紅梅・白梅(1) (1989年)


2015/11/1 登録     


 目 次

1.       おぼろ月夜
2.       思い出の結婚記念日
3.       「わたし」とは
4. (戦争)  九月七日に思うこと
5.       国旗について思うこと
7.       太宰府の花菖蒲見物の想出
8.       年寄りの愚痴
9.       人生八十年を顧みて
10.       映像文化
11.       タイムカプセル
12.       魚の目
13.       六十五年前




 表題「紅梅・白梅」に寄せて
館長 井上忠男

 戦前、満洲と朝鮮の境を流れる大河・鴨緑江の満洲側の河口に安東という街があり、対岸の新義州との間に架かる一本の鉄橋で満洲と朝鮮とが結ばれておりました。
 昭和20年1月、私はその安東に駐屯する満洲第7040部隊に甲種幹部候補生として在隊しておりました。部隊長は黒田少佐、中隊長は島津大尉でお二人とも南九州の名門出身の将校でした。
 戦局の悪化に伴い内地からの慰問団も途絶えがちになっておりましたが、或る日待望の一団が訪れ、営庭の集会所で演芸大会が開かれることになりました。
 私達の属する教育班は全員が現役兵で何れも満20才。多感な若者の集団でした。慰問団の演芸が一通り終った頃「部隊からも」ということになり中隊長が先頭をきって歌いました。

 「春まだ浅き前線の 古城に香る梅の花
    せめて一輪母上の 便りに秘めて送ろじゃないか」

 厳寒の満洲の兵営で慰問団の人も一緒になって全員で合唱しました。その頃銃後にあって家庭を守り増産に励んだうら若き乙女達も、今や頭髪に霜を置く年配となりました。
 「この文集の表題を考えて下さい」と主事さんからお話しがあった時、私の心に浮んだのは私達の若き日々、そして古木に凛と咲く紅梅と白梅の姿でした。

 平成元年11月20日


 1.おぼろ月夜

 毎年菜の花が咲く頃になると、おぼろ月夜の唄が思い出される。
 終戦後食べものがない時、引揚げの時持って帰った少ない衣類が、其の時食糧を求める唯一の命綱でした。右も左も分らない土地で、方言もさっぱり分らないので食糧を集めるのは本当に苦労でした。或る日、私は初めて主人の妹と二人で八女の山の中に、買い出しに出かけました。妹は何べんも出かけているので、子供を姑さんに預け身軽るないでたち、私は長女を背中におんぶしての山路行き、子供の重みが肩にくい込んで来てとても歩きづらかった。やっと、目的地に着き、あちらこちら頼みこみ、一度も身につけたことのないピンクの絞りの帯を「さつま芋」と交換して貰い、食物にありついた喜びにほっとしたものの胸がいっぱいになった。
 妹にうながされ、気がついてみると、暮れかゝつた空にはお月様があわく光り菜の花をほのじろく照していた。その菜の花畑の中を両手にさげた大事な「おいも」と、背中の子供の重みとにあえぎながら歩いたおぼろ月夜を見上げた日、幾年たっても忘れられない。
 テレビで想い出の曲の中のおぼろ月夜が流れると、あの買い出しの夜、菜の花畑で仰いだおぼろ月夜を思い出し涙することがある。
 あの時の背中の子も四十才を過ぎ、二人の子供の母になっている。
 今は店に物が溢れて、あの頃のことを思うとうそのような恵まれた日々を過す時代になり、有難いと思う。



