その日私は -終戦の日の手記- (1980年)

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2015/03/17 追加登録(32-46)
2015/03/23 追加登録(47-68)




 序
 「終戦」の記録を何らかの形で書き残すことは、家族は言うに及ばず、地域社会大きくは国にとってもきわめて意義のあることです。
 この老人大学のささやかな手記集も、そういう意味では価値あるものといえましょう。
 ひとりひとりの『その日私は』の文脈の底を流れる、共通した感概が結びついて、日本の「平和」へ貢献することを信じて疑いません。


 公民館からひとこと

 貴重な体験手記
館長 鳥井松三
 お子様やお孫さんたちに手紙を出される機会は再々あっても、このように原稿用紙を使用して桝目を埋めてゆくような仕事は、始めて経験したという方も少くなかったと思います。
 誠に御苦労さまでした。お陰で皆さん方の極めて貴重な体験手記が多数集り、内容の充実した冊子が出来まして、有難う御座いました。
 皆さんの作文を読むにつけても、如何なる原因にせよ、叉どこの国が相手であれ、戦というものは絶対にしてはならないと云うことを痛切に感じました。
 皆さんのお家族は勿論、若い方々にも是非一読させて下さい。

 書くということ
 別府老人大学が、“大学”という名称を冠せて開設されたのは今年度が初めてです。
 “大学”と名づける以上、少くともそれにふさわしい学習内容でなければなりません。開講当初は、受講者の一部に若干のとまどいがあったことはかくせませんが、しかし、学習が進んでゆく中で、徐々に老人大学全体に意欲と生気がよみがえってきました。下りかかった出席率が眼に見えないバネのような力で上昇してゆきます。
 このことは、大変すばらしい意味内容を持っています。つまり、高令者の新たな生き甲斐を創り出す上に、この老人大学が重要な鍵の役割を果しつつあるということを、具体的に示してくれているからです。
 そして、何よりも高令者の意欲と生気を如実に証明してくれたものが、“卒業論文”として課せられた「その日私は」に寄せられた原稿の数です。
 書くということの難しさ、しんどさを克服したということだけで、老人大学の目的は達成されたといっても過言ではありません。
 私の机の上につみ上げられた67編という貴重な手記の一つ一つを、私はこの上もない宝物に接した気持で読ませていただきました。
 別府老人大学は、この後もきっと伸びてゆくことを信じます。この原稿の数がそのことをはっきりと示唆してくれています。
(田岡)


 目次

 7.疎開して
 36.敵前上陸
 58.避難騒動
 66.提言


 1.戦争の足あと 

 戦争が終ったとき、私は若松にいて、当時28才、長男が2才でした。
 あの戦火より35年、ふり返って見ると、この所平隠無事なので、昔のことが、思い出せなくて自分のこと乍ら、ほとほと困りました。
 当時は隣組があり、衣食はすべて配給で、出征兵士の家では、お酒をもちよって、婦人会が、小太鼓を叩いて、渡船場まで歌をうたって見送りに行っていました。
 兵士の家では千人針など作ったりしていました。戦地に慰問袋も何回か婦人会で送って、その労をねぎらいました。中にはお礼の葉書が来たりしました。
 そうして戦火は烈しくなり、各家庭の鉄びんや鉄鍋、金等を供出しました。
 毎日敵の戦闘機、B29が内地の方までくるようになり、昼も夜も洞海湾にあらわれました。私達は夜は燈火管制をしたりして、光を出さぬように警戒しました。
 だが日に日に、米軍の攻撃は、増すばかりで、ニュースに、サイパン、硫黄島も玉砕され、数しれぬ多くの兵士が戦死なさった英霊に対し1分間の黙頭を捧げました。東京も焦土と化したと聞きますと、当時、姉は東京にいましたので、心配していましたら、田舎に疎開していました。
 北九州は、八幡製鉄所があり、敵機は、洞海湾上空にあらわれ、市民は夜も日も警戒してねむられぬ夜を過しました。
 私たちは、バケツリレーや、梯子を掛けて屋根に登って、水かけの訓練を毎日して、私が一番若かったので、屋根に登る役で一番きたわれました。
女ばかりで、若者はほとんど出征していました。
 主人は兵役には関係なかったのですが、赤紙が来て、昭和20年5月20日出征しましたが、ひと月で、突然帰ってきました。私は夢ではないかと思いました。また会社に復帰しました。
 空襲があると、会社の方に出かけて行きました。私は子供と、2人で防空壕に入った生活でした。
 8月6日、広島に原爆が落ち、焼け野が原と化し、又8月9日長崎に原爆が落ちてから急に静かになり、8月15日をむかえました。
 大本営発表があると言うので、近所の人々と、ラジオの前に集まって静かにまちました発表は、「無条件降伏せり」を聞いた時ほっとするやら心配でした。原爆を浴びた結果、戦後の混乱期より米軍の援助をうけ、復興期を経て、幾多の困難にうち克って、今日の高度成長期をなしえたことを思えば、二度と再び、戦争は起こしてはならないと、願うものです。



 昭和20年4月15日 知己友人の万才声裏に博多駅を征て立つ。目的地は相ノ浦海兵団である。兵隊の往験なく40才で召集されて海のつわものとなる日である。われらまで駆り出されるようではこの戦争も長くはないなと思う。
 相ノ浦駅前で纒められ、引率されてゆく。途中警報発令され駆足をする。
息が弾む。入営第1日の猛訓練だった。
 5月1日針尾、3日佐世保を経て、13日長崎へ移動、三菱造船所警備のため裏山へ陣を布く。
 6月26日、四、五日前福岡大空襲をうけ県庁を残すのみなりと聞き胸痛む。
 7月29日、昼近く中型敵機約五十機襲来、大量の爆弾を投下、百米先の工場民家吹っ飛ぶ。他の一隊は三菱造船の船台を狙う。
       右端より黒煙上る。敵機の高度高く、わが方手を出し得ず。
       わが身辺にも土石など飛散し来る。
 8月1日、米機大編隊にて来襲す。わが機銃初めて火を噴き奮戦す。
 8月9日、防空壕掘り作業中、午前11時ごろ風船のような変なものが揚がっとるぞ!の声に壕を出て、空を見上げた途端、ピカッと閃光が飛んだ。驚き、咄嵯に壕に飛び込む。裸体で畑の手入れをしていた戦友は閃光を浴びて体全体がヒリヒリすると訴えてい た。米機が新型爆弾を投下したのだ。居住区の梁は折れ、硝子は全壊した。長崎市は大火災が発生した。
  15日、突如として皇国の無条件降伏説を耳にして愕然とす。後刻、休戦協定交渉説伝わり、一同前途に光明を得たる感あり。口には出さざるも顔に喜色の蔽い隠せざるものあり。公用使帰り来り、いよいよ確実となる。巡検時、指揮官佐鎮長官よりの公文を達す。当方より積極的攻撃をなさざるも、敵の攻撃にたいしては自衛措置をとるとあり戦闘の終了に非ざるを注意す。
  16日、午前7時半食堂に集合、指揮官停戦の詔書を奉読す。
  17日、秘密書類を焼却す。敵さんの海港都市要地への進駐今、明日との説あり。
  23日、指揮官大村より帰り、明日解除のこと明らかとなる。
  24日、午前4時起床、佐世保へ解除の手続きに向かう。帰途、長崎行きの汽車なく諌早駅にて夜を明かす。
  25日、午前9時半帰営、昼近く朝食兼昼食をとり3時半離営、水ノ浦に向う。荷物重し。午後10時15分長崎駅発にて一路福岡へ向かう。汽車の混雑言わん方なし。26日、昨夜のいい月に反し、早朝より雨となる。

 午前7時博多駅着、六本松で電車を降り、茶園谷の坂を少し上り、我が家の見えるところまで来た。雨を含み、ずっしりと肩に喰い込んだ背の衣嚢を下して、フウーと一息ついだ。再び見ることもあるまいと心に決めて後にしたわが家に帰りついた。
 玄関の戸を開げると3人の子供が飛んできた。母も妻も元気な顔を見せた。
8月26日午前8時だった。


 光陰矢の如くとやら、住みついて50有余年すぎました。
 昭和元年に島原より、住吉宮前町に来て、歯科医院を、開業しました。
数年して、戦争は始まり、戦争はひどくなり、召集される人は日ましに、ますばかりでした。
 出征兵士の見送り、武運長久の祈願、慰問文、慰問品、防空訓練と、いとまありませんでした。慰問品を買うために婦人会で荷札作りの内職もしました。陸軍病院の洗濯、繕いものの奉仕にも行きました。
 家庭では、衣食共に、配給となり、買い出しにも行きました。空襲はだんだんとひどくなるし、夜は暗幕をさげ、やすやすと、ねむれぬ夜もありました。
 敵機は博多の街に爆弾を落し、夜空は火の海となり、生きた心地はしませんでした。近くの新柳町が爆弾で燃えた時は、住吉の方にもおとすのではないかと思い、主人は救護班の詰所に行きおらず、母子3人、隣組の人と防空壕に入り、ふるえて、ただただ神に祈り、勝つためにはと耐久生活にもたえしのんで、来ました。
 その甲斐もなく敗戦となり、その悲しさに天皇陛下の玉音も聞こえませんでした。負げても、生きては行かねばならぬ、家族がおると思い、勤険貯蓄に努め、ひたすら、みのりある老後を目ざし、努力した結果が、バラ色の老後生活をもたらすものであると、信じて働いて来ました。
 その主人は今は亡き人となり、世の中は変わり、福祉のみ代となり、苦難の戦後を生きぬいて来た私達高齢者です。おかげざまで、今は老人大学で、学び、この文を、書いておる次第です。
 老人だからと言って甘えてはならぬと思い、人のため、社会のため、私に出来ることは、つくしたいと日頃思って居ります。
 苦難の戦後がなつかしく思い出されるのも齢のせいでしょうか。神より、あたえられた命であれば、身体に気をつけて大事に生きたいと思って居ります。
 季くれば音なく散る木の葉かな吾が死にぎわもかくぞありたし



 戦時中は、北九州の戸畑警察署で特高警察係として勤務し、諸種の情報収集に当りましたので、戦況その他の情報は、一般人より知る機会が多かったと思います。
 戦局が優勢であっだのは、「ガダルカナル島」の、戦いまでで、その後は陸海軍共に、苦戦敗退を辿り、一方本土は、帝都を初め各地の空襲は激しさを加え、殊に東北、北海道では、艦砲射撃を受げ、武器弾薬は底をつく状況となり、戦局の挽回は望みなぎため、政府が軍部と、条件つき降伏を検討中との風評が流れていた時8月6日広島、8月9日には長崎に、原爆(当時ピカドン)が投下され、国民は大衝撃を受け、戦慄と動揺を来し、戦意喪失しつつある状況となったので、もう降伏は時間の問題となったが、一応民心を
安定に導くため、隣組等の組織を通じ、軍部では防備体勢の強化をしておるので、各人も任務の完遂に努めると共に、防空壕等の整備強化を急ぐようにと、安定につとめていた時に、8月14日に、明日正午重大放送があるから、何人も聞くようにと放送があったので警察署員は正午本署に集合せよとの命令であったが、これは降伏の放送と直感し、降伏の条件は如何にと色色想像しながら、8月15日正午の放送を聞くと、軍部からではなく、天皇陛下のお言葉で、降伏が発表されて、国民の落胆は筆舌につくせず、降伏も無条件
とのことで、全く一縷の望も断れたのである。
 市内には流言飛語は流れ、今にも米軍が上陸進駐するとのことで、荷物食糧を背負い、子供を連れて、八幡帆柱山、田川郡方面へ、又一方戸畑駅では貨客車の屋根まで乗った逃避者で大騒動で、施す術もない状態で、警察署員も署長署僚以下10名余りであったが、署長の命により制服に着替え、戸畑靭ケ谷の道路と戸畑駅との2ケ所に、署長以下の残員が分れて、米軍の上陸進駐は日時がかかるので、この地方はおくれるから帰宅するよう説得に努めた結果、3日目正午頃には逃避者もなくなったので中止した。
 つぎは警察署に保存中の機密文書簿冊を2日がかりで焼却したが、その際署長が警察旗を火中に投入した時は落涙止まらず、敗戦の惨めさを痛感し今も忘れられない。
 軍部から北九州5市に、小倉工廠にある軍の物資(布地、自動車タイヤ、種油等)を配分するから、3日以内に引取るようにと警察署に通達があったので、署員4名でトラック1台で初日は運んだが、物資多量のため仕方なく、消防車と消防署員の応援を求め、運搬したが全部の運搬は出来なかった。
配分物資は町内を通じ市民に配給された。
 前述の勤務中、署長も次々と復帰して来た時、突如として、米軍の命令で、9月15日(辞令は10月13日付退職) 特高警察係は公職追放となり、私も追放の一員となり、7人の家族をかかえ、戦後の苦境の生活に入りました。



 昭和20年8月15日、それは悪夢のような1日でした。その日は、朝から異様な程の静けさで、毎日のように現われていた飛行機の爆音も聞えず、サイレンも鳴りをひそめて、おりました。嵐の前の静けさでしょうか。
 広島、長崎に、原子爆弾が投下された頃から、私達にも、敗戦の兆が、ひしひしと感じられました。正12時、天皇陛下の録音を拝した時、主人は男泣きに泣きました。私共も泣きました。
 予期していたとはいえ、改めて日本の敗戦を、知らされました。遠い戦地にいる長男のこと、学徒動員で親もとをはなれて、軍需工場で働いている次男の上に思いは走りました。おそらく友達同志抱き合って泣いたことでしょう。
 当時は色々とデマが飛んで、身の廻りの物に、子供達を乗せたリヤカーが山手に向って疎開する人達の列を、見かけたものです。
 今後日本がどうなるかとの不安はあったものの、今日からは空襲もなく、明るい電灯の下で、食事も出来る、そして自分達は生き残った、という喜びは、かくせぬ本音でした。戦死した方、家を焼かれた方、不具となって、これからの永い苦難の人生を過される方の身の上に思い当る時、心に恥じたものです。
 この年の6月19日夜、福岡はB29の大空襲に見まわれました。実に悲惨な状態であったそうです。幸に私の家も家族も無事で、近所に住む遠縁の被災者一家を引きとり、怪我をされた御主人を病院に入れ、毎日弁当を作って、病院に持たせたもので、市内の惨状は耳にするだげで、遂にこの目で見ることは出来ませんでした。その御主人も、その後亡くなられました。
 その頃から、以前にも増して耐乏の生活が始まりました。家は焼げなかったものの、家族8人、食べることだけでも、やりくりの毎日でした。朝、かまどの前にしゃがんでは、今日何を食べさせようか思う日も度々でした。
 その中、あちらこちらにバラックも建ち始め田舎に疎開していた人も、ぼつほつ帰って来ました。
 心配されたデマも杞憂に過ぎなかった様で、何ごとも起らなかったのは、アメリカの治安維持が末端迄、行き渡っていたからだと思われます。
 それから35年、今、日本は、終戦当時、想像だにしなかった目覚しい発展を遂げました。平和な今日が、如何に大きな犠牲の上になされたかを、私達は忘れてはならないと思います。これは敵にしろ味方にしろ同様で、決して戦争はしてはならないことを強く感じます。戦争の責任がどうあれ、国の為に戦死された方を、国を上げて祭るのは当然のことの様に思います。
 当時4才だった末娘も今は3児の母親になりました。警報のサイレンが鳴り出すと、一番に防空壕に逃げ込んでいた幼い日の娘の姿が、今も目に浮かびます。
 私達が味わった過去の苦しい経験を、この子達が再び踏むことのないよう祈ります。


 6.台湾の思い出  

 昭和20年8月15日、終戦のその日、私は台湾の阿里山の山の上でラジオで終戦の天皇陛下の詔を聞きました。
 7月にサイパン島が落ち、硫黄島が落ちたため、当時主人は台拓に勤務していましたが、臨時召集を受けて入隊し、そのまま引き続いて台湾の最前線の守備につきました。
 19年の10月台湾大空襲以来、たびたび空襲があり心細い思いをしていました。20年になって学童疎開がはじまり、そして私たちも会社から南方に派遣されている家族と、出征兵士の家族だけ、阿里山に疎開することになり、私は4年生と3才の子供をつれて、20年3月に留守家族一同揃つて、阿里山に向かい、独身の社員が出征してカラになっている会社の寮と、ホテルに分れて住むことになりました。
 子供たちも阿里山の小学校に通学して、平地の人に比べて落ちついた日常でした。周りは山ばかりで、ときどき子供たちと、わらびを折ったり、野草をつみ、料理して食べたこともありました。
 敵の飛行機が、毎日阿里山を越えて、嘉義や台北を空襲に行く時に、たまに防空壕に待避する時もありましたが、毎日きまって3時頃になると深いきりに包まれるので、爆音も聞えないし、夜はゆっくり休むことが出来ました。
 山の上にもいろいろと情報が入るようになり、日本は物量が乏しくなり、飛行機の数も少なくなるし、沖繩に敵が上陸して全滅に近いということ、沖繩の次は、台湾に上陸して来るだろうといううわさや、又、内台航路の船は、殆んど沈められているということ等聞くようになり、最前線にいる主人のことや、内地に帰れる日が来るだろうか等、考えると不安はつのるばかりの毎日でした。
 そんな時、あの8月15日の正午、当時数少なかった床屋さんのラジオの前に全員集められて、天皇陛下の詔を聞きました。それは日本は降伏したということでした。日本は負けてしまったのです。
 戦死された兵隊さんや空襲で家を焼かれたり壊されたりして身内を失った方たち等、ほんとうにいたましい戦争は終ったのです。くやしいと思ってもどうすることも出来ません。
 でもその半面これからは、あのいやなサイレンの音を聞かないですみ、また明かりをつけた生活が出来るのだと思えば、何だかほっとした気持にもなりました。
 でもアメリカ兵が上陸して来たら、我々はどうなるのだろうかと思えば、不安もあり、何だか落ちつかない気持と入りまじって、複雑な気持でした。
 あれから35年たった今も、あの終戦の日ははっきりと私の脳裏から消えることはありません。


 7.疎開して 

 その日私は、生後11ヶ月になる長女を膝に、玉音放送を聞く為、疎開先の一番上の姉の家にいました。
 終戦の年3月、主人は小倉で召集を受け、久留米に入隊致しましたが、すぐ北支に派遣されました。私と6ヶ月になる長女を残して……。戦局はいよいよ熾烈となり、子持ちの主人迄召集が来るようになったのです。
 私はそれから長女と留守を守っていましたが、本土と九州が切断されるという新聞報道をよんで、名護屋にいる母は私を助けに行くといって、満員の汽車の窓から人に頼んで押し込んでもらったと言って、小倉迄きてくれました。ほんとうに母なればこそです。それで私と長女はいよいよ疎開することに致しました。
 若者達は次々と戦死して、私の兄も沖繩で艦砲射撃のため、戦死致しました。弟は中支に5年もいました。母も40年も住みなれた名古屋のど真中の栄町から、私と一緒に古知野にいる姉の家に疎開しました。
 それから毎日名古屋は空襲が烈しく、疎開先からよく敵の飛行機が爆撃する様子が分かりました。始めに照明弾を落して明るく照らし消夷弾を落すのです。いよいよ敗戦の色が濃くなって、私達のいる田舎にも飛行機がくるようになりました。
 名古屋の私達が生れた家もとうとう焼けてしまいました。3番目の姉も前が軍需工場で、とうとう丸焼けになり母の処にきました。
 ある日とうとう、一晩中爆撃を受け、防空壕にも危険でおれなくて、大きな桑畑の中で、子供を背負いながら、一夜をみんなと明かしました。四方火の海となり、ほんとうに不安な一夜でした。家は幸い燃えてなくて、ホッと致しました。
 八月十五日私は、玉音放送を聞きながら、涙が出て仕方がありませんでした。神風の国日本が敗れたのです。
 私達はこれからどうなるのか、主人は何時帰還できるのか、戦死しているのではないだろうか、姉夫婦は、お前は若いから米兵が上陸してきたら危い等と、その頃はほんとうに不安な月日を過したことを記憶しています。主人は終戦の明る年2月に還ってまいりました。
 月日の立つのは早いもの、もう今年で35回の終戦記念を迎えました。
やさしかった母も88才で4年前亡くなりました。3人の娘も次々とお嫁入りして、今では6人の孫ができました。現在みな楽しい家庭を持っています。
ほんとうに夢のようでございます。


