紅梅・白梅(6) (1995年)



  目 次
1.       誰が教育をするか
2. (戦争)  わたしの体験
3. (戦争)  福岡空襲五十年を振り返って
4.       さわやかな町
5.       旅の想出
6.       ペッド
7.       ユニバーに燃えた暑い日々
8.       遠き日の思い出
9.       母の思い出
10.       日本で創作された磁器「鍋島」
11.       蒸しパン
12.       秋のバスハイク見聞録
13.       ミャンマー戦没者慰霊巡拝を終えて
14.       東北の旅
15.       わたしの戦後五十年
16.       アキ・あき・秋
17.       子どもの頃
18.       米寿雑感


 1.誰が教育をするか




 今年は高齢者教室文集に何か書こうかなあと思いましたが、書きたい事ばかりで決心がつかず、学の無い私は文章のまとめ方もわからないし、やめようと思って居ました。
 ところで皆さんもテレビで見られたと思いますが、9月3日、ユニバーシアード女子マラソンでの鯉川選手のあのアクシデントを見て、そうだ俺にも今日までの生涯に一度だけ良く似た体験がある、これを書いてみようと思いました。
 それは軍隊生活5年6ヶ月間の体験の一つです。昭和14年5月15日第七次の補充兵として福岡歩兵第二十四聯隊第二内務班に入隊、数え年24歳の時でした。忘れもしません。15年6月19日2年兵の時でした。
 糸島郡野北村、現在志摩町野北に兵の慰労をかねて中隊の一泊行軍演習が実施れました。対抗部隊は櫻野青年学校の生徒でした。私は軽機関銃射手として編成され野北村野北で遭遇戦となり演習を終わりました。
 翌朝8時集合。帰営は普通行軍と思っていました所が出発前に中隊長より、状況・姪浜愛宕神社に敵軍が集結、我が中隊を迎撃せんと待機しているとの情報、中隊は只今より之を攻撃する。
 出発!前原町迄は6km行軍、前原より8kmの強行軍、行軍規定は1時間の内45分が行軍、15分が休憩です。最後の休憩が生の松原の中聞地点だったと思います。此の時点で10数人の落伍者が出て居ました。休憩中「俺も此所迄頑張って来たのだ、愛宕はすぐそこだ」と気合を入れて居ました。何様、軽機関銃は小銃の三倍強の重さです。之を2人で交代してかついで行軍するのです。
 出発して300米位してだったと思います。駆け足の号令がかかりました。其の時頭の中で、駆け足で俺の体力はもてるかなと思った瞬間気が遠くなり、銃を取られ頬ぺ夕を殴られたのはかすかに覚えていますが、それ迄の行動は覚えません。何だか気持ちが良くなって天国に行って居る様でした。気がついた時は指揮班の大賀軍曹殿がそばに居られました。私は立ちあがり駆け出そうとしましたが「土井良もう良い」と言われ愛宕神社まで引率された体験があります。
 鯉川選手の場合は私がテレビで見て居た限りではゴール迄残り3km、ゆっくり走っても優勝出来る独走体勢でした。あのアクシデントの瞬間まで鯉川選手は何を考え、何を思い、何があったか、どんな体調で走っていられたかは鮎川選手のみが知る事であって、我々には何もわかりません。
 私の体験から以上の事を書いてみました。
 後書き――19日宿営の夜、宿舎の方、近所の方達から兵隊さん、兵隊さんで大変なもてなしを受け、点呼の後、戦死した従弟の家が近くでしたので仏様参りに行き、叔母や家族の人と話がはずみ朝6時に宿舎に帰り一睡もしていなかったのが私の落伍の原因です。しかし、15年11月招集解除迄と招集解除後、福岡市立中央青年学校指導員として奉職した時、さらに17年2月、二度目の招集、軍務に服した時にこの体験が大きな教訓になりました。
 さて鯉川選手はどうでしょう。今後の健闘を期待しています。
平成7年9月8日