一、地上の万物に対し、その生々発展を促がすかのように、煦々としてあまねく微笑みかけている初夏の太陽の何と、すがすがしい輝きであろう!。さすがに、大自然の運行には寸毫の狂いもなく、本年もまた、私の家には、思い出多い第46回目の結婚記念日が挙式当日を彷沸させるように、着実に運ばれてきた。客観的な評価とは無関係に、わが家にとって、この記念日が格別の意味を持つこととなるのは概要、次の3点が指摘されるからである。
 その1は、結婚当日―昭和18年6月6日が一見して明らかなように、数字の6及びその倍数の並列を形成していて、その数字の持つ強いマジックの暗示力に限りない興趣をそそられるからであり、しかも、この日は、あらかじめ黄道吉日として選定したのでなく、当時担当の徴用業務に忙殺されて日取りの繰り合わせかつかなかったのであり、いわば、この日こそ、天恵の好日として私にはこの上もない思い出の日となったのである。後で触れるが、この数字がその後の私の生活全般、中でも健康増進保持のための重要基盤となったのである。
 その2は、敬愛してやまぬ学友、職友、同僚等、その中には水泳、ボート、陸上競技、登山等で、しのぎを削った畏友も多数であったが、その90%以上がすでに鬼籍に入っているのに、私だけが傘寿を超えたというのに、依然として頑健さを誇示していつまでも頑張っていていいものか、いささか、相済まぬ気持もなくはないが、それだけに、この日を貴重な日として大切に保存しておきたいと念願したくなる。
 その3は、この日が、今次大戦の末期で苛烈な戦いの最中であり、財政の窮迫、物資統制の挾撃を受け、夢を誘うような華麗なセレモニーの施行等思いもよらなかったし、こじんまりと制約された催しで満足するほかなかったが、これが却って記念としての側面を増幅してくれたのである。

二、私はいつも強調するが、人生最大の幸福は、日常、健康が保持されていることである。私たちが健康増進保持に取組もうとする場合、生来の体質の如何によって、努力が左右される半面、周到な日頃の努力の如何によってその効巣が動かされることも否定できない。この積極的努力がある限り環境的保健衛生諸施設の活用も充分可能となるのである。
 私は前記の結婚記念日が示した6及びその倍数を健康増進の目安として活用することを日課としている。概要は次のとおりである。
 起床後のウォーミングアップとして、
  乾布摩擦背面60回、臍中心に30回
  頭部の屈伸廻転12回、ふくらはぎの摩擦30回、下肢土つかず60回
  リンゴ酢大豆6粒、梅酒6CCに焼海苔6枚の摂収、
  毎日の歩行6千歩か8千歩。歩行後の汗を流すため、42度の湯にひたり、  心臓の鼓動360を数えたら上り、冷水を洗面器6杯で体調をととのえる。
 以上のような日常の行動が続くかぎり、私の記憶の中には厳として結婚記念日が生きていることを痛感する。
以上



 若くて元気なときには仕事は忙しいし遊ぶことはおもしろいしで、たいして気にもしていなかったが年相応に不安や怖れがひょいひょいとかおをのぞかせて、戸惑ってしまう。
 このごろ地球科学や宇宙科学が静かなブームになっている。そのみちの学者のかたが、しろうとにも読めるように本を書いていらっしゃる。好奇心もあって読んでみるがむずかしい。むずかしいがわかる部分もあっておもしろい。読んでいるうちに宇宙や地球についての興味にとどまらず、「わたし」のとおいむかしの生まれ在所はどこだろう、「わたし」はなんだろうというような興味もでてきた。
 星も星雲ももちろん電波もなんにもなかった空に非常に高温高密度の火の玉原始宇宙が浮いていた。それが大爆発をおこした。ビッグバンというそうで100億年以上も前のできごとであるという。原始宇宙が高密度に詰めこんでいた物質は爆発と同時に空中に飛散した。そして瞬時に水素、ヘリウムができた。やがて水素からウランまでの90種あまりのすべての元素がつくられ、元素からまたさまざまの物質がつくられた。宇宙はひろがった。いまでは最先端の観測機器を駆使すると、150億光年くらいまでもとらえることができるという。ここまでがいまのところ宇宙の果てということになるらしい。それにしても1光年は距離にして約9兆5千億キロメートルというから観測できる宇宙の果てまでの遠さは全く想像もつかないくらいに遠い。
 地球は宇宙膨張の過程の46億年ほど前に、ある一つの星の死である超新星爆発によって誕生したという。初期の地球は爆発によって飛び散った岩石との絶え間ない衝突で熱せられて燃えあがる岩石の塊りであったという。岩石から蒸発して上空をおおっていた水分はやがて豪雨になって地球に降りそそぎ地球は美しい水の惑星になった。生きものの声もなく樹々のすれ合う音もなく地球は静かに息づいていた。35億年ほど前に最初の生命体であるラン藻が海中に発現した。
ラン藻は多様に分化した。分化した生命体はそれぞれに進化して地上に適応する植物や動物もでてきた。地球史としてはまだ新参のヒトが300万年ほど前に発現した。ヒトは人間に進化した。
 「わたし」を生んでくれたのは、ちちははであるが、「わたし」のとおい家郷は300万年ほど前のヒトとすべきであろうか。海中に発現したラン藻とすべきであろうか。地球誕生の時の燃えあがる岩石であろうか。100億年以上も前の原始宇宙であろうか。
 なんにしても非生命体から生命体へ、そして、おなじ生きものとはいえ、とおい祖先はおなじであるとはいえ、犬や猫にではなく「わたし」は人間に生まれてきた。ありかたいことであった。
 感慨ぶかいものがあるが、だからといって老年期の「わたし」の不安や怖れがどうなるというものでもない。
 中国の南宋の時代の無門は、「生死岸頭に於て、大自在を得、六道四生の中に向って遊戯(ゆげ)三昧ならん。」と言っている。六道四生は現代には通用しない考えであるが、生死岸頭のことは現代のおもたい課題である。無門は嫌うこともなく屈託なく死んでいくと言う。極限状況のときが遊戯であるならば、もちろん、日常のすべての行為が遊戯であったであろう。「わたし」にはできないことであるが、どこがどうちがうからであろうか。
 「わたし」のとおい祖先は非生命体であった。そして生命体になった。猛火の中、水の中、そしてなんの音もない陽光の中、屈託なくそれらに馴染んだ経験は「わたし」の深層に堆積し眠っているはずである。「わたし」は社会的人間としてはそこそこに目覚めているが、宇宙的生命体としては眠っている。眠っているが夢うつつで無門の遊戯に頷いた。