 8.姑に捧ぐ手記 

 私は昭和11年6月に主人を亡くしました。当時12才を頭に、5人の子供をかかえた母子家庭でした。
 11年8月末、田舎の姑と一緒に、熊本市の水前寺公園の近くに家をたてて、永住することになりました。
 昭和19年に長女は他家にとつぎました。姑はなかなか勝気な人で、5人の孫のめんどうをよく見て、度々の空襲にも一生懸命守ってくれました。
 だんだん空襲がはげしくなり、時々B29が来るようになりましたので、下の孫2人を連れ、田舎に疎開するように進めましたが、皆と一緒に居るといってきき入れません。
 丁度昭和20年8月15日、お昼のラジオで、天皇さまの玉音放送をおそれおおいことですが、姑と私は蚊帳の中で拝聴いたし、天皇さまの御心痛をお察し申し上げ、二人共ないてしまいました。終戦になり、B29の空襲はなくなり、ほっといたしました。
 姑は、8月の初めより疲労のため病床につき、10日頃より発熱のため、かかりつけの先生に往診をお願いしましたら、赤痢とのこと。当時熊本の中心地、新屋敷方面が7月1日夜半B29の空襲にあい、全滅し、その頃から赤痢がはやり出し市内のあちこちに患者が出て、子供達を用心してました矢先だったのでびっくりしました。主治医は、病院は空襲のためやけて、今は行くところがないので、このまま蚊帳をはり、自宅で患者と看護人が、その中ですごすよう申され、消毒薬を都合して頂き、6畳の部屋を病室にし、姑に私がつきそいました。容態が良かったり悪かったりが続きますので、とても心配しました。
 新屋敷の叔父が7月の空襲で家族全部亡くし、一人になり、丁度私の家に来ていました。動員解除になりました長男と2人で、炊事を受けもってくれました。食糧が一番不自由な時で、色々考えてつくってくれました。私は姑につきっきりで、台所は一斉まかせました。姑は、すまないすまないといいながら、自分では一生懸命なおそうとがんばっていたようですが、主治医の往診(3回目)で、ながくないから何でも好きな食事をとのことでした。
 姑はお魚が一番好物ですが、お魚はどこをさがしてもありませんので、叔父と長男が近くの江津湖に久しぶりに魚つりに行き、夕方10匹余りのハヤをもってかえりましたので、早速お吸物にして、夕食につけましたらとてもよろこんで、おいしそうにいただきました。それから度々つりに出かけますので、姑もよろこんでいただいていました。
 食糧難の時、栄養も思うようにとれませず、2週間後にありがとうありがとうと皆に感謝しながら、69才を最後にこの世を去りました。
 今とちがって何もない終戦後の混乱の中で、姑になにもして上げられず、今だに心残りです。どうぞ安らかにお眠り下さいと祈り続けて居ります。



 終戦のその日、私は南方派遣軍第七飛行師団直属の独立飛行第七十中隊という司令部偵察隊に属していました。
 昭和20年8月15日何時頃だったろうか、隊長市川中佐は全員に集合を命じ、「本日正午に陛下の玉音放送があるので、全員本位置に集合せよ」との隊長命令が出された。
 それからさきは国民斉しく感じた通りである。われ等の基地は当時のマレー国(現在のインドネシア共和国)マラン飛行場であったが、電波の関係かザーザーの雑音で殆んど聞きとれず、只、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、との言葉のみが印象的に断片的な内容にしか理解出来なかった。
 それでも「日本は全面降伏」かのおぼろな予感はあったので、放送なかばにして殆んどが慟哭の渦中に狂ったのであった。
 放送が終るや否や、誰かが言い出した。只今の放送は敵の謀略だよ、陛下の声に似た人物を仕立てて、戦意撹乱をねらった敵の卑劣な戦術だ、と叫ぶや、そうだそうだと急に志気の立直りを見せはじめた。
 その頃第一線では、通信も指揮系統も相当不安定な状況であった為か、このことは半信半疑も手伝って、夜まで勝手な討論で、かえって志気は燃え立った。それでも消灯ラッパで静まり返り、眠れぬまま夜は更けた。やがて夜明けも近い頃、突如として非常呼集のラッパで静寂は破られ、次々と隊長命令が発せられわが部隊が使用しているマラン飛行場に、「米軍の落下傘部隊が降下中である。全員でこれを撃滅せよ」であった。
 地上戦斗は一度も経験のない航空隊員も常に小銃と剣は支給されていたので、着剣とけん銃で身をかため、宿舎から飛行場まで約五粁(5Km)の道を、ほふく前進で進んだ。このときの疲労たるや緊張の絶頂にあったにもかかわらず、わが人生で味おったことのない苦しいものであった。
 こうして飛行場入口に達するや、隊長は「演習訓練」と前置きして「敵は既に降下を終り、前方格納庫内に集結している。全員突撃」であり、一斉にワーッのかん声で格納庫内に乱入にも似た突入で、「演習終り」の命令が出され、後は型通りの講評で、狙いは、「終戦といえどもわれわれ帝国軍人には、更に残された使命がある、終戦は疑いもなき事実ではあるが……」と重ねて伝達され、飛行場内を無秩序に散りながら、本当の悔やし涙は子供のそれにも似て茫然自失、とは正にこの状態であり、この日こそわれわれの終戦
の自覚であり、1日おくれの昭和20年8月16日の朝であった。
 しかるに私にはあまりにも人の味わえない数奇な運命があった。昭和15年7月兵庫県の飛行第十三戦隊(戦斗隊)に召集され、1ヶ月後には中支武昌に駐屯する。
 爆撃戦隊飛行第七十五戦隊に配属され、副官部要員となり、上級司令部との連絡要員となったのが、数奇の運命という始まりであった。ニューギュア前進後、戦況不利となるや、僚友は戦況のおもむくまま、特攻隊に編成され南海の敵艦めがけて散って行き、残存の小生は南方第七飛行師団に転属、参謀部編成室要員となり、ここで隷下各部隊から特攻隊要員を編成する仕事となり、選抜された将兵の名簿を作成司令部命令として各部隊に示達したのである。これはとりもなおさず、特攻隊員は勝利の為にとはいえ、死地へくり
出す決定的任務であった。
 にもかかわらず、今は昭和20年8月16日を迎え、わが作成した数百の方々の英霊の散華はあまりにも惜しき華であり、申訳なきの一念から自決をも決心した。
 このときは、正心郷里のことも家族のことも毛頭浮かんで来なかった。
時に戦地勤務引続き満6年を過ぎて、34歳の秋である。
 その日かっての第七飛行師団参謀部の小生の上官K中尉より、U曹長が自決したということは本当か、と市川中佐に電報が入ったとのことで、小生は隊長に呼ばれ、心配された経緯と、「強く生きて行くぞ、祖国にはわれわれの任務がきっとあるぞ」と強く悟され、後は言葉にならず、互いに泣きじゃくったのが今あらためて思い出されて仕方ない。



 昭和19年3月末まで、主人は陸軍福岡俘虜収容所兼小倉第三分所長を務め、俘虜を製鉄所へ働かせていたが、過労の為に病気を再発して陸軍病院へ入院し、私共家族は私の実家浜崎へ疎開した。
 20年に入り、戦は激しく、田舎でも防空演習が度重り、8月初め、広島と長崎に原子爆弾が投下され、ピカドン等と呼び、ものすごい威力だと伝えられ国民を恐れさせた。
 8月15日、陛下の玉音放送が有ると云うので、ラジオの前に静座して待った。かねてより覚悟はして居たが、陛下の切ない戦争終結の悲しい御言葉がじーんと胸にこたえた。
 職業柄とは云え、これからは如何なる事が起きても、世間に恥じない立派な生き方をしようと夫婦で固く誓い合った。病後で、公職遂放の身では仕事等全く無かった。
 長男は軍の輸送船に召集されて3度目の爆撃で病気になり、病院に収容されて居たが突然帰って来た。すぐに唐津共立病院へ入院させ、主人が付添って居た。
 12月初め頃の新聞に第一次戦犯容疑者を巣鴨に収容するとの見出しで、沢山の名前の中に主人も載って居り、驚く間も無く12日夕、小雪のふる中を警察官に付添われて上京した。
 その時自分は国際条約を良く守り、違反等絶対無い信じて、帰りを待てと言い残して行った。
 長男は仕方無く自宅療養に切替えた。主人からは何の便りも無く、春になって、電文の様な「シバラクハカエレソーニナイミンナガンバレ」と片仮名の葉書が来た。返事の書き様もない。
 5月に入り養蚕の手伝い中に、唐津税務署長の名刺を持った男が来て、丁寧に巣鴨行きの留守宅を守る為に、ご主人の財産を差し押さえに参りました。
実は東京、大阪でお金を出せば良い弁護士に頼んで無罪にすることが出来るという口実で金品を巻き上げる者が出て来たので、国の方針ですと云う。
 大切にして居た軍刀も役場に出さされ、私の持ちものは子供だけとなった。
現金収入を考え、外へ働きに出よう。今更恥も外聞もすてて、昼は塩造り、夜は風船張の内職をし、夕食だけは子供と共に過し度いと、時間の定っだ農機具工場へ頼んで変わった。夕食後私は内職しながら子供の勉強を見てやり、お父様が無事に帰るまでは皆で頑張ろうと励まし合った。子供は揃って良い成績で私を喜ばせた。その後、主人からは月1回位簡単な便りがあった。
 長男は見違える程元気になって東京船舶へ帰って行きほっとした。元気で働いているとの便が有った後、秋の台風で仕事中に怪我をして入院し、食料事情もあり、段々に悪化し元の病も再発した様だった。私は送金も出来ず情無かった。9月と11月に食物箱を2回送ったが、皆と分げ合って喜ばれたと礼状が来た。28日夜、思いもかけず長男死亡の電報が届いた。
 主人の留守中に最愛の子を死なせ、目の前が真暗、絶望のどん底につき落された。20年8月15日を思い出し、気を取り直し、神仏に心の底から無事に帰省出来る様にお願いした。
 23年夏、無罪釈放で帰郷した。張りつめた気もゆるみ、神仏のお加護を心からお礼申し上げ度い。絶望の中に光を見出した思いであった。



 事変勃発以来5度目の令状を受げ、京都を後に熊本の南、宇土町に集結したのは昭和20年3月初めだった。
 鹿児島吹上浜に上陸予想の敵を迎え撃つための布陣が南九州一帯に展開された。
 沖繩が既に敵手中に陥ちたため、毎月飛来する敵機の間隙を縫って猛訓練が行われたが、不足勝ちの兵器の補充のため、命を受け、下士官、兵15名を引率して京都に向かったのは8月5日正午前後であった。
 執拗な敵艦載機の機銃掃射を受け、遅々として進まない列車に業を煮やし乍らも、翌々7日未明、広島の2駅手前己斐駅に着いた。これより先は不通、全員下車、広島駅に向かい炎天下を歩いた。来る車中、色々な噂を耳にしたが、街は跡片もなく、一瞬言葉が出なかった。市電に腰掛けたままの並んだ黒焦げ死体。川に首を突っ込んだまま累累と重なり合った黒焦の人々。何んと言う惨状、目を覆う。誰も皆呆然と眺めるばかりで、無言、全く筆舌に尽くされない。
 その夜は広島駅前にて夜営。足の踏場もない程の雑踏。まざまざと見せつけられた新型爆弾の凄さに一晩中語り合った。
 8日朝、とも角、東へ行く列車に乗り、広島を脱出、燃える福山市を車窓に眺め、京都の灯を見だのは9日薄暮だった。
 兵器受領の手続、梱包、発送、総べての任務完了。5日を費して、やっと肩の荷を卸したのも束の間、旅装を整え、帰路を急ぐため、京都駅に全員集合したのは15日午前9時、山陽線は不通、山陰線廻りの列車待ち、正午重大ニュースの放送があるから全国民聞くようにとのこと。さして緊張も、心の弾みもなく聞いた。途端に耳を疑った。皆が聞いた話を纒めた所、矢張り無条件降伏。ポツダム宣言受諾だった。
 祖国戦いに敗れたり。原隊帰還を渋る兵を率いて、とも角車中の人となった。
 敗戦今後どうなるのか。天皇制廃止、軍隊の解体、戦争責任の追及、本土も伊勢湾と敦賀湾を南北に結ぶ線を境に東西に2分割され、夫々米ソ両国の占領下に軍政を布かれ、国民は戦後の復興に強制労働に振りかけられ、婦女子は敵兵の慰みものとなるだろう。勿論国の財産、私有財産も没収、そして日本帝国はその終焉を告ぐるであろう。
 『国破れて山河あり』その山河には銃後の固き守りの夢も空しく、やがて夏草が生じ繁るであろう。そんな敗戦日本の惨めな姿など見たくない。生きて虜囚にも似た辱めを受け、塗炭の苦しみを味わうならむしろ過ぐるあの日あの時、列車の一日の遅延がなければ、原爆の閃光を受け、広島で焦土の土と化した方が遥に本望だったかも分らない。こんな色々な思いが京都発山陰線経由で原隊宇土に帰る車中で私の頭の中を去来した。
 宇土駅着はそれから3日後であった。そして『勃命に叛いても徹底抗戦』の師団命令が私の耳に響いた。

   

 今次の大戦に当り、総合戦力の拡充強化を図るため、国は、逸早く国家総動員法で制定して、人的物的のあらゆる資源を国家目的に向かって動員する体制を敷いていた。国民徴用はその一環として「赤紙」令状に併行して人的資源動員の強力な手段を形成していたのである。
 戦争が逐次エスカレートして、ますます苛烈の度を加えつつある昭和18年初め、私は県の徴用係主任として、徴用人員数の動員署別割当、選考基準の策定、結果の分析検討等徴用業務の第一線に鞅掌する責任を負荷されていた。
 問題は、その徴用業務推進の内容如何にある。徴用令と姉妹関係規定の職業能力申告令によれば、国民は、すべて、その職業能力を職種別、能力の段階別に、申告する義務を負れされており、陸海軍工廠その他の軍需工場等の勤労者はそっくり、現地徴用工員となり、総動員業務に該当しない、農林、水産等の第一次産業物品販売、接客、サービス、公務自由等の第三次産業に従事する人達だけが、新規徴用の対象に指定された。
 これらの人達の中には、一家の生計の支柱としての大黒柱の人、会社、工場、事業所の重役、役職員等も多数存在していた。その持場持場においてこそ、重要な役割を果たし得る人物であるのに、一旦、徴用されて、不慣れな総動員業務に配置されたとしても、どれ程の戦力増強が期待されよう?総力戦の立場からは、むしろ、マイナスの面があったことを否定することはできない。ましてや、これらの徴用工を受げ容れる工廠、工場側の管理者の取扱いの粗暴さ、拙劣さ、まるで野良犬でも追い廻すように、総動員業務とは全く無関係の草むしり、土運び、事務所内の清掃等に釘付けにして、長時間、叱汰激励する始末だ。酷使に堪えかねて死亡する者も年間、25、6人にも上る状況だった。徴用工員の中には「おれが無事帰還することができたら、県庁の門前で割腹し、臓腑をたたきつげてやるから みておれ」と捨て台詞の投書に訴える者も出た。
 徴用逃れのため、あれこれ、方策を工面する人も数多く存在していた。
徴用が国民の忌避、怨嵯のまととなっていたことを看過することはできない。
 私は上司の指示を抑ぎ、思いきって、徴用割当人員を削減したこともしばしばだった。この私に、正七位 高等官七等の優遇措置が講ぜられたのは何故か。その違和感に打たれたものだ。
 終戦後、GHQの命令により、総動員業務担当公務員は、あげてG項該当として追放されたが、私たち徴用官だけは、不該当として追放を免除されたのはどうした理由か。多分、占領軍労務供出に便ならしめるためであったであろうが、何れにしても、以上のような苦い体験は再び味わいたくない。
以上


 近所に住んでいます姉の長男が戦死をしましたので、姉方におまいりに行っていました。
 そこでラジオから終戦になった放送があり、急いで自宅に帰り、すぐ弓立神社に町内中の集まりで私も行きました。
 町会長さんから改めて終戦になりましたことを話されて、始めはみんな静かにしていたのが我慢出来なくて、肩をふるわせて声を出すまいと辛抱している人や、じっと涙を流している人ばかりです。私も勇ましく出征して戦死した甥の姿が目に浮かんで涙が出て止まりません。
 神社でみなさんと別れて家に帰りましたけれど、頭がぼんやりして何を致しても間違いばかりで、困りました。
 夜は家中の者で戦死された方や戦地に残っておられる人の御家族の気持ちを思っては、話も続いて、どうしても眠れずに、夜の更けるのも忘れてしまいました。
 夜明けを告げる鶏の声に、やっと話を止めて、神仏にまだ戦地に残ってる人をお守り下さることを心からお祈りして床につきました。



 昭和20年8月、ここは唐津に近い浜崎の陸軍病院である。その日私はこの病院で終戦を迎えたのであった。
 浜崎は、虹の松原の西方につきるところ、唐津湾の絶景を一望のうちに眺める白砂青松の地である。この松原の中に旅館が点在して、いつからか陸軍病院に接収されたものである。
 昭和20年5月、私は不幸にしてここに入院した。九州一円からの傷病兵が多かったが日本各地から集まっていた。
 病院にはラジオ、新聞もなく閉鎖社会であったが、兵士の動きから戦争の情報ははいった。東京はじめ大都会に次々と空寝をうけ灰燼になった事も知らされ、戦争も並々ならぬ段階にきていることが感ぜられた。
 私は絶好の環境の中で日増しに健康を恢復していった。ここには無尽蔵の海水と松がある。恢復者は、海岸に据えた大釜に海水をくみ、松の枝を燃やして食塩を造るのが日課であった。物資欠乏の時代、食塩の自給自足をはがるためであった。
 6月中旬、東の空か真赤にやけ福岡が大空襲をうけた噂が立った。福岡出身者に外出命令が出たのはそれから数日後であった。
 久し振りに故郷に帰った。日頃みなれた景色はなく家々は焼けて瓦礫の山であった、ただ荒涼として、道行く隣人も土色をして顔色がなかった。焼夷弾の空襲がいかに熾烈だったかが思われる。わが家も半焼して泊れる状態ではなく、さびしい帰郷であった。
 戦争も大本営発表にも拘らず、日に増し敗色が濃厚に感ぜられた。陸軍病院の平和な中にも戦禍が迫ってきた。ある日数機の敵機が唐津湾上空に浸攻してきた。航行していた船舶が爆撃をうけ、逃げ廻るのが目前で展開された。
 8月になり広島、長崎に強力爆弾が投下され数万人が爆死した噂が立った。
真夏の暑い灼熱の日が続き、砂浜はやけついていた。いよいよ8月15日となり、重大放送があるとの風評が立った。それはまさしく事実であった。兵士たちは本部前に集まった。正午、天皇の玉音放送が始まり、雑音のため聞きづらかったが、それとなく戦争終結の詔勅であることがわかった。この瞬間神州不滅の大日本帝国は負けたのだ。われらは呆然自失、ただ無言で立ちつくすだけであった。これが私の陸軍病院における「その日私は」の一時であった。
 その時からすでに35年の歳月が流れた。日本は平和が続き、若者は自由を謳歌し経済は繁栄した。しかし戦争にあけくれ、耐乏生活にしいたげられたわれらの一生とは何であったか。過ぎ去った年月はもどってこない。少年時代、ともに遊び老後をともにいたわりあう友は戦死して今はなく、われらも老い朽ちようとしている。
 われら時代の犠牲者が雄々しくもかなしく生きぬいた時代は、はやくも歴史の一頁として遠のきつつある。



 思い起せば昭和2年、若千17才の春、佐世保海兵団に入団致しました。
 現在でも入学試験、入社試験と、むづかしいようですが、その時代に海軍に志願することは、大変な努力がいったものでした。おかけさまで入団出来たものの初年兵の時に鍛えられ、苦労したことは今も思いだされます。
 満洲事変日支事変と、最後には大東亜戦争となりあの悲惨な、結末となった終戦の日まで、17年余を海軍で過した私でございます。
 3ヶ月の海兵団教育を終え、始めて軍艦比叡に乗りこんだ時の感激は一入(ひとしお)のものでした。その後歳月を重ね、霧島、安宅、陸奥、衣笠、長良と転勤を命ぜられ、内地はもとより朝鮮、台湾、中国と行ったものです。
 戦争はいつ終りを告げるかわからない情勢でしたが、昭和15年5月に、一応現役を去りました。銃後は、ほしがりません勝つまではの合言葉通り、耐乏生活の明け暮でした。
 戦争は、益々大きくなり、遂に大東亜戦争となり16年には召集を受け、再び海軍の人となりました。
 召集後は佐世保第八特別陸戦隊勤務を命ぜられ、3年間海南島警備、再び佐世保に帰り海上勤務となり、特種駆船艇に乗り、敵潜水艦攻撃に出動し、昭和20年6月14日、平戸沖にて敵の爆撃を受け、乗務員50名は艇と共に海底に沈みましたが、奇跡的にも13名は助かりその中に私もいたのです。
敵機が去り漁船に救助されました。
 私も意識不明のまま佐世保海軍病院に収容され、3日目に入院していることに気付きました。九死に一生を得ると言う言葉がありますが私も正にその通りでした。
 一週間後に嬉野病院に転院しました。長崎に原爆が落された時には、治療している中に警報が出たので看護婦に背負われ、防空壕に避難する時に、長崎の方面に、ピカッと青い光が見えたと思う瞬間に、ムクムクときのこ雲が上るのを目撃しました。あれが大東亜戦争に、とどめをさしたあの恐ろしい原子爆弾でした。
 傷もようやくいえて、松葉杖で歩けるようになり、自宅より通院治療となりました。その日が8月14日、終戦の前日だったのです。
 明けて8月15日暑い日でした、その日私は重い足を引きづりながら松葉杖にすがり、病院に行きましたが、別に変わった様子もなく、治療を受けて家に帰って終戦のことを知り、急に力が抜げて体の中を冷たい風が吹き抜ける思いがしました。
 戦後35年間、世の中も変わったものです。色々なことも有りましたが、先ず健康で楽しく今日を過ごして行けることが一番幸せなことではないかと、泌々(しみじみ)と思い感謝している私でございます。