 「光陰矢の如し」と申しますが、歳月の流れの早さの中に押し流されて、過去の記憶を忘却してしまうものです。しかし私にとっては、50年前の昭和20年6月19日に起こったあの一夜の福岡大空襲の出来事は、今でも脳裏に鮮明に焼き付いて離れません。
 昭和20年になりますと、日本本土では「一億玉砕」「本土決戦」等が叫ばれ、福岡市民は連日の空襲警報と灯火管制で気の休まる時はありませんでした。
 当時、私は既に福岡地方貯金局(現在は福岡貯金事務センター)に奉職して2年目でした。そして、母の大事な着物でモンペを縫ってもらい、これを着て通勤するのが私共にとって精一杯のお洒落でした。その上母は、家族の食糧確保に配給物資と併せて、買い出しに行ったり色々と工面しているのに、私のお弁当には大根御飯や高梁御飯等を、時には手作りのパンや煎った大豆と気を使ってくれましたが、ほんとに親は有り難いものだと感謝していました。当時の母親は皆さん御苦労なさった事と思います。
 そのような非常時の状況ですから、安全のために私は勒務が終わると脱兎の如く家へ帰るのが日課でした。そして、あの忌まわしい6月19日の夜も、何時ものように早々と帰宅し、今は故人となった父と二人で、今晩も空襲警報が鳴りませぬようにと祈りつつ東の空を眺めていましたら、B29が飛んでくるのが見えました。地上からは、サーチライトがB29の姿を照らしているのですが、打ち落とすどころか焼夷弾を投下され、これにより発生した火災を目標に次から次へと反復攻撃がなされ、福岡の街は一面の焦土と化してしまったのです。
 私の家は、幸い何とか被災をまぬがれたのですが、翌朝父も母も職場のことを心配してくれて、私に早く職場に出勤するよう勧めました。ところが、夜の大空襲によって電車が不通となっており、仕方なく自宅から職場のある天神町まで、くすぶる悪臭の漂う4キロの道のりを気丈な気持ちで歩き続けました。その途中の道々で、町の悲惨な変わりようと言えば、目をそむけたくなるような黒焦げの死体を見たとき、10代の私にとっては大変ショックな出来事でしだ。
 やっとの思いで職場に着いて見ますと、他の職員達も局舎を案じて駆けつけていましたので、話を伺うと中庭に一弾、そして二号舎と三号舎をつなぐ渡り廊下に落ちた焼夷弾で、乾ききった木造三号舎は苦もなく火を吹き郵便関係の重要書類と共に崩れ落ちてしまったそうです。私達は深い悲しみより職員に一人の犠牲者も出なかったことを、不幸中の幸いとして皆で喜び合いました。
 局舎被災のため、職員は天神町分室、六本松分室、蓑島分室等に分散して復旧作業に職員一丸となって邁進しました。若い男子職員は殆ど出征し、残っている男性は病身者や年配の人で、残りの80%位は女子職員でしたので、今にして思えばこのような危機的な事業の苦難を、健気な女性達でよくも乗り切れたものだと今でも当時の苦労を思い出します。
 殺伐とした10代の頃、長生きして高齢者教室で学ぶ幸せが来るなど思いもよらぬことでした。二度と不幸な戦争が起こらない事を祈り、これからも学ぶ喜びと、教室の皆様との触れ合いを大切に、楽しみ乍ら教室に通いたいと思います。