 今年も9月7日がやってまいりました。
 此の日は戦後40余年の今も頭より離れる事なく、生々しく甦って参ります。
昭和19年9月7日ビルマ国境の雲南省拉孟が大陸の孤島と化し部隊の守備兵二阡(2000)人が玉砕したのでございます。
 思えばあの時の戦斗で私も「右手関節貫通銃創右大腿部貫通銃創の負傷をしましたが、今は身体障害の傷痍軍人として身に余る援助を受けておりますが、戦死した友の事を思うと胸が痛みます。
 昭和46年2月ビルマが鎖国を解いた時、第一回のビルマ墓参団として遺族の方々と合せて39名が古戦場を尋ね懇ろに慰霊祭を行って参りました。
 それから毎年2月4日前後に「ビルマ会」として慰霊祭を行って居ります。今思えば15年目の時これで閉会にしようかという意見も出ましたが、誰れ云うともなく最後の一人になるまで「ビルマ」の会を続け慰霊祭をやるうと云う事になり今年で19回が終りました。
 又此れとは別に毎年9月7日の日曜が近い日に慰霊祭を行って居ります。今年は9月10日(日曜)に43回の慰霊祭を行います。
 終戦直後の慰霊祭では、アメリカ軍のMPの監視の下でお祭をさせられ色々苦心もし、又護国神社が現在の荘厳な建造物などもない、たヾ「ほこら」だけの時からお祭をしておりました。其の頃はたヾいまのような立派な化粧室などはなく我々が地面に穴を掘って「ムシロ」の囲いをして「トイレ」用にと急造したものでした。
 慰霊祭の時は心を新にして亡き戦友を偲び、又懐しい友とも逢い当時の頃を振り返えり、今年もにぎやかに話がはずむ事と思います。
 然し今は只玉砕した戦友の事を偲び、命あるかぎり慰霊祭を続けたいと決心しております。又私共傷痍軍人は全国的な組識の中で、笹川会長を中心として世界平和を願い全国各地で大会を催しています。今年は9月19日秋田市で行なわれますが、毎回傷痍の身を引きずって沢山の方が集まります。
 もう戦争は絶対に起こしてはなりません。私共余生いくばくもありませんが、世界平和人類の幸せを叫び続けて行きたいと思っております。