 放送に聞き入った人は皆、敗戦の悔しさに拳を震わし、声を出して泣いた。
皆敗戦のショックで仕事も手につかぬ状態なので、20日まで工場は休業することになった。
 終戦から4日位であったろうか、占領軍が博多港に入港上陸するとの流言飛語がとんで人びとは騒然となった。丁度その日の昼頃、乾パンと缶詰が配給になりこれを持って避難する様にとも言い伝えられて居る時、国道三号線を堅粕博多駅の方から二日市方面に向かって子供の手を引き、大きなリュックサックに一杯の荷物を背負った人達が、ひっきりなしの行列となってどんどん歩いて行った。
 当時私は比恵にいたのだが、避難して行く姿を見て益々大騒ぎとなった。
早く避難する様にと言われて、私も3才と赤ん坊2人をリヤカーに乗せ、家内に守らせ、いざと言う時は避難する様頼んで、私は日本刀を振りかぎして敵中に斬り込む覚悟でいたら、夕刻になって流言であることがわかったので、一応皆落ちつきを取りもどしたが、今考えると全く馬鹿ばかしい話だがその時は真剣であった。
 戦争中工場(現在の新出光石油株式会社で当時は出光航機株式会社自動車整備工場)には米軍人捕虜が6名働いていたが、食料も少なく煙草等も殆んどなかった様であった。私が配給を受げた煙草を1本2本わけてやると、6人で仲良く分け合って、吸って有難とうと言って大変喜んでいた。その当時彼等の服はボロボロで鬚はのび放題であった。それが25日頃であったろうか。帽子から靴の先まですっかり新品の軍服をまとい、ひげもきちんと剃った5人がやって采て「マイフレンド」とにこにこしながら煙草やチョコレー
ト等の土産を持って来た。大変お世話になりました近日帰国するのでお礼とお別れの御挨拶に来ましたとのことであった。終戦から僅かに10日位であったのにあの変り様はさすが米国戦勝国であった。
 8月の末頃から進駐軍々人が自動車の修理に来る様になったが、車から降りる時は手に拳銃を持っていて、車の修理が終るまで拳銃の弾丸を出したり、装填したりして、私達に威嚇的であったが、彼等も日本人が怖わかったのだろう。拳銃を持って後に立たれると良い気持ではなかったが、修理代金はきちんと現金で支払ってくれた。
 日がたって、1、2ヶ月すると、次第に馴れて来て、煙草や菓子等をみやげに持って来る様になって、当方も大変仕事がし易くなり、両方手まね片言で何とか話がわかる様になると、私達の名前を呼んで指名で仕事を頼む様になり、友達づき合いたった。それにしても思い出したくない。
 戦争はいやだ。

 毎日毎日の爆撃で、1日のびにのびました出発で、8月13日に、一路九州に向かいました。汽車は満員で、その上ノロノロと走り、それでも私達の乗っている東海道線では爆撃もされずに進み、通過する駅は見るかげもなく、駅名を呼ぶ駅員さんの声で、初めて都市があったのかと思う程でした。京都で途中下車し、兄一家と無事をよろこび合って、一夜を明しました。静かに何も忘れて、寝てしまいました。何てのん気な事だったのでしょう。
 カボチャの葉や茎のご馳走で朝のご飯をいただきました。こんなものでほんまにすんまへんなあと姉が言いましたので、びっくりしました。とっておきのお野菜だったでしょう。裏庭に出て見ましたら、カボチャの蔓が小屋の屋根の上に這上っていました。大事な食糧だったのです。
 兄は、もうこれで会えないかもしれないと言って、大切な掛軸を生形見として下さいました。大切に持って行かねばと、今、家に居ります二男が、それを大事にしっかり持って、はこぶ役目となりました。もう又と会えないかしらと、別れの挨拶の中を汽車は動き出しました。
 途中広島を通過のころは、まだ原爆の火が瓦慄の中を赤や緑にチョロチョロと燃えて、思わず手を合せ涙が出てきました。こんなに物凄いとは知らず、まだ東京の家に居りました時は、何だか物凄く新しい爆弾で広島が攻撃されたとだげ聞ましたのが、目の前にこんな無惨な形で見せつけられて、ああ、戦争はいやだなあと、お互に心に思い、口に出しては言えない時期でありました。主人や子供達もだまって、何も話さずに居りました。
 翌15日にあの重大ニュースが発表になり、正午には、天皇陛下の悲痛な御決心を日本国民にお知らせになり、今後は世界の日本であるよう、おちかいになられました。より一層に日本を一日も早く復興させる事を祈りました。
長男は学徒動員でどこでこの詔勅を聞きました事でしょうか。私共と同じ覚悟でいる事でしょう。元気であれと祈るばかりです。又とないこの試練に、早く元の日本国に盛り立ててゆきたいものです。
 京都は爆弾もなく、平和な都となり、又、形見の掛軸をしっかり持ってくれました二男は今は会社員となって働いています。長男も終戦後1ヶ月程して帰宅しました。
 終戦直前の日記でございます。



 今日も又空襲だろうと思いつつ、4人の幼い子供達の洗濯物を干していた。
お天気は良し朝から無気味な程しずかだ。
 今日はどこまで闇の食糧を買いに行こうかと思っていたとたん、近所のあちこちで戦争は終った、日本が敗けた、天皇陛下の放送があると云う声が耳に入ってきた。一瞬私の耳をうかがった。心のどこかで、ああよかった。主人は生きているだろうかと最初に思ったのはそのことだけだった。
 無事な4人の子供の顔を見ながら、涙がとめどもなく流れ出た。赤ん坊をおんぶし、乳母車を押して買い出しに出かげても、米は一粒も手に入らず、わずかに南瓜が4、5個だけだった。母乳は少しも出ず、生後10ヶ月の末子は顔色がわるく、栄養失調のきざしが見えていた。
 間もなく兵隊さん達が帰還してくるという噂が聞こえてきた。主人はどこの部隊にいるのかさっぱり分らず、ずっと前に鹿児島から手紙がきたきり音沙汰なし。輸送船にのって南方にでも行っただろうか。もしそうだとしたら撃沈されたかも分らない。戦死でもしていたら、幼い4人の子供と死ぬよりほかないと毎日心で泣きながら、親戚縁者誰一人いないなれない土地で、その日その日を暮していた。
 1ケ月位たった夜中のこと、誰かが戸をたたく音にとびおき、主人の声だと分ったとたんわあっと泣き伏してしまった。主人の勤めの関係上、あちこち転勤が多く、転勤したとたん出征、そこで四男を出生、終戦を迎えた。
一生忘れることのできない久留米のことが夢のように遠い昔になった。
 長男はすでに小学校に通っていた。履くものがなくはだしで学校に行ったことも何日かあった。そんなある日、学級毎に運動靴が3足支給され、くじ引きで当って家に持ってきたときのよろこび。名前をしっかりと書いて袋の中に入れてやり、教室で勉強するときは自分の机の下においておくよう、やかましく注意したものだった。下駄箱の中に入れておくと、なくなるからだ。 しもふり洋服がやっと配給されて、やれやれと思っても、わんぱく小僧の男の子では、すぐひざに穴があき、つぎはぎの上に又つぎをあてる始末であ
った。
 私の帯をといた帯芯で、かばんらしき袋を作り、ランドセルがわりにもした。あの当時の耐乏生活を思うと、よくも耐えたものだ。
 あの日から、もう35年の歳月が流れた。平和な時代を何不自由なく成長し、今では子供の父親になっている4人の息子達は、当時のことは何も知ってはいないだろうが、もう絶対戦争はしてはならぬ。
 早いもので主人が亡くなってから十有余年の年月が過ぎ去り、私は今一人静かに老後を送って居りますが、別府公民館のサークルのお蔭で、気心の知れたお友達もでき、楽しく幸せに暮して居ります。



 昨日までは孫7人賑やかであったが、今日8月15日は、もとの静けさになり、家内と2人で夜、先祖の精霊送りに行き、手を合せると、一番懐しいおばあさんの思い出が次ぎ次ぎに走馬燈のように浮び出されます。その一部を紙面の許す限り、2、3書いてみたいと思います。
 私の家は今の中央区浜ノ町にありました、現在大手門に移築された潮見櫓の筋向かいでした。祖父は旧黒田藩の藩校であった修猷館と大名小学校の書き方の先生で、私が小学校にあがる前の大正7年77才で亡くなりました。
非常に厳格で質実剛健の気風を生徒達に教育したように聞いています。現在80才以上で祖父の教えを受けた方は、あなたのおじいさんはきびしかったと云っておられます。
 そんな祖父に仕えた祖母は上品でやさしいおばあさんでした。私が徴兵検査を受ける前の昭和8年91才の長命で安らかに去りました。私は4人の姉の下に長男として生まれましたので、おばあさんは可愛ゆくて仕様がなかったと思われます。私は甘えのおばあさん児でした。先祖の墓が今川橋の金龍寺ですので、よく手を引いてお参りに行ったものでした。会う人たんびに私を自慢していたようでした。
 昭和15年7月、日中戦争がはげしくなったころ小倉十四聯隊に入営致しました。このことからおばあさんのすくいは始まったと思われます。同時兵は福岡地区の者がほとんどでしたが、浮羽郡田主丸町に住む従兄が一緒でした。風雲急なため充分な教育も受けず、一週間で門司港から戦地に向かいました。私と従兄は中等教練を受けていましたので、間に合せの分隊長で輸送船中その他、お互に助けあい、目的地の南支増城に着くまで任務を全うすることが出来ました。従兄も残念なことにビルマで戦死しました。
 昭和16年12月8日、日米開戦が布告され、私の所属する精鋭菊兵団牟田口部隊は、シンガポール攻略に参戦しました。
 翌年の2月11日紀元節を目標に進みました。弾薬を運ぶのは、2人1組で担ぎましたが、砲弾がどこから飛んでくるのかところかまわず搾裂しました。命からがら班長外3名のいる所までたどりついたのですが、そこらには負傷兵が放置され、血腥ぐさく残酷でした。負傷者に食べ物をと思い探しに行き、10分位で帰って見ると、そこには2メートル位の穴があき、砲弾の直撃を受け、跡形もなく無残にも肉片が散乱していました。これも祖母が助けて下さったとしか思えません。又ビルマでは度々死に遭遇しましたが、九
死に一生をえ、6年目に帰えることが出来ました。戦地でのことは子供達にも話して聞かせません。私自身も思い出さないようにつとめています。つらい時に、「おばあさん助けて」と、心の中で叫んだことにより乗り切る事が出来ました。



 その日私は、福岡県嘉穂郡三菱鯰田砿業所病院第六坑医局に勤務していました。丁度その日は一坑病院に行く事になっていました。正午に陛下の玉音放送の事をお聞きしていましたので、それまでには必ず帰らねば、と大急ぎで炭車にのり、病院での用事をすませ、又大急ぎで帰途につきましたが、もう少しでニュースの時間になってしまいました。大あわてで、近くの家の軒下にかげ込み、やっとの事で間に合いまして、陛下の玉音を拝聴致しました。
御言葉の中に、この上国民を犠牲にするに忍び難いとのお言葉を拝聴しまして、陛下の御心痛の如何計りかと御察し申し上げ、万感胸にせまり、止度なく涙がこぼれました。
 命のあるかぎり頑張りましょう、勝つ迄は、とはげまし合って張りきって働いていましたが、この先どうなる事かと心配しました。
 その日のつとめも終り家に帰り、まず身を清め、お神様、御仏前にお燈明を上げ、御先祖様に、亡き主人に、くわしく御報告申し上げ、私共の一人息子も中学校の3年生になったばかりに、ヨカレンに志願して山口県の航空隊に入隊して居りましたので、その夜は御仏前にすわり、生死の程も分がらぬ息子の名を呼びながら長い間の数々の出来事、悲しかった事、つらかった事、こまった事、大変だった事等、次々と色々な事が走馬燈の如く思いだされて、殊に息子の出征の時の事、たくさんの皆々様方の心からなる御見送り下さい
まして、日の丸の小旗にうづもれ乍ら、歓呼の声に送られて勇み立って敬礼しながら出征して行きました。折尾駅前の宿に着き、行って見ますと、何人もの志願者のお友達。御家族の方に付きそわれお出になっていました。
 その夜、上官のお声がかりで宿の広間に集合との事、その時の御言葉に、戦局の重大さ人民一致してこの戦局を何としてでも切り抜けねば、とのように私はお聞きしました。上官の申されるのに、明日はお宅様方の大切な大切な御子様をお国の為にテッポーの玉としていただいてまいります。誠に誠に有り難うございますと頭を下げて申されました。そのお声そのお姿を忘るる
事はありませんでした。
 終戦の声を聞けばもし元気で居て呉れたら早く帰ってね。もしもだったら大きな声でよくぞやったと大きな声でほめて上げるよと心に思いながら、その夜は一睡もせず8月16日を迎えました。



 今から35年前のこと。記憶も大分薄らいで来てはいるか、忘れがたい思い出が沢山残っている。
 それは8月8日のこと。朝から警戒警報が発令されていた。所は、東京の北部、北区中十条でのこと。10時頃になって、空襲警報に変わった時、外に出て見ると、西方上空からB29が4機5機、吾々の頭上に、飛行雲を棚引かせて、向かって来ていた。今爆弾を落されたら、直撃をくうなと思ってぞっとした。しかしよく見ると、すこし左に寄っていたので、直撃はまぬがれると思った時、ごーつと音がして爆弾が落された。
 1分もたたないうちに、線路を挾んだ、東側、600米ぐらいはなれた所に落下したのである。私は警防団員であったため、自分の家は大丈夫と見定めて、すぐ爆弾の落ちた方に、駆げ付けて見て吃驚した。その1つは、東北本線の線路の真ん中に落下、汽車のレールが長いまま飛ばされ、電柱に巻きついていた。まるでロープのようだった。いかに大きな爆弾だったか想像がつく。そして線路を越して行くと、そこは東十条地区。まわりに爆弾の跡形が10ヶ所ぐらいあって、直径10米ぐらいの穴があいていた。そうして死
体があっちこっちに転がっていた。その時、死者は450人ぐらいだったと思う。その死体の整理が大変だった。
 身寄りの有る人は遺体を引取って行くが、わからない者は一応警防団や消防団で、私達の町内の、西音寺と云うお寺の、広い境内に並べて寝かして置いた。その日徹夜で、遺体の番をし警戒に当った。野良犬が、死体を喰いに来ると云うことだった。
 しかし何事もなく夜は明けた。9日の朝である。身内の人が次々に遺体を引取りに来て、残りすくなくなった時、やれやれと思って、寺の本堂の階段に腰をおろしていた時、10時か11時頃だったと思うが、王子警察、特高刑事が来て、「木下さん、貴方に聞きたいことがあるから、町内の人々の代表として答えて貰いたい」と言われた。特高刑事に話し掛けられるなど、気持の良いものではない。他にも23人はいたが、こちらも警戒しながら、何事ですかと聞きなおした。だいいち、その刑事さんの顔を知らないのである。
しかし刑事さんは私を知っているようであった。よく考えたら、思い当ることがあった。
 それは、3月10日の大空襲の時、警察と警防団と合同で、浅草の先、押上、本所方面に見渡すかぎりと言ってよいくらいの焼死体を片付けに、3日間行ったことがある。その時一緒だったなと思い出し、それで一寸と安心して、答える気になった。
 何事かと思えば、それは、現在町内の人々、又私自身は、今の戦争をどう思うかと云うことだった。正直に答えてくれないかと言われた。それで、私はどう答えてよいか、すぐに返事が出来なかった。私自身は、とても勝てない、負だと思ってはいたが、はっきり負けるとは言えないし、又大和魂でがんばり、神や仏の加護のもと、勝つとも言えずにいると、刑事さんに思ったことを何でも言ってくれとうながされた。それで、思いきって本当のことを言いますが、といって、「現在物資欠乏、食糧難で大豆とわかめを喰べて居るようでは、とても気力も根気もありません。これで勝てるとは思わない」と、答えたのです。刑事さんは、そうだろうなと頷いて元気なく帰りました。
それから2日ばかり、警察官と共に爆撃の跡片付けを手伝い、私自身の仕事も、企業整備にもかからず、時計眼鏡商を頑張ってやって居りました。そこに8月12日、国民兵としての召集令状が来たのである。召集日15日12時となっていた。
 愈々当日が来た。本土決戦で私も死ぬ時が迫ったように思い覚悟を決めた。
しかしその日朝から、ラジオは重大放送があることになっていた。12時の放送を聞いて大東亜戦争の敗戦終結を知った。
 時は昭和20年8月15日、実に悲しい複雑な気持であった。又これから、毎日空襲警報に悩むことはないと、心からほっとしたように思う。



 昭和12年12月末、満鉄ハルビン鉄道局から、鉄道通信機械等建設要員として、北支派遣を命ぜられ、北京に勤務、14年太原鉄路局電気部通信課へ転勤してそのまま終戦をむかえることになった。
 17年終り頃から、南太平洋戦局が深刻になるにつれて、山西省の治安は次第に悪化してきた。山西の空に友軍機は1機もいない。一時は10万と云われていた日本軍は沖繩その他へ転出して、終戦時には5万人ぐらいに減少していたと云う。
 終戦時、国民軍の力はよわく、八路軍(共産軍)の天下だった。鉄道施設に対する妨害、破壊は日毎に激しくなっていた。昼間は西安を飛立ったP51が、列車や駅構内を銃撃する。又、B17、B24重爆機は重要施設に爆弾のあめをふらせる。夜になると八路軍が線路の枕木を引抜き、何百米もレールを外したり、裏がえしにする。通信線路の電柱を数十本も切りだおし、電線や碍子を持って行く。碍子は中にある硫黄を火薬に加工するためである。
B29が2000米上空を悠々と銀翼を光らせて通過しても、よう撃するものは何もない。その編隊の数百米下の方で、日本軍の対空砲火が線香花火のようにすっと消える。何とも云えないさびしい敗戦まぢかの山西である。
 予想はしていても、終戦の詔勅は青天の霹靂の思いであった。事務室のラジオで御聴したが、雑音がひどく、陛下のお言葉も殆ど聞きとれなかったが、敗戦は最早動かし難い事実であることを悟らざるを得なかった。
 閻錫山は鉄路局長に鉄道輸送の協力を求め、局員の生命の安全と生活の保障を約束した。局長もその旨を局員に通達し、何分の沙汰あるまで職場をはなれないようにと指示、局員は今までどおり勤務することになった。
 鉄路局ぱ9月中旬に各部から1名、引揚連絡員を北京へ派遣することになったが、電気部から私か指名された。全員有家族で総員32名、私の家族は19年生まれの長女と、妊娠5ヶ月の妻と3人である。
 少し寒くなった太原を9月29日出発、平常だと13時間で行けるのに12日もかかって雪のちらつく北京についた。それから市内にある会社の寮に落ちついたが、引揚事務完了の3月末まで全員合宿の生活である。一番困ったのはお金の価値が下がり、物価が毎日高くなり、もうお金で食糧も買えなくなったことである。
 こんな情勢の3月3日長男が生まれた。安産で母子共元気なのが何よりのたすけだった。
 4月7日、天津引揚収容所に入り、13日LSTで塘姑港を出港、16日山口県仙崎に入港し、家族4人よろこびの帰国、上陸の第一歩だった。でも仙崎駅で見た福岡市と周辺の地図は真赤にぬりつぶされていた。



 朝鮮仁川府にて敗戦を迎えました。ラジオの放送にききいり、うつろの瞳で、幾すじもの涙が流れて暫く放心状態が続きました。戦争は敗戦にて終ったのだと云う実感がっかめませんでした。
 主人は20年8月1日2回目の召集になり、残された6才になる長男と臨月を迎えた私との生活でした。主人の出征後8月3日に二男誕生でした。
 仁川港は終戦近くなると空襲警報が夜と、昼の別なくはげしくなって来ました。防空壕まで歩くことも無理でしたので、押入に布団を沢山積み重ねて、下段でもしもの時は親子3人共に死ぬ覚悟でした。
 終戦になって、この先どう云うことになるか、いろんなデマの毎日が続きました。
 ○月○日何の前ぶれもなく主人が復員して帰りました。余り体も丈夫な方でなかった主人は顔はむくみ栄養失調でした。それでも生きて帰ってほんとうによかったと暫くは玄関に主人は棒立ち、私も夢心地で、涙が次から次と止めともなく流れて、言葉も暫くは出ませんでした。
 それから幾日か立ち、愈々復員家族として、朝鮮京城駅より引揚げることになりました。数々の道中苦労がございまして、1日で帰れるのに敗戦の為、米兵や朝鮮政府の云うなりになり、戦のきびしさは肌にしみました。
 1週間かかってやっと貨物船にて仙崎港に、夕闇せまる頃内地の土をふみしめた時は感無量でした。
 それから毎日が生きて行くのに精一杯で、少ない引揚の衣類と食料と替えてもらったり無我夢中の連続でした。
 そして幾歳月か過ぎて世の中も落ち着き、私達もどうやら人並の生活ができるようになり、子供も2男1女に恵まれ了、貧しいながらも平和な毎日がくらせるようになりました。3人の子供達も皆独立して、自営業の主として、生活できるようになりました。
 これからと思っている時、主人が亡くなり、早や三回忌を迎えることになりました。ほんとうに永い間御苦労様と労をねぎらい、好きな旅行も充分楽しませて上げられたのにと思うと残念です。
 これから子供達も親孝行ができたのにと「親孝行したい時は親はなし」、昔の人の気持が身にしみて判ります。
 終戦の時、赤ん坊だった次男が、先日比島に出かけましたので、私の弟は1人息子でした。母1人子1人で、母は戦死の公報が出ても10年間「若しや」と思って待ち乍ら他界しましたので、比島の石を二男に持ち帰ってもらって三十三回の法要の折、「安らかに御魂眠れよ」と念じつつ供養致しましてほっと致しました。
 最後にこれからも全世界が平和でありますよう心から願ってやみまぜん。



