紅梅・白梅(5) (1993年)



1.       「夢幻の人生」
2.       童謡
3.       形見の火鉢
4. (戦争)  私の足跡
5.       開閉式羅根の「福岡ドーム」
6.       心にかかる虹
7.       博多町人帯谷さん
8.       五木村を訪ねて
9.       二泊三日の旅
10. (戦争)  想い出 その2
11.       「田園のSL」三重連水車
12.       何かがおかしい
13. (戦争)  戦後の思い出
14.       山陰の旅
15.       運命
16.       養鶏
17.       冷夏よさらば
18.       雑感いろいろ
19.       中国旅行の思い出
20.       中国の電力事情
21.       「寒北斗星」故笹倉綴子さんの遺歌集に思う


 1.「夢幻の人生」



 2.童謡



 3.形見の火鉢



 4.私の足跡
 今から思うと若くて楽しかった事や色々な事が次々に浮かんで来る。
 唐津高女に入学して虹の松原から唐津の先まで往復5里を毎日通学した時、4年生の姉さん達から色々教えて貰ったこと。又、今の様に靴は無く下駄ばきで月に一足は駄目にしたこと。朝6時に出るには、5時に起きて弁当を作り、食事して身ごしらえをして家を出るまで1時間はかかる。暗いから待ち合わせて行く。
遅れたら大変だ。虹の松原を一人で行かねばならぬから。やっと慣れた頃卒業した。
 私の家は農家で田を三町辺く作っているので、とても大忙しである。四年間も学校へ通わせて貰ったので、手伝わなければと思う。お天気の時は外の仕事をし、雨の降る時は家で機(はた)織りをする。また、養蚕もするのでこれも大変。桑取りから1カ月は手がはなせぬ。夜は姉と一緒にお花の稽古に行き、帰って来る時は家の者はもう寝ている。
 4月になったら裁縫女学校へ行けと言われる。女学校から帰って来れば機織りで、体のあくひまはない。裁縫は、私は年かさで幾らか慣れているので、先生は上等の生地の物を縫わせて下さった。私も念を入れて縫う様にしていた。
 次はお茶の稽古をすることになったが、私は兄夫婦にとても気兼ねをした。お茶も大変である。家元の先生が来られる時は着物を着替えてお手前を見て貰わねばならぬ。私はまだ、日が浅いので小習いの印を頂いた。
 母親は何でもお稽古をさせたいと思っている様だが、体が幾つあっても足らない。機幟りもせかれる。白絹地織りの早いのを一番に兄嫁の羽織を京染に出した。
次々と毎日織っても自分の物には中々廻って来ない。木綿織りの様には簡単には行かないので毎日がとても忙しかった。
 23才の時、熊本幼年学校出身で陸軍中尉の軍人と結婚した。小倉第十四連隊付歩兵であったので私は小倉へ行った。主人の友達で砲兵の方の奥さんと仲良くなって色々教えて貰ったりした。
 主人は勉強好きで朝いつもラジオの前でフランス語の勉強をしていた。どうして?と蘭くと初め幼年学校へ入った時ヨーロッパの駐在武官になりたかったからだ、と。だが、今は体を悪くしたので、それは諦めたけれど勉強だけは続けていると話してくれた。
 戦争が激しくなった頃、浮虞が千人も来るそうだという話があって私共は驚いた。フランス語が出来るというので主人は思いもかけぬその収容所の第三分所長になったのだ。その頃主人は少佐になっていた。毎朝サイドカーが迎えに来ておった。物不足の時で食事の手配から仕事場の都合やら大変だったらしい。その後終戦となり俘虜が帰る時、職員の悪口を色々と沢山書いて置いていったらしい。
その中に主人に関する口述書は一枚もなかったらしい。主人が体を悪くして病院へ行く前、引き継ぎの人に「今は時期が悪いから俘虜にも兵にも注意して下さいよ」と言ったら、その人は「なに、高が俘虜じゃないですか」と言ったので気になると言っていたが、その人は六十年の刑だったとか。
 終戦後。戦犯の立会人として呼ばれて行った時、二世の通駅が「俘虜を可愛がって下さって・・・帰る時、口述書が一枚も無かった方ですね」と、とても大事にしてくれたそうです。若い時に習った外国語も通じたのですね。