  平成元年9月吉日
合  掌



 「白地に赤く日の丸そめて、ああ美しい日本の旗は」と、小学校時代に唱歌で歌った事を思い出し、日の丸の旗のすばらしさを子供のころから脳裏にきざみこまれている私は、世界中の国旗の中で、日の丸の旗のようにすばらしい国旗はないと思う。赤と白の二色で、太陽の赤が純白の中に輝いている日の丸の旗このすばらしい国旗に対して、国民の中での関心がうすくなっているように思われる。
私の家では、元旦から祝祭日にかけて必ず国旗を揚げているが、私の町内で国旗を揚げている家は、ほとんどないようだ。元旦の日に、愛宕神社にお詣りするのに、車で行くが、途中日の丸の旗を見るのは、二、三軒ぐらいでほんとうに少ない。
 しかし、今年の4月29日の日に佐賀の鏡山に行った時の帰り、北山ダムから古湯へと車を走らせたが国旗が軒並みに揚げてあった。天皇誕生日ではなく、緑の日に変わっていても、国旗に対する気持ちの現れではないかと思い感心したことだった。この日福岡市内では、一軒も国旗は見なかった。県によってこんなに違うのかと思った。
 外国人が日の丸の旗を見たり、君が代を聞くと「あヽ日本だな!」と思うように、国旗国歌は国の象徴なのだから、もっと国旗に関心を深め、個々の家に国旗が、あがるようになると、教育の現場でも国旗をあげ、国歌を歌うのは、あたりまえと言うことになるのではないかと思う。聞くところによると、小中学校でも国旗をあげず国歌も歌わない学校があることを知り日本人として、なげかわしいことである。
 アメリカでは、幼稚園から教室の正面に国旗を揚げ国歌をかならず歌って敬意を表して勉強に入ると聞いたことがある。国に対する姿勢をわが国はもう一度考え直さなければ、国際社会の中での位置も危ぶまれると思う。



 「星の宿り」島崎光正著、帯封には、讃―水上 勉―と、書かれた本が送られて来た。詩人島崎光正さんが自分の半生と、生後三ヶ月程で生別したお母さんへの鎮魂の文章であった。私の母が健在のときは母宛に、島崎光正さんの『詩集』がよく送られて来ていた。母は「島崎光正」さんは詩人として有名な方であると言っていた。
 私が初めて島崎光正さんにお会いしたのは昭和49年10月に沖縄に転勤して間もない頃である。車椅子の不自由な体の光正さんを那覇空港に母と二人で迎えに行った。光正さんは、熱心なクリスチャンでいらっしゃる。その時も大変な雨の中を近くの教会に立ち寄られたことを憶えている。
 彼の母上と私の母が。小学校、長崎女学校時代からの親友であった。私の母はお転婆だったが、彼の母上は温和しい人で、二人はよくうまが合ったようだ。
彼の母上は医者の息女で、父上は信州片立の代々受け続かれた農家の長男であったが勉強好きの彼の父は松本中から四高、九大医学部出身の医師になられた。
そのお父さんは患者から感染したチフスが原因で33才で亡くなられた。その時彼のお母さんは23才であった。光正さんの父方の祖父は、お父さんの遺骨と、生後三ヶ月位の光正さんを連れて信州に帰って行かれたそうです。その時のお母さんの悲しみは言語に絶するものが有ったと想像致します。
 その後彼のお母さんは悲しみの余り病気になり、九大の精神科に入院されました。
 それから10年位後私の母も夫を亡くし大連から引き上げて来ました。福岡に落ちついた母は、長崎の友達から九大精神科に入院されている光正さんのお母さんのことを聞きすぐにお見舞いに行き光正さんのことを詳しく聞いた母はその時の話をお身内の方々に何とかして伝えたいと思い一人悶々として約40年近く胸に秘めて来たようです。私か沖縄に転勤になって間なく母は光正さんのお母さんの弟さんの妻に当られる「田中澄江女史」の講演のあるのを知り、沖縄の交通に全く不慣れな母が女史の宿まで押しかけて行き光正さんの母上のことを伝えた様である。何もご存知なかった田中澄江女史も驚かれ「甥(光正さん)に合って詳しく話しを致しましょう。」と云うことで別れた様である。その後私の母が安藤外科病院に入院中には田中澄江女史は、講演の合間に再三お見舞いに来て下さっ
た。
 さて島崎光正さんのことに戻ろう。彼は先天性の二分脊椎疾患で腰より下は麻ひし正常の働きが出来ず、歩行困難の上排泄も普通の人の様に出来ない障害を持っておられる。
 小学校時代から勉強好きで向学心に燃えていたが、体がご不自由なだめ公立中学校も断念し、私立の松本商業に入学されたがこれも体の調子が悪化し三年生の時に退学された。
 成人されてからは普通の勤務が出来ないため、白樺の木彫り人形や熊などを彫って生計を立てる傍ら「詩の会」等の文筆活動に打ち込んでおられた。戦時中は「赤」の思想ありと投獄された由、その間は文筆活動も断念されていた。
 若い頃には、失恋し、失意のどん底に落ちこまれた事も度々あったようだ。
病床に伏した時は、心の寄り処としてクリスチャンになられた。彼は「障害者キリスト国際キャンプ」にも参加し米国各地を研修に廻わられている。又日本でも伝道活働をされ同じ身障者の悩みの相談手助けもされている彼の姿に感銘を覚える。それに引き替え、私も早く父と死別したが、経済的にこそ余り恵れなかったが、母と共に暮らし、奉公に出される事も無かっただけでも感謝したい。
 今春生前から母の希望だった墓を建立した。少しでも親考行が出来たかと思っている。彼に比べて私の半生は実に平凡であった。彼の本を読み、遅まきながら好きな絵か書を、後世に残せるようなものを作っておきたいと考えている。



