別府の星座(4) (1985年)

2015/05/3 登録



 福岡市民のことば
 福岡市は九州の首都、あすへむかって、いきいきと発展しています。筑紫野の緑と玄海の白波にかこまれ、ここは輝かしい歴史と伝統が築かれてきました。
 わたしたち福岡市民は、誇りと責任をもって、次のことをさだめます。
 1.自然を生かし、あたたかい心にみちたまちをつくりましょう。
 1.教育をおもんじ、平和を愛し、清新な文化のまちをつくりましょう。
 1.生産をたかめ、くらしを豊かにし、明るいまちをつくりましょう。
 1.力をあわせて、清潔で公害のないまちをつくりましょう。
 1.広い視野をもち、若さにあふれる市民のまちをつくりましょう。

 ※ わたくしたちふくおか市民は、「差別のない明るい福岡市」をきずくために心と力をあわせましょう。


  目 次

1. (家族)  わら草履
2. (風景)  室見川にて
3. (近況)  題名のない作文
4. (短歌)  濠柳
5. (趣味)  民謡教室
6. (近況)  公民館に感謝をこめて
8. (詩歌)  わが隣組通り(幼児性より)
9. (見学記) 日産自動車九州工場を見学して
10. (戦争)  福岡空襲の思い出
11. (友人)  お見舞
12. (旅行)  韓国旅行感想記
13. (趣味)  囲碁大会
14. (見学記) 日産自動車見学
15. (戦争)  忘れ得ぬ事
16. (雑感)  苦労というもの
17. (雑感)  あたりまえ
18. (家族)  だんなも料理を作る
19. (家族)  金婚式
20. (風景)  山辺
22. (近況)  私は一人で生活をしています
23. (雑感)  いじめ考
24. (縁)   私の印象に残る先生
25. (近況)  夏の花一りん
26. (郷土)  樋井川余談
27. (戦争)  40年前の思い出
28. (趣味)  私は歌が好きである
29. (家族)  義父の看病
30. (雑感)  「食う食事、食べる食事」
31. (郷土)  環境の変化
32. (雑感)  明。暗。
33. (家族)  家族
34. (家族)  孫を迎えて
35. (思い出) 太宰府の思い出
36. (家族)  夏休み日記
37. (自分史) 私の体験
38. (郷土)  樋井川の水


 おわりに

 昭和60年度、高令者教室の記念文集の発刊を計画いたしました処、公私共に
御繁忙の中に多数の会員の方々が、御理解と御協力をいただきまして、大変立派
な文集を編集することが出来ますことを喜んでいます。
 この文集を重年の宝として、愛蔵され、喜びにつけ、悲しみにつけ、これから
の人生のはげましの糧として、愛読いただき、高令者教室生の親ぼくと親善の役
にたたせていただきますよう祈念いたします。

   昭和61年3月
城南区別府公民館 
館長 古賀一男


 1.わら草履

 昭和21年10月の初め頃のある日、小さな小包が届いた。差出人は里の母、当時2才の長女と小包をあけてみると、中から可愛らしいわら草履が出て来た。
母にとっては初孫の長女への誕生日のプレゼントなのだ。引揚げて来て、その頃何も無い時代、靴とか下駄の少ない頃、母が思いついて近所の農家のお爺さんに習って孫の誕生日にと編んでくれた。わら草履のはなおは、木綿の赤い布がまきこまれていた。中に入っていた手紙に、お誕生祝に何も買ってあげられないから、草履を農家のお爺さんに習って作ったから和子(長女)に履せてくれと書いてあった。母の温かな思いやりが、胸いっぱいに広がって可愛らしい草履をだきしめて泣いてしまった。長女は早速草履をはいて、にこにこしていた。この頃では、このわら草履というものにお目にかかれなくなって、お店には、可愛らしい靴、草履が溢れている。
 長女の誕生日が来る度、39年たった今でも、母が作って送ってくれた赤いはなおの草履を想い出す。草履を作ってくれた母は歿くなって8年。母が草履を編んだ年より私の方が年を取ってしまい、長女も41才になった。


 2.室見川にて

 「おばあちゃん川に行こうよ。」と、突然孫に誘われて、私も運動の為だと賛成しました。孫2人と息子と4人で行くことにしました。それと言うのが孫の家に、メダカが2匹水槽で元気よく、スイスイと泳いでいます。私か「どこで買って来たの。」と言うと、孫は「室見川ですくって来たんよ。」息子が「これは春に行ってすくって来て、とても長生きだよ。」孫「又取りに行こう。」といって、網やバケツを自転車に乗せて出掛けました。
 孫の家から川までは、さほど遠くありませんが、その日は、せみが一段とかしましく、暑い昼下りでした。原団地を通り抜けると、家なみが続き、暫く行くと、川の土手が見えて来ました。私は歩いて、一度取る所を見たいし、此の土手では、春はツクシ、たんぽぽ、すみれがいっぱいと聞き乍ら、汗をふきふき後に従っていました。
 川に着くと、もう先客がいて、誰もがわいわい水しぶきを立て乍ら遊んでいます。バケツの中を覗くと、メダカと思いきや、ザリガニがゴソゴソツと動いて、赤い色のや紫色のがいました。孫達も靴を脱ぐと、急いで川の中に入って行きました。私も水の中に足をつけると、以外に水が冷たくて、水もきれいで、タオルを濡らし顔を拭くと、暑さも飛んで行くようです。川面を渡る風も涼しく、向かう岸では、麦わら帽の太公望の姿もちらほら見えます。遠くバスの通るのも見えて、川の中では、孫達が暑さも何のその気勢を上げ乍ら水とたわむれて、いつ終るともなく遊んでいます。
 私は土手に腰を下しあたりを眺めますと、ススキも少しずつほを出しはじめて、野菊の可憐な薄紫色の花が2輪咲いています。まだまだこんな近くに自然が残っていることは、本当に幸せと感じ、自然を大切にしたいものだと思いました。



 私は明治の御代に生まれた老婆ですから、今の若い人は昔の人と言うでしょう。
今は主人もなく、余命をたのしく過ごそうと趣味をたのしみに生きて居ります。
フランス刺しゅうや、押絵を下手ながら、作って色紙に帖って、うつり変わり額に入れて、一人住まいの室で眺めています。年取れば、手先きがにぶくなりますから、今は作って居りません。短歌も48年から自己流で大学ノートに7冊目です。公民館で教えていられますそうで樋井川と言う本が出来て居りますから、それを読んでいます。謡曲も三角先生、幸田先生から習っていましたけれど、私か病気したため、今は習っていません。今は先生が教えていられるそうですけれど、私はお医者と相談して習っていません。カセットに取っていますから一人聞いて、習ったものを練習しています。

 私の健康大訓
  一、少肉多菜   二、少塩多酢   三、少糖多藻
  四、少食多噛   五、少衣多浴   六、少車多歩
  七、少煩多眠   八、少怒多笑   九、少言多行
  十、少欲多施。
は、中國漢の学者の有名な言葉だそうです。みんながみな實行とは言えませんけれど心がけています。高令者の皆さんの体は自分が知って美しく老いましょう。
皆さんの健康を祈っています。

   玄海の波打ち寄せる荒海に
     二人ならばと生きる夫婦岩
       二見ヶ浦見学
         時作りし作


 4.濠柳

O春かぜそよぐ みどり髪
  水面にうつす おとめこころ    4月24日

O梅雨ながば 青田の稲はすこやかに
  厄日を無事に 神の恵を      6月24日

○蝉のこえ しげき鳥居の魂まつり
  すぎし八月十五日を思ふ      8月6日

〇朝露を含むそよかぜ胸に吸い
  踏む足かるく 大濠めぐる

○雲間もれ射す日輪のかがやきて、
  水面に映ゆる水鳥のむき

○枯葉ちり風雪にたえ大木は
  めくる青葉の春の季をまつ

○雲間もれ 差す日輪はかがやきて
  濠面に映し 水鳥さわぐ


 5.民謡教室

 いこいの民謡教室に、入れて頂いてから、もう一年になる。その間堀内先生の御指導のもとに色々教えて頂いた。
 「黒田節」「稗搗節」「島原の子守唄」「花笠音頭」「田原坂」「岳の新太郎」「貝殻節」「斉太郎節」「武田節」「博多力ッタリ節」「筑後節」「いもがらぼくと」「十日町小唄」「姉こもさ」数えるともう18曲も教えて頂いた事になる。
ほんとうに嬉しい。いこいの教室の方は皆熱心で金曜日の午後1時半から3時迄の御勉強が待たれる。堀内先生がいい方で夏休みも返上して教えて下さる。唄の文句も知らない間におぼえて頭の体操にもなる。まだ下手ながら旅行でも唄う事が出来る様になった。「65の手習い」子供達がお母さん沢山覚えたねーと感心する。家で友達とよく唄う。ほんとうに楽しい時間になった。
 8月28日には城南市民センターで貝殻節を唄う事になった。城南区老人クラブ連合会の第4回老人演芸大会である。28クラブ135人の御年寄りが参加した、得意の歌や踊りであった。賞には入らなかっだけれど、西日本新聞に私達の歌っている写真を出して頂いて先生共々喜こび合いました。
 まだまだほんの1年生、これからがむつかしくなるし又楽しみである。