 5.開閉式羅根の「福岡ドーム」



 6.心にかかる虹



 7.博多町人帯谷さん



 8.五木村を訪ねて



 9.二泊三日の旅




 今年もお戻り(ボケ)にならなかったので、扨て何を書こうかと思うと、過去の事が走馬燈の如く思い出されてくる。
 若い青春時代の一番苦しかった事を述べよう。
 昭和18年12月1日は、文科系の学生は凡て強制的に学徒動員で兵役についた。初年兵時代の軍隊生活の事は戦後の映画等で上映されているので御承知の方も多いと思うが、唯々肩章の星一つの違いで殴る、蹴る、の体験を強いられ、さながら生地獄だった。
 そんな折り、中隊に見習士官が転属してきた。何故か、その人には最初から可愛がって貰った。ある時、彼女への代筆をして呉れと頼まれ、代筆してやった事がある。そんな代筆の効果があったのか、次の日曜日に彼女が重箱に「おはぎ」を入れて面会に来た。内務班で銃の手入れをしていた時「おい、見習士官が呼んどるぞ、早く行け」と下士勒務兵長が行くように促した。士官室に入ると一人ニコニコ顔で私に近づき、重箱の包みを手渡し「全部食べてよいからな。内務班に持ってゆくと、みんな必ず下士官に取られる。此処で全部食べてよいからな」と気を使ってくれていた。彼女とは次の部屋で話をしていたのか見た事はない。
それから毎週の日曜日は、その彼女が持って来る「おはぎ」のご相伴に預かっていた。当時は砂糖は統制下にあったので、滅多に手に入るものではないのに、毎週日曜日には甘いおはぎで満腹した。甘い物に飢えていたので嬉しかった。
 私は積兵団の師団司令部付電報班(暗号の組立解読をする)の勒務に転属した。
当時積兵団はシンガポールに派遣される手筈になっていたが、第一陣の輸送船が途中で撃沈され、一隻の輸送船も戻らなかった。止むを得ず鹿児島松島に駐屯する事になった。その当時の連中も我々と共に初年兵時代、起居を共にした戦友で、その時が生死の分かれ道になった様に思われる。その第一陣の連中は我々学徒出陣の優秀な好青年将校の戦友が殆どだった。今、その戦友達に心から冥福を祈りたい。
 それから司令部にも頻繁にB29の偵察を受け、グラマン機の波状攻撃で命からがら終戦を迎えた。復員して我が家に帰って来たら、我が家は焼夷弾の直撃で瓦礫の山と化し、青錆びた筒から黒い油が流れた破片が、庭の隅々に散乱しており呆然とした。哀れにも三畳間位の破れ小屋が庭の隅にポツンとあった。小屋の中はガラ(コークス)をいれた箱と七輪、火消し壷が土間に転かっていた。周囲を見渡すと、山岸さん、石橋さん、私の処が全焼していた。清水さんの処が一軒焼け残っていた。
 母か三菱造船所(下関)で女子挺身隊寮の社監をしていた事は便りで知っていたが、北九州も空襲が激しくなり、音信不通になっていた。仕方なく小屋で軍の官給品の乾パンと金ペイ糖を数日に分けて食べ、飢えを凌いだ。その頃、東京の伯母の所にいた母は、私が復員した事を知るとすぐ帰福して、焼失しなかった矢部さんのお宅に厄介になった。
 その頃復学せねばならなかったが、金もなければ食うものもなく、死にたくもなし、の心境で、そんな悠長な勉強等は手につかなかった。
 焼け後に母と二人で南瓜、さつま芋、大根等を植え、もう一寸早いから来週採ろうと思って次週に行くと、何時の間にか誰かに取られ、がっかりした事も度々だった。さつま芋は、掘っても繊維ばかりで食べられず、茎を食べていた。勿論調味料など全然ないので、海水を汲んで来て煮たが、にがくて食べられたものではない。
 母と私は共に腹をすかし極限に達した頃、軍で貰った官給品の大半を持って、糸島元岡のお百姓さんの所まで行き、米、芋とリュック一杯に交換して意気揚々と喜び勇んで鳥飼駅に着いた途端、数人の経済警察と言った連中が待ち受け、交換して来た米などを全部その連中に没収された。その事情を詳細に説明したが、容赦なく、ひったくる様に、全部置く様に命じ、その一人が笑いながら「ほらほら、おばさんはご丁寧に印鑑まで持つて来てある、なら押しとこう」と言われた時の悲しそうな亡き母の顔が浮かんで来る。その日は、泣くに泣けない本当に恨めしい日だった。今考えると、あの食糧は一体どうなったのだろうか、今でも不思議である。
 私はその時、栄養失調と診断された。ひもじい思い出だけが青春詩代の前半だった。