 太宰府天満宮の境内にある花菖蒲の名所「菖蒲池」が今年は例年より早目の開花で見ごろは6月10日頃までとの話を聞いたので、6月上旬に友達と一緒に夜の花菖蒲見物に出掛けた。
 菖蒲池は約2500平方米だそうで、戦前に奉納された花菖蒲が徐々に増え今では、ざっと40余種、3万本に及ぶと聞いている。種類は大きく分けると「江戸」「伊勢」「肥後」の3種で、白や紫を中心に品種改良で作り出された黄色の花、そして清そな白、上品な紫、同じ紫にも濃淡があり、絞りもある。それら色とりどりの端正な花びらをつけた菖蒲が、これを2基の投光機による夜間照明を受けて池の水面に、すっくと立つ気高さ、すがすがしさ、実に見事な風影だった。
私達が座っていた隣りのテーブルに、5、6名の見物客がいて、その中に白髪で上品な高令者(男性)の方がいて、それとなく私に話しかけて来られ、次のようなことを話して下さった。
 宇美町にお住まいの今年91才になられる佐渡さんと、おっしゃる女性の方がいて、大正11年に教授の資格をとられた生け花は、かれこれ70年近い。お弟子さんの中には親から子、そして孫まで三代続けての人もいるとのこと、所属の池坊の人達と続けている菅公の御命日(2月25日)の生け花奉納は、もう30年も続けていて花菖蒲が、どの花よりも好きな佐渡さんは、今年もシーズン中、何度も足を運ばれたことだろうと、又佐渡さんは花菖蒲を染め抜いた浴衣、帯、鏡台掛けにも、この花をあしろう凝りようの方でもあるとか。お弟子さんに説く言葉は、自然観察と和合の大切さ、最近特に「花の道に終着駅はない」との思いを強くしておられるとの話を聞かされた。この方の話は一見平凡な話に聞こえたが、佐渡さんとおっしゃる方の花菖蒲を愛される心根のやさしさに、とてもすば
らしい方だと心をうたれた。
 時間もだいぷ経過していたので、この風流な夜の花菖蒲に別れを告げて帰路についた。



 一日も早く銅板刻字による本物の建設趣意書を掲示して頂きますよう希望致します。

 別府会館建設趣意書
 この会館は元、早良郡鳥飼村の区有財産鳥飼池の処分金1億5千万円の内、現別府校区への配分金1972万7千275円を以て建設したもので、昭和53年4月1日、永野工務店の施工により完成した。
 本館の面積は1階、83平方米、2階、64平方米、計147平方米である。
 この鳥飼池は、われわれの祖先、旧鳥飼村の先往者が農業用水確保のため数百年前、神松寺の山狭(現福岡大学前)に15,150平方米の濯漑用池を造築し今日に至ったものである。
 併し、戦後福岡市西区(旧)の急速な発展に伴い農地は一変して宅地化したため、昭和46年3月、旧鳥飼村7校区の住民90パーセント以上の同意を得、前記面積の内、防災用池として6300平方米を残し、他を売却処分することに決定した。
 然るに、その後も幾多の紆余曲折があったため市当局の斡旋により7年後の今日、漸くにしてその目的が達成され、われわれの祖先が血と汗で築いたこの尊い遺産の売却金を継承し、この別府会館の建設がこの地に完成したのである。この建物が隣接の公民館と共に別府校区住民の心の触れあいの場所として研修や趣味の集いに活用され校区発展に寄与することが出来れば望外の幸せである。
 なお、この会館は公民館とは異なり、別府校区の自治会館として新発足したもので、わが校区の共有財産として大切に管理維持しなければならない。