 8月15日、陛下の放送があるとのことで、子供どもとラジオの前で、かすかにふるえたお声。いよいよ敗戦とのこと。足腰も釘づげになったようで、何も話すことはなく、涙が出てなさけなかった。
 朝から静かなこと。サイレン1つならず、いやな思いがしたが、敗戦国になった日だ。
 主人が3人の子供を残して35才の若さで死んでいっだので、女一人で苦労して来たが、この先、どんな苦労がまっているか。でも住宅が損害を受けずに残っていたので、助かったが、次女が軍属として奉天にいるのがどうか無事に帰国の出来るように、毎日毎日神仏にお参りするのがひと仕事でした。


 その日私は、かまをもって畑にいきました。突然警戒警報がなり、びっくりして子供達を集めて防空壕に入れて、自分は婦人会のため、ものかげに身をひそめて居ました。その時すごい音をたてて、B29の飛行機が列をつくって飛んで来て、村はずれの田んぼに手りゅうだんを投下しました。それが田ぼの近くの家に破片がとびこみ、そこの家の人達は、防空壕に入るひまがなかったので、皆で家の中で布団をかぶって居たとゆうことでしたが、手りゅうだんの破片がとびこんで、だて居た3才の子供のおしりとおばあさんの
横腹にあたって大けがをして大さわぎになりました。婦人会の人達と一緒に村役場まではこびました。警備員の人達もそのおばあちゃんも子供も死んでしまい、村中が大さわぎになってしまって、皆ながそれぞれ世話をしていたが、今度はとなり村に焼夷弾が落ちて、村半分が火の海になって、あの時ほどこわかったことはありませんでした。戦争はほんとうに困ります。
 20年8月15日の12時に天皇陛下のおことばがおりて、やっと戦争がおわりました。それからが大変でした。食べる物もなく、又着物もなく毎日が大変でした。
 私の一家は親子7人でした。食べざかり、よごしざかりでこの先どうしようとつくづく思ったこともたびたびでした。それが、年月が立つのにしたがい、今はほとんどない物はなく、良い国になりました。
 私達老人には、小づかいを下され、医療もただ。なおも老人大学までもして下されて、ほんとうに有りがたいことと思って居ます。
 そのころ苦労して育てた子供も今は皆大きくなり、一人立ちを致してそれぞれ自分の歩く道をまっすぐに歩き、私をとっても大事にしてくれます。
 今の様な暮しが続く様にしてもらいたいとつくづく思って居ます。これから先、戦争が起きない様に神様に毎日お願いしております。
 どうかこれから先は平和にしてだれもこのまま暮せることをお願いして居ます。



 私は旧満州間島省延吉で終戦を迎えました。
 昭和20年8月9日は午前0時、日ソ開戦、翌日早朝、最小限の冬の準備と、1週間分の食糧を持って、司令部に避難せよとの命令が出ました。
 不安のうちに15日玉音放送、終戦と同時に軍のトラックに乗ぜられて他の部隊へ移動、途中戸毎に韓国の旗が出ているのには驚きました。日の丸の四角に何か書いた、いわゆる現在韓国旗。戦争が終わったばかりなのにいつの間に用意されていたのか、日本の国旗を汚された憤りと情けなさ。如何ともし難く、無念の思いでした。
 北鮮系の多い所でしたが、私共の乗ったトラックめがけて盛んに投石、多数のけが人が出ました。
 或部隊に到着しましたが、そこにはすでにソ連軍が進駐。独ソ戦が終結し、極東に廻されて来た軍隊。或いは、シペリヤ監獄から狩り出された丸坊主の囚人兵隊、戦禍に汚れ、赤黒い猿の様な顔。初めて見るソ連人。マンドリンと云われる銃を肩から掛け、不都合な事があれば銃をつきつけて、パラパラと撃つ。只、恐しさで一杯でした。生への執着を感じた一瞬でもありました。
 我々も、生きて日本の土を踏む事が出来るのか、いざと云う時は、日本人として、又軍人の妻として恥かしくない、どの様な死を選ぶべきかと真剣に考えました。
 幸い私共は家族のみの収容所でしたので、当初は、各地から集結した3000名からの人員でしたのを、約500名単位に分けられまして、延吉出発まで1年間、何か皆のお役に立てばと炊事をして来ました。1日2食、ボーミ粉、大豆、澱粉、野草、殆んど「あかざ」。皆使役で摘んだもの。7名づつ、2班が5日交替でしたので、炊事のない時は煙草巻、それを町に売りに出たり、大八車で日本軍の兵器廠、貨物廠を取りこわして、炊事の燃料運びなど働き乍らどうやら1年間。命長らえて、8月末日、延吉出発、9月末日コロ島へ。引揚船のマストに1年ぶりに見る日の丸。感無量。涙を禁じ得ませんでした。ああ私もやはり日本人だと。
 私共が以前居りましたソ満国境から、命からがら辿りつかれた方々も、同じ収容所でしたが、筆舌につくし難い苦労をして来られました。ソ連との国境まで1キロ足らずの所でした。御一緒に引揚の出来ました事を共に喜び合いました。



 あの恐怖心あおる恐れ、危機感、私達にとって忘れがたい終戦から、35年もの歳月がたつと、遠い昔の出来ごとのようです。
 あの頃の我が家は、兄2人が戦死し、長男、次男とあいついでの知らせに、何となく内の中が暗い感じでした。
 当時若かった私は、妹とよく防空訓練に出て、水運び、梯子かけ、火消し、三角布をつかった応急手当法、防空壕に這入ったり出たり、これが週の中の幾日かの仕事でもありました。
 戦争は終った、敗戦はほんとうだろうかと、一時は疑いもしましたが、もう訓練もしなくてすむし、夜、用達しに行くにも手探りで壁にそって歩いたけれど、今日から電気もっけられると、実のところよかったと思いました。
 その反面、でもこれからどうなるのだろうか、青空に黒い雲がかかったような、無気味な感じも致しました。あーあ、これで日本の国もおしまいだと、云う人もいました。国民一人一人が不安だったに違いありません。私も本当に、ダメになって終わるのかなーって正直いって思いました。
 戦時中も戦後も食糧獲得に苦労したものです。特に統制の米は厳しかった。
各駅ごとに神経をとがらせた私服の警察官が見はっていました。この頃、にせ警察官になりすまし、弱い立場にいる主婦と娘をだまし殺した小平事件もおきました。
 母と私は買い出しに行き、せっかく頼み込んで分げてもらった米を駅で係の人に見つかり、統制違犯で没収されて、泣きたい思いでした。野菜だけが残り、期待して待っている家族をがっかりさせたりしたことも何度もあり、そんな目に合うと、悪知恵が働くもので、山越えをして、山道で木の根に足を取られ転び、米をこぼし、土といっしょに袋に入れ、隨分手のかかった事もあり、道を変え警察の人に出くわさない様に用心しながら、励まし合い、重い米と野菜をもって、家にたどり着いた時のうれしさ。あんど感と、家族
の者が喜んで、ほんとうにご苦労様と言ってくれた一言に、疲れもわすれて又買い出しに行った。あの頃の歩いたあの道が今も懐かしく残っています。
 父は終戦3ヶ月後に兄達の後を追うように他界致しました。
 父には、息子2人の死はショックだったことでしょう。若く1人の軍人として国を思い、力の限りを尽くして戦い、死んだ息子が可愛相だとハンカチをよく目にあてていた父を忘れる事は出来ません。
 思い出多い日々は流れ、主人も亡くなり、2人の子供も社会人となり、1人置きざりにされたようで、淋しい思いもしましたが、子供から週1回電話もかかります。手紙もくれますし、何の心配もなく暮らせる事はほんとうに幸せです。
 さいわい公民館で園芸があっていることを知り、参加させていただきました。お蔭で今、庭に、白赤と五色の小菊が風にゆれて可愛いいです。よかったとうれしく思っています。
 これから先は、私の第二の人生だと考え、今日まで生きてこられたことに感謝し、一日一日を大事に楽しく、暮らしたいと思っています。



 あの頃、私は日田市の光岡地区で、陸軍小倉工廠移転計画の、地下工場建設に従事していた。それは丘陵地帯に、縦横に数多くのトンネルを掘って、その中にそれぞれの工場を収容する計画であった。私達の建設事務所は、日田市豆田の橋の近くにあった。その当時現場の労働者は、内、鮮、合わせて300人位だったように思う。
 8月15日正午「玉音放送がある」との事で、殆どの人々が皇土決戦の重大放送であろうと覚悟して、事務所に集まっていた。放送は良く聞きとれなかった。だが「国民にこれ以上の苦しみを与える事は忍びない。ポツダム宣言を受諾して戦争を終らせる」との終戦の詔と判断された。
 私はその時、足元から大地が崩れて行くような、そして何とも言えぬ無念さに、思わずコブシを握り締めだことを覚えている。その思いの中に、これからは空襲も無くなるだろうと言う漠然とした安心感があった。
 各現場でも皆がそれぞれ放送を聞いている筈である。朝鮮から来ている労働者が、どのようにこの放送を聞いただろうか、そしてどんな気持でいるだろうか、私はそれが気にかかった。
 私は所長の了解を得て、すぐ各現場に自転車を飛ばし、担当親方達と朝鮮労働者の班長達にそれぞれ直接会った。
 「日本が負けた、無条件降伏した、残念だ」「日本が敗れても、私達は今迄通りに働かせて貰えるだろうか」「私達はこれから、どうしたら良いのか」「朝鮮には帰れるだろうか」等々の言葉が不安な表情と共に返って来た。
 朝鮮の人達は、勤労報国等の名の許に、その殆どが半強制的に連れて来られていた。この事は敗戦の今、ゆるがせに出来ない事柄だと私は思えた。同時にまた無為に時を過ごせば、どんな事態が起きるか解らないと言う不安もあった。早速皆で協議して、一日も早く帰国させる方策を講ずる事とした。
 朝鮮労働者は、家族を含めて230人位だったように思う。この人達を幾班かに分けて、光岡駅と博多駅間は貸し切り列車(貨車)で、博多港からは雇い上げの船で帰国させる手筈が、思いの外順調に進んだ。
 博多港周辺には、帰国を急ぐ人々が大勢集まっていた。船の手配が出来ていない人達も可成集まっていた。この中から数十人もの人達が、是非便乗させて呉れと執拗に哀願して来た。気の毒で胸のつまる思いだった。だが、手配の船には限度があり、現場関係の人達を全員間違い無く乗船させねばならない。断わるのに非常に苦労させられた。
 最後の船を送り出しだのは、確か9月の末頃だった



 家庭で、書くことに縁遠い日々をすごしていただけに、文章となるとさて、どう書いてよいやら戸惑ってしまいます。
 その頃、小倉工廠の地下工場建設の為工事が始まり、主人達が従事した関係で、家族は大分県日田市旭と言うところに一年程前から移り住んでおりました。
 久大線沿線の静かな農村でしたが、工事のため急に人口が増えて、活気ある中にも戦時下のこととて毎日が緊張した暮らしでした。
 福岡市内が爆撃を受げた日は、たしか20年6月19日の夜だったと思いますが、私共の住んでいました日田市は、盆地のためか、飛行機が旋回して行く凄い爆音にあの晩は驚きました。戸外に出て見ますと、山の向こうが真赤に燃えていて、その時の光景が今でも忘れられません。
 また、こんなこともありました。昼間かなり近くに曝弾が落され、その時、疎開で来ていた母が腰を抜かして動けなくなり、子供2人は小さかったし、あんな経験も初めてでした。
 二十年八月十五日、天皇陛下の重大放送のこと、朝から何回もラジオで呼び掛けていましたので、各自、家庭で待ちました。
 陛下の玉音に接し、初めは何が何だか理解できず、後半でやっと意味が少しづつ解りかけ、全身の力が抜けるような感じでした。それでいて、日本が戦争に負げたのだという実感は、直ぐには湧いて来ませんでした。
 夜になって、意気消沈し心配そうな顔をして帰って来た主人と、これからの世の中はどう変わるだろうかと、唯それだけを話し合ったように覚えています。
 それから数日、近所の人達や同じ会社の奥さん方と、お互に話し合っているうちに、アメリカ兵が上陸して来て、日本は占領されて大変なことになる
と言う噂を聞き、心配でなりませんでした。
 現在日本は、その時の心配がまるでうそのように平和で栄えています。
この平和がほんとうに長く続くことを、心から祈っております。



 ペンをとる前に、まなこを閉じ晩秋の庭で、静かに遠い遠い終戦後のことを思い浮かべていますと、いつしか私は東京板橋の一隅におかれていた。その頃私共は新婚ホヤホヤで、2人ともまだまだ青春時代のまっただ中で、戦争と聞いて気も動転しました。
 20年8月15日の天皇のラジオ放送によって、敗戦を知らされた日本国民は、予想せぬ敗戦をどのように受けとめたでしょう。空襲など戦争の恐怖から開放された安堵感が、いつわらざる国民の気持ではなかったでしょうか。
 食糧難もひどく、とりわけ東京では飢餓地獄でした。東京上野駅地下道では10日に、1日平均2.5人の餓死者が出たのです。「らっしゃい、らっしゃい!」「買った買った!」ヤミ市のアメ横を通ると雑然、というよりも生活感が流れていたせいでしょうか。
 カネとモノとがはげしく動いた大衆の交易場、そこに生きた人たちのしたたかさ、ふてぶてしさが走馬灯のように走ります。終戦後、浅草国際劇場に開演と同時に観に行きました。フランク永井、ジョージ川口、サウンドのしぶきが飛び、ドラム、トランペット、どこか戦前の華やかさを一気にとりもどした感でいっぱい。劇場がハネて通路を急ぐ道路には、まだまだ敗戦の生まなまじさがありました。「鬼畜米英」、「欲しがりません勝つまでは」などの合言葉が氾濫していた戦争一色の日々をくぐりぬけたばかりの胃袋は、今夜の乏しい夕食のことしか頭になかった。
 15年戦争と云うが、年々エスカレートした戦争の日々の苦しみは、日本の国民にとって、酷すぎる経験でした。
 赤紙一枚一枚で、20代、30代が兵役をもつ男性。末期には初老の男性、学生、少年まで次々と姿を消し、国の中心的な働き手が失われ、おびただしい未亡人、母子家庭がつくりだされ、もう二度とふたたび戦争はあってはなりません。
 私共老人は、これから先の余生の幸をわかち合い体に呉々も気をつけて往年のスター、ディックミネ(新曲発表)、上原謙(2児出生)に負げぬよう頑張りましょう。
 ひとり者にとって、ただ今の別府公民館の盛りだくさんのおけいこが何よりの生甲斐の毎日です。おかげ様で好い先生、お友達にも恵まれ楽しい毎日を送らせていただいております。
 現在の、平和な世の中で、幸せいっぱいの私ですが戦争の暗い時代に育った故でしようか。余計強く幸を感じる私です。
 使いすての世の中に、”勿体ない”戦時中の遺物でしょうか、未だに若者に笑われても捨てきらぬ自分が可愛そうでもあり、おかしくもあります。
生きてる限り平和!。平和!。と祈って止みません。



 昭和20和4月、私は、第2回目の召集をうけて、久留米第四十八聯隊に入隊した。数日のち、部隊名が発表されて、護西兵団第六部隊通信中隊に編入された。
 その後、出動命令が下った。中隊は完全軍装をして原隊をあとに、一路黒木駅に向かって出発した。黒木駅にはまだ列車は到着していなかった。暫く休憩ののち列車が着いたので、各小隊別に乗車し、窓はすべて鎧戸をおろし暗々のうちに出発したのである。
 翌朝列車は宮崎県花ヶ島駅についた。雨がかなり降っていた。駅前に整列した中隊は、ラッパ手の吹奏のもとに、宮崎神宮にむかって行軍を開始した。
沿道では市民の歓呼に迎えられ、威風堂々と行進したとき、私は何か胸を打たれる思いであった。やがて宮崎神宮に到着した。中隊長の指揮のもとに拝礼のラッパの吹奏とともにいっせいにささげ銃をする。雨足はますます激しくなってきた。拝礼が終ると中隊は目的地に向かって行進した。約1時間半位行軍した頃、木脇村に到達したのである。
 中隊は二分され、2つのお寺に分散して駐屯することになった。吾が小隊は法華経のお寺に駐屯することになったのである。
 やっと落ちついた頃、民家の車を借りて、すぐ近くの山林に廃木取りの使役で、山頂近く迄登ったところ、高千穂の峯のほとりを、約7、8機ぐらいのグラマンが旋回していた。吾れ吾れは、上半身裸で銃も、帯剣も持っていなかったので、雑木林に避難した。
 6月19日、私は丁度不寝番についていたところ、下の家のラジオが福岡の空襲で、第二十四聯隊が焼夷弾に見舞われていることを報道していた。
 その後私は、初年兵ひとりをつれて、木脇小学校の階段下の一室で電話交換につくことになった。他の班は、山中深く壕掘りに大わらわであった。空襲はますます激しくなって、夜昼の差別なく頻繁に高射砲の炸裂するのをみたが、ほとんど敵機にはとどかなかった。それから後、部隊は、土佐原方面へと移動を開始したのである。
 私は命令をうけ、中隊より約三キロ近く離れた山中の将校会議室の隣りに移動した。将校達は殆んど毎日のように会議をし、その都度酒宴が開かれた。
将校当番が私の部屋で酒を分配していたので、私達も御馳走にあずかった。
 今日昼頃、重大ニュースがあると兵団本部の電話で耳にしたが、私は使役に出てその放送はきかれなかった。あとで話をきいてびっくりした。又、がっかりもした。私は早速中隊本部へ電話をいれた。報告の任務は交換手の本分であり、受けとった中隊本部の軍曹とともに、全員がっかりした様子を受話器に受けとったのである。



 昭和20年8月14日、神戸より福岡中庄の実家に疎開のために帰った。
 心身のつかれでぐったりねこんだ早朝、母がげわしい声で、「さあ、みんな荷作りしてOO山に逃げるとよ」と云います。私はやれやれ、中庄の親元に来ても逃げなければならないか、と思いながら、もんぺを着て母に、「日本中山海どこに行っても同じ事よ」と云うと、母が「みんなこちらに来なさい。」と云うので集まりました。
 父が「栄姉さんはアメリカ兵が来たら、井戸にはしごを入れてあるからかくれてこの竹槍でつきころせ」と目をすえて云いました。私達親子は古家の奥にかくれて「アメリカ兵が入って来たらつきころせ」と云う。何やらはっきり分らないので、おろおろするばかり、表の方から「アメリカ兵が来るのはデマよ」と云う声がする。みんなぞろぞろ出て来る。
 そうこうするうちに、12時頃と思う。録音のお声を聞きました。その時、みんな泣きました。
 母が急に立ち上り、「さあみんな御祝いしょう。餅米を出しなさい。天皇陛下のお声に御祝いするのよ。いざと云う時のかんづめも出しなさい」と云います。餅つきは楽しかった。粗品であったが、心ゆくまで味わった。みんなの顔がやさしく見えた。とたんに父が、「やじらみが下っている」と大声で云う。みんなびっくりして見た。父が「あっちに行きなさい」と手をふると、くるくるとまき上がって、天井のはりにはいながら逃げた。
 みんなで色々な出来事を話し合い、泣いたり笑ったりで話はつきず、真黒な万十、だご汁で大にぎわいだった。あんまりのまんぷくで夕食もせず、ちょっと横になっているうちねむったと思う。あとはどうなったやら思い出せない。



   昭和十八年八月二十七日
     阿部実氏の英霊を迎えて
   敷島の大和桜と散り逝きし
    御影仰げば胸はせまりつ
   ことさらに白く見えたり夏なれど
    英霊迎ふる遺子の洋服