 思い起せば早いもので主人が他界して早や13年忌も過ぎた。其の頃は何と無く体中の力がぬけて、胸に大穴が開いた様で落着が無かった。仏壇の前に座りぼんやりしてばかりもおられない。何とか元気を取り戻して、昔の様に強く生きて、せめて子供達の相談相手になってやらねばと考えた。
 一番身近な公民館にお世話になろうと思いつき、老人クラブへ入会して講演を聞いたり、バス旅行に誘われたりして、少しづつお友達も出来た。公民館の活動が活発になり、園芸を習ったり詩吟の勉強は今も続いている。52年からゲートボールが初まり、小学校校庭で指導員から熱心に教えて頂き修了書を頂いたり、何でも欠席無して一生懸命に勉強した甲斐あって本当に楽しい毎日である。
 お蔭で昔の様な暗いなやみ等は無くなり仏前に座して心径を読み終って「お父さん此の頃とてもお勉強が楽しい、老人大学にも行っているし、詩吟も沢山習うしゲートボールも面白いし少々上手になりましたよ。私は運動神経が有りますからね。」と楽しい報告に変った。
 59年から民謡のおけいこに入り、声の悪さが気になるが、毎金曜日は休まず通う。1年と少しになるが、今では18曲位習って、時にはテレビに、習った歌が出るとついて声を出して歌う。本当に習って良かったと心から思う。毎日が楽しい為か日が立つのが夢の様。いつの問にか80に手が届く様になった。春東京の三五会から、5月に箱根の新生園で総会を開くので、是非御出席下さいと案内状が来た。もう今度が最后かも知れないからと思い立ち、全国から30入位久振に楽しい会合で1泊し、箱根、芦ノ湖を週遊して後東京の3女の家に1週間遊んで帰った。
 此の分なら来年も大丈夫よ、お母さんが元気だから私達安心しておられる。どうぞ今の儘で長生してねと喜んでくれた。老人ボケにならぬ様に健康に注意して、お友達とも仲良くしてこれからも公民館やいこいの家に感謝し乍ら、一層お勉強にはげみ度いと心から願っている。



 テーマの選定に妥当性を欠くかと思われるが了承を乞う。
 波乱に満ち、錯雑した入生行路の幾山河を喘ぎ喘ぎ、渉猟しつづけて、とに角も、健康のうちに喜寿を迎えることとなった私は、これを記念して、別途「私の50年生活史」を組成するプランにとり組むことにしているが、その要旨は、昭和に生きた者としての労苦とこれを克服するための活力と気概を忠実に吐露するにある。ここではその序説を披露するにとどめたい。
 昭和初期の日本の政財界は米国のドル帝国主義的外交政策の大波を真に受けて、深刻な不況にみまわれ、社会不安が激化した。昭和5年、私が手にした免許状はれっきとした国立の教員養成機関によるものであるが、当時の不況は一部恵まれた者を除き、正規の学校に就職することを拒否した。日に数葉の履歴書を認め、恩師先輩宅を歴訪して、辛くも、福岡の一私立高女の教師にありつくのが関の山だった。これではだめだと考え、先輩の勧誘もあって、傍系に当る九大法に入学することにした。大学では、一部左翼系教授の幾人かが追放されるという情況下にあった。卒業の昭和11年は例の2・26事件が勃発した年であり、国は急速に軍国主義化しつつあった。昭和13年7月、私にとっては運命を左右する職安業務に勤務を命ぜられることとなったがこのことはすでに紹介したとおりである。
 国がどのように、軍国化の一路を驀進していったかの経緯は、職安業務が転進に次ぐ転進を重ねて、総動員体制の完遂に猛進させられた事実によって一目瞭然である。戦後こそ民主的行政に復帰したものの、この労働関係行政は、担当者に極度の労苦を要求してやまなかった。私の50年生活史を綴る焦点が、この労苦とこれを克服するための過程の努力に終始したことにあるのは前説のとおりである。



    夏の陽はいや照りさかり、
    真昼さがりのいくときか、
    眼をとじて浮びくる
    わが転変のいきさまか。
 (1)ある夏祭り夕暮れて、
    明りほのかな 燈に、
    金色あせしみ仏の
    慈悲の光や幾代ふる。
    祭りの子らはいさましく、
    花火に興じ血はわきぬ。
    さざめきのまの静けさや、
    生贅の羊か、子ら二人
    人霊まよう浜の道を、(我家の横通り)
    燈だよりいずくにか。
    幽魂ただよう墓地中の
    卒堵婆盗りくるきもだめし。
    そわ、わが老のさびしさに
    泉湧きくる追憶なり。
 (2)ある散策の辻あたり、
    樫おい繁る古塚あり。
    たれ傅えしか、別府太郎が
    野望空しく百合若に、
    ここ草丘に討たれしと、
    ロマンの薫り悲しかり。
    香たく人も今はなく、
    樫の古葉のはらはらと
    古塚の上に散りしけり。
    別府太郎の怨念は、
    樫の命にとけ入りて、
    幾もも年も安けく生きしとか。

(3)犬と孤独の日月なり、犬は我に感じて動き又うたう。
 我は犬の動きに心やすらぐなり3匹のマルチーズよ、きみのつぶらな目、頸をかしげる所作、いびきをかく生意気さは、春風頬をくすぐる心地なり。今宵は三日月、希望の月なり。透黒の西空にきらめく。われは祈るなり、輪廻の定あるならばマルチーズよ来世に我子の縁し結ばなん。



 6月24日高令置教室春のバスハイクで福岡県京都郡苅田町にある日産自動車株式会社九州工場を見学しました。
 その面積が49万坪坪の膨大な工場である。最新鋭の技術と設備、高度の品質管理により量産され世界へ向けて輸出されている。
 膨大なこの工場は各工程の機械化工場に分けられ、機関、車軸、フレーム、圧造、車体塗装、組立と、一貫した工程部門の工場が続いている。工場の広さに対して従業員数は小なく尚一層広さを感じた。
 この工場では規律正しく作業が行われ作動する機械の轟音さえも静けさを感じさせられた。圧造工場では鋼板が切断機で所定の長さに切断されプレス機によってドア等、各車体部品に打ち抜かれて行く。プレスされた部品は車体工場組立ラインで溶接機や最新鋭ロボットで順次正しく、自動的に溶接されて車の形が出来上がる。
 ここで汪目すべきは、ロボットラインである。説明に「人と同じ作業が出来る、車の種類を見分けることが出来る。それに応じた点熔接作業を行います。」と書いてある。
 このように仕上った車形は塗装工場へ自動的に送られる。塗装の色は17色で、美しい色に塗装された車は組立工場へ送られ、エンジン、車軸、各部品を塗装された車体に組付けて、最後にプレーキ排気ガス等完成検査が終り1台の車が生まれる。
 以上の様な工程を経て最新鋭の機械化により優秀な性能を持つ多量の自動車が世界100ケ国以上の国々へ輸出されて行くという。
 人間が機械を創造し、機械が機械を造る人の手がなければ機械は作動せぬ、人と機械の一体化の時代となった、人間の頭脳と機械の力、そしてそれが宇宙の飛躍へつながるのだと思った。



 今年は終後40年、一つの節目の年。遠ざかり薄れて行く記憶を断片的ではあるが記録として残したいと思いペンを取った。

 O 銀翼を輝やかせつつ襲い来る敵機B29
   焼夷弾の雨
 O 空襲の弾とび来るを地に伏し恐怖の時の
   長くながかりき
 O 天の炎地の焼熱にさいなまれ教子の行方
   求め彷う