  昭和53年4月30日
    別府会館建設委員
      委員長   藤 村 格兵衛
      副委員長  永 田 貞 雄・藤 村 文 彬
      委  員  藤 村 和 夫・藤 村 嘉 市
      委  員  木 下 芳 生・中 東 大 二
            武 島 清 郷



 人間の平均寿命が急速に延び現在男76才、女80才と長くなりました。明治・大止・昭和・平成、と4代の御代に仕え、いつの間にやら80才になり長生さしてよかったと感謝しております。
 ところで、この80年間、時代の変遷に伴いいろいろな事件にぶつかりましたが、これだけは一生を通じて忘れることのできないのが戦争でありました。戦災に遇い丸裸となり箸一本から揃えるどん底生活から始まり、先ず住居の我が家を建て子供3人の着る物、食べる物と、それこそ永い間努力、忍耐、辛抱を続け子供3人、私立大学を卒業させ、今は孫7人(大学2人高等学校1人小学校4人)と夫々成長しています。因みに私しは戦前、中学校(当時の高等小学校)を卒業し直ちに郵政省(当時逓信省)管括の貯金局に国家公務員として就職し15年間勤め戦後は銀行に転職致し昭和45年停年退職となり以後70才になるまで他の会社で働きました。其の後は町内の世話人として動き回り今日に到りました。
人生80年を過ぎますと体力、能力共に減退いたしましたが、今後命ある限り微力ながら世のため人のため尽したい所存でございますので、よろしくお願い致します。
 最後になりましたが、只今国内に於てはいろいろな事件が次から次えとおこっています。21世紀が心配です。
 目覚めよ政界の議員の皆様、政界代表の権威ある指導者の皆様、真の平和日本を実現されるよう只管お祈りし、お願い致して筆を置きます。
  平成元年9月15日
   敬老会式典を記念して。

 短歌一首
  なせばなる なさねぱならぬなにごとも
    ならぬはおのが なさぬなりけり。


 10.映像文化

 よかトピアが大盛況裡に無事閉幕し市民として喜ぱしいことと思います。私も5回程入場し各パビリオンを巡り楽しみました。特にコンパニオンのお嬢様方のスマイルに加え各ドームのユニホームの競演とでも申しましょうか、ただただ目の保養として眺めました。
 今回の博覧会は音響と共に映写技術の向上発展が予想を遥かに越えて素晴しく、ただただ驚愕するのみでした。想い出すのは久留米市の水天宮の夏祭りで毎年5月初めの3日間は大変な賑いとなり、九州一円はおろか四国方面からも参拝の人が集ります。このお祭りは農家が水天宮様に「水頂」の祈願をされるもので、今日に至るも続いています。近くの小学校には風に乗り「ジンタ」の響が教室に流れ込み勉強どころではなく、又3日間は境内せましと見世物小屋が建ち並び、中でも小屋の男衆の呼び込みの口上は神技とでも云うのか、人々はソロゾロと場内に吸いこまれて行きます。
 只今箱崎宮で放生会が賑っていますが、呼び込みの男衆は拡声器を使っているので声高に聞こえるだけで昔のように人の心をくすぐり入ろうという気にさせるものではないと思います。夏祭りの呼び物はサーカス団の曲芸ブランコですが、加えて初の動く活動大写真の小屋が大変な人気を呼びました、薄暗い場内は土間一ぱいの立見で片方の天幕に広い白布が取付けてありチラチラと写りはじめる。
すると突進してくる騎兵の軍馬の大群を迎え撃つ歩兵の銃口より白煙が立ち上りますが騎兵は歩兵を蹴散し白い布から飛び出してくる。見物人はウーツとうめき声を出し横ヘヨロヨロと倒れかヽる。軍馬の集団は向も長剣を振り播して突進して来る。迎え撃つ歩兵の銃口より再度白煙が立つ。軍馬は歩兵を蹴散し再び白布より飛び出し見物人はヨロヨロとなる。大人も我等子供も大満足で「動いた活動写真を見た」と興奮する。遠い昔のことであるが忘れることが出来ない。
 博覧会のある度毎に福岡市の発展が約束されると云われていますが、次回は21世紀になりましょう。願くは明治生れの小生、せいぜい長生し、更に発展した博覧会をみたいものと念じております。



