別府の星座(3) (1984年)

                                         2015/04/15 登録
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 福岡市民のことば
 福岡市は九州の首都、あすへむかって、いきいきと発展しています。筑紫野の緑と玄海の白波にかこまれ、ここは輝かしい歴史と伝統が築かれてきました。
 わたしたち福岡市民は、誇りと責任をもって、次のことをさだめます。
 1.自然を生かし、あたたかい心にみちたまちをつくりましょう。
 1.教育をおもんじ、平和を愛し、清新な文化のまちをつくりましょう。
 1.生産をたかめ、くらしを豊かにし、明るいまちをつくりましょう。
 1.力をあわせて、清潔で公害のないまちをつくりましょう。
 1.広い視野をもち、若さにあふれる市民のまちをつくりましょう。

 ※ わたくしたちふくおか市民は、「差別のない明るい福岡市」をきずくために心と力をあわせましょう。


  目 次

1. (雑感)  高令者生き甲斐の創造
2. (近況)  方位吉凶図
3. (友人)  おばあちゃんの家出
4. (旅行)  旅の思い出
5. (雑感)  昨今あれこれ
6. (雑感)  老人の福祉と高令化について
7. (友人)  再会
8. (近況)  一ヶ月の入院生活の反省
9. (家族)  孫の受賞を喜ぶ
10. (家族)  施我鬼に思う
11. (近況)  わたしの公民館利用
12. (旅行)  ハワイ旅行の思い出
13. (旅行)  久留米行き
14. (近況)  叙勲受章の感激に思う
15. (雑感)  町内の清掃より思う
16. (友人)  ある出会いから
17. (近況)  別府高令者教室に学んで
18. (家族)  健康の有難さ
19. (近況)  多忙の日々
20. (近況)  老後の生甲斐
21. (旅行)  高野山に詣うでて
22. (近況)  健康
23. (近況)  独居者のひとりごと
24. (雑感)  公徳心の欠如
25. (旅行)  箱根湿生花園に遊ぶ
26. (趣味)  趣味に生きる
27. (旅行)  楽しい一日
28. (家族)  七十才からの人生
29. (縁)   
30. (友人)  夏の日の再会
31. (災害)  水虫交際記
32. (近況)  大濠公園の朝
33. (家族)  還暦
34. (思い出) 小学生時代の思い出
35. (郷土)  太閣道の逸話
36. (趣味)  過去の思い出
37. (思い出)  小学五年の夏休み
38. (郷土)  博多駅に思う
39. (雑感)  ほんとうのお色気
40. (雑感)  ぐち
41. (旅行)  知覧を尋ねて
42. (旅行)  高野山一人旅
43. (風景)  山の中
44. (縁)   偶感
45. (戦争)  私の八月十五日
46. (家族)  騒がしかった夏休み
47. (故郷)  私の故郷
48. (縁)   私の生き甲斐
49. (友人)  初盆
50. (家族)  敬老の日


 おわりに
 本年度は公民館創立20周年の記念文集を編集しようと、会員の皆様方の盛りあがりで、誠に立派な内容の文集が編集されました。
 戦前、戦後の皆様方の喜びや悲しみ、楽しみや苦しみ、教訓あり修養ありと多方面の経験が記述されまして、読まれる方の日常生活の資となり、大変有意義な文集になりますことを喜んでいます。
 この20年を記念いたされた文集の編集を機会に、会員各自が自叙伝記まで計画されますようお勧めいたします。
 高令化社会が進む中であっても、無意味な生活を送られる方はいらっしゃらないと思いますが、今後更に、社会奉仕による社会参加の喜びを持たれ、生き甲斐と感謝の長寿を祈念いたします。

    昭和59年9月
別府公民館 館長  古賀一男



 感想文を書くといっても高令者教室に2回の出席では纒った感想なんて何にもない。高令者教室のテーマに自らの教養を高めるというのがあるので、そんな内容の文でも書いてみよう。
 二川力也氏と私とは無二の親友であったが惜しいことに4年前癌でなくなった。
生前は共に当仁公民舘等のお世話をしていた。この二川氏の家は旧町名が桝木屋(今の唐人町2丁目)の旧家で祖先に国学者二川相近の生れ育ったところである。
 二川相近は今から180年ほど前江戸時代末期の人で幼少の頃から亀井南冥に師事し当時の福岡藩校甘菜舘(唐人町にあった)に学んだ。はじめ政治・経済を志し、医事にも精通したが、感ずるところあって国学を深くし、書道に専念し、二川流の執筆法を創始した。また楽律にも精通し「古学者符」を著し、今様歌を研究した、歌聖人として有名な大隈言道は相近より学んだ。また勤皇家野村望東尼や蘭学者緒方洪庵らの歌もその影響を受けているところも多い。
 相近は毎年年頭にあたり儀式として「君が代は千代に八千代にさざれ石の……」の和歌を揮毫し謡い神前に供えていたという。二川家には今もその書が残っている。実に見事な書である。
 また今様歌は相近の作が多い大隈言道も神近に師事し今様歌を数首作っている。
相近が好んで謡ったものに、「春の弥生のあけぼのに 四方の山辺を見わたせば花ざかりかも白雲の かからぬ峰こそなかりけれ」その他沢山書いているが、これが黒田節として有名になり、全国的に愛唱されるようになったのは明治になってからで、特に最近はラヂオやテレビで放送され標準民謡歌詞集にも記載されていることは諸賢のご存じのとおりである。
 君が代の詩は相近の作であると私は思っている。


 2.方位吉凶図

 君の神経痛は、筋力の老化と共にあるので、常に、適度な運動を継続的にやらなければならないと、医者から言われているので、家から北東の方向にある城南市役所のプールに夏中通って運動に心掛けた。
 或る日テレビで、占い専科のコーナーがあり、私の運勢では、北東の方位が大凶であるから、この方位に向かって事を起こさないようにと放映されていたのを家内が見ていて、この夏からプールに行って泳ぐのは、方位が大凶位に当るから止めてくれ、どんな危いことが起こるか分らないと言い出した。
 神宮館暦でみると、果たして北東の方位は五黄殺という大凶の方位になっている。自転車に乗って行くので、転んだり、自動車にぶつかったりしたら大変だ。
それで方位確認のため、180円で磁石を買い、測ってみたら僅かながら初め思っていたよりはずれている。それでさわらぬ神に崇りなしと考え、まっすぐプールに行かず、一度真北に向い、それから樋井川に沿い東に進んでプールに到着する方法をとって、この一夏、8月中を楽しくしかも何んの災いもなく泳ぐことができた。テレビの占いも別段何もなく過ごしたから、さて9月の運勢はと思いながら再度方位を測定したら、前回と違っている。おかしいと思って測定位置を変えてみて解ったのだが、前回測った位置はステレオのスピーカーの上で測定していたのだった。そのためスピーカーの電磁石に影響され磁石針が振れていて誤まった方位を指していたのを知らずに、自分勝手に方位吉凶図を判定していたことになる。諺に言う。“めくら蛇におじず”これで良いのかも知れない。何しろ災
いもなく、楽しく泳ぐことができたのだから………。
 しかし、昔から言い伝えられることで良くないことはしないに越したことはないと思う。



 友達のお母さんは88才、なかなかの元気者。6月の或る日、友達がおばあちゃんと口喧嘩をした。其の喧嘩を忘れて買物に出かけ帰って来てみると家中全部戸締りがしてあり呼んでも返事がない。風呂場の上の鍵がかかってなかったので其処から家に入れた。
 1時間、2時間たってもおばあちゃん帰って来ない。そこへ、大阪空港から電話がかかって来た。何と、おばあちゃんが大阪空港に来て居るとのこと、ビックリ!!。滋賀県の大津市に居る弟さんに電話をして、大阪空港に行って貰い大阪空港から福岡迄おばあちゃんを連れて来て貰ったとのこと、弟さんのいるところから大阪空港迄2時間もかかる。それ迄、スチュワーデスの方が、おばあちゃんを守りしていてくれたとのこと。
 帰って来たおばあちゃんに、「どんなにして行った」と聞いたら、タクシーで板付に行き、運転士さんに切符を買って貰って、大阪へ行く親子の人に大阪行きの飛行機に乗せて貰った。其の時スチュワーデスが年よりが付添もなく一人で飛行機に乗って来たので変だなあと注意していたとか、大阪に着いても誰も迎えに来でなくてうろうろしていたのでスチュワーデスがおばあちゃんに色色尋ね、おばあちゃんの持っていた手帳に書いてあった電話番号を見て福岡に電話をかけてくれたとのこと。友達もまさか大阪迄家出するとは思ってもみなかったので唖然とした。さいわいに大津市に弟さんが居たので、おばあちゃんを其の日のうちに連れて帰って来られた。
 弟さんおばあちゃんのお蔭で「大阪・福岡の往復で6万円かかった」とこぼしたとか。「おばあちゃんよく一人で大阪迄行ったね」と文句を言ったら、けろっとして「口さえあればどこへでも行けるよ」とすましていたとか。それからは、おばあちゃんお小遣い銭を渡してもらえなくなりました。ともかく88才になっても、しゃきしゃきしているおばあちゃん、寝たきり老人、ぼけ老人になるよりどれだけ有難いか、しみじみ思い知らされおばあちゃんの長生を祈らずにぱおられません。


 4.旅の思い出

 暑かった夏休みも漸く終盤に近づいて、騒々しかった孫達も帰って行き、やっと落着いて、ペンの運びとなりました。
 私は旅に出た時は、車窓から見える景色の移り変り、青々とした田園、山々の蒼然とした眺めや、田舎の家々のたた住いなど、娘時代に住んでいた頃のことが思い出され懐しくなります。
 一日バスに揺られて、閑静な川辺の水音が聞える宿に着いて、ホッと一息入れる時、お茶菓子のほんのり甘い香りが心をやわらげてくれます。ゆったりと温泉につかって、旅の疲れをいやし、夜は宴会で、皆なでお酒を酌み交わし、賑やかに歌ったり踊ったり楽しく食事をしたあと、銘々部屋に帰り、夜の更けるのも忘れて、四方山話しに花を咲かせ、いつの間にやら深い眠りに着いていました。
 翌日は名所巡り、日田の竜門の滝を見、テレビで見た時は、滝の所だけが、川巾も広くて河原にはバンガローが所々に見られ、そばの茶店でお茶をご馳走になり、漬物やお茶を買う。次は羅漢寺に廻る、私の6年の修学旅行の折は上まで行かなかったと記憶している。今度はリフトが出来、登るのが楽でした。色々とお願い事を杓子に書き、それは内緒、下りのリフトで、高いのに目が廻り慌てて目を閉じて下りました。青の洞門で川の方が絶壁で明り窓も小さいのが所々で昔の面影はありましたが、川辺は草が生い茂り、道も広く車道がついて綺麗に舗装されて、土産物屋も近代的な建物が出来て、沢山な品物が並び買物も色々と楽しく見て廻って、車中の人となる。しばらく行くと耶馬渓の名所に出る。切り立った岩、永い年月の間に風雨にさらされ、山水画を見る様な絶景が暫く続き、景色にうっとり見とれました。紅葉の季節は一だんと美しい眺めでした。車中では皆ん
なで、歌をうたい乍ら車は高速道路をひた走りに福岡に向って走ります。旅の疲れも忘れて、元気だったら又行きたいわと、話しながら車は福岡着。