 夜目にもはっきりと銀色に翼輝かせB29は襲い来て焼夷弾の雨を降らせる、ピューン、ピューン、ザザザザー、落下音を響かせながら焼夷弾は落ちて来る。
あちこちに火の手があがる。敵機の攻撃は時と共に激しさをます。まるで波の打ちよせる如く限りなく来襲しては焼夷弾を落す。その弾の雨。落下音の中を防空頭巾に鉄冑をかぶった頭をおさえ恐怖におののきながら地に伏し敵機の去るのを待った。その時間の長かったこと何十時間、何百時間にも思えた。
 当時私は当仁小学で6年生を受持っていた。空襲の翌日、教え子の消息を求めその家々を訪ねて廻った。家を焼かれた子の消息がつかめない、暑い暑い日であった。太陽はじりじりと照りつけ町々はまだ燻り続けている。天と地の炎熱の中3日間歩き続け遂に病に倒れて了った。

 ○空襲の恐怖の時を共に経し教え子の齢
  すでに五十二

 あの空襲の恐怖を共に体験した子どもだもの同窓会に招かれた。あどけなかったあの時の子どもたちも今は52才の熟年婦人であった。戦後の思い出も恐怖の思い出も遠く遠く薄れて行って了う。


 11.お見舞

 お友達の内でも特に仲良くしている人が、作年の9月に自宅のお庭で転んで右足の骨を折り、近くの村田病院に入院されました。
 お見舞に行きましたがべットに寝たままの不自由さに気の毒でなりません。自宅からお嫁さんとお孫さんが、交代に付添い乍ら世話して居られましたが、今年の7月に退院されたので安心していた所、又今度は西区の西福岡病院に入院されました。
 8月4日にお見舞いに行きました。西鉄バスで下山門小学校前で下車して近くの店で道順を尋ねました所、買物をしている方が、「歩けば30分位かかるので車に一緒に乗れば送ってあげます」と言われ私もお親切に甘えて病院まで送って頂きました。西福岡病院とは大変立派な事で玄関が3階になり広くて結構な事です。
 お友達は2階ですがすぐ分り私を見て大層喜んで下さいました。
 話も一時間程して、帰る事になりましたが、友達も少し歩ける様になったのでと言われて玄関まで送って貰いました。
 その日は晴天で近くから見える海には、沢山ヨットが浮んで気持ち良く、又、病院の近くが山と中学校でまるで遠い所に来た気でした。
 特に空気が良くこんな所で養生していれば、早く全快して帰って来られる事と思い、今度こそ安心して待って居ります。
 年内には退院出来相な気がします。その日を楽しみに待ちましょう。
 8月25日にも行きましたが、元気良く話も色々とされたので安心して別れました。道順も迷わずバス停まで30分で着きました。それから毎日西区の方面を見て、全快を祈っています。



 日本にとって歴史的文化的関りの深い、世界で一番近い外国へ7月9日旅立つ。
福岡空港よりI時間15分で「ソウル」に着陸と同時に車にて市内見学後はじめて口にしたレストランの昼食、雛鳥のお腹に精米と朝鮮人参を根付きのまま入れスープでよく煮込んだ、鍋料理と白菜のキムチ漬に舌鼓を打つ。
 10万人収容可能な「メーンスタジアム」の外形はロクロ型で出来て居り中に入って見て「スケール」の大きさに驚く。観客席に座って来年のアジア大会、3年後の「ソウル」五輪の様子が走馬灯の如く頭の中をかすめた。ライバル名古屋を退け開発途上国として初の開催にこぎつけた「オリンピック」の準備も滞りなく進んでいる。車の中から見た12,000人収容の選手村を含め残る競技施設も1、2年で完成するそうです。道路橋工事も真最中で力強く躍進する姿が目に映った。
 皮膚の色も顔つきも同じなのに、言葉が違う、習慣が違う。相手は芸能人、こちらは全くの素人、宴会が始まると忽ち打ち解け合い韓国の歌踊が披露された後、私達も敗けずに歌ったり、洋服「チマチョゴリ」を取替えっこして踊った方もあり、楽しく忘れることが出来ない一夜でした。
 翌日朝食後「ロッテホテル」の周囲を友達と歩く。中心部は美しい高層ビルが建ち並び繁華街の情景は日本と変らない。人間も似ているので群衆の中に混じれば見分けがつかなくなりそうだ。店看板や道路標識の「ハングル」文字が外国であることに気が付く。
 焼き物の里、利川にある窯元を見学、端正で清らかな文化に接し驚く。高麗青磁の燈み切った色調は韓国の土を日本へ運んで焼いても決して出来ないという。
水や火「赤松の木」空気温度など風土の全てが影響するらしい。
 書きたい事は山程あるが限られた用紙のため省略。健康であるうちに友達と旅行出来た事は、一生涯忘れることは出来ないでしょう。


 13.囲碁大会

 それは市社会福祉協議会、市民老人クラブ連合会主催の囲碁大会の事である、夏のあついさかり。8月29日、中央区の舞鶴園で開催された。出場者は市内の各区勝ち抜いた人ばかり。有段者、級位者の別にトーナメントを行い一局一時間で勝敗を競った。
 私は有段の部、まず10時から市長代理の挨拶、社会福祉協議会長の挨拶、老人クラブ連合会長の挨拶が終り、10時15分頃から始り、第1局は中央区4段の人と打ち始めた。相当緊張はしていたが、幸運にも勝つことが出来た。第2局めに3段の人との対戦で私か優勢ではあったが、一寸したむりで不利になって来た。大きな石がコウになり、数手打っているうちに、ふりかわりの石を取ることが出来、10目ぐらい勝つこのが出来た。3局目も無事に勝ち、優勝戦まできたが、今度は5段の人でかなり強い人だった。100手200手打っても勝が見えない。そうかといっても、負けているようでもない。苦しい思いで戦っているうちに、時間がなくなり、一手30秒の秒よみになり1目のこう競いまで来てしまった。磐面で3目負け、こみ5目半で、私の2目半勝ちに終った。
 10月に東京で全国大会に出場する事に成り、もっと勉強して一回ぐらいは勝ちたいと思っているが、どう成る事かと心配である。



 はじめて見る自動車工場、私はまずそのスケールの大きさに驚きました。そして何よりも驚いたのは、ロボットの精密な動きでありました。テレビで見る画面と実際に見るコンピューター操作による工程までを、此の目でつぶさに見学して日本の生産面での技術の進歩、終戦時想像もしなかった事と思いました。日産500台のフル生産にも驚きました。此の進歩により海外輸出もあり、いろいろ問題も起きるだろうと、はじめて此の目で見学していろんな事を学びました。コンピューターを操作するのには、それなりの熟練工の人達の計り知れない御苦労もあるだろうと思って、今更のように科学の進歩に感心することばかりでした。
 敗戦後40年たち今の姿は恐らく想像できませんでした。貧しい其の日の食料にも事かき、空襲でがれきの山より、マイホームも持ち、衣食住も満ちたりて平和な毎日をすごせる現在の科学の進歩も、全世界の皆さんが平和利用に進み核戦争が起これは、ボタン1つで全世界人類絨亡にもなりかねません。私達老人も健康であれば自分にきびしく、他人にはやさしく少しでも社会のお役に立ちますなら、老後も明るく生きて行けることと思います。楽しい工場見学により学ぶ所も多く、いろいろ役に立ちまして有難うございました。



 別府高齢者教室、9月9日「老人ボヶの予防について」と言う話に、鳥飼病院長森重先生の講話がある事を知り、私は先生に一方ならぬご厚情を賜わったことを感謝の気持ちをこめて綴りたいと思います。
 想えば昭和49年、くも膜下出血で、出先より救急車にて鳥飼病院に運ばれた私は、皆様の手厚い看護により、九死に一生を得ました。この事も絶対に忘れ得ぬ事でございますが、退院後院長先生の診断を受ける様になった或る日、レントゲンに写った左肩甲下部の黒点を見られ「これは何か」と聞かれました。「戦時中の手榴弾の破片でしょう」と答えますと、「これが胸の方に廻ると命に関係してくるぞ、外傷は」と聞かれましたので、ビルマの激戦地にいたので、頭、手、頚、大腿部等7発ほどの傷がありますので、おみせしますと、「恩給は」とたずねられました。私は玉砕した戦友の事を憶えば「生還した丈でも申訳ないのに、恩給なんて」と答えますと、先生は「今の身体では仕事に復帰出来ない。君は恩給に価する身体なのだから、今からでも申請しなさい。僕は元陸軍の軍医だったから其の事はよく解かる。」と申されて、早速県庁に連絡して下さいました。
それから複雑な手続きを色々と済ませて2年後の昭和54年に始めて、第3款傷の傷病手帳を又戦場の恩給もいただく事になりました。あの時院長先生のご診断を受けました事が恩給下賜につながるきっかけとなったのでございます。
 私は其の後病気の方も一応おちつき、持病の高血圧に対しても摂生の日々を送っております。今日も2階の窓から鳥飼病院のネオンが良く見えますが、いつも院長先生の事を思いおこして感謝しております。
 以上が私の生涯で忘れ得ぬ一頁でございます。人の世の出会いの不思議さをつくづくと感じます時、高齢者教室の皆様との出会いも大切にしたいと思います。