 最初この方の英霊を迎えてつぎつぎと戦没者の家庭が多くなりました。
 当時私は別府市鶴見区原の田園地帯に居住し、非農家の2人暮し、主人は海運事業のため北九州市若松に、私は戦没者の農家の手伝い、指令通り松根掘り、軍に納めるべき蕨取りに懸命、先きに主人の事業の船は徴用をうけ、戦況はいよいよ不利となり、本土は相次ぐ空襲、爆裂、破壊、けれど戦果のことを誰も言葉にする者はありません。
 ついに広島、長崎と壊滅。昭和20年8月15日正午、玉音で終戦を知り、体は震え、溢れる涙、日本は敗けた。神国日本は破れた。その敗戦国と言う傷が痛かった。涙は止まらず、虚脱の状態となり、体を畳に投げつけるように伏し込みました。
 やがて起き上り、外にでて庭を見ているうちに、嗚呼、戦争が終って良かった。もう家を失い、英霊も遺子もださなくなって良かったと、大空を仰ぎました。
 毎日頭上をかすめていたB29の爆音は聞こえません。余りの静けさに耳が聞こえなくなったような感じ、恐ろしい戦争、悲しい戦争でございました。
 主人が「国破山河在」かと、つぶやくように申しました。その主人は5年前80才で亡くなりました。
 別府鶴見嶽は高くそびえ、千古不変の緑をなし、残照の夕映えに美しく、湧き出る小川の水は、とおとおと流れ、水車を廻し風致をそえて静かな里となりました。しかし再び元に返らぬ戦没者の家庭、遺子の悲しみは永久に消えるものではございません。
 この文を書くに際し、英霊の家族の方がたの心情、遺子のいとおしさ、戦没者の家々の門の柱には、遺族の家、と書かれた木札が下げられ国旗が立ちました。
 その当時の有様が、目の前に強烈に深く再現され、感無量でございました。



 昭和20年8月14日は、早朝から真夏の陽光が容赦なく焼野ヶ原、大東京の焼土を照りっげていた。
 洩れ聞いた処によれば、大東亜戦争最後の断に閣僚賛否の意見が交され、宮中に於いて御前会議が開かれているとのことであった。
 「朕ノー身ハ如何ニアラウト、之以上国民ガ戦火ニ斃レルコトハ忍ビ難イ」と、上は民を慈み給い、また万世の太平を開かんと、時局収拾は尊き御心使いのもとに、850字余りに綴られる詔書を、悲哀勝ちながらも、畏き御声が、ラジオに流されたは、翌15日であった。
 私はその時、久留米四八部隊より帝都警備の任を受げ、東京に派遣され、第三憲兵分隊に編入、この日のことは、数日前より布告を受け、充分な心構えはしていたが?
 待機中の仮兵舎は渋谷大山町の一隅で、焼残りの民家の跡であったように思う。1台の古びた中型のラジオが運ばれていたことを思い出す。前々日まで炎天下に降り墜された焼夷弾の雨に、大東京は見る彭もなく、言語に絶する凄惨そのものであった。以上筆舌に尽せず。
 また疑問の一つ、吾々が果して任務を全うし得たであろうか?最悪、種々人心錯乱のデマ、暴動発生等全く見当違いであった。皆が求めるは、総てが衣食住のみで、他に何の希望があったかと、焼跡に何をか探し求めんと、焼土を踏み巡っている人の姿を幾度か目の辺りに見せつけられたのである。何の手助けも出来得なかった、己の身が保障出来ない時、それ故に、至極平静な一日であったのだろう。
 「堪エ難キヲ堪エ忍ビ難キヲ忍ビ、以ッテ万世ノタメニ太平ヲ開カント欲ス」の御詔詞は、現在なおも己の教訓に価いするものである。
 想うに今日此処に、毎日を平々凡々として、為すこともなく過ごして来たが、省みれば30数年前は再三再四、死の直前を彷徨しながら、今日まで健在でいられることは、要するに30数年生命の拾得者であるような気がする。
 切角拾った否、与えられた命のある限り、無意味に過ごすは勿体ないことである。頑張ろう。70才の老人としてでなく、まだまだ人生の花として、世のため人のためとは、己のためになることを忘れずに、何時までも、健康と自信をもって私は突進する覚悟でいる。



 8月15日、この日はよく晴れた暑い日だった。
 「号外、号外」と、けたたましい足音が廊下を伝わってきた。この時私は、前日赴任したばかりの、疎開先のある小学校の職員室に一人いた。
 「12時に天皇陛下の玉音放送があるから、みんなラジオを聞くように。」との号外だった。国民が陛下の玉音を聞くということは、未だかってなかった事だけに、何事が起こったのかと不安でならなかった。
 勝つまでは、勝つまではと、何事にも耐えしのんでいた毎日だったし、また、広島や長崎に原爆が落とされても、負けることはつゆほども思っていな
かったからだ。
 学校から少し離れた所にあった役場に、11時頃より、町から疎開してきた人達、銃後を守って田畑で働いているご老人の方々などいろいろな人が集まってきた。
 いよいよ12時になった。陛下のお声が重々しく聞こえてきた。一言一句を聞きもらすまいと必死だった。
 知らず知らずのうちに涙がほほを伝おった。
 歴史的に外敵に負けたことのなかった日本が、ついに無条件降伏をしてしまうなど、全くの青天のへきれきであった。一人のおじいさんがこぶしを振り上げ、「負けてたまるか、負けたんじゃない」と、叫んだ声がいまだに耳に残っている。
 しばらくみんなおえつした。無条件降伏した日本は、国民は、いったいこれからどうなるのだろうかという大きな不安にかられた。
 暑い昼さがりの道を黙々と力尽き果てた足どりで歩いた。くすの木の大木に油蝉の声が響いていた。


 36.敵前上陸

 昭和5年徴兵検査で甲種合格、12月1日現役兵として兵衛歩兵第三聯隊へ入隊した。6年12月1日、上等兵、俸給は月に一、二等卒で月5円50銭、上等兵で6円50銭戴いた。
 近衛隊は宮城のご守衛が第一で、宮城では天皇、皇后、皇太子旗も拝観し、二重橋にも幾度も歩哨に立った。在隊中は代々木練兵場で教練、出張演習では習志野、下志律、富士の演習場で訓練、富士山にも登山し、箱根八里も行軍した。
 近衛師団の観兵式は代々木練兵場で大元師陛下を仰ぎ、実に壮観そのものでした。7年5月25日、酒肴料が下賜され、31日善行証書とご紋書入りの煙草を土産に除隊帰福。近衛兵帰りで近所の娘さんにもてた。
 昭和12年9月9日、動員下令、召集令状が来て13日、福岡の歩兵第二十四連隊に入隊。10月9日、御用船明石山丸に乗船し、門司港を出港、暮れなんとする北九州の山々に一抹の愛着を覚え、一路戦場と思いきや、意外五島附近で上陸演習三週間余、一度五島に上陸2,3日民宿休養し、いよいよ敵地へ。
 我が隊が乗った明石山丸は最先頭で、続く船団は4、5000トン級が数十隻、500米間隔で水平線の彼方まで続き実に壮観だった。
 11月5日未明、小発に乗って杭州湾敵前上陸の命令を待ち、早朝、全公亭鎮附近の暗闇で何の目標もない海を陸地に向かって発進した。
 前進方向に機関銃火が見え、どこからともなく銃声が聞えだ。しばらく進むとザザザと舟底が砂地に着いた。一番に中隊長が飛び込み私も皆なも飛びこんだ。海水は腰まであり、ようやく薄明りを感じるころ陸地に足をつけ、敵地に一歩を。夜も明け散発の小銃弾が飛んで来た。壕に拠る敵と遭遇し、初陣の交戦、敵陣を突破し、六日、敵の有力部隊と相対し交戦、我が隊にも十数名の戦死傷が出た。敵はコンクリー製のトーチカで応戦、最後は突撃で、トーチカを占領、中支、南支戦線、バイヤス湾の敵前上陸などの戦斗に参加。
 昭和14年8月海南島派遣となり、海南島に上陸、討伐と警備、その間歩兵伍長、歩兵軍曹に任官した。15年11月汕頭に転進。汕頭より内地帰還。
16年4月召集解除。
 第2回の赤紙で16年11月福岡の西部第四十六部隊に応召。同隊で初年兵教育。17年6月病気で福岡陸軍病院入院、9月退院、召集解除。
 3回目の赤紙で、20年4月西部第百四十六部隊に応召、同日第十八地区警備隊附、隊は姪浜のお寺で、将校1名、下士官5名で常置し、在郷の兵を召集して本土防衛の訓練。
 任陸軍曹長になり、8月15日、大東亜戦終結、玉音放送をお寺の隊で聞き、涙がとめどもなく流れ全身の力が抜けた。9月10日復員完結、召集解除となった。これで日本の兵役も私の兵役も終ったが近衛兵であったことは今でも誇りにしている。



 毎日が空襲の連続でした。
 遠くでサイレンが鳴ると、もう多良岳の上から戦斗機が、一機、二機と現れて攻撃を繰返します。グラマン・P38双発で、胴体の双つになった機関砲を装備した戦斗機で、犠牲者が大勢出てそれはひどい日々でした。
 それに朝鮮半島の方からB29の爆撃と続き、高度一万メートル上空と聞き、とても攻撃の出来るものではないと思いました。
 当時、大村航空隊に紫電改と云うB29攻撃用の戦斗機があり、なんでも一万メートル近く急上昇して攻撃するそうですが、数も少く撃墜することは至難の技の様子でした。
 そんな或る日、航空廠内にB29のひどい爆撃がありまして、自動車の整備工場兼格納庫に航空機エンジン等保管してありましたが、爆撃の跡、吹上げられたエンジンが10メートル近くも上の、アングルの棚に乗っているようなそれはひどい状態でした。
 そんな時、私の同じ班に宇佐の中学学徒動員、女子挺身隊など当時はそう呼んでいた人達の中で、鴛海君が見当らない。どこに行った。腹の具合でも悪いのでは、と航空廠内の病院へ行きました。
 その日は、病院は全滅に近い被害を受けてたくさんの患者が死亡、重傷を受けておりひどい有様でした。私は当時戦地の経験のある軍隊出身者と云うことで、救護作業に狩り出されておりました。
 病院はそれはひどいものでした。瓦徨の山で全滅の状態でした。コンクリートの、それは当時としては病院の防空壕は相当頑丈であったと記憶していますが、500キロもある爆弾をジュウタンを敷いたように落していました。
ジュウタン爆撃と云っていました。
 そんな中で、多勢の人と一緒に、救出作業というより遺体の掘起しでございました。ところがどうしても、彼が見当りません。ひょっとどこからか現われるのではと、よい方に考えをむけていました。そんな折、どうしても判らない遺体があるからと連絡を受け確認に行きました。
 それは私も何度か見たのですが、判別がしにくかったのです。その方と二人できれいに遺体を洗い清め確認しました。むごいことですが判別し難かしかったのは、下半身が無残にもありませんでしたから。無事に納めてからは、力も抜け、戦争のむごい有様を嫌と云う程知らされました。
 連絡を受けたご両親が遠路参られましたが、とてもお会い出来ないだろうと引止めましたが、大丈夫です、どうしてもと云われました。
 お母さんが遺体に、じっと目をつぶり、そして生きている人に、子供さんの名を呼んで、「かわってやりたかったね。」
 なんとも云えない一言が、やりきれない気持が今も脳裏を離れません。



 昭和12年夏、東京へ講習を受けに行った時、耳にしたのは、母校の先生の召集の知らせでした。
 若いころの私は、ただ自分の勉強の事だけで世間の動きには、無関心でした。帰郷して、何となく世間がさわかしい、戦争に負けたことのなかった日本としては、恐しさ知らずではなかったのでしょうか。
 昭和16年1月29日、日露戦争の勇士だった父が亡くなりました。そして昭和16年12月8日未明、真珠湾攻撃と宣戦布告でした。郷里の知人の弟様が真珠湾攻撃の犠牲者として戦死されました。
 学校に勤務していた私は、児童達を引率しては、駅頭まで日の丸の旗を持って見送りに行っては、無事と勝利を祈って帰ってまいりました。
 又、勝利祈願のための月1回のお宮まいり、千人針を街頭で縫ったり、縫ってもらいに家々を廻ってお願いしたり、農繁期には学業を止め、農村の男手不足のためのお手伝い、慣れぬ手に鍬を持つため、手や足に傷を作る人が出たりしたものです。
 また野原に行っては、野草をつんでは食事の用意をしたり、慣れぬ手で畑をたがやして芋を作り、陸稲を植えて餅を作って食べたことが、今思えば夢のようです。
 昭和20年8月15日、日本人としては最も悲しい日がきました。
 昨日まで、いや15日の午前中まで飛んできていた飛行機がピタリ飛んでこないようになりました。どうしてだろうと思っていたら、放送。何だか放送はよく聞きとれなかった。
 翌、8月16日盆明げ、地獄の釜の蓋のあく日とか、皆が何だかつかれている日。朝刊に目を通した私の目から、新聞が破れんばかりの涙の洪水、何の涙だったのか分らない、負けた悔しさか、今まで勝つと思って頑張ってきた毎日が急に、力が抜けたようなポカンとした8月16日でした。
 日露戦争の勇士だった父は、二度と戦争の苦しさを知らずに、あの世へやらに旅立ったことは、良かったのではないかと思います。
 終戦以来、日本人の生活は自己中心の生活が始まりました。
 学生運動、労働運動、福祉関係の主張、学校生徒の暴力など例をあげれば、まだまだたくさんあります。敗戦国のみじめさを感じる、今日このごろです。
せめてもの昔の日本らしい平和な日本が、かえってこないものでしょうか。



 敗戦の色濃い20年3月、妊娠中の私は、夫とその両親を福岡に残し、当時小学2年生の長女を連れて、浮羽郡の実家に疎開した。
 この片田舎にも毎日のように、はるか上空をアメリカのB29が東方から西の空へと、太刀洗飛行場をめざしてとんで行った。その姿を、まちがってもこんな田舎には爆弾など落す筈はない、とのんきにながめていたものだ。
 6月19日の福岡大空襲は、遠く離れたこの地からも見ることが出来た。
 炎は北の夜空を”ぼうっと”くれないにそめて、その色はいつまでもいつまでも消えなかった。私は残してきた夫と両親の無事をふるえながら必死に紅の空に向かって祈った。
 そして忘れもしない8月15日を迎えた。今日は天皇陛下の重大放送があるというので、父母をはじめ疎開生活を共にしている伯母や従兄弟たち10数名が1部屋にあつまり、ラジオを前に威儀を正して、はじまりを待った。
 お声が流れはじめた。一同は静かに聞き入ったが当時のラジオは雑音がはげしく、よく聞きとれない。せっかくの重大放送を聞きもらしは、と必死に耳をかたむけていた。すると突然、弟が叫んだ。
  「日本は敗けたんだ!」
  「え!本当に敗けたの?」
 みんなは聞き返えした。本当に日本は敗けたのだろうか。どうしても私は信じられなかった。悲しかった。ショックだった。この先どうなるのかしら、いいしれぬ不安におそわれた。お盆の15日でもあるこの日は「おしょろう様送り」といって、夕方になると仏様をお墓までお送りする、にぎやかな日でもある。でも私達は、今日ばかりは何とも悲しい思いでお墓に向かった。
 早くも「デマ」は流れとび、行き交う人々は挨拶がわりに、ささやき合った。「もう、どんどんアメリカ兵が上陸してきてるそうよ」「だれかは汽車の窓からにんまりと笑った黒人兵を見たそうよ」などと。でもこの”黒人兵のにんまりの笑顔”には恐れより、おかしさが先になって皆笑った。
 突然たんぽをへだてた、ある一軒の家から「ばんざーい」の声があがった。
異様なこの声にわが耳を疑った。みんなもいちように驚いた。あとで聞いたところによると、在日朝鮮人の人達の喜びの声だったとのこと。今にして思えば、今迄抑圧されてきた人達の偽わらない歓声だったと思われた。
 その夜は久しぶりに灯火管制が解け、黒いおおいをとって電灯をつけてみた。なんと、この夜の電灯の光りの明るかったことよ。まぶしいばかりの明るさであった。戦争は終った。あの暗い暗い、息をひそめるようにして過ごした生活は終ったのだ。敗戦の不安も忘れて、私はしみじみ解放感を味わった。



 あの日、あの時、本土決戦というのに、此処数日不気味な静けさでした。
正午に近所の人達とラジオの前に集まり、天皇陛下のお声を聞いている中に、戦争が終った、負けたんだと全身の力が抜げる思いで、複雑な気持でした。
 夫は飛行機工場に、私は1才の長女と、西部軍司令部横の赤坂門の半焼の家を修理して、住んでおりました。
 夫は工場の残部整理に忙しく、私は子併をおんぶして、里の母から食料品をわけてもらいによく行きました。買い出し、竹の子生活は大分続きました。
時には5キロの道を歩いて帰ったこともあります。
 火の消えた街、人も心もこうはいの街、何をすることもなく毎日を漠然と過ごしておりましたが、その中に、米兵上陸のデマ等で筑紫郡に疎開したり、又もどったりで大変でした。
 その後、夫も仕事に付き、街も復興が始まり、安心して生活できるようになりました。

 米屋には米は無く、野菜と言えども大根の花が咲いた硬いもの。しなびれた筋ばかりのゴボウ等、家族の人数にょって割合が決められた配給時代で、とても空腹を充たす事は出来ませんでした。
 少しばかりの畑を作っていられる友人の家へ行き、赤く枯れかかったキャベツを分けてもらい、どうにか不足の分を補って、身体の健康を保っていました。
 甲種合格でない主人は、海軍衛生兵として召集され、佐世保、垂水、相ノ浦、霧島等、転々と廻された末、丁度その頃は沖繩の海軍病院で働いていました。
 未だ子供が小さいので、買い出しに行く事も出来ず、困っている所へ知合いのお家に、玉葱、じゃがいもを分けて下さるとの事を聞きましたので、子供を背負い朝早く、惜しいけれども一番好きな美しい花柄の名古屋帯をお金のかわりに持って尋ね求めて歩き、その家に行き、事情をお話しして、少しばかり分けて戴き、宝物でも手に入れた様な喜びで、汗がびっしょりなって帰って来ました。
 風呂敷包みを聞けて、汗を拭きながら片付けていますと、あたりが何となくさわがしくなって来ました。
 日本はもう、さんざん負けたのだ。アメリカ兵の言う事を聞かないと殺される、若い女性は1人残らず連れ去られる。翌朝、博多湾にアメリカ兵が上陸して、家の中へ上り込み、何でも欲しい物は持って行く。沖繩は占領されて、もう全滅してしまった等々、あちこちから、つらいお話が伝わって来ました。直接終戦の報は聞きませんでしたが、終った事は知りました。
 命からがらで手に入れた野菜も取られるし、沖繩の主人も駄目かなあと思い、南の空を見上げて、どうしたらよいものかと窓辺にもたれて打沈んでいました。表通りには、どこへ逃げて行かれるのか、人声や足音がひっきりなしに聞こえて来ます。
 近所のおばさんが、思いがけなくお出でになり、私も年寄りでどこへも行かれません。子供さん連れてはとても無理でしょうから、仲良く残りましょうと、なぐさめて下さいましたので、少しは力が出て来ました。
 悲しいお話を、2人でしている所へ、「皆さん落着いて下さい。色々デマがとんでいます」消防団のお方が、自転車で急いでかけ廻り、メガホンから流れてくる大きな声を聞いた時、青ざめた顔には少し、赤色が出た様な感じで、心配の胸をなで下し、互に言い知れぬ気持でお別れしました。
 どこから、誰が言い広めたのでしょうか?