 4.さわやかな町



 5.旅の想出



 6.ペッド



 7.ユニバーに燃えた暑い日々



 8.遠き日の思い出



 9.母の思い出



 10.日本で創作された磁器「鍋島」



 11.蒸しパン



 12.秋のバスハイク見聞録



 13.ミャンマー戦没者慰霊巡拝を終えて



 14.東北の旅



 15.わたしの戦後五十年



 16.アキ・あき・秋



 17.子どもの頃



 18.米寿雑感




 終戦4日前に病死した父の50年法要を行った。故郷を離れて40数年もたつと、静かな農村だったふるさともすっかり変わっていました。
 私の故郷は「みかん」と「梅干し」で有名な紀州和歌山です。女学校同窓生の有吉佐和子さんの書かれた小説「紀の川」の鉄橋を、満員電車にぶらさかって通学したのですが、その加太電車も無くなっていました。
 北島橋、紀の川大橋、もう一つスマートな新しい橋、3つの橋は余り間隔も開けないで紀の川に架設されていました。紀の川の下流は、黒潮の太平洋とつながっています。私の子供の頃は紀の川の川原に、背丈ほどもある「月見草」が密生し、夕方になると大きな黄色い花を咲かせよい香りを放っていました。衣服に花粉をつけないように、右に左に体をかわしながら土手に辿りつき、夕やけの路を急いだものでした。見渡す限り、さつま芋、かぼちや、西瓜、トマト、きゅうりなどの野菜畑が続いていました。
 紀の川の下流の沖の浜に出ると、覆いかぶさる様に黒潮の大波が打ち寄せて来ます。大波に足をさらわれないように素早く砂浜に駆け上がります。くたくたになるまで大波と「鬼ごっこ」をしたものでした。広い砂浜と畑の境界には松林が続いています。松の根っこの砂浜には海亀が産卵に来ます。その海亀の卵探しも
楽しい遊びでした。また「ぐみ」の実をポケットにいっぱい採った。赤い汁が洋服にまで染みていました。
 あの長閑で風光明眉な農村も、現在では金属工業の煙突が立ち並び、素晴らしい工業地帯として発展、市の財政を豊かにしているとか・・・。失ったものもあろうが、又、得たものも大きいのではないでしょうか。
 寸時、幼い頃の想い出にひたり乍ら、紀の川大橋を渡り、NHKの大河ドラマ「八代将軍吉宗」の紀州城を左に眺め料亭に着きました。
 お酒をたしなむ者もなく乾杯のお酒で頬を染めた母方の従姉が話し出しました。
「あんたのお父さんはお酒はよう飲んだけど頭のええ、よう出来た人だった。戦争中に食べ物の無くなった頃、和歌山から九度山(紀の川の上流で高野山の麓、片道2時間程かかった)まで闇で手に入れた新鮮な鯛を持って来てくれた。丁度その時、弟茂一の出征祝いの宴を親戚や近所の人々としていたんよ。早速鯛を料理して皆で有り難くいただいた。その時の鯛の美味しかったことは今も忘れられない。翌日、茂一は皆に見送られて入隊していった。その時、新妻綾ちゃんのお腹には子供が宿っていました。子供が生まれて数ヵ月経った頃、待ちに待った茂一との面会の報らせが有り、飛び立つ思いで綾ちゃんと赤ん坊を連れて面会に行きました。茂一は初めて見る我が子をしっかり抱きしめて離しません。面会の制限時間が迫って来ました。とても辛かったのですが『茂一さん、子供を離して!
この子の為にどんなことが有っても生きて帰っておいで』と言いました。茂一は『うん、わかった。この子の為にきっと生きて帰って来る!』と男泣きに泣き、子供を綾ちゃんに渡した。その茂一も可愛い子供を父親として二度と抱くことなく戦死してしもうた。どんなことが有っても茂一には生きて帰って来てほしかった」と涙々と語る従姉の戦争悲話に、心打たれました。
 軍事至上の戦時下に「生きて帰る」という言葉は、反戦主義者のレッテルを貼られ禁句とされていたのに、あえて言葉に出るのはいかに切ない思いであったかが伺われます。
 仏も50年経つと土に戻ると言われますが、戦後50年も経った今でも忘れられない悲しい実話です。
 現在の日本は、自由で豊かで素晴らしい経済大国として発展し、世界の憧れの国となっています。私達がこのように平和に生活できるのも、国の礎となり尊い命を捨てて戦火に散った幾多の若人の犠牲が有ったからだと思います。私には「軍神の母」「愛国の妻」の美名のもとに、「死して帰れ!」と夫や子を戦場に送り出すことはとても考えられません。唯々「戦争はいけない!戦争はいけない!」と思うと胸がいっぱいになり、涙がこみあげて来て止まりませんでした。

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