 人はたいがい、苦労なしに生きて来たとは思ってない。おおむねが「苦労に克って来た。」と思っている。或は「自分ほど苦労して来た者はない。」と考えている。後者の考えは特に女性に多い。見るからに、憂暗な苦労やつれの影をもって、人様にそう訴えるひとを私達はよく見る。そして「私の半生は小説以上ですの。」と語りつづける。
 しかし、およそ「自分ほど苦労した者はありません。」などといえる人の苦労と称するものなどは十中の十までが、ほんとの苦労であるためしがあるでしょうか。とるに足らない人生途上の何れかに過ぎないのでないかと恣います。
 ほんとうに人生の苦労らしい苦労をなめたにちがいない人間は、そんな惨苦と闘って来たようにも見えないほど明るくて、温和に、そしてどこか風雨に洗われた花の淡々たる姿のように、さりげない人柄をもつに至るものではないでしょうか。なぜならば、正しく苦労を受けとって、正しく克って来た生命には、当然、そういうゆかしいほのぼのとした香りが、その人の身についている筈のものだから。
 それと反対にめそめそと、人にも見せ自ら自分ほど悲運な人間はない、などと語れるうちは、まだその人は社会そのものも苦労の実相も、何も知っていない証拠ではないでしょうか。ひとりで観念の苦労を蒐夢しているようなものと思います。もっと無慈悲なこのばでいい放つならば苫労を遊戯しているに過ぎない気がします。

  蒐にうれてたわわになりし金権の
    そぼ降る雨につやまさる見る

  別れきて君の嘆きを聞くごとき
    冬の嵐の音を聞きいる



 ふと、テレビの画面に、目をやると、一本釣りの魚船に大きな魚が、釣り上げられ、ピチピチとはねまわっているところだった。それが直に箱詰めにされ、市場に出され、我々の口に入るのであるが、考えてみれば、広い海原ですいすいと泳いでいる魚の命を、なさけ容赦なく、殺している事になるのだが、ここまで考えて食べた事はない。あたりまえの事として罪意識もなく、有難うという感謝の心を、起した事もない。またお魚だけでなく広い意味で私たちは、多くの物の犠性のもとに生かされている事も多いと思うが、これもあたりまえとして、みすごしている。
 また、がんで、脚を切断されたあるお医者さんの、言葉をかりて言えば、“あたりまえ”こんなすばらしいことを、みんなは、どうして喜ばないのだろうか。
お父さんがいる、お母さんがいる。手が二本ある、足が二本ある。手を伸ばせば、なんでも取れる、自分で歩いて、どこへでも行ける。音も聞こえる、声も出る。
笑う事も出来る。空気も吸える。しかし、こんな事を誰も喜んでいない。あたりまえだと思っている。こんなすばらしいあたりまえの事を知っているのは、これらをなくした人たちだけであると。
 このことばを聞いて、今さらのように、身の廻りのあたりまえの事を、見なおして考えてみると、みんな有難いことばかりである。このあたり前の事に、もっともっと、感謝の心を起し有難うと言えるようにならねばと思った。



 今日は、日曜日娘から昼食ごちそうするとの電話があったので行くことにする。
 ドアを開けると、エプロンをかけた婿が「いらっしゃいま廿」と、出てきた。
私は夫婦のことにくち出しはしないことにしている。要するに夫婦がうまくやっていくには、お互いの理解が必要だということで別に不平不満もなく料理をする婿を見てこれが夫婦円満といえるのか、と考えたくなる。私達の時代は、主人が台所で料理を作るなど姑に見られでもすると、「どうなってんだここのうちは。」としかられたでしょう。いまはちがいますね。彼女がやれないことがあったらすすんで主人が手伝う、たとえそれが女性本来の仕事であっても、お互に助けあって行きましょうということになる。娘はそういうのです。
 しかし、作ることは作るんですが、油のついたおなべや食器などは台所にちらかしたまま、いつも私が跡片付をするハメになってしまうんですよ。とレンジのそばなどの汚れを拭いていました。
 もうひとつ世間では静かな主人には、割合いに活発な奥さんが向いているものとよくいわれるが、ご両人はたしかにこのタイプのようだ。そんなところも円満にいっている理由のように思える。
 どんな男と女でもピッタリと合うということは絶対にないと思うんです。だってそうでしょう。見ず知らずの2人がある突然に一緒になるんですから、だからうまくやっていくには、どうしたらいいか、それはお互いの理解、抽象的なことばになってしまいますが、それしかないと私は思うんです。
 だんなは、お肉の焼方スープの作り方なかなかうまいものでした。私か得意なものは、ときくとほかは、並程度か、それ以下だそうである。


 19.金婚式

 私達夫婦は今年で結婚生活50年、いわゆる金婚式を迎えました。50年という歳月はずい分と永かった様な、それでいて、あっという間に過ぎ去った様な気もします。
 静かに昔を振り返って見ると色々な事がありました。中でも一番の大事件といえば、やはり戦争を体験した事でしょう。そして夫を戦場に送りその留守を守る間の心労は忘れる事は出来ません。無事生環してくれて、こうして2人揃って金婚式を迎えられた事を感謝せずにはいられません。
 「よくも飽きずに今日まで一緒に過して来ましたね」と冗談を言って笑い合える幸せを、しみじみとかみしめております。
 記念日の当日は娘達3夫婦が祝宴を催してくれまして、孫達がいつの間に折っててくれたのか千羽鶴のレイを私達2人の首にかけてくれ、そして花束贈呈と、色々と趣向をこらして祝ってくれました。
 それより数日後には記念の為にと、“みちのくの旅”を思い立ち東北地方を旅行して来ました。頃はよし、当地は春の真盛り、桜、桃、りんご、と色とりどりの花盛りで素晴らしい景色を一層引立て迎えてくれました。
 俳人芭蕉が昔歩いたであろう名所旧跡を当時をしのびながら廻りましたが、先ず川端康成の小説“雪国”の舞台となった越後湯沢をはじめとして鶴岡城、出羽三山の一つ羽黒山、そしてあの有名な“閑さや岩にしみ入る蝉の声”と詠んだ名刹山寺、藤原清衡建立の中尊寺、等々、これも芭蕉の句、“五月雨を集めて早し最上川”の川下りなども楽しんでまいりました。
 こうして、ここまで健康で長生き出来ましたのも神のお加護と私達に接してくださる皆様方のお蔭と感謝しつつ、これからも尚一層健康に留意しながら過ごして行きたいと思っております。


 20.山辺

 広々とした涼しい所へ行ってみたいと思い、一寸した用事もあり出かけました。
 もう青田はそよそよと風に吹かれて、大波小波とうねりを立て、よく出来ているのです。中には早稲でしょうか、白い小さな花を付けて穂が出揃い、豊作らしい感じでした。珍らしい事に、昔の様に一本足の案山子ではなく、丸い夕イヤの形をした真中に大きな目玉を描いた風船を、竹竿に高く吊してあるのが、右左へ揺れて大きくくるくる廻っている有様は、現代らしい光景でさぞ雀達も驚いている事でしょう。文化が進めば、幼稚な物では騙されない鳥の世界かも知れません。
横の小さい谷川は、石に突き当り水しぶきを上げて美しく、清らかに、静かに、流れているのです。所々には大きな竹駕寵に何か冷やしてあるのも、生活の知恵で自然を利用してあるのは感心しました。
 又、木陰には丸太棒で橋を架け、其の上に板を敷いて、涼み場所兼お座敷みたいに設けてあるのは風流でお茶でも飲んだら、さぞ楽しかろうと思いました。
山々には見上げる程の大本が茂り、行儀よく並んで真直に伸びた杉林、空を突く様な孟宗竹の林等、見るものすべてが涼しさを感じさせてくれました。根本の所には名も無き雑草が、石の間からも元気に水々しく生々と生い茂り、生命力の尊さには驚きました。吸い上げた水滴に、太陽の光が当り輝き、今にも溢れそうな美観は見事なものでした。
 あちら、こちらの木の梢からは、秋の訪れを知らせるかの様につくつくほうしの鳴き声が聞えて来ました。こうした自然の美にうっとりして、涼しい風が身体を吹き抜けていく、日頃の暑さを忘れた楽しい一日でした。