 今日は、朝から空襲警報もなくてよかったと思い、毎日のように、少しでも食料のたしにと思い裏の畑で野菜やお芋、南瓜など作って、畑仕事に一生懸命でした。
 私たちは空襲で焼け出された姉の家族と同居しておりました。姉は農家の手伝いに行っていましたが、その日はお盆の15日でしたので、仕事を休んで窓辺の涼しい部屋で仕事着のつくろいをしていました。
 私は珍しく姉と一緒だから、何かかわったパンでも作って見ようと思い、台所で中食の用意をしておりました。
 正午近くになった頃、姉が早く来てごらん、今から重大ニュースがあるそうだよと呼びましたので、私はあわてて、粉だらけの手を洗い、走りこむように部屋にかけ上りました。
 姉と姪はもうラジオの前に正座していました。私もあわてて座りこみますと、今から天皇陛下のお言葉があるそうですよといいますので、中ばこわれかけたラジオに、3人共かじりつくようこして聞きますけれども、ガアガアという音ばかり高くて、なかなか聞き取ることは出来ません。その中、音が少しやさしくなったので、なおいっそうラジオにかじりついて聞いていましたら、かすかながら陛下のお声がして「忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐え」とのお言葉だけはかすかながらも聞きとることが出来ました。その後はまた、ガアガアという音でなにもわかりませんでした。
 もったいない陛下のお言葉や、戦争に負けた悔しさ残念さに胸が一杯になり、思わず姉と手を取り合って泣きました。
 突然、横にいた姪が「お母さん、戦争は負けたのね、戦争に行っているお兄さんはどうなるの」と姉に取りすがって泣き出しました。
 私はただ茫然として、なぐさめの言葉も出ませんでした。しばらくたって、戦争は終ったのだったら、今まで2年近くも音信不通でいた息子が、もしやどこかで生きていてくれるかもしれないと思い、また会うことが出来ると、ふと心のすみで思い、あさましいながらも、ほっとした気持ちでした。
 けれども敗戦国となった日本は、これからさきどうなるのであろうか、また自分たちの生活はどうかわるかなど、色々考えながら、不安な長い夏も暮れてしまいました。
 その後、息子には二度と会うことは出来ませんでした。けれども、一生懸命お国のために働いてくれたことを感謝しております。
 その日のニュースの思い出は、私の一生、死ぬまで忘れることはないと思います。



 昭和20年8月15日、当時私の家族は朝鮮平壌府大馳嶺町と言う町の鉄道官舎に、姑と長男9才、二男5才の4人で住んでいました。
 長女16才は、4月より陸軍病院に見習い看護婦として勤務していました。
主人は、16年12月応召しましたので留守家族でした。
 戦争が長びくにつれて、いろんなデマなどもとんでいたように思います。
 あれは8月7日か、8日頃でした。満州から大勢の避難民が送り込まれて来るようになりました。それは、ソ聯の参戦が原因でした。
 確かな情報がつかめないいらだちと不安の幾日かがすぎた、8月15目、重大二ュースとして発表されたのが、無条件降伏の玉音放送だったのです。
 若しやが、現実となりまして、それからの在留邦人は、夢も希望もない生活のくりかえしでした。
 そんな中でも望郷の思いはつのるばかりで、終戦より10ヶ月経てやっと、家族共々、故国にたどり着く事が出来ました。
 あれから35年、遠い過去の思い出となりました。



 昭和20年8月15日の朝、重大事項の放送の予告を受けたので、一瞬不安な予感が脳裡をかすめて行った。それは制海権、制空権を失い、戦況日々に不利を告げ、遂にあの不気味に鳴り響いたサイレンも全く鳴りを静めてしまった長崎は、その6日前の8月9日午前11時2分世紀の原子爆弾を被り、鋭い閃光に続いて大音響と共に無惨にも市街の大部分は廃墟と化し、言語に絶する惨状を呈していた。
 日本における西欧文化の発祥の地として昔日の面影を止め、近代文化に支えられて繁栄を続げて来た長崎の、昨日に変る焼き爛れた悲惨な街の一角に立って、戦火の応急対策を急ぐ私は、長崎市所在の専売局長崎支局に勤務し、九死に一生を得て、不惑の年を迎えていた。
 刻々に迫る重大放送に備えて、在庁職員全員を集め、放送開始の時刻を待った。時計の針は遅々として進まず、不安と焦燥はつのるばかりであった。
 やがて正午となり、正しく陛下の終戦を宣する詔勅が緊張した雰囲気の中で電波を通して伝わってくると、私をはじめ失意の一同は寂として声なく、陛下は苦衷を告げるが如く、或は諭すが如く、傷心を励ますが如く、或はまた進むべき道を示すが如く、譚々と声涙下る思いの玉音は時としてかすれては細り、定かでないラジオに私は全神経を傾げて拝聴した。
 それは信じたくない敗戦という冷厳な現実であって、遂に来るべきものが来たかという複雑な心境と、開闢以来始めて史上に汚点を印すことに、無念遣り方ない気持とが混然と込み上げて来る中に、自分の生涯を通じて否泉下の父祖を含めて最大の屈辱であり、また民族の誇りを失墜する冷酷な宣告であるとも思った。
 しかし忍び難きを忍びとの詔勅の意を体するとき、ふと「この蒼生を如何にせん」という言葉が寸鉄のように頭に閃き、漸く平静な我に返ることが出来た。
 事務室を覗くと、傷心の職員が集まり、無念の鳴咽の声に蔽われていたが、私はこれに触れることを避けた。それは再び流すことのない日本人の尊い血涙であると思ったからである。
 私は戦災復興に忙殺されている間に翌年を迎えていた。私か叫んだ敵機来襲の掛声に原爆から難を免れて再建を誓った人々や、多くの知人に送られて思い出多い長崎を去ることになった。
 その時被爆の老人から涙が出て読めないからと渡された短歌に「戦の庭に住居は焼きぬれど、君のなさけに甦る春」と書かれてあった。
 私は非運の長崎の空に春よ甦れと祈って別れを告げた。
 歳月は流れて三十有五年。史上に残る不運の傷跡は拭えども消えることはないが、世界に冠絶する民族性の真価を経済大国として現わし、世界平和に貢献するに至った逞しい姿は悲しく散って行った尊い犠牲者へのせめてものよき感謝の贈りもののように思われてならない。



 筑豊の炭鉱に勤めて居り、当日直方市に出張し午前中に用件を済ませ、正午頃宮田駅に帰った。
 帰社した時は時間が過ぎて、玉音は夕方の7時のラジオニュースで聞いた。
 8月の八幡市大空襲の前日、八幡製鉄本社に出張し、さしもの同社でも、機械にさす油が底をつき、気休めに水をさしていると聞いて居たので、戦争は駄目で、もう米軍に降伏する発表だと確信していた。
 その頃強く印象に残っているのは、八幡方面の上空とおぼしき所に、地上の高射砲から打ち上げられた弾丸の煙の跡が、丁度昔の秀吉の千成瓢箪の様であった。その直後B29が、銀翼を輝かせ、博多方面に向かっていた編隊のうち一機が、白い煙を吹いていたが編隊は少しも乱れずに飛行を続けていた。それに続いて味方の小さな戦闘機が一機墜落し、乗員が1人落下傘で炭鉱近くの村に降りて行くのを眺め、始めて戦争の実感がまざまざと湧いた。
 戦時日本国内にはファシズムの思想が広がり、独逸のヒットラー、伊太利のムッソリーを相手に、平沼内閣で日独伊の三国同盟が結ばれ、松岡外相は国際連盟を脱退し、その帰途モスクワで、日ソ不可侵条約を締結し、背後の憂いは無いものと確信していたと思う。
 今も昔も日本の貿易立国には変わりなく、当時は各国の関税障壁に取り囲まれ、これを打ち破ぶるため、日英、日蘭、日米交渉が続けられた。今の日米、ECなどの交渉と変わりはない。
 軍部が明治大正以来続けてきた武力行使に依って、解決しようとした結果の不幸が、世界相手の戦争となった。
 戦争で苦しんだ人達の悟った事は、最後で一番切実なものは衣食住のうち、食糧である事を身にしみて体得したと思う。



 焼夷弾一つ落ちてこない安全な炭鉱社宅に住んで、恐ろしい爆弾投下を知らず、国内の戦災被害者のようすを聞くだげでした。
 防空壕は掘っていましたが、急に押入れの中で身をすくめていることもあり、警報によっては、近くにある古い坑口に走り込むこともありました。
 8月15日は、朝から照りつける熱い熱いまぶしい日でした。縁側でモンペを繕いながら、何だか飛行機の音がしない不気味な感じでした。やがて12時、ラジオの故障なのか雑音が入って、ハッキリ聞きとれなかったようですが、玉音はふるえていました。お言葉の中で特に心に残っていますのは「忍び難きを忍び、堪え難きに堪える」そのご訓示こそ一生忘れてはいけないと思っています。
 誰か外で日本は負けたと叫んでいました。「もう戦争は終った」がすぐには信じられませんでした。時がたつにつれ、怒と悔しさに涙が出ました。子供は声をたてて泣き、私も泣きました。
 夜は電燈をつけたと思いますが、足音はなく家々では、明日の日本のことなどを話し合っていたことでしょう。我家でも敵前上陸とか、捕虜の外出とか、食糧難の来ることなど話し合ったと思います。何か起るかわからない静かな夜でした。
 その後、捕虜は外出し、我家のイチジクの実を垣の内に入って、もぎ取っていましたが、何か話しながら帰っていきました。その時のおそろしかったことは、いつまでも忘れられません。



 昭和20年6月19日の空襲により、わが家は全焼した。私の家族は幼児や老母を始め、通学児を合わせて9人の世帯であった。その翌日からは近所の親戚に避難し、親類の者達と同居することになり21人の共同生活で大変苦しい毎日であった。
 警報が出る度に焼跡の防空壕に家族9人で退避する日が多かった。当時別府一丁目の戸数は70軒であったが空襲後は35世帯に半減した。
 私の職業は電話局の電話運営であり、8月15日は出勤すると突然『天皇陛下の放送があるので所定の場所に集合』の連絡を受けた。私は部員の6名へ伝達し放送を待った。正午に天皇陛下の肉声がラジオを通じて聞こえて来た。それは悲しい戦争終結のお言葉であった。放送が終ると同時に感無量で全員落涙し目は真赤になり一言の言葉も出なかった。今日までの緊張の精神が一変し身体全体の力がなくなり、ただ茫然となってしまった。間もなく、局長の指示で職務に従事するよう注意があった。しかし、その時は職場に行
っても、家族のこれから先のことが心配でならなかった。
 この日一般の人々は『米軍は九州に上陸した。夜間には福岡に来る。又、軍隊の一部では解散した』等の色々なデマ情報が飛び出し混乱した世相であった。
 夕方帰宅すると、親類や近所の人達は集合し田舎に避難することを相談していた。町の方からは夕方から夜にかけて別府橋を渡り、早良方面や油山の山間地へと家族連れの避難者が次から次へと続いた。その状況を見た私共は、食糧や日用品等を馬車に積込み25人の女や子供達を午後9時過ぎから早良郡内野村へ避難させた。付添の男は2人だげで残る男の3人は留守家屋2軒の警備巡視に当った。
 この8月15日はお盆でもあり、かかる混乱の中で私の頭に浮かんだ事は『先祖代々の家を焼失したことが申し訳なく、お先祖様をお祭りするにも、老母や幼児達の生活のためにも、先ず一番に家を建てなければならない』ということでした。そこで、私は日を置かず、叔父に相談し家屋再建に必要な材料や用具の準備を始めた。
 田舎へ退避していた家族の者達も戻って来たので、早速焼跡の整地作業にかかった。8月17日は近所の大工さんの協力もあり、本格的な工事を開始することができた。多くの親類や友人の応援、温かい人々の援助ご協力により、13坪の家が10月15日には完成した。その後、43坪までに増築したが、中央の八畳の居間は終戦記念の特別な部屋として大事に管理し、寝起きする折には必ず当時の状況を追憶することにししている。



 その日私は、ラジオ放送で天皇陛下の、日本軍敗北による終戦の詔勅を涙ながらに拝聴し、実に残念無念で何とも言えない感じでした。
 それでも長期間にわたる苦難の満州事変に引続いて勃発した、第2次世界大戦がやっと終って、やれやれと気分的にはほっとしたものの、生憎の食料難で主食の米は割宛配給制の上、南瓜や甘薯類はすべて、遠い田舎へ歩いて出むき、知るべの農家へ相談して分けて貰わねば手に入らぬ、耐乏生活さなかの時期でもあるのに、今後米軍の支配下に置かれるであろう私共国民の生活は一体どうなることかと、それはそれは不安な気持が一杯であれこれ色々とつまらぬ心配をしたものです。
 それに戦場の本場でもある満州と北支で働いている4人の弟や妹達家族の安否を気使いながら、仕事の方は全然手につかぬ有様でした。
 しかし、責任上このまま自分の仕事を放棄するわけにもゆかず、止むなく上司の指示に従って、その日も平常どおり午後5時まで勤務し、やっと受持の仕事を終え、ぐったり疲れて人影もない静かな寂しい家路を独りぽっぽつと歩いて帰宅したことも、今でもはっきり覚えています。
 その時の精神的打撃は、それこそ全く無感覚の放心状態で、何のために今日まで一生懸命働き続けてきたのか、その上何故こんな破目に会わなければならぬのか、真に残念至極で、今後どうすればよいのやらさっぱり見当もつきませんでした。
 でも国民の誰もが悩んでいる終戦日のこととて、自分勝手な行動は絶対に許されません。そこで明日からは又、責任をもって、慎重に時間を稼ぐ以外に適切な途はないと判断して、自分なりに色々と考えた末、再び有る限りの気力を振り絞り、更に気持を入れ替えて脇目を振らず、一生を仕事に打込む覚悟で働き続けることを決意し、やっと戻ってきた平和国家の一員として、以来28年間、戦後の社会へ吹きこんでくる新風に白帆を掲げ、時には思わぬ高波にゆらゆらと揺れながらも、難行苦行の人生航路を只一筋に黙々と働
き続けてきたのであります。
 さてヽ終戦後の近況を案じていた大陸の弟妹達も、その後元気な姿で、次から次に博多港や長崎、鹿児島港へと引揚げてきましたので、久びさにそれぞれの家族と対面し、お互の健在を涙と共に喜び合えば、日頃のうっ憤も次第に消え去り、気持の上でも、漸く明るさと落着きを取り戻すことが出来たのであります。


 ラジオによる勇壮な軍艦マーチの戦果発表がたまにしか聞かれなくなった頃も、私達はわが皇軍の必勝を祈念し、大東亜共栄圈の確立達成のために日夜青年学徒の士気を鼓舞し、会社の生産増強と国防の強化に全力を傾注していた。
 しかし、待ち望まれた戦果報道は逐次消極的になり、わが満州国の奉天市上空にも米軍機のB29が昼の日中に数機編隊で姿を現わすようになってきた。わが皇軍の戦況が不利になりつつあることはこの外にも内地からの手紙などによってほぼ伺い知ることはできたのであったが、まさか、わが国が敗戦、降伏をするということは夢にも思ってはいなかった。
 昭和20年8月15日、今日も平常通り職務に精励していたのであったが、始業後間もなく緊急の社内放送があり、『本日は正午から天皇陛下の重大放送がありますので、会社の役職員は全員本館の屋上にご集合下さい』ということであった。
 この重大放送については『一億全日本国民の総決起激励のお言葉?』『終戦のご詔勅?』などなど、人様々の憶測に花が咲いた。しかし、惨めな敗戦の玉音放送であろうなどとは誰一人予想もしなかったのである。
 私達は午前11時半までに所定の場所に集合し、各部課別に整列して放送の始まる時刻を待った。正午より厳粛な陛下の玉音放送は始まったが、ザアザア、ピイピイ、と雑音が激しく放送内容を充分に聞き取ることはできなかったが、目に涙を湛えて玉音に感泣する者が多く敗戦のご詔勅であったことは略察知された。放送が何分間位で終ったかは今覚えてもいないが、放送終了後元の職場に戻る頃までは何の変哲もなかった。
 昼休みが終って午後の始業時になると、満人の従業員や工員達の態度が急変し、彼等は工場や倉庫の陰に屯して業務を放棄し、われわれ日本人の言うことを素直に聞かなくなった。直接放送も聞かなかった彼等が、わが皇国の敗戦を敏速に感知したのには流石に驚かざるを得なかった。
 会社の内部はこの日の午後も安全に過ごされたが、市街地の状況は急転し、在満日本人は放送の直後から単身では屋外に出られぬ程危険な状態に激変していた。社用外出のため午後になって社内に駆け込んで来た同僚の話しによると『市街地は略奪・強盗・暴行などで地獄の坩堝と化し修羅の巷になっている』とのことであった。
 無警察の悲しさ、天国が地獄に逆転したのである。この日の正午までは平穏な天国に居た日本人が、午後には地獄のどん底に突落されて哀れな敗戦民族に変わり、満人や韓国人に侮蔑される身分となったのである。退社時は同僚10数人が一団となり自衛しながら無事社宅に帰り着いたが、夜は夜で匪賊の夜襲警備のため一睡もできなかった。
 かかる惨めな敗戦体験は私には生涯忘れることのできない貴重な思い出の1つになっている。



 当時私は、旧満州国(ルビンから1時間位北へ莫石という駅の官舎にいて、日夜多忙な主人を助げ、毎日をおくっておりました。
 終戦の8月15日は、ハルビンの高女の寮にいた長女も当分学校は休みということで、2日前から帰っており、学校の話やら、これから戦争はどうなるだろうなど話していたのです。終戦の日も、ラジオで重大ニュースが放送されるというので、何ごとだろうと話しておりました。
 陛下のお声を涙ながらに聞いたのです。異郷での終戦、それも敗戦とわかった時の驚きと不安、心細さ、これから先の私達はどうなるのだろう。
 内地のみなさんはどうなっていることだろう大きな不安が音をたてて胸にせまる。ハルビンの学校も閉鎖になったらしい。
 昼下り、昨日から家に帰っていない主人の使いで、満人の駅員が小さい紙に書いた物を持ってきてくれました。それには「日本は負けた。局からの指示で行動をする。おまえは先ず食糧と下着などを小さくまとめていつでも出られるようにしておけ。自分勝手なことはせぬよう。」とまるで電報文である。私は言葉の通じない使いの人になにを聞いても仕方がないので、わかりましたと言えば、彼は片言の日本語で、「これから駅長さんも日本人の人たいへんですネ」と言うと頭をチョコンと下げて、走って帰って行きました。
主人はどこへ行くつもりだろうか。
 これだけの家財全部捨てるのかと思えば惜しい、どれもこれも思い出がいっぱい。何一つ残したくない。娘は学校の教科書をカバンにつめこんでいる。
その後向きの肩が大きく波うっている。泣いているのだ。可哀相に、私も一緒に泣いてやりたい。いつまでも座りこんでもいられない。満人が言ったように、これからが大変だ。
 なんとしても内地に帰らなければ、気を取りなおし、私は駅舎の方の見える窓に立った。ホームと駅長室の境に立っている毎日見なれた日の丸が、何事もないように風になびいていた。私は、この時ほど心の安らぎと自分が日本人であることを強く感じたことはない。町の方で部落の満人が略奪でもはじめたのか、警護隊舎の方で威喝の銃声がきこえる。
 郵便局や町長の家の前に立っていた日の丸もいつの間にか一つも見えない。
終戦と同時に降されたのだろう。私は警護隊舎の日の丸を目でさがした。あった、あった、まだ立つている。暮れかけた夕空の下でひるがえっていた。
私は涙でかすみぼやげてゆく日の丸の旗に心からサヨナラを言って頭を下げた。
 再びあの時の日本の旗は見ることはなかった。けれども今も私の心の中の永遠の日の丸である。



 その日その時は、昭和20年8月15日正午をさす。
 その頃私は二日市町の電波兵器会社の勤労課長をしていた。そのため県庁の横にあった関係役所に度々訪問していた。そこは若い軍人ばかりで非常にやかましく何時でも「ぐずぐずしているとしまえるぞ」と云われていた。
そこで「しまえる」という言葉が何事を意味しているか、会社の同僚と色々と考えたものである。
 ある日、その帰途、B29の大編隊が上空を通過するのを見た。まことに残念だったが、日本の高射砲弾は中空で白煙を残すのみで、何の影響もあたえなかった。後でわかったことだが、八幡製鉄が大爆撃されたのである。
 福岡市の大空襲の折は、私は召集されて津屋崎に居た。特攻隊のための飛行場作りである。その晩は月がこうこうと照りわたり、昼のように明るかった。「空襲があったら大変だ!」と話をしていた矢先に、敵機来襲である。
引続く爆撃音と共に、西公園の方角より火の手が上がり、またたく間に東の方が火の海となって広がっていった。私共は一晩中、切歯やく腕して見守ったものだ。家が焼けようが、家族が不幸になろうが、家に帰ることができないのが軍隊の規律であった。この時、召集されたほとんどの人が家をやかれた。中には家族が全滅した人もあったのである。
 この頃になると空襲が一段と激しくなって、二日市町まで電車通勤するのに、何回も飛び下りて避難したものである。ある時、二日市西鉄駅と朝倉街道の中頃で、満員電車が敵戦斗機2機によって襲撃され、多数の死傷者を出した。それは空襲警報解除後で、皆が一安心した直後のできごとであった。
この頃の日本は完全に制空権を奪われていたのである。
 日一日と空襲の激しさが加わると共に、物資も欠乏してしまい、おしつめられていく状況の中で、広島への原爆投下を聞き、続いて長崎への原爆投下を知り、息のつまるような思いをしたが、まだ負けるとは思わなかった。
 その後、西鉄二日市駅の近くの川の橋の上で、知人からソ聯の参戦を聞き、もう日本は駄目ではないだろうかと思った。
 八月十五日であるその日、私は渡辺鉄工所、即ち後の九州飛行の寮の前に立っていた。妻がここの青年学校の教官をしていた関係で、八女の郷里に行く途中、重大放送を聞く為に立ち寄ったのである。多くの人も緊張して立っていた。その時、即ち正午、天皇陛下の終戦の玉音が細々と流れ出してきた。
拝聴しているうちに自然に頭が下がり、涙が出てきた。「ああ日本は負けた、これで日本も滅亡だ」と心の底から思った。気がつくと、妻も他の人々も皆泣いていた。その時、今の日本の平和な姿を夢にでも思った人があっただろうか。
 今後は益々繁栄する平和日本を祈念して、戦争は絶対にさけねばならぬと思う。