 夕暮れもせまる頃、狭庭のあちこちから、すだく虫の音を聞くと、一年に一度の秋だけの味覚物が楽しめると、豊かな気分になってくる。来年は?と思う気持ちもひそんで、余計にそう思うやも知れぬ。我々の現在では、この豊かな食料の溢れた有難味も薄らいでいる中で、毎日のように報道されているアフリカの様様な被害に多くの餓死者をだしている現状を見るにつけ、聞くにつけ何とかならないものかと、戦後のあの食料難も併せて想い出し、心痛に耐えないのである。
昨今では、色々と義援金の為の運動も盛んに行われてきたようで老いの身にも、ささやか乍ら出来得る参加をと感じる次第である。
 若い時は、戦後のひどさも手伝ってさして食物に関心は無かったが、馬令を重ねくる内に病いに臥し、改めて健康維持、精神安定の為にもバランス良く食することの大事さを多いに考えさせられたり、感心した。唯今では、この平和な日々の中で教育の高度化に相まって、各々の内容も充実、水準も高く、唯々、私には食べることでもなる程とうなづくことの増えたことである。現在は、少量でも万辺無く口に運べる食物に、有難さと共に日々の健康と安らぎに喜びを噛みしめている。



 我国も世界有数の福祉国家となり、特に老人福祉については、年金、医療制度の充実によって、老人は安らかな余生を送れるようになった。年金制度の経済面だけでは、真の福祉とは思わない。老人に年金という小使銭を与えて、子供らと同様に遊びに出すような敬遠する考えでは、真の老人福祉とはいえない。戦後の青少年らは今の老人に何が分るか、又は時代が違うと敬遠するのを聞く。殊に有識者の中には口を開けば、将来の高令化社会対策を憂慮しておるが、高令化即ち長寿は医療機関の進歩と、社会生活の向上がもたらした健康の賜であるから、長寿健康の老人を敬遠せずに物事に対し分別もあり、経験による思索力をもっているので、これを適当に活用して、高令化対策の一端にされたい。現下の社会情勢は敗戦という結果で、おし与えられた民主主義自由主義を自己本位に解釈し、ま
た物質の豊かさのためとにより、精神道徳は、蔭を潜め道徳観念は癈頽の状態にあり戦前は教育勅語という節度ある社会道徳の鏡があった。戦後は社会、共産党ら関係者の中には反動だ軍国主義の復活だと、また言論の自由化に便乗反対し、義務を疎かにし権利のみ主張するため、道徳観念は衰退の一途を辿り、青少年に悪影響を及し犯罪と校内暴力等の悪結果を来したため、青少年問題が重視され、これを防止するため、道徳教育の実施を叫けぶようになったためか、新聞報道では昨年は校内暴力が減少したとの事だが現在社会では青少年不良化は軽視出来ぬ事であり、殊に青少年犯罪は戦前の我々の想像もせぬ凶悪犯罪を敢行する状態は、前述の社会観念が原因と思われるので我等老人は将来誇り高き高令化社会を築く責任ある先覚者と共に善良なる青少年の育成に老人も努力し、現在の長寿老人福祉制度に対する感謝の一端としたい。


 7.再会

 今年の夏も毎日きびしい暑さでした。
 戦後39回の終戦記念日を迎える度に私は、あの時一緒に疎開した知人がなつかしく一度再会出来ればと思って居りました。1月の高令者教室で講師としてお迎えした方が偶然にも昔一緒に疎開したご家族の当時まだ中学生の次男の方と知るのに時間はかかりませんでした。お話は「老人福祉と余生を楽しく。」でした。
私共の知りたい皇室宮家の細々な様子面白く話され、教室一同笑の中にたのしいひと時でした。又ご両親も健在と耳にして私はお話を聞き乍らあの三笠村で一緒に過した事を次ぎつぎ思い出して胸が一つぱいになりました。北風の冷い冬もすぎ春の暖かい日に30年振りでご夫妻をお訪ねしました。
 今年米寿を迎えられたとは思えぬお元気で思い出話をあれこれ語り合い近頃にないたのしい一日、そして本当に長生してよかったと喜んで下さいました。おたがいに苦しかったこと、つらかっか事など笑顔で話せるのは幸せです。
 これからも公民館の皆さんと心のつながり、再会を大切に健康でたのしく過したいと思います。



 59年春の彼岸もすぎボツボツ暖房器具も片付けたい。でも朝晩は冷えると思う頃3月26日夜中12時頃フト目が覚め脊中の鈍痛と嘔吐、25年前患った胆嚢炎ではないかと、痛みを朝まで堪え、早朝娘の婿の車でかかりつけの病院へゆき、診断の結果、即刻入院とのこと、今は医学も進みすぐ手当をして頂き、痛みもとれ、その後は絶食・点滴をくり返しI週間もしたら退院出来ると思ったが検診検診と日時はまたたく間にすぎて、その間主人を始め家族他人様までに心配迷惑をかげ申しわけなかった。格子なき牢獄というかべッド1台が我が住い、空しい瞑想に耽り、医師の退院報告を心待ち4月25日無事退院出来た嬉しさ、健康の有難さをつくづく感じた。胆嚢はあて字で堪能ともきく、喜びと絶え偲ぶ精神、不徳な自分には満足が足りない。第一主人に対し感謝の念で仕え、ルーズな行いは戒める事健康食品センターでの話で五臓六肺の内臓の働き血液の浄化、体毒の排泄、食生活の改善、人にはそれぞれの境遇環境があり一様にはゆかないが精神面での頑固な性格癖性分個人的な動作の傾向が病として表われ、難病ともなるときく時、反省すべき点の多々ある自分を素直なやさしい心のもち主になる事に努めたい。夫婦の年輪にも愛と努力忍耐、あきらめを通りすぎ結婚55年の年輪ともなればお互い労わり励ましあって無事長生させて頂いてこそ価値あるものと思う。1寸先は闇、昨日は人の身、今日は我身だんだんと赤子(二度童)となり不自由な身となっても精神的にはお互い思いやりの心でゆきたい。
 お蔭で主人は健康でゲートボールに一生懸命、朝7時半頃出かけ10時半頃帰宅、シャワーを浴び冷茶を一服、中食をすませると日頃無表情な人が「狭いながらも」と口ずさむ、その後私か「楽しい我家でしょう」と言う。向にいる外曽孫と共に戯れ遊ぶ姿を見て健康の有難さを感謝せずにおられません。今年の夏は殊の外暑かったがクーラーのお蔭で暑さを凌ぎ、時代の変化に感嘆する許りです。
今日まで生きながらせて頂いた賜物と喜んで朝夕お礼を申す次第です。



 私の孫は、或る私立高校に今年入学した女の子です。この夏に九州朝日新聞主催の書道会で、美術館にて受賞式がありました。文部大臣賞は、トロフィーと賞状、新聞社賞は楯と賞状で楯は大きいものでした。金色にひかって見ごとなものでした。講堂で壇上に上って受けるそうです。重たいので落さないようにと一生懸命だったと言って居りました。賞状やメダル、小さい楯は前にも頂いたことがありますけれど金色に輝く大きいものは、今度が始めてで、孫ながら私までが嬉しかったです。私も努力賞として金一封を上げました。両親の喜こびは一方ならぬことと思いました。学校としても名誉でしょう。受賞式には、母親がついて行きました。私は数日後に見に行きました。文部大臣賞は宮崎の高3の人でした。
受賞式には沖縄からも来ていられたそうです。本人に取っては二度とない受賞式でしょう。文部大臣賞は書き方が変った書き方でした。高、中、小の皆さんのものが沢山ありました。皆さん上手に書いていられました。先生のご指導と本人の努力と思います。受賞出来るのも本人の努力のたまものと思います。何事も人生は努力です。
 出校日に校長先生が全生徒に発表されるそうです。出校日に持参せよとのことでした。今は大事に草ヶ江公民館で習っている先生に見せるまでははと箱に入れて大事にしまって居ります。人間は孤独なのがほんとうの姿とか、要は悩みに負げず前進するのみ。悲しげに過去を振り返えることなく現代を大切に将来を迎えましょう。高令者の皆さん、自分の体は自分が健康状態をよく知って、体をいといながら長命でありますよう頑張りまし太う。皆さんのご健康をお祈りいたします。

  一人来て一人行く路の旅なれば
    連れても行かず連れられもせず



 毎年お盆前に檀家寺から施我鬼の案内状が来る。施我鬼とは一体何なのかと字引を引いて見た。飢に苦しむ生物や無縁の死者の為に供養をする事とあった。
今幸であれば尚更施我鬼は必要だと感じた。8月8日が其の日に当るので親類やお寺参りの用意をしていた時に別府老人クラブで白糸の滝のソーメン流ヘー緒にと誘われたが同じ日なので残念乍ら断った。其の日は特に暑かったので今頃は滝の前は涼しかろうと思い乍らお寺へ着き本堂からお位牌所まで念入りに拝んだ。
檀家一同食事を頂き事務所で電燈代や納金を済せ施我鬼の行事が始る。親和尚様を中に若いお坊様達が沢山お経を上げられたり御詠歌が始ったり供養が終って色紙に仏字を書いたハ夕を貰ってお寺を出た。それから浜崎の実家に行く甥の嫁が足を骨折して入院したと聞いて見舞をかねて仏様を拝もうと来て見たがさすが大きな家もがらんとして淋しかった。姪が色々と気を使って呉れた。久振りに仏前に座り長生だった祖父母、父母と兄夫婦、私が育った頃の人は皆お位牌となられ目を閉じて静かに心経を唱えると次々に懐しいお顔が浮んで見え御無沙汰をお詫びした。終戦頃とても心配をかけた母が突然心臓麻庫で亡くなった。子沢山だったのに誰一人死水も取らずに親の苦労が身にしみているだけに涙が枯れるまで泣いた。「孝行をしたい時には親は無し」「石に布団は掛けられず」等思い出し、
あの頃の苦しかった時代を思い起す。それから若くして死んだ姪と妹夫婦の家行き仏前に座し笑顔で迎えて呉れた様な3人の写真を見上げて何の不自由も無いのにどうしてと、癌を憎み乍ら生きてるうちが花よと良く言うじゃないの全くつまらんと一人言を言乍ら5時頃帰宅した。今日は施我鬼参りをしたせいか身内の者としみじみ会えた様な気がした。
 私にも子や孫がいるので両親を見習って真心から皆の要になりどの子からも敬慕される様な良き母親にならねばと思う。



 わたしが別府公民館を利用し始めたのは、10年程前からのことと思います。
第1に、「高令者体操」に参加して、硬い筋肉をほぐし、体の調子を整えることにしています。第2は月に2回の「高令者教室」にて、知育・徳育・体育の教育の三本柱を公民館で納得のゆく立派な講師の先生方に来ていただいていますので、必ず出席しています。本当に勉強になりますし、ぼけ予防にと頑張っています。
第3に週に1回の大濠公園一周の「歩るこう会」に参加して、婦人会の若い方々と、運動することがこの上もない喜びです。第4に、月に一度の「短歌教室」に学んでいることです。経験もなく詩情もわからないわたしが、この教室にはいらせてもらったのは、長命するためには、体を動かす運動にはいろいろ参加していますが、頭の体操になる方面が少ないので、少しでも頭の運動になりますならばと、思いまして参加させていただいています。ところでこの教室でできました短歌を一句、皆様の御批判と、御指導をお願いいたしまして、詠まさせていただきます。
 ・めぐりきて遠のさきもり都府楼のこけむす石にしばしたたずむ
 ・やぐらした大樹そらをさえぎりて落葉ちりしき小鳥とびかふ
 ・ほりめぐりこじょうのもと足とめて木の間をもれるそよかぜたのし
 ・波高きうきよの海にただよって永き八十路をゆめて越ゆく