 大平洋戦争で日本軍の玉砕が続き「陸の孤島」と化したビルマ戦線で戦い、戦後もそのままビルマに残った元日本軍の兵士が、去る7月、43年ぶりに祖国の土を踏んだ、今回の一時帰国の目的は、この兵士が幼い頃亡くなった御両親そして彼を育ててくれた兄さんの墓参りのためと聞く。
 この兵士は戦後ビルマの捕虜収容所に他の兵士達と共に収容されていたが、或る日突然この収容所を脱走したという。そのことをいまだに恥じている心情は、現代の日本ではとても理解されないであろう。私達元軍人は軍隊へ入隊したその日から「我々軍人は天皇陛下の赤子である、いつ如何なる時でも滅私奉公の精神を以て軍務に精励すべし」と毎日教訓を受けて来たものだ。戦前の軍隊では兵営を脱走した場合は重営倉、そして戦後では部隊から脱走した場合、その理由の如何を問はず銃殺刑に処せられる。これが旧日本軍のきびしい軍律だった。この兵士は戦場からの脱走ではなく捕虜収容所からの脱走であった。捕虜収容所は警備兵を除けば日本軍社会であり、そこからの脱走は「日本軍からの離脱」と考え自分のとった行動は日本軍人として最も恥すべき行為と知り、その時点に於て、も
う二度と日本の地には戻れない決意をしたと思う。永い軍隊生活(戦前戦中)を過して来た私には、この兵士の心情が痛い程理解出来る。
 この兵士は25年に現地人女性と結婚し、現在1男4女と孫が8人いると聞く。
34年にビルマ国籍を取り、この時改めてビルマ永住を心に決めたという。この兵士の戦後は40年たった今も終っていない。おそらく終生終りが来ないかも知れない。戦争という悲惨な結果から生じたこのような兵士達が、他にも沢山異国の地で色々な形で生在しているであろうことを想う時、私は現在の我が国での余りにも恵まれた平和な生活を申訳なく思う。今後二度と祖国日本の土を踏めないであろうこの兵士は、色々な感概を胸に秘め再び妻子の待つビルマへ8月に帰って行った。私の送る言葉は唯一つ「どうか家族の人を大切に、そして幸福に過してほしい」これを願うのみ。



 朝はたいてい5時30分頃に起きます。
 私は体が悪い所ばかりですので、こみいった仕事は出来ません。目も視力が落ち、余り読み物も出来ません。本当に年は取るものではないとつくづく思います。
ひざも悪く正座も出来ません。毎日のようにお灸をすえたり病院に行ったり、病院のお薬りを飲み乍ら薬草を取り煎じて飲だりするのが私の仕事です。大分足の痛みも取れ歩くのにも大分痛みを感じなくなりました。
 一年余り前の事です。私は急に体調が悪くなり動けなくなった事があります。
病院の先生にその事を話しますと、それは狭心症を起したのだと申され、それから特に気をつけています。
 朝は毎日のように一時間位い歩きます。それから、3度の食事もきちんと取るようにし、又、毎日の食べ物にも心掛けておりますが、今年のきびしい暑さにも余り夏負けもしませず過す事が出来、嬉しく思っております。又、家のまわりに草花等をうえ、水をやったり眺めたり毎日の生活をたのしんでいます。

  今朝も又ほうき取る手のうれしさよ
    なくなりし友にくらべて


 23.いじめ考

 最近小中学生の間で、「いじめ」の事柄が新聞テレビにて取り沙汰されているが、「いじめ」は今に始まった訳でもなく昔も多分にあった。併し今の子供の様うに陰湿で歪(いびつ)ないじめ方はしなかった。相手に対しても自分自身も、痛さや苦しさを知っていて、相手が泣き出したり逃げ帰えれば、それ以上手出しばしなかった。皆が強さを認めれば自己満足し、概して器具などで相手に傷を負わし「金銭要求」など以ての外で、その様うな行為は友を失う羽目にもなる。
常々親から言い含められた、事の善し悪しを子供ながらに弁えていた。一方「いじめ」られる子供にも救世主はいた。仲間、いや、子供達の世界にそれなりの連帯的な繁があり、若し余所の子にいじめられる様うな事があれば、年長者が相手を威嚇して助けてくれて、兄弟の役目もしていた。亦親達も家庭外の事に、余り干渉せず一見放任主義の様う見えるが、子供には悪戯するな。人の物取るな。怪我さすな。と口喧しく言い聞かせていた。子供も言い付けを守って遊び、若し違反した行為が親に知れて帰えって来ても家に入れて貰えず、時には体罰も受けた。
その厳しい中にも愛情持って子供を育てられた。
 それに引換え現代小中学生の母親は子供が少ない所為もあるが、幼児の頃より自由に伸び伸び育てたいと言いながら、何時しか過保護に、亦小学生になれば、今度はエリート思考が強くなり、勉強一途に走り、甘やかしや、過保護の為めに、人間性のモラルを知らない我が儘な子供に。先日新聞に「いじめつ子」の原因は家庭内に於いての雰囲気にあると言う記事を読んだ。如何に子供は環境により心を左右するかを知った。要は明るい家庭にあって、親は毅然として常にコミュニケーションを計り、モラルを説き聞かせて居れば「いじめ」の気持ちも起さないと思う。



 ある人の書に「人生恩を受け、恩を知るに越す幸はない、しかしよい恩を授かることは稀で、よい恩人にめぐりあうことは更らに稀な天の恵みであろう」と、私はその恵みに溶した自分の少年期を顧みて、如何に希望に完ち幸福感に包まれた日々であったかを想起して道行く通学児の姿を見送ることがある。私のアルバムの中に小学校の頃の相撲姿の写真があって担任の赤井先生を中心に意気軒昂たるポーズを取っている。先生は師範学校の相撲部の主将で卒業と同時に私達の担任となった。一際目立つ存在で、屈強な体駆と人に接するに温容で抱容力に富み、私達の子供心にも尊敬と誇りを抱くものがあった。私達は先生が伝統ある母校の相撲部から貰ってきた「回し」を締めて小雪の降る中で寒稽古に励んだ。土俵の外では焚火が燻っていたのが印象に残っている。先生は新らしい境地を拓くことに意を注いでいた。或る日「駑駕」と書いた大きな額を教室の正面に掲げた。
先生の説明は「駑馬十駕」のことで、駑馬のような才能のないものでも勉めて怠らねば才あるものになれる、とその額は毎日私達を見下して激励を送っていた。
クラスではこれを機会に駑馬会が生誕し、今に大きくなったらの気概が生れた。
先生の着想は次々と私達を引付けて行った。当時珍らしかった英語を教科外に取入れリーダー2巻を学んでいたので進学後の語学入門には全く苦労することはなかった。
 先生は晩年京都に転じて絶えて久しく対面する機会はなかったが或る日突然来福した。既に老境に入り往年の正気溌刺たる偉容は陰を潜めていた。私は修学旅行を思い出して雲仙へ案内した。普賢に登る道すがら原君急ぐなよ。先生朝露を踏めば3年長生きすると言いますから頑張りましょうと励げます役目は昔の生徒で楽しい再会であった。
 童心に映じた師の薫陶の光は長じて心の支えとなり、終生忘れられないものである。