 主人は日本周辺海上航路の安全を守る職員、即ち灯台守でございました。
 昭和16年12月8日、日米戦宣布告を聞きましたのは、鹿児島県草垣島灯台で、次の勤務地は長崎県五島の男女郡島の中の女島灯台で、官舎は南端の玉の浦町にありました。2ヶ所共東支那海の孤島で、船で静かな時でも7、8時間かかります。
 戦争は益々激しくなり、19年後半頃には北から南から、我が軍玉砕の悲報が伝えられ、国民一丸となっての応戦故、女も竹槍や手りゅう弾の扱い方、火のしかた等々厳しい訓練を受げました。
 灯台の方は、敵の目標になる灯を消さねばならず、レンズを始め、諸機械は全部地下室に格納するよう連絡、完了しましたが、次の問題は職員を早く連れ戻さねば危険ですから、主人も気が気でなく、交代船の船長に掛け合いますが、仲々出そうといたしません。
 島にはもうIヶ所、海軍の守衛隊100人余りいましたので、敵機は再々機銃掃射で攻撃。指揮官は終日、最前線で見張りなさいまして、2発の敵弾で無念の戦死をなさいました。
 一方主人の方は、一刻も早く船を出さればならないので、意を決して船長を官舎に呼んで強談判です。「僕は責任上、命をかげても職員を連れ戻さればならぬ。海上は今危険な事は君も良く知っている筈だ。しかしこのままでおく訳にはいかない。君も長い間灯台の交代船として役目を果して来た男じゃないか。途中万一の事があれば、船諸共、全職員と共に殉職する覚悟で出してくれ」と夜中の十二時過ぎまで説得して、やっときいてくれましたので、私共二人ホッと致しました。
 そして翌日の夜、主人を乗せて出港、見送りました後は、無事帰って来られますように、唯神仏に祈って待ったのでございました。これこそ神様のお加護と申すより外ありません。全員乗せて無事帰りました時の安堵と喜びは筆舌に表わせない位でございました。
 私共には六年の女の子と一年の女の子があり、近日五キロばかり離れたところに大きな壕に避難させるので用意しておくように、学校から通知があっていました。用意はしても、或いはその時が生き別れにならねばよいが等と心配したものでございます。
 そして8月15日、天皇御自らの御放送、今でも忘れることは出来ません。
 今まで味わった事のない、初めてのこととて、無条件降伏、ああなんというざんきなことでしょうか。しばし言葉も出ず、二人共だまってしまい、出て来るものは涙だげでありました。陛下の国民に対しての御情又悲痛なる御胸中を御察し申上げる時、又、あまたの戦争犠牲者の御魂に対し、申し訳ない気持で、唯一途に御冥福を御祈りする外ございませんでした。
 最後に申し上げたい事は、この世の中に戦争より惨めな事はないと云う事、この後再び戦争を起してはならない、と心から思いました。



 前線が広く拡大すると、船や自動車、馬ぐらいでは大戦争の勝利は得られん。当時の大日本帝国は総力を結集して飛行機の製作に万全を期して、24時間体制で昼夜の別なく勝利を確信して、一億一心総力を合せて頑張った時であった。
 福岡市内には毎日出征する人、英霊を迎える人々が早朝より動いている。
 昭和18年春、渡辺航機製作所の協力会社福第1121工場に入社した。
西原社長、喜多村専務に知遇が有ったので、私は疎開工場の木材、セメント並びに工員の日用食品の収集に昼夜の別なく東奔西走、命を懸けた。何しろ工員3500余人の大世帯では、これらの夜業と残業の副食品は一寸想像出来ない量です。
 叉、食料を供給しなければ志気上らず、前線に飛行機は送れない。他方この頃になると経済警察の活動は一層厳しく取締りは更に厳重になりました。
私は前後2回福岡警察署に拘留された事も有りました。
 昭和20年8月14日、明日重大発表が有ると云うので、全員広場に集合し、玉音を拝聴した。恐らく日本国中の人で何人陛下の御言葉を聴いた人が有ろうか一体どんな御言葉を承るので有ろうか。胸わくわく。静粛に承って居る中に御言葉は終った。ハッと我れに帰った時、日本帝国の敗戦を知った。
間違いではないのか、もう一度承り度い。大本営の発表では、各地で善戦して戦果を挙げて居る時ではないか。無念。
 未だに感銘に残って居るのは、三瀦高女の女子挺身隊員300余名が地に伏して号泣して居る姿は忘れ得ない。若い彼女達は明日から何を作るのか。
よく御手前の稽古の前日、砂糖やら小麦粉の無心を受けた事を思い起こす。
 男子は号泣こそ無かったが、顔に出さない、丁度蝉の抜け殼の様な苦しみが秘められて居た。
 そしてあんなに、何時も元気に人の世話にも親切でよく気の着く、第一の人気男のY班長が無中で大地の砂を蹴って居る姿に、誰も声をかける者もなく思いは同じであったでしょう。彼は現役時代上等兵で有った事は誰もが良く知って居た。それだけY君の動作は、今日まで尊敬された指導者でも有りました。
 私は翌日から残務整理に、約3ヶ月余を費し思い出深い工場を退社し、宗像郡の宗像神社際の山林に入り、3ヶ年間電燈の無いカンテラ生活で木炭を焼いたり、薪の生産に又南瓜の増産に半生を送った。


 54.終戦所感

 昭和7年、当時我が日本の生命線としていた満州に事変が勃発してから、世界第二次大戦終結の昭和20年8月15日まで実に14年の長期にわたり、日本はアジア大陸と太平洋において、陸、海、空軍の激戦を展開した。
 私は兵役には関係なく、昭和4年土木技術者として、国鉄に就職した。戦争始めの頃は、鹿児島に在勤し昭和11年頃より、軍関係の輸送設備の業務を担当していた。
 昭和19年9月より博多に在勤し、終戦前後の責任業務を遂行した。戦は昭和20年3月以降激烈の度を加え、戦況は我方に不利となり、遂に国土至る所敵機の爆撃を受け福岡市も6月19日焦土と化した。
 我が国の戦力低下に7月26日、釆、英、中の3国によるポッダム宣言が発表せられ、8月6日広島へ8月9日長崎へ、世界最初の原子爆弾が投下された。市街は一瞬にして灰燼に帰し、一度に20万と云う大多数の同胞が爆死する悲惨事が発生したことは、全国民の胸に極めて強い衝撃を与えた。加えて8月8日には我が国と不可侵友好条約締結国ソ連が、国際信義を破って宣戦布告してきた。
 かくして、真夏8月15日正午の「ラジオ」放送で畏くも玉音により「惨害のおよぶ所真に測るべからざるに至る……我が民族の滅亡を招来するのみならず……堪え難きを堪え、忍び難きを忍び……」と終戦の詔勅が発せられた。国民は降伏の悲劇に驚嘆し、津々浦浦に至るまで、無念断腸の思いで号泣した。
 暫らく経過して博多駅(旧)に米軍輸送司令部(R・T・O)が設置せられ、大尉、中尉の2将校が駐在した。国鉄列車の運転、線路、建築の用件について指令が発せられたが、正確、丁寧、迅速を旨とする真に厳しいものであった。指令は駐在の通訳員を介し、互に面接の上でなされた。線路の移転、撤去、宿舎の建設の他、異例のものとして、日本刀をみやげ品とするため、芭装木箱の製作も多数に上り、全く情なく思った。
 憶えば日本は、過去の戦争において勝利を収め、領土の拡張を図り経済の発展、文化の興隆により、世界の先進国に列したが、今や拡張領土は没収され、その上に、古来領土の一部まで失われんとしている。けだし軍国が辿る悲運の常道であり、熟慮すべき所である。
 幸に日本は終戦後逸早く軍国から脱皮して、民主国家に生れ代り、新憲法の下に戦争を放棄したことは、真に喜びに堪えない。所感の一端として注目すべき現在の世界国際情勢で、まことに不穏極りない。この期に当り、外敵に備え防衛手段として適当なる自衛隊を保有することは、独立国家として当然の措置と思考し、米国との安全保障条約の履行と相俟って、国内の平和を維持し、もって国家に繁栄をもたらすよう熱望する。
 併せて現時の退廃せる国民の愛国心の高揚を切に望んでやまない。最後に戦没者に対し心から哀悼の表をわす。


 55.感慨無量

 その日私は佐賀で暮して居り、真夏とは云え照りつく程でもなく、青い空には激しかった爆音もせず、嵐の前の静けさで、何か起るかと思い乍ら、中食の支度にとりかかったばかり、天皇陛下の録音のお言葉をラジオ放送で耳にして、ただ呆然としてしまいました。ああ日本は戦争に負けたんだなーと、思い知らされると同時に、戦争に関する事等を振り返りました。
 昭和7年満州事変発端以来、次々と、昭和12年ろこう橋、16年には真珠湾攻撃が続き、大東亜戦争(いわゆる第二次世界大戦)になり、諸々の物資は不足し、ただ生きる事のみを考えていました。家庭への割当の品物でさえ行列買いをしたり、隣り組の者は集まって物資を分け合ったり、毎日の生活に憂えていた矢先、天皇の終戦のお言葉に呆然としたものの、本当に有難く感じました。燈火管制も解除され、電灯の明りをまぶしく感じました。
 これからは、負けた日本はどのようにして生くべきか、又、4人の子供達はどんなになることか、と。戦争に負けた我が国だから今にも進駐軍が身近かに迫って来るのではないかと、おののいていました。
 物資不足はより以上きびしくなり、戦時中、貴金属など皆献納してしまい。
やみ物資の購入資金もなく、苦労しました。でも、乏しい生活は皆同じことと思い、又気をとり直し、4人の子供に病気をさせないようにと田舎に食料品の買い出しにも再三再四通ったことでした。又、手袋や足袋等も自作で、子供達に履かせました。
 終戦後間もなく、夫は三菱工業株式会社より、苅田の製塩所(京都郡苅田町)へ派遣され、そこで塩作りに専念するようになり、三菱の各鉱業所系列会社へ家庭用の製塩担当で200人余りの浜子さんを指導して居ました。
 それからは、私共の食生活は幾分緩和されました。と云うのは、各会社より塩の分配用を受け取りに来る時は、必ず何か食料品を届けて下さり、夫がこんな役職を命ぜられた事を、つくづく有難く感じました。
 その当時の日本の製塩の方法を述べて見ます。塩作りは冬場は塩田の仕組や夏場にかげての準備を整え、塩田の周囲の溝へ海からの塩水を引込み、初夏から真夏にかけ、早朝から大勢の浜子さんが、塩田に出て砂をばらまき、金のついたほうきのようなものでかきならし、その上に溝の中の海水を振り撒き、真夏の大陽に乾かして、砂に含む塩分を濃くするために、何度も繰り返します。その後、塩水を濾過にかげ、濃度の多い塩水を取って、それを大きな塩釜で煮詰めると立派な塩が出来上ります。
 戦争のおかげて色々と苦労もし、又、色々学ぶ事も沢山出来、その後、世の中も次第に落着き、政府もアメリカヘすべてをゆだね、色々な物資が輸入される様になりました。塩も輸入されるようになったので、塩作りの必要がなくなりました。
 苅田時代5人目の次男を分娩しました。現在5人共健全な家庭を築いており、幸せに過ごさせて頂いて居ります。今想えば、感慨無量の想いでございます。



 昭和20年8月15日から、35年の年月が立ちました。
 今、はっきり思い出しますのは、その日一日を終えまして、2階の居間に落ち着いた時のことです。外を見渡しました時、さびしい中にも灯火が点々とつき落ち着いた何ともいいようのない静けさでした。それは私の心のせいだったかも知れません。
 その時私は4人の子供と実家の今の筑後市羽犬塚へ疎開しておりました。
 八女郡岡山村に飛行場がありまして、付近の民家に将校の方々が分宿しておられました。
 餘暇に当時生後10ヶ月の男の子でしたが、おんぶ紐でおんぶして「こんなにして飛行機に乗ろうか」等いってかわいがって下さいました。その方々が天皇陛下の正午のラジオ放送の後、あわただしくそれぞれの故郷へ帰られました。
 お蔭さまで食べる物、着る物にも大へん困りませず、両親の許で弟妹も近くに居りました。弟は学生、私と2人の妹それぞれの主人は軍務に服しておりましたが、生きておりまして、戦争のいたではあまりせず、申訳ないことでした。
 私の主人は終戦の8月15日には福岡県の水城に無事でおりました。
 広島、長崎と原爆が落された直後、次々と原爆の地に診療に行き、無事かえりましたが、昭和22年11月27日なくなりました。後日伺いましたことですが、広島、長崎と診療に行かれた方々は、多くなくなられたということです。

 5、6人の人々と共に、私は今宿(当時は糸島郡)のバス待合所にいた。
この日は市内の病院に入院していた父の退院の日で、出迎えの為に来ていた。
 福岡空襲の40日前に、私は幼い息子と2人して運よく今津に疎開して難を逃れたが、実家の両親は罹災し、私共のところで共に生活していた。当時ガソリンの一滴は血の一滴といわれ、殆んど軍需用で今宿から今津迄父を乗せる為一俵の木炭をやっと工面して、木炭車タクシーを依頼したのだった。
 やがて正午、ラジオの君が代の流れが止むと、陛下の沈痛なお声が流れた。
 「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び……」御声も低くあとはよく聞きとれなかったが、敗戦を告げる御詔勅である。当時の新聞はこう記している。
「建国三千年、我等民族の上に未だかってなき悲壮な歴史的瞬間である」と。
 当時の戦況は私共が考えてみても不利なようで、もうこれ以上の苦しみを国民に与えてはならないとの大御心であった。
 既に夫も、又身近な方々も戦死、これ以上未亡人を出してほしくなかった。
 当時私は洋裁で生活しており、更生品ばかりで、ワソピースの仕立代4円前後、今考えるとうそのようであるが、周囲は農家が多く、仕立代は米、麦などで頂けたので、食糧難の折から大いに助かっていた。
 かって戦争に負けた事のない我国である。無条件降伏、いったい日本はどうなるのだろう。正直なところもう空襲におびやかされる事はない。ほっとした気持と不安とが交錯していた。ところが追打ちをかげるように、博多湾から米兵が上陸して来るらしい。女、子供は山の方へ避難するがよいとの事、世の中は騒然としていた。
 一方血気にはやる若手将校等は、敗戦とは何事か、我々はやるぞっと、方々で決起していた。又、軍の倉庫には群衆が殺到し、食糧、毛布等手当り次第に略奪し、敗戦の結果とはいえ目に余るものがあった。
 日を追って帰還される悲しみの英霊、復員兵、引揚者あり、我家も一時は9人の大家族となり、狭い家に身を寄せ合い、国内も人口増となり、食糧難は一段と深刻さを増し、雑炊、だんご汁は勿論、いなご迄天ぷら、ふりかけに蛋白質源として貴重な食糧となった。
 列車は買い出し部隊で超満員、腹一杯食べられる者が幸せ者で学歴などは問題にならなかった。巷には戦災孤児があふれ、米軍の進駐、戦犯の処刑等々、あれから35年の歳月は流れ、すべては語りぐさとなった。多くの未亡人達は各人各様の苦難を味わったが、代償として何事にも打勝つ強い精神力を植えつけられた。
 現在経済大国に迄発展して来た我国であるが、世の中すっかり変わった。
良い意味にも、悪い意味にも。


 58.避難騒動

 昭和20年8月15日正午、その時私は、鹿児島本線の赤間駅で、列車の中で待たされておりました。当時県庁で空襲の被害にあった罹災者に戦災保護費の支給をするために、上司と同僚5名で門司に出張を命ぜられての途中でした。
 重大放送があるとの予告はあっており、長い時間の停車なので、駅舎まで出かけてみるとラジオの前で駅長以下駅員が頭を下げて天皇陛下の放送を神妙な姿で聞いているのは見えたものの、私の耳まではとても内容は聞きどれなかった。
 とも角放送が終って、汽車は動き出したものの、どんな内容かを一刻も早く知りたいものと話し合いながら門司駅に着き、毎日新聞の大きな号外記事が道路に大きく書き出されているのを見て敗戦を知りました。
 門司市役所で打ち合わせて、翌16日、丸山小学校の講堂で平常のように、銀行員、市吏員と一緒に483件20万5千円の支払い業務を行ったが、市民の話は敗戦のことばかり、その夜は皆で、旅館「丸山山荘」に泊った。
 その真夜中(午前三時頃)に非常呼集のラッパの音に眼を覚すと、宿の直下の学校に駐屯していた軍隊が校庭に整列して、その前では銃等を積み上げて、それに火をつけて燃やした後、それぞれに解散してゆくのが見られました。
 夜の明けるのを待って、早速門司の警察署に出向いてみると、当直の警官だけで、各地の情報やデマ等を話してくれて、婦女子の避難騒動が起っていること等を知りました。
 私どもは、早急に業務打切りの指示に従い帰庁してみると、女子職員は退庁命令が出ていた。私の自宅でも、家内と子供たちは早良の里の方へ避難しておりました。
 しかし、このことは後で真相は知りましたが、初めて体験した日本の敗戦による情報、指令の取り違いであったようです。
 日本の初めての敗戦、もう2度とこの経験はしたくないと思います。そのためには、私たちはどうしたら良いか。単に戦争反対を叫ぶだけで良いか、今の若い人たちがどうしたら良いか。敗戦の経験を経た人たちが少なくなってゆく今日、しっかり考えてほしいと思います。



 私がその日を迎えたのは、京城の総督府官舎でした。よく晴れた暑い暑い日で、庭の木々の繁みから蝉がかしましく鳴いておりました。
 主人は平常の通り出勤し、私は小さな三人の子供の世話に追われておりました。しばらくして出勤した主人より「12時から大事なお話があるからラジオをよく聞いておくように」と、電話がありました。そのうち隣組からも連絡があり、緊張した気持で子供達をあやしながらラジオの前で待っておりました。
 12時、思いもかけぬ陛下のお声が流れて参りました。今まで雲の上の人と思ってました方の痛々しいお声が伝わって来ました。内容は、はっきり聞き取れませんでしたが、戦は終ったことだけはおぼろげながらわかりました。
これからいやがる子供達に防空頭巾を被せ、引きずるようにして入っていた防空壕に、もう入らなくてよくなったと、ホツとした気持でした。しかし、少し落ちついて来ますと、これから先私共は、このままここで生活が出来るのだろうかと不安になって参りました。
 主人達の役所では、それはそれは大変で、大事な書類の整理等私共には想像もつかない大きなショックと混乱だったのです。何と申しましてもここは外地なのです。
 この落ちつかない不安な時期に、治安維持のためと主人に召集令状が参りました。主人は私共のことを案じながら現地入隊をしました。残された私は、小さな子供達を抱え、心細く何も手につきませんでした。2週間余りで無事に帰って参り胸をなでおろしました。
 それからやっと荷物の整理にかかり、手に持てるだけの僅かばかりの物に纒め引揚の日を待ちました。11月8日、いよいよ引揚の日が来ました。寒い朝でしたがよく晴れた日でした。乳飲児を背負い、僅かばかりの荷物を持ち、両手に子供の手を引き、主人は背中一杯荷物を背負って、貨物列車に乗り、京城を後にしました。
 途中貨車の中で夜を明したり、プラットホームで霜夜を肩を寄せ合って寝たりして、やっと連絡船に乗り、仙崎港へ上陸、内地の土を踏むことが出来ました。
 主人の故郷も私の故郷も、戦災で家は焼けたことは知っていましたが、主人の故郷に降り立ち、無残な焼跡を目の前にして、敗戦の惨めさ、悲しさ、残酷さをいやという程思い知らされました。
 早いものであれから35年。苦労を共にした主人は亡く、当時の面影はとこにも見ることは出来なくなり、経済大国の名のもとに恵まれた輸入物資の中で暮しております。
 しかし、これでいいのでしょうか、国内で出来る物資を育てて行くべきではないでしょうかと、老婆心で思うこの頃でございます。



 8月10日前夜より地区の方々、会社職員家族の女、子供たちの疎開が始まりました。男の子は中学3年生3名だけでした。
 山の小さい北朝鮮徳安小学校(朝鮮人)に着き、部落の方達の好意により、朝はニギリ飯1個、夕方オカユを小さい椀一杯で、毎日を過しました。出発の時に少量持って来た米で、水の様な才カユを作り、飢を凌ぎつつも、先行不安の日々を皆集まっては語らい、心を支え合っていました。
 8月15日昼近く、村役場よりの通知で八路軍(中共軍)の敗残兵が今逃亡して来てるから、至急避難する様にとのことで、中2の長男は歩くのが大変な方を背負い、小4、小1の子と生後8ヶ月の乳児を背負って胸に小さなリュックサックを抱き、小学生の子供は主人の帯で離れない様に私と珠数つなぎにして、貴重品だけを腹に巻き、行先不明の地に、只、走りに走りました。
 長男が気になり、振り返り振り返りして人に続きました。空腹のために必死の力で歩きました。内地に受験の為に母に預けた小6の女の子が、無性に目の前に現われては、消えるのでした。決して死なないで生きのびるのだ、と4人の子供を励まし続けたのです。
 背後の方から、賊は逃げたので引返せとの伝令でした。ほんとうにこの時は地に座り込みました。残して居た身の廻り品もあり、安心致しました。
その夜は大人達は一睡もしないで、警戒し過しました。
 16日午前に日本兵3名が来られて、始めて日本は敗けたのだと知りました。敗けるなんて嘘だと思いました。天皇陛下のラジオ放送等話して頂き、現実に日本敗北を信じました。日本兵3名の方に、皆で一日も早く現在地から脱出させて下さる様に御願いをしました。