 私がハワイに旅立ったのは、昭和59年5月3日であった。近畿ツーリストのツアーである。一緒に行く事になっていた友人が都合が悪くなって、パスポートの期限も迫りとうとうI人でゆく決心をした。少々不安な気持ちがないでもなかったが、ヨーロッパ旅行の経験もあったので……。
 おひる過ぎ福岡空港を発ち、1時間余りでソウルに着いた。生れて始めての韓国でした。ソウルから直行便でホノルルに約8時間で着いた。機中夜の11時、2時過ぎに食事が出たのには閉口した。食べる前にはジュース、酒、ビール等が出るので、ねむるひまもない。2時過ぎの食事の後、「お早うございますホノルル空港に間もなく着きます」のアナウンスで、もうその時は又5月3日の朝になっていました。日付変更線のいたずらです。
 ホノルル空港には、ホテルの方がレイを持って迎えに出てくれていました。
常夏の国、ハワイ、快晴、ホテルはアラモアナホテル、36階建の素晴しいホテルであった。私達は16階、新婚さんが8割であった。あてられ通しで若い時はほんとうにいいなーと思いました。ワイキキビーチ、ヨットハーバーを目前に見て、そのすばらしい海の青さが目にしみた。高層ビルの林立、ベランダからの眺望は見事であった。平均温度23・4度、暑くもなく寒くもなく、下を見るとプールサイドで外人達が甲羅干しの最中であった。
 本場ポリネシアダンサーの火の踊り、フラダンス、真珠湾巡り、カウアイ島巡りのおひるの食事の美味かった事、ワイルア川下りでシダの洞窟にいった事、ワイキキ海岸の沖で船を浮かべての踊りと食事、太陽の沈むそのきれいな海を見ながら私はつくづく幸せを感じた。大ショッピンクセンターでの見物等かき出したらきりがない。楽しかった思い出を胸に私は5月8日午前1時半ホノルル空港を後に又機中の人となった。



 5月29日町内の老人会から久留米市に行きました。参加者は25人でしたげれど皆親しい人ですからバスの中では話が沢山あって時間の過ぎるのが短い様でした。
 大野城市から高速道路になり11時には追分町の地場産業舘に着きましたが、当舘では久留米市周辺の名産を展示即売する所です。色々珍らしい品が沢山あります。その内で皆が驚いたのは紺絣の洋服でした。
 紺色を淡くして上品な若い人の好き相な物や、婦人用帽子や日傘、又はハンドバック等です。男子用には同じく絣の下駄があり、その他本当に数多くありました。皆さんお金入れと日傘を買われて嬉しいと笑いました。
 次は高良山に行きましたが、会長さんの戦友で久留米市内に住んで居られる人の案内で森林公園から登ります。高良山神社に11時30分に着いて参拝して、山頂から久留米市内を見渡しました。幸いに天気が良いので遠くまで良く分りました。境内を出る時は鳥居より石段を下ってバスに乗りまして次の石橋文化センターには12時に着いて食堂で中食を済ませました。
 2時まで休みましたがバラ園が余り美しいので全員が写真を撮りました。木陰では中学生が弁当を食べ乍らバラの花を見て大変美しいので楽しい様子でした。
立派な日本庭園もありますが時間が無くて残念乍らゆっくり見られずにセンターを出まして、明治通り経由で瀬の下町の久留米水天宮に参拝し筑後川の流れを見乍ら3時を過ぎたので水天宮様にお別れの参拝をし、有馬藩主の篠山城跡と久留米医大の間を通って小森野橋を過ぎ鳥栖経由で福岡に4時30分に帰り着きました。
 本当に楽しい一日の旅行でございました。



 本年春の叙勲に際し、私は、労働関係の功績により勲五等に叙せられ、双光旭日章が授与されるとともに皇居において拝謁があることとなった。5月15日がその受章及び拝謁の当日である。
 この日、労働者講堂において午前11時、大臣代理塚原政務次官より、勲記は本人に、勲章は配偶者に親授され、“各位は永年に亘り、労多くして酬いの乏しい業務に挺身尽瘁され、国家の今日の繁栄の基礎を築かれたことに対し、同職として後輩として、まことに御同慶の至りに存じ心から祝福申上げる”との挨拶があった。感激の一瞬である。受章者一同73名は、昼食に舌鼓を打ち、それぞれ記念撮影の後、いただいた勲章を佩用して、午後2時15分皇居に参内することとなった。巨大な人間関係のメカニズムの激流が昼夜の別なく逆巻いている大東京都の真中に、まことに森厳幽邃な別天地が厳存するのに一驚すると同時に、皇居春秋の間の輪英の美に輝く豪華絢爛さに仰天していた私は、陛下のすこやかな御雄姿を拝したとたん、滂沱たる涙を禁じ得なかった。
 「諸君は永い聞、国家のために働いてくれてありがとう。今後も健康に注意して一層努力するよう希望します。」とのありがたい、ねぎらいの御言葉を賜わったときは一同粛然、襟を正し、感激に咽ぶばかりたった。
 そうだ!日本に生れてよかった!長生きはすべきものだ!と心から快哉を叫びたい衝動にかられたのは私一人ではなかったと思う。
 かくして、勲記及び勲章は燐然、私の居室に輝いている。この叙勲制度の偉大さ、尊さは各界から寄せられた夥しい祝文祝電の山によって痛感される。私はこの栄誉に応えるため、生命と健康の許す限り地域社会の発展、民生安定促進のため鋭意努力を続けたいと思う。



 去る9月24日、町内一斉清掃を行なった。これに参加した人は200人余り、道路に、空地に、そして七隈川の清掃にと皆さんの協力によって町内は見違える程にきれいになった。然しこの清掃に参加した人を、年令別、男女別に見た時、私は奇異の感を受けた。
 アパート住いの多い20才台の若い人は男女共に一人も参加していない。参加者は女性の方が多く特に家庭の主婦、それも30才台から50才台、60才台以上が之に次ぎ、男性の50才台以上の人が女性に混っていた。壮年男性は重労働の七隈川の清掃にあたった。
 こうした共同の作業に20才台の若い人の参加が無いと言うことに深く考えさせられた。
 長い時間をかけ道路や側溝を掃き砂まで取り除いてくれた人、道路脇や空地の草取りを最後までやってくれた人。又、七隈川の中に入り、3時間余りをかけ起重機までも使って草や空缶ごみなどを取り除いてくれた壮年の男性たち。こうした人たちの苦労や努力によって町内は見違える様に、きれいになった。「やはりきれいになると気持ちがいいね。」、「御苦労様でした。」との声も処々で聞かれた。
 然し翌日になると又、所どころに空缶や空ビンがころかっている。道行く人、特に車に乗った人が捨てて行くのだ。清掃に協力をした人は捨てはしないだろう。
自分が捨てたものを他の人が取り片づげていると言う事を捨てる前に考えてほしいものだ。
 「拾うより捨てるな。」と標語にあった様だが人の身になって考えたり、行動のとれるような人物を育てることの急務をしみじみと感じた。そして又、私たち高令者もその責任の一端を負わなくてはならないと思う。



 「お変りありませんか。」
聞きなれた声、それは近況を知らせるTさんからの電話たった。長い付きあいである。
 Tさんとの出会い、それは今を去る17年前、Tさんの2男K君の担任となった時だ、然しこの出会いがやがて生涯消す事のできない不祥事に遭遇しようとは。
 昼の休み時間だった。皆と楽しく遊んでいたK君に全くかかわりのなし子の投げた石が左眼にあたり、水晶体を傷つけて了った。
 九大病院での手術、治療と必死の手だての甲斐もなく、失明同然となったK君に何もしてやれない自分の腑甲斐なさに苦しんでいた時、「怪我をしたのがKでよかったですよ、これが反対だったら私たち親子はとても生きてはおられなかったでしょう。」と、かえって慰めてくれたTさんだった。
 然し吾が子の行末を思い人知れず涙も流したであろうTさん、「愛し子の眼に光りを」と願うTさんは、よい眼科医があると聞げばその遠近を問わず出かけ、眼の病を直す神仏があると聞げばお参りする。こうした東奔西走の努力を見、聞きする度に私の心ぱ痛んだ。
 こうして4年の歳月が過ぎ、K君は教育大学附属小学校へ、私は他校へ転勤となったがTさんとは時々電話でK君の日常生活と健康状態とそして互の安否を確かめ合ってきた。
 それから5年後、教育大附属中学北校舎の補習教室に教師として再就職した私は、K君と再会した。あの弱々しかったK君が、逞ましく立派に成長したその姿に思わず胸が熱くなった。然しK君の左の眼は相変らず白く鈍い色をしていた。
 現在K君は、父や兄と共に家業の鮮魚販売の仕事に従事し、魚のすりみ作りと生魚のパック詰にかけては店になくてはならぬ存在とか、「時にはKを見に寄って下さい。」と電話のTさんは言う。17年間続いたこの「ふれあい」今後も長く続くことを願っている。



 今度高令者教室に入学して、大変よかったと喜んでおります。6回目まで終了しましたが、2回目の楽しいデッサン、講師青柳先生の人生経験豊かな、絵を通しての子供の教育の在り方、若いお母さん方に、是非聞かせたいものだと、思ったのは私一人では、なかったと思います。
 5回目は楽しい民謡と体操、溝田先生のユーモアたっぷりの教見方には、只々感心しました。私は民謡の一つも踊れませんが、首を一つ振るにも、「モシモシカメヨ」と、手振り足振りして、何んでも自分の知っておる歌で、調子よく、リズムをつげてやればよいと思います。
 8月は夏休みです。夏休みの宿題が作文を書きましょう。始めての教室で、高令者にも宿題があるのかと一寸驚きました。世の中は苦あって、楽ありでこれも生徒に与えられた、一つの試練と思って頑張ることにしました。
 学級生70人は、明治の人が35人、大正の人が35人です。最高年令者は、明治30年生れの方、80を越して尚、みんなと共に学ばれんとされる、其の心いきにあやかりたいものと思います。
 西日本新聞、8月20日朝刊短歌、土屋文明先生選の中に、

  眼が見えて耳が聞えて友に逢ふ
       九十越えし吾れのよろこび

と、たんたんと詠まれている其の人は、大分八鹿はると、ありましたが、私は其の人に会って見たい思いがしました。
 沢山のお年寄の人達が、俳句に短歌に其の他、色々と本当によくお勉強されているものと感心しています。
 何かと取沙汰される今日、この頃ですが、昔を考えながら、こうして教室で学ぶことの出来る平和な日々に感謝しております。



 昭和59年1月29日雪の降りしきる日曜の朝、長男の嫁から今日が最後の「ボストン美術館展」を一緒に見に行きませんかと電話があったので、寒さも吹きとび心をはずませながら会場前で夫妻と落ち会い3人で心ゆくまで作品に見入った。百年も前に書いた絵とは思はれず、技術の発達した今日の写真でも、まねの出来ない程の出来映えで衣の繊細な柔らかさ優美さに感嘆するばかり、会場全体の圧巻に溜息の出る程でした。
 5月10日から12日まで「ゲートボール愛好会員と熊本の植木ホテルに親善試合に行く。3日間すばらしいお天気に恵まれて昼の試合も夜の宴会も芝居見物も一日中楽しく我を忘れた旅行でしたが、ふと我に返るとき心の奥底で心配の芽が大きくなりつつあったことは、どうしようもなかった。嫁が肝臓が悪く「癌センター」に入院するための、ベッド待ちを3日前に知らされていたからでした。
 何日も精密検査の結果「B型肝炎」と診断され手術をした。その後余病が併発し2回の手術をする結果になった。ベッドの上で苦しんで寝ている本人は家族のことを思いさぞかし辛いだろう。息子も大切な仕事「サラリーマン」があり、孫も勉強の一番大切な時であるにもかかわらず毎日見舞に行く熱意といじらしさ、私は長男宅に4、5日寝泊りで家事を手伝い3、4日我家に用事方々休息に帰って来ます。この状態がいつまでつづくことでしょうか。
 9月に入り順調に回復している嫁も退院のめどがつき、暗闇だった家庭の中から1すじの光が見えて来た。息子、孫、今迄よく頑張ったと思う。この又とない経験を生かし、いままでより以上明るい思いやりのある家庭にもどってくれますことを私は蔭ながら祈ります。
 人間何か一番大切か分りきったことではあるが健康、健康正に健康です。健康の有難さがひしひしと身にしみた。