 叔母が亡くなり住む人が居なくなった隣りの古家を、思い切って建て直した。
 引越しという段になり、思いの外荷物が多いのに手を焼いた。家を取り壊す前に運び込んだ義父、義弟の遺物、なかんずく書籍が、山のように私の前に立ちふさがった。
 之を捨つべきか、捨てざるべきか、一寸、ハムレットの心境に立だされた。
 義父の土木関係の専問書、義弟の医学書は私にはチンプンカンプンだから捨てる方に片寄せる。古びてはいるか、岩波文庫は全部残すことにした。完全なる結婚、東洋の聖典カーマスートラ、世界裸体美術全集、中里介山著大菩薩峠全八巻等々は勿論残す方。とに角文学や趣味の本等、柔い本はとっておくことにした。
 捨てる本は六本松の古本屋に来て貰って、商品になるものは引取って貰った。
残りは「毎度おなじみの……」廃品回収のオジサンに頼む。
 「古本屋を呼ばれたら高く買って行くのでは……」と親切に言って呉れたから、「古本屋が引取った残りだ」と答えると、「こんなのは売れると思うのだが」と言って、段ボール2函入れ「残りは溶かされてしまうがよいですか」と言って、3千円と例のちり紙を置いて運んで行った。
 さて、生き残った本の山に目を通していると、東西名詩集、吟詠漢詩集と銘うった一冊の小冊子が出て来た。よく見ると、キング新年号附録と書いてある。
これは懐しい。いつ頃の本だろうかと奥附を見ると、昭和11年1月1日発行、キング第十二巻第一号附録とある。更に、キング新年号本紙、7大附録共定価70銭と書いてあった。
 頁をめくると、落合直文の桜井の別れ、国木田独歩の山林に自由存す、土井晩翠の万里長城の歌、三木露風のふるさと、川路柳紅のうわのそら、堀口大学の夕ぐれの時はよい時等々100編余りの詩がのっている。
 外国篇には、ワーズワースの雲雀、バイロンの恋の起原を問はれたるに、ヴェルレーヌの落葉や都に雨の、ゲーテの菫、ブッセの山のあなた等40曲。
 吟詠漢詩集には、皇朝篇に約50、漢上篇に約40の代表的名作がのせられている。
 危うく捨てられる所であった、このちっぼけな小冊子は50年振りに陽の目を見た。タイムーカプセルから取り出されたこの本の貴重な珠玉は今私の掌の中で輝いている。
 30年住みなれた広椽にあぐらをかいて、私は昭和10年頃の自分の姿を思い浮かべていた。


 12.魚の目

 子供の頃、鳥飼の祖父の家に親類の者が集まると、鯛のチリが出されていました。私は鯛の目が好きで、千加チャンの目玉と言って当然私か頂くことになっていました。トロリとした所をすすり、大きな目の玉を少しずつ噛り、家に帰る道すがらも口に入れて、半透明の水晶体になるまで、口の中で遊ばせていました。
 近年娘が里帰りしてきた時、夕飯の食事に尾頭付きの小鯛の煮付けを、各自の皿に盛付けて並べ、一寸目を離した隙に、3才の孫娘が来て、あっという間に次々と、どの皿も魚の目に指を突込んで喰べてしまいました。娘がこの子は注意していないと、いつも目の玉を喰べられてしまうと言います。これは美味しいからでなく、目の玉の形が面白いから、やったに違いありません。
 家の猫に鯛の頭をやると、一番先に目の所を喰べます。どうやら目は美味しいのでしょうか。栄養があるのでしょうか。たまたま私が見ている時に、目を最初にたべたということなのでしょうか。
 今も鯛の目のある所、即ちお頭は、主人をさしおいて、私か頂くことにしています。
 私はいつも鯛の大きな目を見ると、昔親類が集まって、賑やかに食事をしていたことを思出して、なつかしくなります。もう70年も昔の事です。
 近頃老化現象で皮膚が硬くなった所為か、手の指に魚の目が2つも出来ています。きっと私か喰べた魚の目が、凝り固まって出てきたに違いありません。