 今年の夏の暑さは一入(ひとしお)身にこたえた。じっとしていても汗が惨んでくる。無駄なエネルギーは消耗しないよう、なるだけじっとしている。出来るだけ冷房のお世話にならぬようにと我慢して見るがだめの日が続いた。自他共にいろいろのことがおきるテレビを見て幾度かもらい泣きをする。
 暑いからとじっとしていることも出来ない。動いて見れば家の中でじっとして暑い々をとなえているよりは元気のでるものである。前と違って乗り物はみな冷房してあるのでほんとに楽である。お盆が過ぎると何となく冷気を感じるのだが今年その気配を感じない。でもふと日差しを見ると何となく秋色をしている。
自然のなす力は人々がどうすることも出来ない偉大さがある。夜になるとかぼそい虫の音がきこえる。肌に涼しさを感じる頃は虫の音もにぎやかできれいにきこえる。
 2、3年台風に出逢わずにすんだと突然13号台風がやって来る。アッと言う間に過ぎる。我が家のせまい庭にもう10年以上も夏中咲き続けてくれる紅さつき、毎朝いくつ咲いていると、体操しながら数えるのが日課だったのに、明日咲くつぼみも葉っぱも吹きちぎられ、とばされてしまった。どうにかおこしてみるがもう主幹だけのみ軽さになっている。もう毎日咲いてくれたのだからと感謝の意を表して気やすめする。もう花のことはわすれていた。と草むらの中に赤い色が目にとまる。近づいてみると風にちぎりとばされた花枝にきれいな赤い花が精一杯と開いているママと手にとりあげて眺める。ふと日航機事故の生残り4人の方々が頭に浮ぶ生命力、それとなく花にしっかり頑張って生きなさいよと話しかける。一日花ではあるが、いつものより大きく輪を開いて咲いている。洗面器にいっぱい水を張って浮かせる、祈りを込めて。



 われわれの郷土城南区と中央区の境堺を南から北に流れる樋井川も、最近整備開発が行き届いて不用となった数多くの井堰が取り除かれ、川の両岸はブロック積みに変り、川底までも奇麗に清掃されて一見さっぱりとした清浄な川に改変されました。またブロック上部の道端には芙蓉と木槿(むくげ)が植え込まれ、初夏の頃より中秋の頃まで濃緑の葉の間に奇麗な色の花が咲き乱れます。右岸の木槿には淡紫や白色系統の優美な花、左岸の芙蓉にはピンクや白色の貴品ある花が田島橋附近から塩屋橋附近まで蜿蜒(えんえん)と続いています。しかしながらこの奇麗な川に流れる水の少いのには何となく物足りなさを感じますが、この浅い流れを上下する小鮒の群れなどを時折り見かけることの出来るのは何よりの慰めにもなるのです。
 去る7月5日の西日本新聞にこの樋井川に住む2組の子連れカル鴨の悲話が、大きな写真付きで紹介されて話題になりました。これは降り続いた梅雨による増水のため、前日の4日田島橋附近にいた3羽の子を持つ鴨が親子共共別府団地横の井堰下まで流されて、別府橋附近に根拠を持つ4羽の子連れ鴨にいじめられ、元の古巣の方へ戻ることも出来ぬまま更に下流を彷徨う中に、可愛い2羽の連れ子までも見失ったという哀れな実話でした。この話は話題の少くなった樋井川を賑わした自然現象の1こまだったのですが、同情を呼んだこれらのカル鴨は現在樋井川には棲息していません。
 川の中に真菰や芦の茂っていた数10年以前の樋井川は、四季折々を通じ沿岸住民の生活と切り離すことの出来ない密接な関係にあったことを懐しく思うと共に、昨今話題となっている大濠公園の汚水処理問題も次の点を専門的に再検討して頂きたいものであります。それには現在暗渠となって利用価値の無くなっている元樋井川の分流であった菰川を再活用して、上流の水を公園の濠へ常時流入し過剰となる濠の水を海に放流することであります。



 昭和20年6月19日夜の10時50分頃突然空襲警報が発令され、けたたましくサイレンが鳴り出したのでさあ大変だとあわてて家を飛び出し、防空ズキンにモンペ姿の妻と子供2人を九大教養部正門左側の桜並木下の防空壕に避難させたが、既に大勢の人達で一杯だった。やがて米軍機B29爆撃機が暗闇の空を南方から飛来し、11時10分には速くも焼い弾投下攻撃が始まった。
 私は間もなく防空壕を脱出して外へ出たが、その瞬間六本松東側本通りが燃え出し、見る見るうちに火の海となってしまった。さて今度は教養部正門前の商店街に焼い弾が落下し、家家は真赤な炎に包まれてしまった。防空壕の人達は子供を置いて皆外へ出たものの火の廻りが早く、手のほどこしようがないのである。
幸い教養部校舎は焼けずに済んだので、学生寮に駐屯していた兵士達が駆付け、町内の人達と共に防火用水のバケツリレーで、私が住んでいた郵便局西側まで燃え広かっていた火を消し止め、やっと仝局舎と東隣の雑貨店に駐在所の3軒が、奇跡的に焼け残り跡は全部焼野原となってしまった。
 処が此のバケツリレーの最中、別府1丁目一帯が真赤になって燃えているのに気付き、実家の父母は如何しているか気掛りになったので灯火管制の暗闇の空に響く高射砲の爆音と、B29機投下の焼い弾がジャーッと音を立てて、降りそそぐ闇の中を一生懸命西へ走り避難者でごった返す別府橋を突破し、火に包まれた細道を駆抜けて、やっと実家へ辿り着くと、家は焼てはいないものの6畳の居間の真中には約13メートルに達する大型焼い弾が屋根を貫き不発の侭横たわり部屋中は油だらけで、恐怖の余り家には這入れず、彼方此方周囲を探し廻り、やっと西隣の崖下防空壕に避難している父母が確認出来て安心した。其の夜別府1丁目も我家と共に僅か6戸余りを残して焦土と化してしまった。
 以来遠く過ぎゆく歳月と共に、次第に薄れつつある当時の記憶も此の様な惨状だけは、今も尚はっきりと頭に浮かんで来るのである。



 「好きこそものの上手なれ」と言い止すがほんとにそうかも知れません。私が歌うと貴殿は歌がうまいとか上手であるとか言われますが自惚れでしょうか、自惚れているから歌が好きになったことだと思います。又歌は心の安らぎともなります。庭仕事をしているとき等好みの歌でも口ずさんでいると自然に心が和らぎ疲れを忘れさせます。
 そもそも私は小さいときから歌がうまかったようです、小学校のとき通信簿の成績表に唱歌はいつも甲(優)でした。学年別の学芸会があると、独唱で演壇に立ったことを記憶しています。青年時代になると歌謡曲、民謡、詩吟、浪曲と何れも流行のレコードを集め、蓄音機によって覚えることがたのしみでした。特に詩吟は青年団入団来さかんにやったもので、修養会があれば有名な詩吟の先生を招き習ったものでした。又近くの同志10人許りで会(興風会)をつくり毎月一回座回りで稽古をしたものです。独吟合吟と練習を重ね自信がついたので、あちこちの会に出演し好評を博しました。
 浪曲も当時代はよく流行したもので初代の名人東中軒雲月、木村友衛等が博多の大博劇場あたりで大公演があるときは、我先にと聴きにいったものです。
 まあこんな具合でレコードなり実演なりを聞いたり見たりして覚え、青年団の演芸会又は勤務先での会社の慰安会では必ず1つ2つは発表していました。
 「芸は身をたすく」と言いますがたしかにそうです。人々から好かれ友達も広く多くなり有難いものであります。兎角この世は働くばかりが能ではありません。
ときには歌って踊って心の安らぎ和らぎをとりましょう。これも生涯の生き方ではないでしょうか、この年になってつくづく思います。



 例年になく酷暑の8月も過ぎる頃、義父が一年半の入院生活から自宅にどうしても帰りたいと言い出しました。当時義父は90才でした。主治医も、「歳が歳だから本人が自宅に帰りたいと言うなら本人の希望を叶えてやることも親孝行でしょう、でも毎日2本の点滴と酸素吸入などの医療施設が家庭では不備のため死期を早めるかもしれない」と言われましたので、近い親戚に来院願って、医師の意見を説明して、対策を協議しました。その結果、「本人が帰りたいと言っているなら、長く住みなれた家の畳の上で死にたいだろうから」と言うことで退院することになりました。
 病院での完全看護より家庭看護を望んでいましたので帰宅することにしましたが、タクシーでは無理で救急車は入院時は利用出来ますが、退院は良くなって帰るので使用出来ません。幸に次男が日赤に勤めていますので、救急車を持ったタクシー会社を知っておりましたので、そこの会社のご協力で無事帰り着きました。
 これからが私の本当の看病の始りです。主人との連れ添いは16年間でしたが、義父との生活は37年間でした。義父も何のわだかまりもなく、血のつながった娘同様に接して呉れました。私も義父にいやな思いをさせまいと、一生懸命でした。幸いにお向いの久富先生に毎日往診をしていただきました。義父は自分の死後の事を丁重に頼み亡くなりました。
「こよいなく父のめでにし 酒なれば ひつぎに、そえぬ、めしてゆきませ」