 高令者教室も8月は夏休み、何んとなく気は楽になったが、子供の頃の学校の休みとは違い、毎日忙しいこと。8月に入ってからは特に用事が多く、一週間に用事のない日は2日ぐらいで、盆前などは用事がない日はなく、老人クラブのこと、自治会のこと、盆踊に付いては特別、其の間に生れ故郷の佐賀にお墓参りに朝早く出て三瀬越に車で行くが、親戚に挨拶廻りで1日がかり、山や川を見ると自分の子供の頃の事が思い出される。60年以上も前の事で、当時の人の顔が浮んでくるが、皆死んで今はいない寂しいことである。
 帰って来ると別府公民館での精霊流しなど、色々な用事に追いまわされている。
今年はテントを新調し良い事をしたと思っている。また、たばこ組合、塩組合の事に付いては、行政改革法案が国家において、審議され8月3日参議院を通過し法律として、施行されることになったため、それに対処するため、組合では話合をかさね小売店の不安のないよう、皆様に説明しなげればならない。それも3000名からの組合員で、私は総務委員長として責任上色々な事を勉強しなければならないし大変である。今は敬老会のことなど今年も皆様が心から喜こんでもらえるようにと思っている。又、衛生のことに付いても、清掃のことなど、町をきれいにして行かなければならないと常に考えている。今年は福岡市の市長選挙も有るし、その仕事も色々忙しい、秋にかけて、老人福祉のことに付いても色々用事が山積している。こういうこともすべて、ボランティアや精神でやっていくより仕方のないことで、考えている事が思うようには行かないが、あくまで頑張るつもりでいる。又、公民館の20周年記念のことも考える事が多い。先々の事を書くときりがないのでこのへんで筆を止めます。この稿を出す頃は、市長さんも決っている事と思う。



 本年の夏は例年にない毎日の暑さに体力的にも毎日健康にして秋の涼しくなるまで過そうかと考えている時。高校野球夏の甲子園、オリンピックが始り、スポーツ好きの私は朝起きして仕事を片付け、後はテレビを見て毎日楽しく暑さも忘れひたむきな選手の全力を尽した後のさわやかな気分に自分でも驚きました。健康であれば次のオリンピックも見られます。今から楽しみにしています。個々の選手が力の限りを出し勝敗は別にして画面で大いに学ぶ所がございました。
 私達高令者も戦前戦後形は色々変りましょうが幾山河の歴史を乗り越えて、ドラマ以上の方も沢山いらっしゃいます。人間毎日が緊張の連続、でも若い内なら持ちこたえますが、老年になれば程良く息を抜いていきたいと思って、少々の家の空地に盆栽をしています植え替え水やり、1年に1回の開花は愛情をこめて出来た時、何だか自分の分身の感じさえします。
 株分け、さし木、お友達にも差上げて楽しんでいます。夏は好きな旅行も全部取り止めます。20年も前からの和蘭が見事な花が咲きました時の喜び、カメラにおさめ植物のアルバムが一冊になりました。趣味を通じて20数年のお友達も沢山ございますので、暇の折何をして過そうかと考える事はございません。次から次と仕事に追われて、仕上げをしなくてはならない事が沢山ありますので、元気に過せるかもわかりません。近い内にボランティア活動に参加して少々お役に立ちたいと思って、健康に気をつけて残りの人生を一歩一歩ふみしめて老後を過すつもりです。



 朝露をついて6時の新幹線にまに合うように博多駅へ急ぐ。空はどんよりとしていましたが、傘も持たずに出掛けました。待ち合わしていた戦友と、高野山へ向いました。高野山の成福院で行なわれる、摩尼宝塔の修復落慶とビルマ戦没者の慰霊祭に出席する為です。
 成福院の前僧正上田天瑞師は、激戦のビルマで、大東亜共栄圏の講話や日本語の布教に活躍されましたが、戦後ビルマの僧院に移籍修業、大僧正の号を受けられた方です。又、師はビルマで戦死された英霊を顕彰され寺院前に、パゴダの摩尼宝塔を建立されました。そのパゴダの仏塔を改修して7月15日落慶法要並に慰霊祭が行なわれたわけです。
 新幹線で新大阪まで、それから難波、高野線と乗り継ぎ成福院に着きました。
大阪では小雨だったのが、本降りになり傘を持ってこなかった事が悔まれました。
成福院で宿坊の指示を受け大円院に泊る事に決まりました。
 宿坊に荷物を置き、総本山金剛峯寺の参観に行きました。そのたたずまいとお庭の美観は格別と聞いていましたが、噂のとおり荘厳の一言でした。奥の一間に両陛下行幸の近影が掲げられ、又随所の石庭は見事なものでした。余りの美しさに何枚も写真をとりました。金剛峯寺は奥の院の祭事も司どっておられ参道に、ビルマ方面戦没者慰霊納骨パゴダの塔も建立されています。3年前のその時も私は、参列致しました。
 翌15日は10時より、厳粛に祭司が行なわれましたが私達は12時下山の予定でしたので申訳けなく中途退場致しました。
 想えば上田天瑞師の代より、成福院にて摩尼宝塔を祭って頂いている事は、感謝の外はありません。我々生き残っている者は、命のある限り、この摩尼宝塔に詣うでて戦友の方々の霊を慰さめなければならないと思います。まだ参詣しない戦友も誘い来年も又元気に高野山詣でをしたいと思っております。


 22.健康

 厳しい暑さが続いたこの夏、何となく身体がだるく根気がない。夏の疲れか、季節の変り目の今頃は、とかく体調を崩しやすいので、病院へ行くと患者の多いこと。特に老人が目立つのに驚いてしまいます。誰もが、60歳を軽く超える時代です。やがて、4人に、いや3人に1人の割で扶養する急速な老齢化社会を思うと、その重みを、ずっしりと実感いたします。
 私自身は、高齢者とは思ってもいませんし、まだまだ若いと思っています。
 主人は、胃癌の手術後、めっきり体力が衰えとうとう4年10ヶ月後、享年62歳で、帰らぬ人となりました。8年前のことでした。私は、看病に悔いが残ってはと、手の届く限りつきっきりで世話をしました。主人は、下の世話をする私に、「済まんね、済まんね」と言いある日背中をさすっていると、「今日が、別れかもしれんといつも思ってきた。これ迄生きる事が出来だのは、お前のお蔭だよ。有難う。」と言われた時は、胸がつまって、涙が思わずあふれ出ました。
その主人も、最後の息をスーッと吐き出すように静かに生を終わりました。早死にだったけれど、最後迄見守ってやれた事は、本当に良かったのだと。悲しんでばかりいないで、むしろ喜ばなければいけないと思います。
 今、私は、高齢者教室で、先生方の講義を拝聴するのが、一番の楽しみです。
その他にも、編物、紙人形、華道教室、たまには歌も。朝は軽やかに、今流行のシェイプアップ体操をしています。自由に好きな勉強が出来る、こんな楽しい事はありません。幸福だと思いますし、又、平和がいかに貴いかを、痛切に感じます。女性の平均寿命が79歳に迄延びた今日、私も、身体に気を付けて、勉強、スポーツ、旅行等と楽しく暮らして、亡くなった主人の分迄、長生きしたいものだと思っています。



 独居のわびしさ、淋しさがつきまとわなければ本音とは言えないが又反面、誰にも気兼もなく我儘が許され、他人からみれば「マアあの人は年甲斐もない」と非難の声があるかも知れないが、それは独居者のささやかな抵抗だと自分なりに解釈している。
 年をとるのは何と言っても佗びしい。東京の息子の処にたまに行くと、4才の孫から「おばあちゃん」の一声はなんとも言えないゆかしい響に聞えるが息子が私に向って「おばあちゃん」と言うと非常に抵抗がある。私はごく小さな声で私は貴方の母さんよ!とキッと息子を横目で睨んでやる。帰りの新幹線の列車の中で年甲斐もないナアー。とおかしくなり、私の左手をチカッとつねってやった。
 独居の弱った気持ちを支えて呉れるのは周囲の方々の、落着いた温かいお気持ちだと、つくづく思う。妹もすぐ近くにいるが、肉親とは限らない。安心して、こころから付き合える友が男・女問わず有難いと深刻に思う。遠くにいる子供達には、頼りにくくなっている現在、こころのよりどころはヽ毎日といってもいい色々の出事けいこの日々で走馬灯のように過ぎてゆく。忙がしい一日が終りホッとした夕餉の晩酌が何よりの息つくゆかしみで、ポッチリ、ポッチリ呑む程に民謡のテープが流れ、いやな事、辛い事、忘れたい事が……。思えども現実はきびしい今夜中に片付けねばならぬ宿題提出、ねむい、まなこと戦い乍らとりくむ。
内容は完成出来るまで公表出来ないが私の手にしてはきついきつい勉強だと思う。
やがて社会、ボランティアに役立つ日を念願にいそしんでいる。後僅かに残された貴い人生を有意義に現在の1/10でもよい貢献出来なくも私なり悔はない。
 戦いに夢をゆだね、私なりに懸命にやりぬく事を祈りつつ。
  美しく老いたく想う庭すみの
     茶色に枯れし紫陽花みれば



 8月2日の早朝例のごとく大濠一周のため6時頃、大濠公園へ出かけました。
 昨夜ここで花火大会が行われたのです。公園に一歩入るや、坐る時に使った紙やビニールの敷物、食物の残飯、ジュースの空缶等々足の踏み場もないほど、芝生の中から道路へと、ごみまたごみの有様です。先に進むこともできず、ただ茫然と立ちすくみました。めいめいが自分のごみを、ごみ箱に入れに行くか持って帰るかすれば、こんなに散かることもないでしょうに。もと通りの公園の姿にするため、掃除をする人々の大変なご苦労を思った時、ほんとうに、憤慨にたえない気持ちでした。
 公園だけでなく、バス停などにも、たばこの吸い殼が投げ捨てられ、ジュースの空缶、紙くすが転がっている有様です。また歩きながら気付くことは、たばこの吸い殼が、どこにでも投げ捨てられていることです。「たばこを吸う世の男性よ」と言いたくなるようです。
 外国に旅行した人々の話では、どこを歩いても塵一つ落ちていない清潔な道路であるとのこと。経済、文化共に、世界の先進国として、優秀な国民である日本人が、公のこととなるといたって無関心で、人の迷惑を考えず自分さえよければという利己的な、ものの考え方、いわゆる公徳心が身についていないのだと思います。
 小学校時代の遠足の時など、弁当を食べた後の残飯は、屑籠に入れるか、持って帰るかして散らかすものでないことを、よく教育されているはずなのに、大人になるにしたがって、忘れられているようです。こんな大人の後姿を見て、子供たちは、どのような気持ちで見ている事でし。うか。公徳心を身につけ日本人として恥しくない大人になりましょう。