 何か書くとなれば必ず過去の想出話になる。昭和も63年で終り来年は天皇の即位式となる筈です。昭和天皇の場合とどう違うだろうか? 礼宮様のご結婚は?
そのとき総理は誰だろうか? あれこれ明るい事ばかり想いめぐらす事にしている。確か65年前にご大典の行われた記憶があり、強烈な印象が残っている。
大典の献上米を作る県が全国で2県きめられるのです。その1県が福岡県となり主基田が決定されたのです。県内でも早良郡脇山村(現福岡市早良区脇山町)、朝倉郡の秋月町が候補地となり、なぜか脇山町に決定した。山美しく水清い良村民の喜びであり福岡県民の誇りでありました。
 主基斉田の植田の選定も亦大変だったそうです。決定すると植田は勿論のこと村全体の警備も大変だったとか。田植は人、牛共白装束で、神事故に脱糞に備えて籠を持って田作業をした。早乙女の条件は未婚の20才以下で父母実在と云う厳しいものだったとか。姉がその選にもれて泣いていたのを覚えている。
 私は遠足で稲刈の跡を見ました。村民が採れた白米を一粒一粒絹の布で磨いたとか?。そして献上米は早良郡鳥飼村鳥飼駅から京都へ送られたと聞いています。
当時私の家は電灯がやっと来た位で新聞もとっていなかったので、以上は学校で先生から聞いた事です。あれから半世紀以上も経った平成2年は色々な報道が溢れて楽しみです。日本中の津々浦々に日の丸が大巾にはためく事は間違いないでしょう。
 昭和2年ご大典の奉祝歌を紹介します。
(一) 三種のたから受継て(三種の神器のこと)
    天つひつきの御位に
    わが大君のつき給ふ
    賢き今日の大祭典
    祝へ 祝へ いざ祝へ
(二) ゆき主基の由の新し稲を
    みけと奉りてすめらぎに
    わが大君の…………  一番に順する   終



 梅雨の時期、ひとときの休息を思わせる様な青空のもと、私は始めて高令者教室に参加させて貰い車中の人と成る。車中は満員で区役所前を定時に出発する。
先づは公民館主事先生の新入者の御紹介に私は席を立ち皆様に感謝を込めて御あいさつをする。よろしくお願いしますとドギマギし穴があったら入りたい思いでした。
 バスは福博の街並を目的地に向って走る。主事先生の今日の旅について、目的地、それに対しての注意事項。色々と説明があり、その後色々なお話に耳をかたむける。太宰府インターより九州自動車道へと登って行く。その頃より車中は童謡の大合唱。果ては軍歌へと広がって行く。童謡にそれぞれの幼き日を思い、幼なき友、そして古里を偲ばれた事と思います。私も清き流れの小川で幼なき友とメダカを追った日々。かくれんぼをした古里のお寺の庭を懐かしく思い返す。亦軍歌に戦中戦後と我が国未曽有の大激流に押し流された自己の人生を思う。老人は追憶に生きると聞きます。最近事あるごとに昔の記憶を辿る自分を発見することがあります。
 八女インターで高速道路を下り、清き流れの矢部川のほとり。舟小屋温泉を車窓に眺め、車は瀬高町へと入って行く。風光明媚な瀬高。自然の美しさの山ふところに包まれた瀬高の町並を窓外に見ながら始めの見学地に車は着く。造り酒屋。
竹のタガで締められた木製の大きい酒樽を想像していた私にはホーロウ引の容器が数知れず整然と並んでいるのにびっくりさせられる。酒造りの近代化の中で伝統を護られる人々の心にかかる重さをかいま見た思いでした。
 次は史跡清水寺へ向う。先づは本坊庭園。静かなたたずまいと風影に胸を打たれる。しばらく立ち去りかねる私は人々の足音にせかされるように足を運ぶ。登山道の左手にある五百羅漢、数え切れない程の大小の地蔵に目をみはり、亦右側にはこけむした石に芭蕉と記した字を読む事が出来ました。仁王門をくぐる頃、主事先生より「二百段の石段よ。頑張って。」との声を励ましに、一段亦一段と自己の体力を確認しながら登って行く。清水寺に登り着きホッと息をつく。空の青さと木々の濃緑に映えた朱塗の三重の塔。唯呆然と疲れも忘れて見る。すばらしい眺めであった。
 清水山荘での和気あいあいとした楽しい昼食に舌づつみを打ち山荘にお別れして再び車中へ。さよなら瀬高と心の中で呼んで見る。
 みなさま御世話に成りました。有難度御座いました。今日一日楽しかった社会見学。引卒の諸先生様、心から感謝しつつ帰途に就く。

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