義父は、今頃あの世で我が子の成長を見届けず逝った主人に逢い、現在どうにか社会人に成長した子供達の姿を伝えてくれているだろうと、苦笑している私です。
 最近テレビで老人問題がいろいろ放映されますが、そのストーリーの1つがモデルとなって、老人問題に暖い関心と生き甲斐のある余生が送られる様、老人の人格が尊重されることを願うものです。



 過般、厚生省の国民栄養調査のまとめが発表されたが、それによると子供(3歳-12歳)のうち、朝食を両親と一緒に食べているが、37パーセント、子供ひとりで食べているが、21.4パーセントで、つまり5人にI人はひとりで食べていることになる。また両親と一緒に食べている子供は、ひとりで食べている子供に比べて食欲も旺盛で、栄養状態もよろしいという、心理学者の中には、性格問題児や非行、犯罪児の中には親子一緒に楽しい食事体験を持たないものが多い、と指摘している人もおる。これは食事を単に食餌(えさ)を与えることではなく、食事の中で子供がしつけられ、よい人格形成を行っているということである。従って同じく食事といっても食う食事と食べる食事との違いがあるというわけである。
 辞典をみると、「食う」とは「歯をかみ合せて食物をくわえる」から「のみ下す」とあり、「食べる」とは「たぶ」「賜わる」とある。賜わるのだから当然「いただきます」となり、「ごちそうさま」という感謝の言葉ともなるわけである。また、よく栄養云々といわれるが、栄養は英語ではニュートリションで、これを栄養と訳したのは森鴎外だそうだ。ニュートリションはラテン語のニュートリオからでており、「よく育てる」「はぐくむ」意味だという。つまり栄養とは子供をよく育てる。「よくはぐくむ」ということである。ここに食事本来の姿があるのだと思う。こうした食事の中でこそ、子供は1つの物でも分ち合うという思いやりや、食物に感謝するという心が身についていくのではあるまいか。
 この頃は、子供と一緒に食事をする両親が少くなって来ているようだが、朝におらないとか、特別に早朝の仕事に出かけるといった場合は致し方ないが、朝食くらいは両親揃って、または両親の誰かが、子供と一緒に食べるように心掛けたいものである。



 私か現在の住所に居住したのは、昭和28年末であった。当時附近一帯の地勢情況は水田、畑、と荒地からなる田園地帯で、交通稀れで静かであった。自宅の地形は、東西両側に農作道があり、西側には幅1米50糎程の川溝があり、通行人も少かった。
 場所選定の条件として、再就職の関係より、国鉄筑肥線を利用することであった。幸に鳥飼駅が、徒歩5分の近距離にあって好都合であった。約5年経過し、附近一帯は住宅が次々と建設され、油山も眺められ難くなった。昭和40年を過ぎ、福岡市内中央の発展に準じ高層マンションビルの建設と交通頻繁に対する道路の改良工事が盛んになった。自宅の前の小溝も埋立てられて、農作道と合体され、附近の主幹道路に変った。近くには交通信号設備も出来て、今までの薫風の爽さも消え、騒音と車の排気ガスの障害に悩まされるに至った。交通情況は日々輻輳を極め昭和44年には別附橋の改築、45年には筑肥線と道路の立体交叉跨線橋が完成された。ここに至り、別府地区内の街の様相は一変された。昭和58年3月には、福岡市地下鉄開業に伴い筑肥線の一部区聞か廃止され環境に大きな
変化をもたらした。
 環境の変化は限りなく続き、人類、生物の生存に種々の影響を及ぼすであろう。
環境の良否は、住民の日常生活に影響を及ぼすので、充分考慮して対処すべきである。環境に悪影響を及ぼす素因は多々挙げられるが刑事事件の防止、各種災害発生、交通傷害事故の発生、保健衛生の問題、騒音発生防止等がある。これ等素因の防止は極めて困難であり、関係当局の活動を願うと共に、住民各位の全面的協力が絶対必要であると確信する。現在城南区役所及び附帯工事が進められているが、完成の上は地域に一大光明をもたらし環境の変化も大なるものと思考する。


 32.明。暗。

 別府公民館恒例の高令者教室の綴方宿題に暑い今年の盆月頑張っております。
 先頃日産自動車工場への研修旅行は大変勉強になり有難うございました。思いだしますに只々工場の広さにも驚きましたが、45秒に新車1台誕生し工場から出て行きますそのお話に、とうとう理解することが出来ず、やはり小生の頭の悪さを再発見した様な次第でした。70数年昔、福岡県久留米で自動車を初めて見ました。黒塗りのドアーの外側には今とちがって踏み台があり、初め不思議な匂いがただよっており、車の持ち主さんと思いますが自慢顔でドアーを開け(さあさあ中をよく見なさい)とサービスをして呉れたのを忘れません。只今では世界中から貿易苦情の出る程、故障しない乗り心地最高の上、安い車として輸出するようになり喜ばしいことと思っております。
 さて8月12日午後6時半過ぎ、日航機墜落の速報ニュースがでる。これは大変なことが起きたものだ。夕暮と共にはるか山奥に火のてが上るを見るとの報、合掌。戦後40年廃墟から世界第2位の経済大国迄発展し、なをとどまるを知らぬ繁栄の中当然要求される必要な(乗り物)のひとつでありますが、犠性者の数乗客の方々の死(神仏に念じられたと思います)に直面された時間の長さ、到底門外者が言葉することは出来ません。ただし翌早朝よりの救助隊の動き二重災害にもなるやの危険を職責とは云え敢然と立ち向かわれている姿には、感動の毎日でした。9月7日西日本夕刊に全知全能振り絞り信じられぬ神技の操縦30分に掲載される察するに、機長初め520名のみたま(霊魂)が奇跡として4人の方を世に残されたは事故の顛末を語り、2度と悲しみの惨劇を見ない願いであると
信じる。


 33.家族

 私の家は息子夫婦と孫2人私共年寄り2人と同居人I人7名の家族です。だけど同じ屋敷内に娘達夫婦と子供2人が住んでいます。仕事が一緒なものですから昼食は毎日一緒に食べますので土曜日、日曜日はとても賑です。
 家族が多くなれば自分の欲望は満たされない部分も時々ありますが、嫁が来て15年波風も立こないままにすごしております。皆が思い合って少しづつ我慢し合っている事と思います。孫達もそれぞれ(家の長男)中学3年(娘の長女)小学6年(家の長女)同じく5年(娘の2女)同じく4年までに成長しました。
長男は来春は受験で一生懸命やっている様子、女の子3人は姉妹の様に日曜日のお習字もピアノの稽古も一緒に出掛けております。こんな姿を見ながら子供達の為に私なりに一生懸命がんばろうと毎日健康に気を付けながら家事の御手伝いをしています。
 私の願いは今のまま家庭が平和で孫達が大人になり、がんばり屋で我慢強い大人に成ってくれたらとそれのみ念じております。



 大濠の花火大会を見におばあちゃんところに行きお泊まりして来る。と子供が言うので、4日には迎いに来ますのでお願いします。と娘から電話がある。まだ小さい6才と4才の男の子2人大丈夫かなと思いながら心待ちしている。
 夕方6時過ぎ孫達はそれぞれ自分の着替えを詰めたリュックサックを持って父親の車がら降りて来た。父親にバイバイといってさっさと家に入る。父親はお願いしますと頭を下げすぐ車の人となって帰る。孫達は荷物を部屋に上げると早くご飯食べて花火見ようと急ぎ立てる。食事中も花火の音がすると落ち着かない食事もそこそこにして陸橋の上に登る。次次と息もつかずに夜空を色染る花火に声をあげ喜んでいる。しかし小さな子供は20分もすると飽きてしまい悪戯が始まる。家に帰り風呂に入れ寝かせる。やはり淋しいのか心細いのか寝つかれず2人でふざけている2人の中に入り手を繋ぎ風を送りながらお話をしてやるとやっと眠りについた。
 翌日はやかましい蝉時雨に起され「おばあちゃん蝉を採って、と起きて来る「蝉は採れないのでお父さんがいらした時採ってもらいなさい」となだめる。こんどは犬と遊ぶ。じゃれつくので恐ろしく庭にも降りきらない。犬が近づくと帚で悪戯する逃げるとホビーホビーと呼んでいろ抱かせてというのでそばについていて抱かせる子犬も喜んでおとなしいそのうち顔をベロリと嘗められ「ヒャー」と悲鳴をあげて子犬を投出す。こんどは僕が抱くと下の子も兄に負けじと抱いて見る。あきると家の中を走り廻り椅子と一緒にひっくり返り瘤を作ったり男の子なのですることもあらっぽい一日中孫達に振り廻されて過した3日間だった。
4日の朝母親が迎いに来ると又お泊まりさせてねと元気で帰っていった。
 疲れたが楽しい夏のひとときだった。