 この夏、10日ほど小田原の娘宅に滞在し、一日を箱根の湿生花園見物に案内してもらった。私達を乗せたバスは箱根の坂道を右に左にゆれながら急カーブを登ること約1時間余りで目的地に到着した。
 中には入ると、先ず食虫植物の集団の前に出る。何れも奇妙なかたちをしていて、虫を捕らえて栄養にするというこれ等の植物がなんだか動物のように思えてきた。
 それを過ぎると、いよいよ湿生植物の生い茂る道には入る。見渡す限りの緑の中に木道がくねくねと続く、矢印の方向にむかって進むと、一つ一つ植物の名称とその“いわれ”が標示してあって大変参考になる。
 やがて色鮮やかな、にっこうきすげの群が目には入る。黄、ピンク、真紅、と色とりどりの花々のなんと見事なことか、あまりの美しさに暫く足を止め見入った。
 行く道々、のはなしょうぶ、おみなえし、さぎ草、などが叢の中にやさしい姿を見せてくれる。その楚々とした風情が実に美しい。
 やがて水芭蕉の群草に出会う。残念ながら時期はずれで花は一つも見当らない。
かねて“尾瀬の水芭蕉”の風景を夢見ていた私は花のない水芭蕉にがっかりする。
 流れに沿ってひし、あさぎ、ひつじ草が水面を覆い、その下をゆっくりと鯉に似た、ブラックバスという魚が泳ぐのが見える。
 両側に続く植物を右、左と眺め、そして説明をよむ、この動作が楽しくもあり忙しくもある。三三五五連れだって歩く他の人々も歓声をあげながら通り過ぎてゆく。
 はじめて見る植物のなんと多種多様であることか、感動しつつやがて元の入口にたどりつく。約一万坪もあるとか、さすがに疲れる。
 ほどよく曇った今日の天候は湿生花園にふさわしく、しっとりとした雰囲気の中に、様々な植物と出会い実に楽しい一日であった。



 昨年は私の生甲斐と言う題で書きましたがその中で趣味を主体に書いたと思います。それに表現は異なっても全く同じですが、1年の歳月に私の夢と希望が僅かではあるが一歩前進したことは何よりも嬉しいことで、同時にその後一層励みになったことです。
 そこで前進したことと言えば59年度城南区演芸大会が七隈の新装市民会館に於て8月10日500名の観衆と7名の審査員の前で20組が出演、殆んどが舞踊で綺麗な衣装で今年もやっぱり駄目かなあと思ったのでした。然し今年は違う、それは何だったのか先づ私達別府12鶴寿会の西内会長さんの発想でナツメロ部発足。私がその部長役でこの日は7名出演したこと。次は選曲がよかった軽快な中にも情緒のある若いお巡りさんと懐しのメロディー(5曲)。次は部員皆で何回も熱心に正しい唄い方を勉強したこと、それに2曲共ナレーションをつけたこと、そして観衆の皆さんが一緒になって唄って下さったことがよかったと思います。次の9月15日敬老会でもこの受賞曲をその儘再現して皆張切って唄いました。
 扨て次の目標は近く10月中に2回予定があるのです。その1は10月20日前後、糸島の富の特養老ホームに慰問演芸に行くことです。内容は2時間の予定で一部がナツノロの唄を全員で10曲と私が大道芸がまの油から博多二和加の劇(借金撃退法)。二部は全員で新演歌「さざんかの宿」他10曲。次は私が浪曲(近藤勇の武勇と最後)。最後は会場の皆さんと一緒に唄おうで、どんたく囃子に戦友に炭坑節(踊り入)皆で唄うと言う楽しい番組に成功させたいと張切っております。その2は10月30日ナチュラル健康食品企画(無添加食品)で藤本敏雄氏と加藤登紀子のコンサートが百道パレスであるのです。その前座30分私が大道芸がまの油売りとバイオリン演歌、さざんかの宿他5曲を部員も加わって唄う予定で、これも立派に成功出来るよう毎日毎日が勉強で一生懸命で、これが
私の生甲斐で趣味に生きることでしょうか。



 新しく憩の家に発足した書道、民謡、生花の教室の白糸の滝へのバスハイクの日だ。木村、堀内、奥先生も参加されて総勢40名、午前10時中村学園を出発。
滝駐車の上には御堂が建立され茶屋は滝壷の横に新設されている。滝口からの日矢走る光にしぶきは虹色にかがやき神秘の音色は薄日漏る茶屋一帯に心地良き冷風を運ぶ。名物のソーメン流しのあと、思い思いのテーブルに先生を囲んで、焼きたての鱒、ほかほかのおでん、手持ちのおにぎり、楽しく賑かな話が続く。
 帰りは海岸を廻り、海水浴場、二見ヶ浦と山と海の夏を満喫して故障者もなく予定の4時、楽しい旅をおえる。

  鱒を焼く匂ひ漂ふ滝の茶屋
  日ざし来て大滝しぶき虹を抽く
  滝道を下る行者の素足かな



 私の好きな言葉に「40、50は鼻たれ小僧、男盛りは8、90」という戯れ歌がある。
 私の父が毛筆で揮毫したものが拙宅の客間の屏風にはってあって、私は毎日のように、これを眺めて暮していた。然し書いた本人は男盛りにまで至らず80才で物故したのである。我が家を訪れる客人達は、たいてい、この書に眼をつける。
読んでニヤリと笑う、「いいですネー」と、ほめてくれる人が多かった。なんとなく大きな、いい気分になれるからであろう。世間の通念では、40、50こそが男盛り、働き盛りである。80、90といったらヨボヨボの爺さんもいいところ、生きていたとて………と、いった眼で見るのがふつうだ。この歌は、こういふ通念の壁を大きく破っている。言うなれば年令感覚の開きである。だから耳に快くひびくのであろう。
 ウルトラ長寿者の多いことで有名な、ソ連のコーカサス地方では、80、90から100才くらいが、実際に男盛りであるそうだ。肉体労働は、むろんする。
100才以上のメンバーのみで構成されたプロの合唱団もいると言う土地がらなのである。
 だが、これは海の向うの特別地域の話。この忙がしい世界一の公害国、日本において8、90は、いささかオーバーであろう。然し語路がいいのと、誇張のユーモアとで、この戯れ言葉が私はとても好きである。
 生前の父は非常に元気で私の知っつているかぎりでは病気などしたことのない人たった。いつも朗かで、特に諸々の歌が好きで、夕食後一家団らんの中で得意の歌(謡曲や詩吟など)をよくきかされて来たものだ。70才頃のあの若々しい父の面影が今も尚、走馬灯のように私の頭裡に浮かんで来る。
 父に負けないよう、右の戯れ歌を私の信条として、あと4ヶ月で迎える70才からの私の人生を大いに鴎歌して行きたいと思っている。


 29.

 近代社会は進歩と共に複雑化しているが、人と人との繋りの中に生きて行く宿命的な理念には変りはない。その繋りの中には奇しき縁も伴い時としてドラマを思わせるものもある。私は縁起をかつぐ運命論者でも占い師でもないが「縁は異なものあじなもの」とか「袖振合うも他生の縁」などと縁に纒わる諺で人口に謄灸されるものも少くないと思う。
 「縁なき衆生は度し難し」の諭しや「一樹の陰一河の流れも他生の縁」と前世からの因縁を説く言葉もあるが今日では「金の切れ目が縁の切れ目」と言う俗縁が特に目立つ。人倫に叶うよき縁こそ望ましいものと思う。
 縁を辿ると実に不可思議である。数年前高令者教室の講師に益田憲吉先生を迎えた。講演するその人は実は50数年前に私の家の前に住んでいた利発で腕白な可愛い少年の大成した姿であったのです。思はぬ奇遇の縁に講演の終るのを待ち兼ねるようにして寸談を交した。彼の第一声は「家の前にいた小父さんですね」と幼き日を忘れず語る昔の少年の記憶と、高令者教室に通っていて再会の縁に巡りあった満足感に足取りも軽く帰宅した。その昔腕白を説教した少年に教わる世代の転移を深く頭に刻むものがあった。
 人生の幾山河を越えて今静かに己を促え、生き甲斐を求めて高令者教室に学習を志した私達は、かつては同一地域に住みながら疎遠の隔りを感ずるものもあったが公民館を通じ縁あって今や旧知の友に等しい親近感を抱くに至り誠に有り難いことと思うと共に、人の出合いを大切にすることが如何に大事であるかを悟るものがあった。
 身近かな縁を辿ると数年前金婚式を終えた糟糠の妻は縁あって我が家に嫁して50余年、この縁は強靭でよく風雪にも耐え、難破もせず苦楽を共にしながら老蒼の今日まで生き続けている。世に謂う「喧嘩しいしい50年」の言葉を思い出して苦笑するこの頃です。



 長崎の港を人影の見えなくなるまで手をふり、泣いて別れたあの日、ムッとするような船底のエンジンのひびき、気分が悪くなるようだった。上海に着いた。
ホッとする間もなく南京へと向う。南京は一応治安はよかった。見るものすべて珍しかった。コスモスと百日草がみだれ咲いて景色をそえた。だいぶなれた頃、九江へと揚子江をのぼる。ここはまだ大砲の音がきこえる日もあった。春梅雨で長い雨には困ったが雨も上り初夏の頃の風光はすばらしくのどかだった。
 九江とも別れ武昌へと行く、外出日は対岸の漢口へと渡ってたのしい見物をした。今頃はどんなに変っているだろうか。日本に帰って来た。もう物資が不足していた。間もなく大東亜戦となり、空襲、終戦と夢のようにすぎてしまった。
 毎日いそがしく長い月日はすぎてしまう。自分を顧り見た時は一人となっていた。別れた友は行方知れずになっていた。おそらく逢うことはないと思っていた。
暑い夜だった聞きなれない声で電話がある。名のられても思い出すのにしばらくかかった。人づてで私の住所がわかったとのこと、余りの驚きで何を言ってよいかわからない。とにかく逢うことにした。
 バスセソターより高速バスにのる。外はムンムンと暑いがバスの中は涼しい。
高速道に入るとスイスイと走る。一時間少しで鳥栖に着く、おそわったとおりにタクシーにのりかえたずねて行く。すぐにわかる。ドキドキする胸をおさえてベルを押す。ドアが開く、友の顔。全く違っている。久留米方面にいた友2人も集った。これでは街で逢ってもわからない。数えれば46年の月日はすぎている。
お互いに年を重ね体型も変っている。ひとしきりつもる話しに花が咲いて時のすぎるのもわからず夕方になってしまう。又逢う日を約しておいとまをする。
 帰りのバスの中で今別れて来た友のこと等が頭に浮んで来る。長い夏の日もとっぷり暗くなって家に着く又一人ぽっちとなった。