 11.「田園のSL」三重連水車



 12.何かがおかしい




 天災は忘れた頃にやって来る―と申しますが、この度の奥尻島の地震の悲惨な情景をテレビで見る度に48年前の戦災の有り様が、又々ありありと思い出されます。
 私共は戦災に遇いましたけれども不幸中の幸で隣の借家が残りましたので、同居生活でしたけれども何とか助かりました。ただ何も無い衣食に困り果てました。
取り敢えず里より蚊帳と高取焼の壷に梅干しを沢山貰ってきて嬉しかった事と、また母が大事にしていた袷の着物を貰ってきて内の母(主人の母)に着て貰ってとても嬉しかった事等忘れられません。
 私も姉達から衣類を貰っては縫い替え等して、一所懸命冬支度に励みました。
終戦後、風邪もひかずにお正月を迎え一息ついた時、母が熟を出し、一寸下がる様子もなく、主人の帰還も待たずに若しかの事があってはと心配でなりませんでした。
 六本松の係り付けの原田医院、松本氷屋さんもすっかり戦災に逢われ焼け野が原です。仕方なく私はとうとう渡辺通り一丁目まで氷を買いに行きました。帰りに電車の中で久し振りに友達の三村さんに逢いました。「この寒いのに氷を提げて・・・」。不振な顔をして私の話を聞いて下さいました。三村さんは当時大壕にお佳まいとお聞きしておりました。
 私は六本松で下軍し寒中氷を持って小走りで家に帰り着きました。早速氷を割るやらがたがたしている時、玄関にやさしい三村さんの声がします。慌てて玄関に出て見ますと、ご主人と一緒に立っていらっしゃるのに驚きました。当時ご主人は九大医学部の講師をされていましたので、思わぬご来客に戸惑いました。
ご診察の結巣、余りの高熱に驚かれたのか首を傾けながら一応お帰りになりました。が一時間も経たない内に今度は操博士をご案内されて診察に来て下さいました。私は有ひ難く涙がこぼれる思いで一杯でした。まだ座蒲団は勿論、綺麗な洗面器も何も無く、お向かいの高田さんから借りて来た事等忘れられません。ついに九大に1ヵ月ばかり入院となりました。千代町の闇市に毎日食料品をあせりに行った事等も思い出の一つです。
 思いもよらないご立派な先生方のお蔭様ですっかり元気になり、退院の頃は春麗かで、桃の花、れんぎょうの花が咲いて暖かかった事を覚えています。操先生は100才を越えられ、浜の町病院の院長さんとお聞きしております。三村先生は44年頃ご病気でご逝去遊ばされ、奥様は東京ご在住で今にお年賀を差し上げております。
 戦災にあい戦地の主人を迎える迄はと何とか頑張りながら、私の心のなぐさみは家族揃って縁側で月を誂めるのが一番の楽しみでした。
 今年は77才になり、その頃を思い出し「春江花月夜」の漢詩を見つけ「書」に励み県展に出しましたが入選出来ませんでした。けれども努力して書けただけで私は嬉しく思っております。


 14.山陰の旅



 15.運命



 16.養鶏



 17.冷夏よさらば



 18.雑感いろいろ



 19.中国旅行の思い出



 20.中国の電力事情



 21.「寒北斗星」故笹倉綴子さんの遺歌集に思う




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