 私が物心ついてから初めて太宰府に詣でたのは、小学校の4年生の春休みのことでした。伯母とその友達に連れられて妹も一緒でした。参道を歩きながら、土産物屋で見つけた指輪、それは白い貝で出来たリングで、赤い玉が一つピカピカ光っていました。私はすっかり心を奪われてしまいました。父や母が話していた貫一お宮さんが、心を奪われたダイヤの指輪とは、きっとこんなものだろうと、まだ本当のダイヤを知らない私は、子供心にそう思い込みました。伯母にあれを買って頂戴とねだりましたが、指輪はお嫁に行く時、お聟さんに買って貰いなさいと一蹴されました。
 4年前の夏休み、4年生と2年生の孫が千葉から来ました。太宰府に連れて行き何でも欲しい物があったら買っていいと、お小遣いを少し渡しました。2人はそれぞれ友達にお土産を買って行くと言って品定めをしています。その間私も店の中を見廻したら、ありました!ありました!昔私が60年も前あんなに欲しかった指輪がありました。但し白い貝ではなく金の指輪です。けれど赤い玉は昔のままにピカピカ光っています。そして今は青い玉もありました。その後太宰府に行く機会がある度に、土産物屋をのぞいては、あの指輪を見ています。
 もう一つの思い出。やはりその時、どこか裏山の様な静かな所で、豆腐の田楽を食べました。私共は縁側に腰を下ろし、女中さんが長い廊下の向うから、こちらの方に料理を運んで来たのを覚えています。すぐ目の前に山が迫ってきている様な所でした。子供心にも美味しいと思いました。あの家は何処だったのだろうと、太宰府に行く度に思います。
 60年前の太宰府は、今の様に賑々しくなかった様に思います。でもこれは子供心に映じたものですから、本当の所はどうだったのでしょう。



 「蝉取りの屋敷窺い去りにけり」自作句
 待望の暑中休暇になった、夜も明けきらないうちからの蝉しぐれ、運動帽をアミダに被った腕白2人が沢山蝉の鳴いている古屋敷を一寸のぞいて行った……寸景に始まる孫達の楽しい夏休もあーというまに過ぎて法師蝉の鳴く9月になりました。吾家では帰省してくる孫達の対応に老り2人が頭を痛めていましたが幸に彼等の希望通りの遊びを計画をしてくれました。しかも私共老人2人は必ず参加するという条件つきでした。誘われれば年寄りだからと尻込みするくせに無視されると又腹が立つが今回は何の抵抗もなく参加しましたのでそれを遂白で紹介いたします。

 7月29日-30日 津屋崎海水浴場。
 ◎海の家に2泊 夜の花火 スイカ割り。
 8月2日-3日 油山キャンプ。
 ◎テント2張2泊 飯盒(はんごう)水さん(薪で炊く)。
 茅蜩(ひぐらし)が鳴く暗で冬水のせせらぎをきく。
 8月10日 海の中道サンシャインプール
 ◎日本最大の大観覧車 流水プール ○台。
 8月15日 盆祖先の送り火。
 ◎それぞれ小さい提灯を灯して仏様を送る。
 8月20日 浜玉町の巨峰狩り。
 ◎ブドウ棚が低いので各自でとれた。 地下鉄及筑肥線利用。

あるときは4家族が一緒のときもありこの対応にはかなり戸惑う事もあった又孫への心くばりも大変たったが老人の思い過しが大半だった。あれもこれも吾が一族のコミニケーション作りには大いに役立ったことと思う。それぞれが体験したこの夏休みの出来事が生涯忘れられない思い出として心の中に残って行く事を願うものである。これが絵日記となり、絵工作となり又作文として新学期の勉強の糧となれば幸である。そして老い2人は孫らにとって忘れられない印象づけをしたかどうか反省しきり。


 37.私の体験

 戦後間もない昭和23年頃筑豊の山田と云う所に、主人の土木建築の仕事の為に行きました。炭鉱の仕事がはなやかな頃でした。
 主人の仕事は主に鉄筋コンクリート工事でビルを建てる仕事でしたが、其の頃は建築ならなんでもやらないと食べて行く事が出来ない時代でしたので、大工、左官工事なんでもどんどん引受けて忙しい年を過して居りました。
 7、8年もたった頃、炭鉱の人達の長い長いストライキがはじまり、なにも分らない私には自分で、自分の首をしめてやるような感じで見ていたような気が致します。其の内に炭鉱の景気もだんだんと下火になり、主人の仕事も同じように無くなって来ました。忙しい時は、事務員さんも居たのですが、状態が悪くなりそれどころではなく、事務員さんのやめた後に残った仕事が大変だった事を忘れません。休業保證、失業保険を貰いたい人が、続出して学の浅い私にとっては大へんな仕事でした。主人は現場以外の事は何一つやりませんし、私も無経験で勇気を出して何回も何回も役所に足を運んで、其の内に役所の方も丁寧に教えて頂くことが出来まして、休業保鐙も失業保険も、私の書いた書類がどんどん、役にたちました。世の中はどんな事でも、体当たりすれば道が開ける事を身を持って体験し自信がついたものです。
 税金の督促、基準監督署の呼び出し、主人の無免許運転の呼び出し、何時でも私の役目でした。若い時で丈夫な身体もして居りましたから、忍耐強く雑草のような心を何時も持ちつづけて今日を迎えました。
 34年頃福岡に夜にげ同然の形で出て来ましたが、幸いにして別府と云う所に永住する事が、出来るようになりまして、感謝で一杯です。

  

 福岡市の衛生局では毎月I回市内主要河川の水質調査を行っている。樋井川については4箇所で川水を採収しており此内友泉亭橋での本年発表されたBOD(生物酸素要求量)の数値は最低7.4最高46.0平均21.0mg(58年度)であった。
 友泉亭橋上流地域、市の下水道施設工事は目下進行中で昭和60年度末までに完了するとのこと。その為か此数値は遂次減少し59年度約14.0、60年上期平均は7.4平方m/llになっていると側聞する。
 次に此の川の流量であるが県庁並に市役所で謳べた処、災害対策として河川の最大流量は想定するが平時の流量測定は一切行っていないとのことであった。
此の流量は市街地河川の例にもれずその時々の降雨量に比例して変化が著しい。
私は新田島橋に於て本年9月以降私なりの方法で流量を実測したので関係雨量と共に其流量値を次に掲げる。
 左記雨量は市・夫婦石浄水場に於ける実測数値である。


 短期間おおまかな計測であるが樋井川の流量概況を知ることが出来る。即之によって常時約1500平方m/Hであり最低でもその1/2位の流量が見こまれるのではなかろうか。
 上記水質及流量を有する樋井川の水を用いて、大濠公園池水の浄化に役立てることが出来るであろうと確信する。

(樋井川から大濠池までの送水方法)
 田島橋の下流600mに旧大際井堰のコンクリート基礎が残っている。此基礎の高さは大濠池水面より約1.75m高い(市河川課の図面等による)。此地点右岸で取水すると、道路添いに池南端までの距離は約1500mである。取水、送水の為の水門及び沈砂池等の諸設備をしても、敷地パイプに1/1000の勾配を与えることは可能である。今之れにヒューム管内径0.6mを敷設すれば

  管勾配  1/1000
  管内流速 0.62m/sec
  流量   0.175平方m/H  (ハザンウィリアム公式図表に依る)
   
 此の流量は1日当たり約14,600平方mとなり、連続送水すれば18~20日で大濠池の全水量に匹敵する量となる。
 池水浄化にはヘドロ浚渫、水の爆気、BOD対策等問題は多いが池水の淀みが最大の癌である。内径0.6mのヒューム管の敷設には、m当たり約30万円を要するときいているが、樋井川からの自然勾配による大量の水の導入で更に黒門川から博多湾の海までの無理のない水の流れる道が出来る。之により大濠池のアオコの発生や酸欠死魚の問題が少なからず軽減されることは確かであろう。


(問題点)
 一部ではあるが樋井川河水の流れを変更することになるので、水利権又は魚業権其他についても問題があるかも知れないが、関係方面の理解と協力を得て本案の実現を切望する次第である。
以上

 門外漢生素人の私の甚粗末な提言でありますが、大濠公園に深い関心を持っておられる諸賢各位の忌憚なき御検討をお願出来れば真に幸いと存じます。

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