 毎年、路に白く、小さな柿の花がコボレているのを見る候になると、きまって、私のもとに訪れる「モノ」があります。それは、柿の実が紅く晩秋の夕陽に映える頃まで私の足に巣喰フて、私の行く所どこにでもお伴をしてくる「水虫」というムシなんです。(そんな虫はいないよ。あれは、一種のカビなんだよ。なんて、おカタイことは、この際言はないことにしましょう。鹿児島には、「茶碗ムシ」がいるじゃないですか。)
 この虫、宿主に似て頑固なのか、正直者?なのか、交際を始めて28年目の夏を迎える間、家族のだれにも隣の左足にさえ一泊の旅行にでも出掛けることなく、私の右足を安住の地とキメコンでおり、こうなると、いまさら追放するのもカワイソウで、(それが如何に難事業で、人が月に到達して、そこに兎が居ないことが確認された今日でも変らないことは知っています。)ときどき名薬?と称するものを塗るくらいですから、まず、一生治る見込はありません。
 そもそも、この虫との出合いは「辞令」という紙一枚で長崎県は諌早市に住むこととなった年の、昭和32年7月25日に同地方を襲って、一夜にして、470名の人命を奪った豪雨と洪水に出合い、それから1か月、家主のオバサンが泥水の底から探しあてて貸してくれたゴム長靴を履いて毎日歩きまわり、数日は腿のところまで泥水につかって、同僚の安否を尋ねまわった記念品?なんです。
毎年この水虫の顔?見るたびに、暗夜にするどく光る雷光の中に見た濁流と、救いを求めて叫びながら流されて行った多くの人の声が、27年を経た今年の夏も私の目と、耳の底に焼きついています。
 たまたま、先日台風10号の豪雨の中、災害の因となった本明川のほん流を列車の窓から家族と共に見て、あの日限り別れた同僚の顔々が浮び、合掌の念禁じえませんでした。



 「おはようございま~す。」の声と共に私を追い越し走り行く顔見知りの壮年夫婦。私が大濠一周を始めた切っ掛げは、先年テレビドクターが老化現象は足から来るので、努めて歩く様にとの話しを見て歩きを実行。大体家から大濠一周して帰えれば6Km余りで、歩行の早さ競歩気味に歩く。右に気象台、武徳殿の大屋根、日本庭園の白壁屏に添って行く私を追い抜き走り行く人、向うから自転車で来る人、散歩の人々と行き交う。此処、大濠のヘルスコースは一周約2Kmで濠端が砂道でグリンペルトの外側舗道になっていて。主にジョギングの人達は砂道を走り、中に舗道を走る人もいる。美術館横道を早や帰る人、来る人の姿、見上げる時計塔の時計5時40分を示していた。美術館を過ぎ右土手の大樹林より「蝉の声」、下に芝生の広場が続き見通しの良い処になる。夏場になればジョギング
パンツ姿が多く目立ち、男女共にカラフルでパンツの所為か女性のヒップの大きさが目に着く(年甲斐もなく失礼)走ってる女(ひと)でスリムな女に滅多に会わない。全般にグラマーな女性が多い。向うの方から片手に傘を持ち会う人毎に挨拶の手を上げて来るお婆ちゃん、私もお早ようと答える。確か94歳の筈、お元気な姿見る度びに家庭環境が良いんだなあと思う。照明塔が見え下に「女神の像」濠の方は繋がれたボートが行儀良く並び、中の島に人影がちらほら、遠く山の峰朝日を受けた油山が近くに見える。国立病院や簡易保険局を後にこの辺りで歩く者も都合上砂道に入る。ボートハウス過ぎ、左野鳥の森に添って行く女性の1群が私に声をかけ、健康な肢とヒップ見せながら走り行く。私は児童遊園に入り何時ものお婆ちゃん等に挨拶して先の広場へ顔見知りの先客にも挨拶。中の島や森を眺め柔軟体操を終えて野鳥の森を抜け濠端を行く。太公望が2人糸を垂れている。冬場なら鴨が沢山いるんだが今の季節は棲み着いた鴨と家鴨が数羽泳いでいる。太陽が雲間から照り始めた。汗ばんだ肌に朝風が心地良く感じ、蝉の声後に帰路につく。


 33.還暦

 青葉若葉の美しい去る5月、子供達が私の還暦祝をしてくれました。山荘として使われていたと言うその建物は、いささか古色蒼然として物静かなたたずまいの中にも、私を祝ってくれるかの如く躑躅(ツツジ)が今を盛りに咲き乱れて居た。
 私は、ちょっぴりおしゃれをして、心うきうき出かける。3人の子供達に2人の孫のささやかな集いである。最初に長男が「60年の3分の1は父さんがいない人生で僕達の為母さんなりに精一杯頑張ってくれた。今後は残された人生を楽しく自由に長生きして欲しい」と、そんな殊勝な事言われると感じ易く涙もろい母さんの涙腺がゆるんでしまうんじゃないの、その気持ちだけでもう充分よ。
嫁さんや娘達が配慮してくれた花束、寿と書いた大きな紅白の饅頭も飾られた。
祝ってもらうと言う事は、なかなか気分のいいものである。写真好きで機知に富んだ次男が、早速私の両側に2人の孫を座らせ、夫々自分の顔を大きな饅頭で隠させパチリ。4才の長男は両手でしっかり自分の顔を隠しているが、2才の次男は饅頭の横からチラリと目が覗きユーモアでとても可愛い。後日次男が引伸し、写真の師に見てもらったら、こりゃオバンの顔を隠せばよかったな、このオバンは誰やね」と言われた由、皆で大笑い。無理もない、還暦を迎えたその顔には60年間の喜び悲しみが、大小の皺となって住みついている。でも自分なりに一生懸命生きて来た過ぎ来し方を想う時、アップの写真がいとおしくさえ想われる。
 人生の先達でらっしゃる皆様には、古稀、喜寿と迎えられた方も多い中、私は甲子園球場と同じやっと60才。公民館の催にも出席させてもらい、そこでも又多くの人々に出合いました。人々との出合いを大切にし乍ら、肩ひじ張らず、自分なりに楽しい実ある人生である様努力したいと思います。まさに「たかが還暦、されど還暦」の感概です。



 私の小学校時代は今から約60数年前、大正5年より同13年までの頃で当時の別府は現在の1丁目1区2区を併せ9地域で、戸数は約30戸余りで農家が多く、私の生家もその農家一統の分家で多作の百姓一家でした。年から年中米麦作りと野菜の栽培で忙しい毎日でした。
 私も小学校4年生の頃から家の手伝いをさせられ学校から帰ってくれば手伝いの仕事をすませて遊ぶことに習慣づけられていました。ところがたまに怠けて遊びふけるとその日の晩飯は食べさせてくれず、それが怖かったので必ず手伝いをするようになりました。これが家庭の躾で親には絶対服従することになります。
学校でも先生を教師と仰ぎその威厳さは生徒一同敬服していました。その一例を挙げると授業中余所見をしたりコソコソ話しでもしてると叩き出される。それで必然的に勉強するようになりみんなの成績も良くなってくる。私も5年生の頃からぐんぐんと伸びてゆき、6年生から高等小学(今の中学)1年2年には卜ップクラスとなりました。これも先生の指導よろしきは勿論のこと自覚した努力の結晶だったと思います。次にその頃の遊び方を照会致しましょう。現代の子供のようなお金を使っての遊び方ではなく例えば凧作り1つにしても半紙1枚と竹を用意し適当に切り適宜に削り、見たり聞いたりして張りつけ凧の型にして作り上げ、糸を付けよく揚るように工夫して拵えていました。又竹馬、竹トンボ、竹笛、水鉄砲、紙鉄砲などもやはり見聞きして創作し自慢していました。この外四季折々の遊びもあり1年中みんなと仲よく楽しく遊び回り、ほんとにいい思い出となり
ました。この数々の思い出の中に私達は子供のとき服従、忍耐、努力、節約そして競争と創造を修得致し何よりの誇りと致し、これを今の親子さん達に伝え反省を促し21世紀に継ぎたいものです。



 わたしは保存樹のくろがねもちです。昭和47年9月に市の保存樹に指定され今日に至っておりますが樹令は500年は越えているのです。字数に制限がありますので今回はわたし自身の故事来歴は省略して太閤道の由来についてのみお話しすることに致します。
 天正15年6月(1587)に豊臣秀吉は九州を平定し、箱崎に陣して博多を復興しました。更に3年後の天正18年(1590)には伊達政宗を帰復させて全国を統一したのです。しかしこの大事業を成し遂げて間もなく、文禄・慶長の役(1592~8)には朝鮮への出兵を行い、中国大陸侵略の野望を開始したのです。この折秀吉は名護屋に城を築き此処を本拠として総指揮をしたのですが、その頃博多から唐津の方へ通ずる主要な道路は赤坂のあたりより六本松・別府・弓の馬場・原・長垂・唐津方面へ通ずる幅員2米か3米位の曲りくねった細い道だったのです。
太閤様はこの道を通って名護屋城の本拠へと向われたのです。今を去る390余年も前のことでありますが、わたしはこの道沿いの別府の竹藪の中からこの時の出陣の行列を見ていたのです。馬上に陣羽織姿の太閤様は旗印の千成瓢箪を先頭に、数多くの武将達を従え威風堂々たるものでありました。かかる故事によって後世の人がこの道に太閤道という呼び名を付けたのです。現在この道も広い202号線バイパスに変って昔の面影は残っていませんが、別府1丁目商店街入口のリポリパン店より添田不動産前までの藪下や、別府5丁目の曲りくねった道から6丁目の狭い坂の多い道のあたりには遠い昔を偲ぶ太閤道の名残りが残っているのです。今、太閤道を知っている人は幾人位いるでしょうか。

 ○太閤が睨むし海の霞かな  (名護屋城趾)
 ○太閤の喉潤せし長垂の
    岩間の泉今はがれ果て(長垂太閤水)
 ○古えの古き名残りやわが別府の
    歴史はともに消え去らんとす



 昭和41年の秋、友人である鳥飼の俳人、徳永鴨潮氏の勧めにより、私は同氏主催の草の実句会に入会しました。以来昭和53年10月までの12年間、毎月1回開催の簣子、当仁、別府の公民舘や、鴨潮氏邸での句会には何時も出席していました。その外毎月第3日曜日は手弁当で、福岡市内外各地の神社、仏閣、公園等、色んな処を会員全員で吟行し、午后は其処で句会をしましたが、其の日は実に楽しい1日でした。当日は仕事や家庭の事等は何も彼も忘れて、只句作だけを、自分の気晴らしとして過してきたのです。このような楽しみの日々も既に遠のき、今では懐しい過去の思い出となってしまいました。当時句会の会員数は20名余りで、半数以上は女性の方でした。では紙面の許す範囲で、拙い吟行の句を少しばかり紹介しましょう。

昭和42年10月宇美八幡宮へ吟行
      大樟の注連も新たに秋祭り
昭和43年7月武蔵寺、夏晴の空天拝の鮮やかに
昭和44年8月英彦山豊前坊
      兜虫よく売れており英彦の茶屋
昭和45年3月室見川、生簣より酌みし白魚踊喰
昭和45年5月今津、玄海の仰浪とどろき蒙古塚
昭和46年9月雷山千如寺、大楓苔の廣庭赤蜻蛉
昭和47年7月背振楽園、渓流の水音涼し法師蝉
昭和48年4月福岡城趾
      天守閣なき城寂びし菜種梅雨
昭和48年9月中間市植生公園
      紅芙蓉若き日しのぶ芙美子の碑
昭和49年10月西の浦、志摩二見しぶく白波鰯雲
昭和50年12月愛宕山、黄落の雨に傘さし稲荷へと
昭和51年4月加布里神在邑
      伊都霞む卑弥呼のロマン永久に秘め
昭和52年5月八女の岩戸山古墳
      石人に石馬さまざまうまごやし
昭和52年8月南蔵院、小石積む賽の河原や木下闇
昭和53年1月志賀島神社
      歩射祭の神酒いただきつ長寿祝



