとの年間利用契約の利用料金で運営されています。





B.4 菊池参道の地図(航空写真との違い)
航空写真と地図で相違がみられるが、航空写真自体に問題がある訳ではないし、相違の真相が不明な段階でこの話を出すのは混乱が生じるので、本誌には載せていない。

 本文で示した「昭和14年の航空写真」には菊池参道らしい道がはっきりと見えますが、下の「昭和15年の地図」では茶山・草ケ江高等小学校の高台間に、「菊池参道」と思われる道が見えません。(赤い楕円で示した部分)


 この相違の原因は調べてみたいところですが、すぐには良い方法が思いつかなかったので、取り合えず記録に留めるだけにしました。(実は順序が逆で、「地図になかったので航空写真まで調べてみた」とい うことです。)

B.5 福岡市の戦後の住宅事情と団地の造成(福岡市史より)
団地が生まれた背景などを書いてみたかったが、思ったほど面白くなかったので、紙面の都合もあり割愛した。

 昭和31年になると「もはや戦後ではない」といわれましたが、住宅はいまだに不足し、昭和30年の住宅事情調査によればなお約2万5千戸以上の不足が見込まれていました。この住宅の不足は一向に改善はみられず、加えて人口の増加が、これにさらに拍車をかけていました。
 このような状況のもと、団地の造成に注目が集まりました。① 市営住宅低所得層に対して低廉な家賃の公営住宅を供給するという方針のもと、市営住宅の建設を推進しました。② 県営住宅 昭和26年の公営住宅法の施行により、国並びに地方公共団体の相互協力のもと、県営住宅の建設も推進しました。③ 公団住宅 日本住宅公団は地方公共団体とは別の公的機関であり、その基本的な考
え方は下記のようなものでした。
 ・大都市の住宅難に対処するための住宅対策として効果があるのは、大  都市周辺に衛星都市を開発し、ここに住宅団地を建設することであり、 ・(行政区城ごとにある)公営住宅ではこのような目的は達せられないので公営住宅に代わり行政区域にとらわれない住宅供給と宅地開発を行う。 ・また住宅建設に、公的資金のほかに民聞資金を導入する。
このような趣旨のもと日本住宅公団が設立され、これまでの公営住宅に加え、主に中高所得層向きの公団住宅が加わることになります。

 昭和30~40年代に建てられた主な団地

(注)日本住宅公団が建設した賃貸住宅の1つである「市街地住宅(冷泉公団住宅・東薬院団地など)」は、都心に近い便利な場所に、店舗・事務所などと住宅を同居させたものですが、その総個数は大きくないので、上記の集計には含んでいません。
 (最早、戦後とはいえませんが)昭和40年代後半からは、民間の業者などの宅地造成、マンション建設も増え、より多様な住宅の供給を受けることになります。
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