 その日も私は、いつもと変らない戦斗帽、巻脚絆姿で別府新町の家から別府橋、六本松、大濠公園を歩いて簡易保険局に出勤した。
 毎日出る空襲警報もなく、正午に重大放送とのニュース、さあ大変だ、連合軍が鹿児島辺に上陸するのではないか、いよいよ敵を迎撃本土決戦到来、一億総けつ起の放送ではないかと、友人連と語りあったが正午の放送は、思いもかけぬ天皇陛下の終戦、全面降伏の悲痛極まる玉音でした。神風を信じ、必勝を祈っていた私共は、軍部にだまされ、遂に敗戦国民になったと悔しい悲しい思いでした。
 空襲で市内に目ぼしい建物が少いので、私共の局舎に進駐軍が這入り、調べられたら危いと、上司の命令で兵役関係の書類を焼却した時は、敗戦の惨さを感じました。
 当時私は34才で、兵役の経験もなく終戦になりましたが、それは昭和18、19年頃、私の担務が人事関係、特に出征職員の功績調書を作成しており、関係役所に召集延期願を提出してあったが、そのためか或は私の郷里が奄美大島で通信不能のため召集令状が届かなかった、かとも思われます。
 占領軍がいつ市内に侵入するか、不安な気持ちで帰宅家には5才の男、3才の女児と3番目を腹に、身重な妻は、毎日の防空壕通いの苦労で終戦を喜ぶ反面、進駐軍が来てどんな世の中になるかを不安がっていた。
 翌日出勤すると、庁舎は進駐軍に接収される、3日?以内に明渡す、保管箱、机の書類は全部外へ出せとのこと。局舎の裏側に積み重ね、更に六本松の福岡高等学校、草ケ江小学校の講堂、上の橋の若竹酒屋の倉庫に運び込み、その後、堅粕、住吉、高宮、白木原とあちらこちらに分散してのつらい勤務でした。局舎から荷物を運び出す時、何人かの米兵が来ており、玄関先で背中を蹴とばされた悔しさは忘れられない。
 国破れて山河あり、と云いますが、私の郷里奄美大島は終戦と同時に亜米利加の軍政下になり、山河どころか交通の便も断たれ、悲しい思いをしましたが、沖繩より一足先に昭和28年、祖国復帰になりましたが、千島列島を故郷にしている人々の事を思う時、世界の世論を得て、一日も早い返還の施策を政府に訴えたいものです。
 あとさきになりますが、大濠の庁舎を出た悲しい思いをラバウウル小唄のかえ歌で、「さらば 保険局よ、又来るまでは、しばし別れの涙がにじむ、恋しなつかしあの窓見れば、青い目玉が、しゃくにさわる」と友人が歌ったが、その後、宴席などで合唱したことや、大濠庁舎の前を通る時、この替え歌は思い出の1つであります。



 昭和20年8月15日正午、私は春吉の主人の実家にいました。棚の上に置いてあるラジオの前に、舅、義姉、義妹、主人は3才の長男を膝に乗せ、私は6ヶ月の次男を抱き、みな正座していました。前々から重大放送があると、アナウンサーが言っていたので、緊張していました。町中が静かであったように思います。
 玉音放送が終って、暫らくして舅が「何と言われたとや?」と主人に尋ねました。「もう戦争は止める。これからは復興の為に、今まで以上に力を合わせてやって呉れ、と言われた」と答えていました。
 丁度その日はお盆の最後の日なので仏様送りの行事で多忙でした。まだ夕方にもならない頃、外から戻ってきた義姉が「女の人がモンペを脱いで普通の着物を着て歩いている。」と話しました。これを聞いた途端、戦争が終ったのならモンペは要らないのか、では私は何を着たらいいのだろうか、と思いました。
 私達親子4人は鳥飼に住んでいました。6月19日実家の両親が義弟の出征を見送る為に熊本に行きましたので、留守番を頼まれ、私は赤ん坊と別府の実家に来ていました。その晩空襲となり、赤ん坊を抱いて公民館前の畑を逃げ廻ったのです。鳥飼の家には主人がいましたが、隣家に直撃弾が落ち、辛うじて逃げ出して別府に駆けつけて来ました。だから私達は着の身着のままになり、手許に残ったのは赤ん坊の着替えとおむつだけでした。
 終戦までの2ヶ月は夏のことではあり、どうにか過ごしてきましたが、さてモンペを着ないとなったら、そしておいおい涼しくなろうというのに、何を着たらいいのでしょうか。主人は職業柄、何時までも国民服でよいと言う時代ではなくなりました。つてを求めて洋服屋に頼んで出来てきた背広は目の粗いものでした。靴もないので草履をはいて会社に行っていました。私はずっと後々までモンペで過ごし、子供は4才にもなったのに背負って、ネンネコで中を隠して出掛けていました。
 食糧困難の頃、人は竹の子生活と言って、箪笥の中の着物をお米その他に換えていたけれど、私には竹の子をする物がありません。月給の大方は食費に消え、衣服費はいつも後廻しです。何も綺麗な物が欲しいと言うのではありません。最低必要な物が買えないのです。たまたま路上で主人の上司に会いましたが、私の服装を考えると、どうしても挨拶する勇気がありません。
気が付かない振りをして過ごしました。「衣食足りて礼節を知る」とは本当の事です。埃が付いていなげればよいと言うけれど、矢張り時と場合があります。私一人が我慢をすればよいと言うものでもありません。家族の服装についてもみじめな気持ちになり私の心を痛めました。
 8月15日の、私は何を着たらいいのだろう、という思いは私の戦後の初まりでした。



 昭和20年6月19日は私にとって、忘れられない日です。それは福岡市がB29の大空襲を受けて、市街の中心、天神町周辺は大方焼土となりました。
 19年3月に主人が中支から3年振りで還り、親子5人ようやく暮らすことが出来て、9月に久留米から地行西町へ転居して、間もなくでした。もうその頃は、夜、昼となく警戒警報のサイレンがなり、ラジオの情報を聞く、それが日課でした。落ちついて食事の支度や食事など出来る状態ではありませんでした。ガスも時間制で、火をたいて煙を出すことも禁じられ、朝までぐっすり寝ることも出来ず、毎夜のようにB29が同じユースで通り、その度に子供達を起こし、庭の防空壕へ退避する。いつも主人が「いざと云う時は物に未練を残すな、子供が大事だから」と言われて居りました。その夜も警戒警報ですかと思って居りましたが、庭へ出ると、向かう側の荒津病院が燃え上っている。ああこれは大変だ、空襲だ!いつかは来るだろうと、覚悟はしていましたが遂に来た。次から次と波状攻撃で、あちこちから火の手が上がるので、子供達をつれて浜へ逃れました。
 そこには大勢の人が避難して居られました。その時、頭の上を低空で通り、とっさに小2の次男、5才の長女をお腹の下に入れて上から毛布をかぶって伏せました。そっと毛布を上げると無数のしょうい弾がつくしのように突きささって居り、さいわい砂地でしたから砂を入れればすぐ消えました。自分の家が焼け落ちるのも目の前で見ていました。天神方面は火の海で空は真赤でした。皆立ちつくして、呆然と眺めているだげでした。
 長男は「修猷1年」。大勢の人達と海に下半身つかって難をのがれました。
夜が明けて隣組の人達が集まり10軒の中8軒が丸焼けでした。その中で、2人の方が焼死されました。生き残った人達はお互いに無事を喜び会い、またいつか再会を約して、それぞれ親戚を頼って別れました。
 焼跡には飼っていた鶏が黒こげになっていて可哀想でした。とりが私達親子の身変りになってくれたのでしょう。穴を掘ってうめてやりました。この空襲で大勢の人が犠牲になり、あちこちで目をおおいたくなるような光景を見、聞きしました。
 8月15日の玉音放送を聞いた時は、日本はこれから先どうなるのだろうと云う不安と安堵感が入りまじり、ああ、今夜から電燈を赤々とつけられる嬉しさが、私のほんとうの気持だったと思います。
 今日の平和は大勢の戦争犠牲者のお陰です。2度と戦争の恐しさと悲惨さを繰り返さないことを切に祈ります。



 その日私は、正午少し前熊本県庁の階段を上ろうとして大勢の人が階段の巾いっぱいになって降りて来て、玄関横の大広間に入って行くところへ行き合せ、おしまいの人のあとから私も何故か吸込まれるように最後部に立ちました。
 何か不明瞭な声が聞こえて、さっぱり意味もわけもわからないし、やがて皆さんが出始めましたので、慌てて外に出た私は、用事は又の事にして郵便局に預金を下しに行きました。
 行列の後に並んで順番を待っていましたが、前の方に「今日はまだ警報も鳴らないし何となく静かですね」と話しかけました。そうしたら「もう戦争は終ったんですよ、さっき玉音放送が有ったでしょう」と云われたので、さては先程県庁で耳にしたお声が、玉音放送であったのかと急に悲しくなりました。しかし、「本当に戦争が終ったんですか、本当なのですね」と問い正して「本当ですよ」と云われた私は預金も下さず局を飛び出して、溢れる涙を拭いもせずおいおい泣きながら、御主人を南方へ送り出されている友人の家に行き、2人で手を取りあって泣きました。
 2人共、4人の子供を抱えながらどんなに頑張って来た事か。全てか水泡に帰し、これから先どんなになるのか不安がいっぱいで、奴隷にさせられるかも知れないと、映画で見た黒人の虐げられるようすが目に浮び、絶望でいっぱいになりました。
 せめて大事にしまっていた食料を今の内に早く喰べてしまいましょうと、私は家に帰り宝物のように大事にしていた小豆と砂糖で、何を作って子供達に食べさせたか、今は忘れてしまいましたが、虚無感でいっぱいでした。
 しかし、その後戦争に負げてよかった、本当に負けてよかったとひしひし思ったものです。今でも負げてよかったと思っています。二度と戦争はいやです。死んでも戦争だけぱ止めなげればと強く強く思っています。平和が永久に続く事を祈って止みません。



 長男と次男の学校の関係で、内地の小学校に6年を入れておかないと中学校に入学出来ないとの事で、教育の為に他3人の子供も連れて、昭和20年3月15日に朝鮮を立ち、19日夜久留米駅に着き、空襲警報にて右も左もわからず、やっと解除になり、灯がもれていましたので、そちらに入れて頂き、電話で親戚に来て頂き、やっと故郷に着いたのだなあと思い、翌朝私の故郷に電話して久留米に着いた事を知らせ、耳納山の麓の主人の自宅へたど
りつきました。
 1ヶ月ばかり主人の家にいましたが、家庭の事情で甘木の父の所に行き、子供3人を置いて朝鮮に帰るつもりでしたが、父がこう空襲では孫を預っても心配だから、戦争が落ち着くまで朝鮮に帰るのを見合せてはと言われ、私も無理にたのめず、弟の名儀で社宅を借り、炊事道具もかりて、親子6人で防空壕を出たり入ったりして、戦争の落ちつくのを待っていました。
 朝鮮には主人が一人でいますが、どうしている事かと心配で、毎日が不安でございました。ソ連参戦をラジオで聞き、気も動転いたしました。朝鮮の自宅が満州の国境ですから、豆満江の上流ですぐそばですし、又、鉄山があるのでもってこいの所です。ソ連が出ればすぐに攻められるし、主人が気がかりで朝鮮の事を案ずるばかりです。
 8月15日に、組長さんより集会所に全員集合する様にとの事にて、集会所に行った所、天皇陛下の御言葉との事にて、皆緊張いたしてラジオを聞く様に言われ、耳をそばだてまして、陛下の玉音にて大東亜戦争終結との事で、敗戦を知り、皆涙を流し、この先どうなる事かと、お先真暗でございました。
 主人も戦争は勝つからと申して、朝鮮に帰るのを子供と共に指折り数えていましたのに、戦争に敗けて、日本人が今まで敗けた事がなかったのでどうなる事もわからず、お先真暗でございました。
 朝鮮の主人の事、薬局していますのでそうものには不自由していないでしょうが、化粧品等どう始末するかと案じ、又、御近所の方々の事が走馬燈の様に浮かんで、まあ子供達だげでも内地にいてよかったと喜こんだものの、親子6人どうしていいのかわかりません。
 内地だからまあいい様なものの、主人の事が気がかりで仕方がない、強く生きぬかないとと自分に言い聞かせたり、子供達は小学6年を頭に、下の子は小学校入学前ですので、前途多難でした。子供にも、お父様がお帰りになるまで我慢しなさいね、とあきらめる事よ、帰っていらっしやったらとその日を待つのみでした。
  「がんばろう 子供と共に強く生きいばらの道も 父かえるまで」
 今に帰らず子供達も大きくなり、孫も11人いますし、終戦後親子7人引揚げていましたら、どの子か亡くしたんではないかと思うと恐ろしい様です。


 66.提言

 35年前、日本は太平洋戦争に敗れて無条件降伏をし、しばらくは進駐して来たアメリカ占領軍の統治下におかれ、真に苦しい数年を過ごした。そして35年の年月がすぎた今日、日本は軍備こそ貧弱であるが、経済大国とまで云われるようになり、国民の生活は世界で最もめぐまれた国の仲間入りをして既に久しい。
 更に我々老人の生活も、種々の福祉立法や市の配慮により、年金に医療に、又、娯楽等に多くの便宜を与えられている。そこで欲を云えぼきりがないが、まずまずの生活が保障されていることは感謝に堪えないと思う。
 この老人大学が開設されて、とかく勉強する機会の少ない我々に種々新しい知識や、私達が経験したことのない談話等を聞くことが出来るようになって、大変良い心のかてを与えられると喜んでいる。
 日本人の平均寿命は、近年頓にのびたとは云え、個人個人の健康状態や体力等の差は極めて大きい。しかし、少なくも本大学の皆さんの健康状態は皆一定の水準以上であり、お互いこの点からも恵まれた老人と云えるのではないでしょうか。
 さて種々の便宜恩恵を受けるばかりでは、如何に我々が若い時十二分に働いて来た老人ばかりと云っても些か内心忸怩たらざるを得ないのではないでしょうか。
 そこで1つの提言ですが、我々に出来る事で、何か地区の為、市の為、お役に立つことはないものでしょうか。大げさなボランティア活動とまではいかなくても、少しでも地域社会にプラスになることを実行にうつすことを是非皆さんと考えたいと思う次第です。
 先般、大学の行事として、我々の体力テストが実施されたので、少くも参加者個個の体力が如何ようなものかは、大体確認されていると思います。勿論それによる我々の労働力はきわめて微々たるものですが、仲間の中にはそれぞれ勝れた特技や、教養技能経験をつまれた方もあると思うので、その活動はそれぞれの能力に応じたものが望ましいでしょう。
 それでは、我々の能力で具体的にどんなことが出来るかと問われても、なかなかむづかしいが、例えば児童公園に花を植えるとか、そこの草取り等もいいことではないでしょうか。
 甚だ意をつくすことも出来ませんが、敢えてこの事を提言し、老人大学或は老人クラブの皆様の御一考を煩わしたいと思う次第です。



 当時私は、主人の勤務地、北朝鮮平安南道と云う所に住んで居りました。
 戦時下とは云え、当地にはほとんど空襲もなく、たまにB29の低空飛行を時々見る位で特に危険は感じませんでした。
 8月15日、その日私達近所の皆様が幾人か集まって雑談しながら、昼食会を開いでいました。突然、ラジオニュースで重大放送との事で、待つ中に、陛下の録音放送が始まり、敗戦を知りました。未だ味わった事のない敗戦、しかも無条件降伏と聞いたとたん、一同抱き合って泣きました事を忘れる事は出来ません。
 外地に居る日本人は、朝鮮と云えども敵地で、私達は捕虜となるのではあるまいかと、明日からの事が心配で夜もねむれませんでした。何時日本には無事帰れるのだろうかと、そればかりでした。
 当地ではすでに日本の敗戦を予知して作られた朝鮮国旗がちゃんと用意されていました。それから毎日日本人街を、いやがらせのデモを繰り返し、石等ぶっつけられて、生きた心地はありませんでした。
 夜になると、非常サイレンの合図と共に、帰還した人達が集団で室内に上
り、武装解除が始まりました。そして、目ぼしい物は皆持ち去られました。
敗戦ともなれば、日本人皆が苦労は覚悟の上ですが、ソ連に近い北鮮では特にひどい処でした。警察、軍関係者は皆ソ連館内に抑留され、又、上層部の男子は素っぱだかにされ、広場に集まった群集から死ぬる目に会わされる民主裁判にかけられました。
 2度目の召集から、病気の為南方から帰還した主人も自宅療養中に徴発されて行きました。私は乳幼児等4人の子供達と売り食いしながら心細いつらい毎日を送っていました。その内、何回となく日本人会に旅費を取られながら、結局ソ連の許可が出ない為、最後は逃亡の名目で、徒歩で開城迄夜昼ぶっ通しで歩き続けました。主人の居ない私達は大変で、それでも心ある親切な朝鮮の人に助げられた事もあります。やっと38度線を越えてテント村に着いた時、涙が一度に出てもう日本に着いた様な気がして、泣けて仕方かありませんでした。
 約1ヶ月位かかって福岡に着き、姉の家に約4年程御世話になりました。
主人はその後病気再発で、使用不能の為復員致し、2ケ月後拉に他界致し残念でした。今日の繁栄を見る事無く戦争の犠牲となりました。
 戦後は急速な経済成長を遂げ、使い捨ても美徳と云う変った世の中になりましたが、外では私達と同じ様な姿の難民のニュースを見聞きする度に、35年前の自分達の姿に見えて痛ましくてなりません。一日も早く世界が平和となり、戦争の無い世の中になる事を祈るばかりです。
 そして、毎日の幸福な生活に感謝致します。



 教室の片隅で聴講生(自称)として勉強させて貰った縁で、学生に課せられた作文の宿題を提出します。
 私は昭和10年8月から22年12月まで名古屋市やその近郷に住んでおりまして、そこで3人の娘が生れました。第3女が生れたのぱ19年の8月で、灯火管制下のうす暗い病室でした。
 戦前は専ら軽工業、特に羊毛の加工で全国一の生産を誇った愛知県でしたが、開戦と共に製品はすべて戎衣に転換させられ、更に当時は試作開発中で、緒についたばかりであった航空機製造工業が急速に拡張され遂にこれもまた全国一の航空機産業都市に飛躍しました。
 市の南端にあった機体組立工場から大きな図体の胴体が市の中心部を牛車に乗って、市の北端の発動機工場に輸送されるのを毎日目にしたものでした。
最高の速度をもつべき飛行機が乗物としては最低の牛車に引かれて行く図は、将にアナクロニックそのものでした。
 戦況が次第に不利となり、南方の基地が次々に陥落するに従い、軍需生産基地である名古屋が先ず攻撃の目標に選ばれたことは、自明の理であったでしょう。
 19年も師走に入って3日、ないものずくしながらもぼつぼつ迎春の準備にかかるかと話しあっているところに空襲警報! このころになると警報は連日のことなので、格別恐怖感もなく庭先のチャチな防空壕にもぐると、間もなく大きな地響をたてて爆弾落下!警報解除をまって外に出ると、航空機工場方向に高く黒煙が立上っている。B29編隊による本市初めての本格的爆撃でした。
 被害の真相の発表は勿論なく、噂が乱れとんでまごまごしていると、4日を経た12月7日、こんどは下から地震にゆさぶられた。津波を伴った東南海地方地震と称し、尾張地区を主として死者だけでも990名を越した。余震で混乱のうちに年は新まり、1月13日、今度は前回と反対側の県東部の三河地区を震源地とする東海地方大地震が発生、この地震は前回と異り震源地そのものであったので被害も大きく、死者だけで前回の2倍1,960名に達するものであり、余震のため防空壕はしばらく使用出来ない日が続きました。
 敵機はこのあいだも地震におかまいなく空襲を続け昼間は爆弾を工場に、夜間は市街地に焼夷弾をと攻撃が繰返されました。国鉄名古屋駅附近を西端とし東端は東山動物園周辺まで市の北部から南に、あるいは南から北にと市街地上空をあたかも箒て掃くように西から東へと極めて計画的に且つ適確に焼夷弾を投下し、遂に5月14日には市のシンボルであった金の鯱をつけた天守閣も焼失しました。
 このようにB29による70機を超える編隊が20回以上に及び執拗に攻撃を繰返すと共に、機動部隊によるグラマソ戦斗機が超低空を飛び廻りヽ爆撃にもれた変電所、工場、運行中の汽車、電車、時には田畑で働いている百姓まで機銃で追いまわしました。
 住宅がたまたま国鉄沿線に近かったため、強制疎開を命ぜられたが、疎開先の手配がつかないまま、マゴマゴしているうちに指定日となる。当日早朝、兵士の一団がやって来てウムを云わさず、家財を庭に放り出し、柱の根元を鋸で切り、屋根に綱をかけて引倒し、これで一巻の終りとばかり兵隊は引上げて行ったこともありました。
 6才をかしらに4才と乳飲児の3人の娘をかかえ、空襲下、地震のなかを右往左往しながらも切傷1つ負わずに、今日まで全員無事に切り抜け育ってこれた幸運を感謝しています。

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