 5年生の夏休みの或る日、突然友達から「天草採りに行こう。」と誘われた。
不安であったが、冒険だと思って連れて行って貰うことにした。
 裸とは大変有難いこと、多くの無駄を省略してくれた。でも、これだけは必要だと、翌日友達の家にお邪魔し、材料を恵んでもらい、水中胸当網籠と水中禅を教わり乍ら工作し、手持の水中眼鏡も家から持参。3つのものを揃えた。
 さあ、明日は海に泳ぐ、その夜眠れなかった。幸い、当日天気よく、友達が借りて来た伝馬船、外の友達2人計4人、弁当、ガラス壜入の水も乗せ、ギッコギッコと、300米先の岩礁へ漕ぎ出した。私は何もできないので、彼等のすることを見つめるだけ、何のことはない。可なり干潮の瀬の底の見える所で纜(ともづな)を岩にくくりつけて、早速泳ぎ潜ることになった。
 「寿ちゃん息が長いね」とボースンの友が言う。そうとも思わないが、その時、ああ自分も皆と一様に泳げるという喜びが全身にみなぎった。
 その日、獲れた天草は友達のそれには、とても及ばなかったけど、海底でむしり採って胸につけた絹袋に入れれば、自分の物という感覚、唇は紫色になっても、潜ることを止めなかった。
 「寒くなった休もう」と又ボースン、皆それに従って、舷(ふなべり)に股をかけて上り、簣板の上に皆腹這いになって、天日の暖をとった。
 少年期は多少の無理がきく、潜った時間、4人とも50から60秒、疲れというものはなかった。こうして、5日ほどの潜りが続き乾燥した天草の量も可なり嵩んだ。これを本当の収穫にするのは売るということである。全く未知の世界であった。
 十分乾燥したものは、海産物屋が買って呉れる。4人して布袋に詰め、店頭を訪れ3円5円とお金を頂いた。本当にすばらしいと思った。帰りに盆前でもあり、下着、シャツとサルマタ(パンツ)を買った。残額を母に手渡し、驚かせたのも勿論であった。あのときの体験が私の血となり肉となり、今日あると大変感謝している。



 資料によれば、旧博多駅は、九州鉄道として、明治22年の年末に、開設となっている。場所は祇園町の中心付近で表玄関を海側に、線路、ホーム等は、山側に設けられた。駅本屋は九州第一の都市とあって洋風ルネッサンス建築で、屋根は銅板、壁部は赤レンガ、巨大なる花崗岩からなり、中柱には大理石の彫刻が施された高貴な建物であった。
 駅前広場は、地域的に狭溢であった。線路は全部で10線程度が、布かれていた。戦時中は爆撃を最も虞れていたが、幸に貨物設備に被害を受けたのみであった。終戦後一時米軍の輸送司令部を置き使用したが、事なく終った。数年経過して国内も落着き客貨の輸送について設備の改善が急務となり、博多新駅の改良、門司港~久留米間の電化運転が特別に取りあげられた。新駅は高架駅として計画され附帯する線路その他設備建設には、莫大なる用地を必要とした。新駅の計画では予め堅粕地区一帯が選定されていた。旧駅より約600米以上南へ寄った場所に当る。駅本屋の規模は地上6階地下1階の鉄骨コソクリートビル造りの民衆駅として建設された。100万政令都市にふさわしい堂々たる豪華なものである。
工事は市の区劃整理事業と共に急速に進められ、昭和38年12月1日に新旧両線の切換を完了し無事開通した。旧駅設置以来実に74年振りの事である。
 思えばこの長期間一日として休むことなく客貨の輸送を完遂し、福岡市の渉外役を努め、経済、文化、商業、その他、各方面に常に、新風を吹込んだ偉業は、深く感動を覚えた。願わくば新駅の将来も栄光に満ち福岡市に輝しき発展をもたらすよう心から願ってやまない。



 一体、色気というものは、出そうと思っても出せるものでなく何というか、バラの花のように匂うものであり、本質的にいえば惨み出てくるものなのである。
 問題は本質にあるのですナア。色気の本質のない輩が、無理矢理色気を出そうとするから、露出過剰になったり、間違ってエロ気やグロ気になってしまいます。
 時間と金を夕ップリかけて、せかず焦らず本質からジワジワーっと惨出する香り高き愛液なりと心得べきであります。
 プールや、海岸で寝そべったり飛んだり跳ねだりしている膝上ゼロの女の子に色気を感じますか。強烈なライトを浴びて、からだをクネラシているゼンストの姐ちゃんに色気を覚えますか。もし、君が、そんなものに色気を感じるようでは、君がいかに低劣であるかの証拠のようなものである。
 画家は、モデルが服をつけ始めたとき、色気を感じると聞いているが、それでよろしい。
 女がパンティを脱げばもう色気はゼロ。いってみれば、色気とは隠すことであり覆うことであり閉ざすことなのである。色気ほど閉鎖的なイメージはないのにもかかわらず、開放し発散しようとするから、色気はますますあなたから遠ざかってゆくのです。
 そこで私、しみじみ考えたところ、色気の本質とは、第一に清潔であること。
次に母性的な思いやりとやさしさであること。その次に、ほほえみをともなうこと。最後に言葉のT・P・Oを心得ること、この四つが全部身に備わったとき、ことばではいいあらわされぬ色気となって、からだの外に漂い出てくるのではないだろうか。


 40.ぐち

 いつのまにか、年寄と言われるようになる(74才)、別府公民館高令者教室夏休み宿題を提出する元気が残っていたようです。ところが、ポンコツ車たい、要心して使わにゃいかんと。と医者殿から言われている。なるほど、ここ数年前から『へりくつ』を言うようになったと気づく、
 時(とき)
 全韓国大統領閣下来日、大変な警戒網だそうである。無論ご安泰を念じての警戒である。この件に対し賛否両論が盛んに言われているが万が一とは絶体にゆるされぬことである。
 扨て(さて)
 最近とくに陰惨な事件が毎日、日替りで報道され、慢性になって驚かぬようになる。他人は関係ない『ひとごと』と。可愛想にとは言わぬ。よほど祖先が人ば泣した報いたいと、つめたく忘れる。昔は人の噂さも75日と言われていた。今日では翌日迄には忘れるように出ている。一億分の一の出来事を割り切っていると。『岩見重太郎ではないが百羽の矢が庄家のカヤぶき屋根に刺さっていた。』と言うことになりかねない。お互い心得ねばならぬご時世。
 口ぐせ
 孫に、自動車に用心しろ、人様から話しかけられたら「ひとさらい。」と感じて逃げよ。いやもう大変な毎日、お宅はいかがでしょう。
 最大のうぬぼれ
 各人それぞれ宿命と言って約束ごとがあって現世に生きており、上見りゃ限りなく下見てきりなしだそうであるとの宗教家のおしえ。共通点と言えばお互い残り時間が見えて来ておることであり、時間を金で貰うことは出来ぬ。幸いにも、日曜画家と言われる小生の偶作が久留米及福岡の自衛隊内に飾り保存されておりこれこそ、だれでもと言う訳にはゆかぬ。我が輩の唯一つの自慢であり、この世に活動生存の証しであること記し自画自賛とします。



 テレビでも放映された知覧の武家屋敷、一度は行って見たいと思いながら立寄る機会がなく残念に思っていました。お盆の法要をすませた16日、甥の好意で知覧の町を見物する事が出来ました。
 台風通過の多いこの地方独特の風景、早場米の収獲のすんだ田や青々とまだ穂も出てない田、綺麗に刈り込まれ整然と並ぶ茶畑を眺めている間に早くも特攻隊基地跡に着きました。20才そこそこで「雲流るる果遥か逝いて帰らざる。」と壮途につき、お国のために散っていった若人達の遺品を見ながら涙が流れ出しました。今の平和の有難さを改めて感謝し、安らかにと御冥福を祈り合掌をして武家屋敷へと向いました。入口近くで車を降り両側に並ぶ屋敷町を散策しました。
三三五五と見物の方々にあいながら大きな石垣で囲まれた家々の庭園を見物しました。この石垣はいざという時砦に変るものでしょうか、その内側には生垣が思い思いの形に刈込まれ、山や谷を表わしているように高く刈られた所もあり、外からは内の様子は垣間見る事は出来ません。中の庭園は大きな石を配し狭いながら思考をこらし特色をいかして纒め趣のある庭が造られています。一所は遥か後のなだらかな山の遠景を取入れた雄大な借景の庭園もありました。
 ここの庭園は昔、参勤交代に随行した折京都から庭師を同道させて作ったものとききました。この南国の小さな町に京都や奈良に残っている庭園を偲ばせるのはそのせいでしょう。700米ばかりの道の両側に残ってしる200年余りにもなる古い佇まい。静かな塵一つ落ちていない屋敷町を歩いていると、士族である事を誇にして平民になる事を嫌いいつまでも分家しなかった父の姿が走馬灯のように浮び時のたつのを忘れてしまいました。
 いい思い出を胸に抱いて知覧の町に別れを告げました。



 6月30日、東京にいる娘のプレゼントで4回目の東京行きをしました。出発前からの希望は高野山に参拝する事でした。娘の家を早々に引揚げ、高野山まで送り届ると言う娘に、宿房申込だげをたのんで出かけました。
 新大阪で下車するのも初てで少々不安でした。新幹線車中で隣の座席の人が難波近くまでと言われ、御一緒させてもらい、何の不安心なく南海電鉄で高野山のケーブルカーまでたどり着きました。途中風景もたのしく、高い斜面にはう様にして登るケーブルカーも珍らしく、娘の家を出たのが午前8時でしたが高野山駅に着いたのが午后3時頃でした。
 駅前で宿房の案内所で宿代を払って、さてどうしようかと見廻した所、奥の院行きのバスが6台程停車して一台が動き出しましたので、あわてて乗りました。
途中3ヶ所停車して25分程で奥の院の入口に着きました。勉強たらずの私は弘法大師入仏の地とは知らずにいました。奥に進むにつれて昔の諸大名、権力者達の御墓が大小様々に並び、敵どおしであった人々も高野山では隣りどおしに眠っている様な感じの御墓もありました。鬱蒼とした杉木立の中鳥居のある御墓もあり、強者共の面影がしのばれます。奥の院に近付くにつれて時代の重さを感じます。私も団体さんにまじりガイドさんの説明を聞きながら参拝して良かったとしみじみと思いました。
 奥の院の参拝も終り宿房上池院までぶらぶら歩きました。途中萱堂と言う昔物語のあった御堂の近くに上池院が有りました。大きな御寺で10畳の間かづらりと並び、広い廊下も良くみがかれ、若い学僧さん達のお接待もなかなか気持ちの良いものでした。10畳の間に一人のやすらかな夜をすごさせてもらいました。
翌朝5時半から朝のおつとめに参加させてもらい、亡き母の永代経を御願して、御隣の愛知県からの参拝者の方達と一緒に宿房を出ました。午前中見学して記念写真など取って頂き、「後日送って戴きました。」未練をのこしながら又の参拝を心に誓い高野槇を土産に帰路に着きました。


 43.山の中

 バスは急なカーブを大きく、小さくかたむきながら曲り曲って進んで行きます。
 山又山、右を向いても左を向いても雑木林に色々な桂が巻き付いて風が吹く度に雑木の葉が翻えって踊っている様に見えます。
 三角形の型をした杉の木が何百本も揃って天を突く様に伸びている有様は見事なものです。孟宗竹の林も広くて地面には太陽の光は、おそらく届かぬだろうと思う程小枝を広げて茂っています。狭い狭い段々畑には、早生でしょうか稲の穂が出揃い、黄緑に色づいて頭を垂れて実っているのです。其の聞を小さな蝶々がとび廻り、茶褐色をした鳥が枝から枝えと餌をついばみながら渡っている有様は自然ならではの美観でした。谷間を流れる川の水は美しく底を見せながら庭石になる様な大きな石、漬物用に適当な格好のよい石、玄関にでも飾りたい様な珍らしい石ころに突き当りつつ流れていました。石は水に洗われてきれしな肌を表わして転がり、どこから川へ来たのでしょう。
 其の川岸や田んぼの畦道にはススキの穂が長く伸び、銀髪の頭を日の光を浴びながら動かしています。ふもとに点散する人家の廻りには、大きな柿の木が今にも赤く熟れそうな実を沢山つけてそびえているのです。
 濃き緑の山々も、もうしばらくして秋も深まり寒むくなる頃には皆紅葉して美しい景色を見せてくれる事でしょう。
 こうした自然の山々、清らかな川の流れ、可愛いい小鳥の群遊ぶのを眺めつつ別世界にいる様な楽しい一日でした。


 44.偶感

 私には実の子以外に我が子同然の子供がいます。それは私か世話をした学生です。見も知らぬ九大新入生が日の暮れかかる頃、どうしても下宿が見つからない。
奥の方に部屋があるようだから置いてくれ。と言って飛び込んできたのが最初で、10年間世話をしました。
 この子達は卒業して行った後も福岡に来たからと言って寄ってくれます。申し合せたように何の前触れもなく、ひょっこりとやってきます。出張してきたからとか、友達の結婚式だからとか、教授の所に来たからとか言って、にこやかな顔で玄関の外に立っています。
 町の様子がすっかり変ってしまい不安だったけれど、うちの門に一歩入ると昔のままなのでホッとした。と言って内に入ってきます。自分がいた室がよかろうと案内すると天井の木目がなつかしい、窓から見える庭の木も大きくなったなアと感概一入の様子。初め我が子の様な気持ちであずかるからと申しておきましたから薪割りや力仕事、高い所に上ったり、お使いに行ってもらったり、既に我が子は社会に出て行き手許にいない私を随分助げてくれました。南は与論島から九州各地、中国、四国、近畿と散らばって、既に立派な肩書のつく人、希望通り独立して事務所を開いた人等、各地各方面で活躍しています。たまには子供を連れて来る人もいますが、まだ独身の人は私方に泊るのぱ当然というような顔をしています。だから昔を思出して好きな御菜を作って出すと、おばさんまだ覚えてい
てくれたのと感謝されます。広島まで結婚式に招かれ恩人と紹介されて恐縮し、スピーチを頼まれたこともあります。
 もう人の世話をする元気はありませんけれど、私の生涯の何年間かはそれなりの生甲斐を感じさせてくれた人達です。訪ねて行けば昔に変らぬ家があり、私が居るという思いを満足させてやられるよう、元気でいたいと思っています。



 太平洋戦争も末期7月のキラキラ暑い日、沖縄決戦に参加の中途一発の水雷により遭難し鹿児島内之浦湾に救助された。
 泳いでも泳いでも仲々目的地に到着しない地平線の彼方から大勢の呻き声、笑う声が低いハーモニーとなって聞えて来る。
 数日の後、永い夢から現実に戻ったとき私はべットの囲りの異変に気がついた。
重傷で病院送りとなる戦友あり、死んでゆく戦友あり。ここまでは当然の事であるがざわめきの中で除隊で帰省を急ぐものあり、このときの私の思考力では戦争が勝って終ったか負けて終ったかの判断も出来なかった。後日これが終戦の日であり天皇の玉音放送があったり、除隊が復員と言う新語であったり。ああやっぱり負けたのか。滅私奉公とか盡忠報国とかを肩にしてつくして来た一兵が敗けて良かったと思った瞬間シャバの風がすーと吹き抜けていった。
 夕刻になってこの集団(佐世保海兵団)の中で海岸で特潜基地の工作隊である朝鮮の下土官兵4・5名が逃亡して大騒ぎした。手榴弾4・5発紛失した事も判明、数時間の後高塔山附近で手榴弾の爆発音がとどろいた。
 日本の見習士官はこの朝早くいなくなったそれに較べて日本を祖国とし軍人志願をして日本のため働いた人これこそ真の日本軍人だと心ある者は合掌した。
ときあたかも全斗煥大統領の訪日と聞くがこの際委政者は更めて襟を正し過去は過去としてこれからの友好を一層高めてもらう事を祈る。
 帰心矢の如し、私は一度17日に1回目の復員をした。ゆるゆる走る無蓋貨車の上から見える風景では既に復員した家族の団築が散見された。戦争の終った事を再確認した。
 只今っ!!つかれよごれた体で吾家に帰りついた。満2才の幼児が母ちゃんまた空襲ネ………と言って独り防空スキンをかぶり逃げて行った。妻は嬉しい口の下で。くさい!!と一言。



 「おばあちゃん夏休みになったよ、泊りにいっていい。」孫からの電話で、我が家も夏休みが始まった。休みになって5日目、小2の孫が1人で壱岐から来た。
孫到着一陣です。始めて1人で来た事とて、あちこちつれて廻る。毎日の相手に、主人、私共に疲れてしまった。たった5日間なのに、でもまだならないのです。
他の孫達が来るのです。頑張らなくては!!
 8月1日長男の嫁が2人の子供を、次男の嫁が3人の子供をつれて帰って来た。
それに加えて近くに住む娘まで2人の子供と「私も里帰りよ」と泊り込みで来た。
2人だけの静かな生活が一度に大家族となり、大型台風が来た様で騒々しくなった。久し振りに逢う孫達は嬉しくて両手パンパン叩きあったり体をぶっつげあって喜んでいる。4人の子供が毎年結婚したので、孫の年令もどんぐりの背くらべです。
 食事やおやつの時幼稚園の給食時間の様で騒々しい。遊びも大変、おもちゃ箱をひっくりかえした様に2階から下の部屋と全てが遊び場で足の踏場もない位。
走ったり、笑ったり、泣いたり、蝉取りに出たり入ったり、親達の居場所もない位です。
 息子2人が帰省して来た。また人数が増した。我が家の夏休みは子供4家族と私達の5家族で2泊3日の旅行が例年の行事です。が今年は初盆を控えて中止。
そのかわり日帰りの海水浴や海の中道公園行となった。孫8、大人8の賑やかな遠足です。海や公園での孫達は飛んだり跳ねだり、走ったり、元気一杯。嬉しさを体じゅうで表わしている。皆良く育ったもの。健康で明るい子供に育つ様にと願い乍ら眺めていた。
 お盆すぎ嫁達は子供をつれて里帰り、急に淋しくなった。小2の孫1人になった。そして20日長男家族が、21日次男の家族が帰っていった。それぞれを見送りホッと一息、気が抜けた。でもまだI人残っている。この孫を娘に渡すまでは私の夏休みは来ない。25日までは。
 長い長い夏休みだった。ほんとうに騒々しい夏休みだった。然し年に2回の大集合、今年の暮も又孫達の賑やかな帰福がもう待たれてならない。


 47.私の故郷

 静岡県は榛原郡川根町笹間上、静岡と言えばすぐそこに富士山が見える感じですが、私の田舎はずい分と山奥で一時間位歩いて登った峠でないと見る事が出来ません。はるか彼方に雲の上に浮かんでいるように見えてすばらしい富士山です。
 「うさぎ追いしかの山こぶなつりしかの川」この歌の通りの故郷です。四方八方山にかこまれ、すり鉢の底のような村落で30数軒の家がお茶畠の中にポツリポツリ建っていて非常にのどかな村です。
 田んぼが無くお米が取れない為ずい分と質素でつつましい生活をしました。昔(昭和のはじめ)は、一軒の家に必ず7、8人の家族で大へん賑やかでしたが、最近はどこも同じで2人以上の子供は作らない為、過疎が益々ひどくなり折角の後つぎの長男のお嫁さんが無く大変困って居るようです。
 昔と変った事は、一軒に一台は必ず車を持ち大変便利にはなって来ました。頭がいたいのはどこも同じ、年よりが多い事です。私の里も70才過ぎの兄夫婦が一生懸命お茶畠を守って居ります。幸な事にあの山奥の田舎でもゲートボールが盛んになり、たのしく暮しています。昔は楽しい事は何一つ無かった所でした。
うれしい事です。
 遠い九州からながめ、一日でも長生きして村のあかりを一つでも消さないよう頑張って貰うよう祈るばかりです。大切な最高の故郷ですから。



 私は、別府公民館に務めまして14年に成ります。管理人が長続きしないから貴女は長く務めることが出来ますかと申されました。履歴書を見て洋裁を長くしていたので主人は公民館に務めるのは反対でしたけど私一人の考えで務めることに決めました。
 主事は永富さん、長井さん、田岡さん、三木さんの4人の主事に、館長は、小川さん、藤村さん、井上さん、笠さん、鳥井さん、三角さんそして今の古賀館長さんに仕えています。
 初めの内は多くのサークルにはいっていました。書道、生花、園芸、料理、老人大学。最近は、生花、婦人学級、高令者教室、赤司先生から4年間園芸を習いました。御陰様で皆さんの目をたのしませる様に成りました。これも赤司先生の御陰だと感謝しています。サークルの皆様もめすらしい花があればもって来て下さいます。私も上げます。
 公民館に来た人とのふれあいの毎日をたのしくすごしています。


 49.初盆

 我々の友人は年と共に数少くなって淋しいことだが、本年も初盆を迎えた仏を数えると5人となった。
 さて此の中の一人である友人の未亡人から、初盆を無事済ませたと言う挨拶と共にその土地の中学生が書いた作文のコピーが一部同封されて来た。そのあらましの内容は、『私が小学生の頃から通っていた通学路のそばに幅1.5米、長さ20米位の畑があり、ここにはいつもきれいな花が咲いていた。はじめは気にもとめなかったが気をつけて見るといつもひ弱な感じのするおじいさんが、着物に草履ばきで丹念に草をとったり水をやったりしてよく手入れをしていた。私はおじいさんに「ご苦労さまです」と一言声をかけたいと何度も思ったが、どうしてもはっきり言うことが出来なかった。
 昨年の寒い暮のある日遅くなって急いで帰る途中、そのおじいさんの家の玄関に白黒の幕が張りめぐらしてあるのを見てはっと驚いた。おじいさんが亡くなったのである。
 私はおじいさんにひと言お礼を言いたかったのにとうとうその機会がなくなってしまいほんとうに残念ですまない思いでいっぱいだった。
 年が明けて春になるとその畑には又草花が植えられていた。しかしおじいさんがいた時とちがい草花の間には雑草が沢山はえていた。
 或る日私は朝早く起きてその畑の草を一生懸命にとった。おじいさんがしていたようにきれいにはとれなかったけれども私はうれしかった。生きているうちのおじいさんには何も言うことが出来なかったが、之でおじいさんに私の心持ちが通じたようでとても嬉しかった。そして之からも時々このおじいさんの花園の草をとることにしようと心にきめた。』
 このおじいさんと言うのは、私の小学校以来の友人である。彼の霊は形通りの盆のお経よりも此の見知らぬ少女の作文によって、どんなにか心満されたことであろう。


 50.敬老の日

 敬老の日、私の家では子供たちが集り、私の米寿のお祝をしてくれました。料理屋からすべての世話を同居のむすこの嫁がしてくれました。心のこもった料理をよろこんで頂きながらよも山話に花を咲かせ、名残をおしみながら夕方家路につきました。
 気をつかいながら一日忙がしく過しました嫁に感謝して居ります。これからも健康に気をつけ無事に毎日を過したいと思います。

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